human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

現実のふり、の現実、のふり、の…

 だいたい、パパがお話をしてくれるのは、寝る前だ。パパはこんな具合に始める。
「さて、もう寝る時間だ。その前に、ひとつ、お話をしよう。ききたいかい?」パパはいった。
 パパは、ぼくにお話してくれる前に、かならず「ききたいかい?」という。「どうして『ききたいかい?』っていうの?」ってきいたら、パパは「お話というものは、ききたくないひとにするべきではないからだ」という。
「ききたいかい?」
「ききたくない」
「わかった。では、今晩は、お話はなし。おやすみ」
 パパはぼくに背中を向けて、寝たふりをする。ぐうぐう。
 ぼくも、パパと反対の方を向いて、寝たふりをする。ぐうぐう。
 でも、けっきょく、がまんできなくなって、ぼくは、こういう。
「パパ」
「なんですか」
「もう、寝たの?」
「寝たよ」
「起きてるみたいだけど」
「いや、起きている『ふり』をしているだけだ」
「ふーん。じゃあ、ぼくも起きている『ふり』をしてもいいかな?」
「いいとも」

お伽草紙」 (高橋源一郎さよならクリストファー・ロビン』)
太字は引用者

 
 木の上に座っているサルが言った。
 「二階から目薬」
 焚き火の前で汗をかいているカニが言った。
 「火中の栗を拾う」

 切り株の前で手を合わせたウサギが言った。
 「三方一両損
 頭に鉢巻を巻いたカメが言った。
 「まんじゅうこわい

 小屋のドアをノックするオオカミが言った。
 「三密を回避しましょう」
 藁小屋を編みながらブタが言った。
 「バブル期には土地転がしが有効です」

 父さんが言った。
 「笑って〜……」
 母さんが言った。
 「ダメもと!」

 サングラスの奥の目は、笑っていない。
 

 経験が同一の体験様式あるいは認知様式に関わっている限り、したがって経験がある限定的な意味領域のうちに留まっている限り、その経験の現実性は持続する。われわれが現実のアクセントを別の意味領域に移さざるを得ない──あるいは「移そうとする」のは、われわれが別のライフプランによって別の態度をとるよう動機づけられる時(…)、あるいは「異他的なものの介入」によって邪魔される時(…)、要するに、われわれにとってある時点において「現実的」である限定的な意味領域の境界を突破する特有のショックを経験する時に限られている。

「第二章 生活世界の成層化」p.82-83 (アルフレッド・シュッツ、トーマス・ルックマン『生活世界の構造』ちくま学芸文庫
太字は引用書傍点部

私は自分がその女(名前も知らない若い女)を最後の瞬間に本当に絞め殺してしまうのではないかと、心の底で恐れていたのだ。「ふりをするだけでいいの」と彼女は言った。しかしそれだけでは済まないかもしれなかった。ふりだけでは終わらないかもしれなかった。そしてそのふりだけでは終わらない要因は、私自身の中にあった。
 ぼくもぼくのことが理解できればと思う。でもそれは簡単なことじゃない

村上春樹騎士団長殺し 第1部 顕れるイデア編』新潮社
太字は引用傍点部、下線は引用太字部

体験を処理する形式としての意味はつねに不確定的である。意味は、これだとかあれだとか言えるものではなく、別の可能性の参照を求める。このように、意味は、さまざまの可能性を過剰に参照させるものであるが、同時に、「現実世界におけるさまざまの可能性を繋ぎ止める場所(N・ルーマン)でもある。意味とは、われわれがどんな行為においても世界全体のことを思い浮かべられるための媒体にほかならない。だから意味は、読んだり分析したりすることによって世界を選択的に整然と解明するものでは全くない。
(…)
人類学者の間では争いがないことのようだが、ある対象について意味が生まれるのは、個体同士がコミュニケーションによって互いに適応することによる。私の仕草に対する他の人々の反応が、その仕草の意味なのである。ユルゲン・フレーゼによれば、「ある行為の意味とは、その行為が開く多様な接続可能性のことである」。

「2 意味社会」p.77-79 (ノルベルト・ボルツ『意味に餓える社会』東京大学出版会
太字は引用者

責任の孤独

「どうしたんです?」院長はいった。
「いや」わたしはうろたえていった。
「なにか話したいことがあると思ったんですが。よく考えたら、話すことは別にありませんでした」
 それから、また、わたしは黙った。院長もだ。いやはや。たまりかねて、わたしはいった。
「無理です」
「なにが?」
「こんな『仕事』、わたしにできるわけがない」
「じゃあ、誰がやるんです?」
 そして、また、わたしは黙った。肝心な時に、なにもしゃべれないなんてな。わたしは、この世でいちばん愚かな人間になったような気がした。

「星降る夜に」(高橋源一郎さよならクリストファー・ロビン』)

 
胸に手をあて、その鼓動を身に帯びる。
 
 無意識を、意識する。
 見えないものが、見えてくる。
 語る前に、語り終えてしまう。
 その口は、開く機会を失う。

 無意識を、意識する。
 動くものが、止まって見える。
 街の喧騒が、静謐の原子に分解される。
 その調和は、彼岸を此処に引き寄せる。

 無意識を、意識する。
 一陣の風が、生死を吹き抜ける。
 一葉の水脈が、秩序の理を開示する。
 その国は、破れずして山河たる。

 無意識を、意識する。
 君の目が、僕の目を見る。
 僕が、君の目を見つめる。
 その光は、減衰を超越する。

責任の孤独は、その証明を請け負う。
 
 × × ×

さよならクリストファー・ロビン

さよならクリストファー・ロビン

Goodbye, and Goodhello

 ねえ、クリストファー・ロビン。もういってもいいよね、「疲れた」って。ぼく、ほんとうに疲れたんだ。
 世界がこんな風になったのは、向こうの世界で(どんな世界か知らないけれど)、とんでもないことが起こったからだ、というやつがいた。だから、ぼくたちは、自分で自分のことを書かなきゃならなくなったのだと。そうなのかもしれない。でも、そんなことは、もうどうでもいいのだけれど。
 クリストファー・ロビン、「外」を眺めているのかい。ただ、「虚無」しか見えないのに。でも、もしかしたら、きみには、もっと別のなにかが見えているのだろうか。

さよならクリストファー・ロビン」(高橋源一郎さよならクリストファー・ロビン』新潮社,2012)

 
「物語はかつて、人から人へ語り継がれたきたんだ」
「そうね」
「なぜなら、その物語は、形はなくともずっと残されるべきだと、人々が思ったからだ」
「……」
「そして、人は物語に形を与える方法を見つけた」
活版印刷?」
「そういうことだ。いや、石板とか、壁画とか、古いものはいろいろあったけれど、ひとつの革新はそこにあった」
「紙は文字を書くにも、束ねて保存するにも便利だものね」
「本を発明することで、人は語り継がずとも物語を残すことができるようになった」
「物語が確とした形を持つことになった」
「それは物語の本質ではないけれど、物語を後世に伝えたいという一世の人々の願いを叶えるには十分な形態だった」
「……そして?」
「そして、今再び、物語は形を失くすに至った」
「電子媒体?」
「そういうことだ。画面に呼び出せば文章は現れる。が」
「それを『形を持つ』ということはできないのね」
「形を持つものは、同時に異なる空間に現れることはできない」
「……」
「データは無限に増殖する。それは、本質的にデータが物ではないからできることだ」
「……つまり?」
「つまり、物語の伝授は新たな段階に入ることになった」
「物語は形なく伝えられ、更に伝えるために形を得て、そして更に伝えるために形を失った」
「形は本質ではない、しかし伝達効率の決め手ではあった。効率の名の下に、物語は形を変えてきた」
「文字通り?」
「そういうことだ。そして」

「形式が本質を喰い破る?」
「……」
「形を得た物語は、形があることで力を、その効果を幾分失いはしたけれど、それでも人々は物語に願いを託して引き継がれた。物語の本質的な力が減じた分、形を得ることで新たな可能性も生まれた。けれど、再び形を失った物語は、もう前には戻れないのね?」
「……そうだ」
「語り継がれる物語には、物語自身に力があった。形を得た物語は、その形によって、異なる時空にいる多くの人々が力を引き出せるようになった。けれど」
「けれども、力を失い、一度は得た形をも失った物語は」

「消えていくのね?」
「……」
「データとしては残る。無限に増殖する可能性も秘めている。でも、消えていく。そうね?」
「……」
「では、私たちはどうすればいいのかしら?」
「……」
「再び、形を取り戻す? データを、形式ごと破壊する?」
「それは、僕たちがこれから考えていかなきゃならない。後戻りはできない。僕らにできるのは、先に進む道を選ぶことだけだ」

「本当かしら?」
「……?」
「かつて物語は本当に、過去から現在へ、現在から未来へ、伝えられてきたのかしら?」
「……」
「形なき物語は、形に永遠を求める必要がなかったのではないかしら?」
「……」
「物語に形を与えた人は本当に、それで心の平穏を獲得したのかしら?」
「……つまり?」


「その先はあなたが考えるのよ、プー」
 

「おじいちゃんは死んでしまったけれど、私の心の中にいつまでも生きている」という言い方が慣用表現みたいにしょっちゅうされるが、「私の心の中にいつまでも生きている」ことは回想される情景の中で死んだ人も生きていることとは違うのではないか。何が違うか? と訊かれたって今の私には答えられない。しかし、回想するという行為を、「私の心の中」という閉じられた領域の中だけで起こっている個人的な行為と考えないで、もっと現実的で非 - 主観的な次元に開くことができたら、というか、〈主観 - 客観〉という二元論で貶められている主観に正当な領域を切り開くことができたら──大げさに言えば、回想するという行為を世界に還元することができたら──、今と過去の関係を変えることができるのではないか。
 回想される情景の中では今はすでに死んでいる人が生きているのだが、見方を変えれば、回想される情景の中にいる自分自身もすでに死んでいる人と同じように戻ってこない。私は今はすでに死んでいる人と会うことができないが、回想の中にいる自分自身とだって会えるわけではない。私がよく知っている私はそういう死者の領域にちかいところにいるのだ。

「時間には人間の力は及ぼせない」p.164-165 (保坂和志『「三十歳までなんか生きるな」と思っていた』草思社,2007)

 × × ×

さよならクリストファー・ロビン

さよならクリストファー・ロビン

「三十歳までなんか生きるな」と思っていた

「三十歳までなんか生きるな」と思っていた

  • 作者:保坂 和志
  • 発売日: 2007/10/30
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)

運転手と王さま

 × × ×

 言葉には意味がある。
 人は意味を頼って言葉を発する。
 時には言葉にない意味を頼って。
 意味は根に養分を与える、土のあるところでは。

 木は枝を伸ばし葉を拡げる。
 葉の重なりは光を遮り陰を生む。
 陰に形はなく、形なきところに陰はない。
 陰に宿るもの、形あるものにはないもの。

 × × ×

 人から人へ伝わる、意味のある言葉。
 言葉が持つ意味、人が新たに乗せる意味。
 言葉には座席があり、意味の乗客は限られる。
 乗る意味、降りる意味、乗り続ける意味は運転手。

 目の前で出発したバスに乗り遅れる。
 意味は泰然とバス停に佇む。
 バスはひっきりなしに到着する、座席も空いている。
 乗り遅れることに恐怖はない。

 バスは道を走行する。
 路線図はない、時刻表もない。
 運転手はハンドルを握っていない。
 自動運転はまだ実現されていない。

  荒れた道では靴をはく。
  舗装されれば裸足で歩く。
  靴と道路は仲が悪い。
  こいつがいなければ、とどちらも思っている。

 王さまは赤い絨毯の上をゆっくり歩く。
 赤い絨毯はくるくると王様の前で解かれていく。
 王さまは裸足だ。
 服が着られているかは定かでない。

 バスが王さまの前で停止する。
 乗客はみな降り、王さまが乗り込む。
 運転手は変わらない。
 バスは赤い絨毯の上を走り出す。

 王さまは行き先を告げる。
 運転手は首を横に振る。
 王さまはハンドルを要求する。
 運転手は両手を上げる。

 バスは赤い絨毯の先端に乗り上げる。
 王さまは赤い絨毯と運転手に警告する。
 赤い絨毯はくるくるを止め、運転手は何も言わない。
 バスは道なき道を進む。


 言葉は意味を背負い続ける。

 × × ×
 

香辛寮の人々 2-8 (承前)

香辛寮の人々 2-5 「シンゾー・エクリチュール」 - human in book bouquet
香辛寮の人々 2-6 (承前) - human in book bouquet
香辛寮の人々 2-7 他責主義の底に潜むもの(承前) - human in book bouquet

* * *
 
「僕はここ最近ずっと、システムについて考えている」
「へえ、何のシステム?」
「特定の何かじゃないんだ。一般的な…という言い方もよくないな。定義を考えよう。僕が言いたいのは……『人の意図から離れたところで社会を維持しようとする仕組み』のことだ」
 セージは天井を見上げる。白熱電球がひとつ、あかあかと光を発している。
「君のいうそれを、今はシステムと呼ぼう、と?」
「そうだ。だからいろんなものを含む。いちいち挙げるのは面倒だけど、たぶんシステムに含まれないものはほとんどないと思う」
 彼は頭を戻し、とりとめのない面持ちでフェンネルの眉間を眺める。

 どうやら彼の頭は高速回転しているらしい。
 そこには充実の雰囲気があり、同時に空回りを運命付けられているようにも見える。
 個人が扱うには大きすぎる問題?
 どうなのだろう。
 そもそも何をもって、大き「すぎる」などと判断するのか?
 意識に限界がなければ、意識の扱う対象にだって限界もないだろう。
 もちろん、健全だとか酔狂だとか、そういったことはまた別問題だが。

「それで…君のいうシステムは、具体的に考えるよりは、なんというか、概念のまま考えた方がわかりやすいのかな?
「いや、分からない。それは考えてみないことには」
「うーん、そうであれば、とりあえずは具体例に落とし込んだ方が、考えやすいんじゃないかな? 理論を構築したいわけでもなし、あわよくば教訓だとか、警句みたいなものが導ければいいくらいに思っているのだろう」
「いや、分からない」

 フェンネルはセージに向き合っているが、その目が何をとらえているのかは窺い知れない。
 そうだった、下手に相づちを打ってもフェンネルの場合には逆効果なのだった。
 円滑な言葉のキャッチボールが、そもそも求められていないのだから。
 だから気を遣う必要はない。
 ないのだが……。

「何を問題にしていたのか、ちょっと忘れちゃったけど、新聞の話をしていたんじゃないかな。そう、新聞を読んでいるとね、そこに書かれている言葉の多くに、ちぐはぐな印象を受けるんだ。論理性とか、嘘か本当かとか、そういう問題じゃない。ニュースにしろ評論にしろ……いや、そこはひとくくりにできないな。主に政治の言葉にしておこうか。政治家の発言、行動、政治的なニュース。一つひとつのニュースには、それが報道される意味がある、と少なくとも送り手は考えて紙面を構成している。その意味に従って、ニュースの書き方、つまり実際に起こったことの切り取り方が選ばれる。そういう報道側の意図は裏にあって、でも表には、政治家の意図がある。国会で、記者会見での発言、あるいは靖国に今年は行ったとか行かなかったとかの行動、彼らの言動の一つひとつが目的を持っている。少なくともそのはずだと僕らは考える。政治家は自分が見据える目的を達成するために、日々活動しているわけだ。その目的が、彼ら自身のためなのか、僕ら有権者のためなのか、はた目に明らかではあるけれど、そこは今は問題じゃない。僕がちぐはぐだと感じているのは、彼らが目指していることと、彼らの言動がもたらす結果とが食い違っている、ということだ。それも、社会情勢とか人民の反応に対する彼らの『読み』が間違っているからではなく、端的に彼らのもっているはずの思想と実際の言動とが乖離している」

 セージは目を丸くしてフェンネルの話を聞いている。
 真剣ではあるが、その内容に驚いているようにも、何も理解してないようにも見える。

「どう表現すればいいんだろう。あんた、本当にそんなことやりたくてやってるの? 言いたくて言ってるの? ざっくり言えばこうなのかな。何かに無理やり言わされていて、でもその自覚が全くない。自分の意思ではないものを、あたかも自分の意思であるかのようにして自信満々に振る舞っている。……いや、そうか。自信満々に振る舞うことが正しいんだ、という確固とした自信があるんだ、彼らには。で、形式、姿勢にばかりこだわって、彼らの発言の内容にまで思考が届いていない。内容なんて後でどうにでもなると思って、とにかく政治家としての格好を取り繕うことに夢中になっている」
「ああ。それはそうかもね。国会でのやりとりを見ていると、閣僚の答弁の杜撰さに動揺して発言が混乱する野党議員の方が異常に見えるくらい、大臣の面々はつるりとした顔で発言しているからね」
「あの国会答弁の絵面は相当にグロテスクなはずで、だから国会中継がニュースの素材になる時はニュアンスが皆無になるほど細切れの断片でしか扱われない。まあでも、どこかの放送局では最初から最後まで見られるはずで、そのグロテスクが完全に隠蔽されているわけではない。ただ、というかだからというか……『世の中って結局こんなもんだよ』という諦念、あるいは侮蔑の認識の象徴になっているんだよ、あれが」

「あれというのは…国会答弁の中継が、かな。国のお偉いさんがテキトーなこと言ってごまかしているのが常識になる、というようなことかい」
「うーん。そういう一面もある。ただその……まず、『閣僚の答弁の酷さは市民のモラルハザードを招来する』みたいな発言を野党の誰か、えーとあの福耳の人かな、言ってたけれど、あれは一面的な見方であって、閣僚答弁は彼の言う原因であるだけではなく、結果でもあるんだ。つまり、彼らの存在を許しているのは紛れもなく僕ら、有権者一人ひとりだからね。その、政治家の誠実さとか、まっとうさよりも経済政策を優先した一部の大勢が求めた結果が現状なのかもしれない。それは経済情勢の好転のために他の面には目を瞑る、という判断だね。だけど、その判断自体がモラルハザードであり、その始まりであると考えることもできる。だから彼らは鏡、政治家の醜悪な姿は僕らの映し身であって、見るに堪えない理由は倫理観とか義憤の表れではなく、羞恥心なんだよ」
「ふむ」
「それとね……そうそう、こっちの方が大事だ。政治家の印象の話をしても仕方がない。その印象が、当たり前に受け入れられている、あるいは華麗にスルーされている、問題はこちらの方だ」
「ええ? 誰も受け入れてはいないだろう」

「個人の感情としてはね。だけど総意として、たとえば内閣支持率もその一つだけど、もう内閣総辞職してもいいくらいの失態をいくつもしているのに未だ現状が維持されていること。常識外れな突拍子もない政策が立案されて批判され、実行されて批判され、撤回されて批判され、それでもまた同じようなことが繰り返されていること。これらが意味するのは、結果として、今の政権を社会が受け入れているということだ」
「結果として、ね。なんだか突き放した言い方に思えるけれど。あれだな、ゲーム理論を思い出すね。一人ひとりが効率を追求して、結果として集団全体が非効率に運営されるという話」
ゲーム理論? 信頼理論じゃなかったっけ。まあいいけど…でもそうだな、そういう話かもしれない」
個人主義の追求が社会を衰退させる」
「うん……誰が言ったか全然思い出せないけど。ダメだな、理論を整理するには提唱者の名前もしっかり記憶しておかないと」

 話すごとに俯いていくフェンネルの額は、今はテーブルにくっつかんとしている。
 肘を付いて持ち上げられた両手の指がひよひよしている。
 餅を喉に詰めて苦しむ田舎の爺さんのようだ。
 声を上げて助けを呼びたいが、嫁の手前、格好悪い姿を見せられない。
 その表情はわからないが、だいたい想像はつく。
 まあ、こういう時にはフォローが必要か。

「ん? いや、別に理論的な考察をしたいわけではないのだろう」
 指のひよひよがぴたりと止まる。
 予想に反して、少し浮いた頭の下は無表情だ。
「そうだった。……コーヒー入れよう」
 セージの興味津々という観察顔は、フェンネルの目に入らない。
 彼は立ち上がって、ふらりと台所に向かう。

 文脈不明な話を長々と聞いているだけなのに、セージは自分が元気になってきたことに気付く。
 彼のエネルギーを吸い取ってしまったろうか、と思う。
 エントロピー、という言葉がふと浮かぶ。
 無秩序性のとめどなき拡大、というやつだ。
 この法則は、外部とのエネルギー交換が存在しない系の内部で成立する。
 今いるリビングがその理想的な系だとして……、
 僕とフェンネルのどちらが、より無秩序になっただろうか?
 いや、しかし秩序と静謐とが同じベクトルとも限らないな。
 意志のエネルギーは、あくまでメタファーに過ぎない。

 だが、メタファーによって、僕らはエネルギーを獲得するのだ。
 物理学にしてみれば僕らが住む世界はSFに思えることだろう。

* * *
 

香辛寮の人々 2-7 他責主義の底に潜むもの(承前)

cheechoff.hatenadiary.jp
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* * * 

 ヒハツ・コーヒーが入ったカップ2つを手にして、フェンネルがテーブルに戻ってくる。
「この胡椒自体に燻製のような香りがあってね、ドリップ前に粉に足すとコーヒーに深みが増すんだ」
「ふむ。君はどんどんスパイスに詳しくなっていくなあ」
「別に知識が増えてるわけではないけれど」
 そう言いながらフェンネルは嬉しそうだ。
「あれだろう、スーパーの調味料売り場に並んでる小瓶を片っ端から買っているんだろ?」
「そう言って間違いではないが、表現が過激だな。数年かけてコツコツ集めてきたのさ」
 セージはカップのコーヒーを口元にゆっくり持っていき、何度か息を吹いてからすする。
 うんうんと頷くが、感想は特に漏れない。
「今の君の流行りは何だい?」
「コーヒースパイスとして、かな? ヒハツの相性の良さを知ったのが最近で、それからは組み合わせを色々試している。例えばそうだな、五香粉、スターアニスキャラウェイ、セージ。ヒハツは裏方で香りを支えるイメージだから、そのペアには個性がくっきり前面に出てくるものを選ぶ」
「へえ。…これには何を入れたの?」
「ヒハツだけだよ」
「へえー。深い、のかな? 浅くはないかな、うん」
「君はコーヒーならなんでもいいんだろう」
 すまし顔のセージを真似て、興味のなさそうにフェンネルも言う。

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 コーヒー談義を諦めたのか、真剣な表情に戻ったフェンネルが口を開く。
「最近また新聞を読むようになったんだけど、時間もあるからじっくり読むんだよ。今のウィルス騒ぎで政治の酷さや醜さが露呈しているけれど、どうも何が問題かが分からなくてね」
「問題はいくらでもあるんじゃないのかい? 感染拡大への対応が遅すぎたとか、国民への経済保障の方針が決まらないとか、それなのに実用性の疑わしいマスクはさっさと配るとか…」
「うん。そういうのを挙げれば切りがないよね。で、切りもなく延々と報道されている。テーマにニュースバリューがあると開き直って、重要なことも瑣末なことも、ニュースの緊急性に選別もかけずに垂れ流している。そしてそれを聞く方も鬱々としながら、まあ仕方ない、こんな時だから当然こうなる、と受け入れている」
「そりゃまあ……仕方ない、としか言いようがないよね。僕らには」
「別に僕らが何かしなければいけない、とは思わない。その、感染拡大を止める適切な行動以外に、ということだけど。だからむしろ『何もしない』のがいいのかもしれない、『自粛の要請』なんていう論理の破綻した命令に従ってね。…いや、そうじゃないんだ。僕が考えているのは、今起こっていることに対してじゃなくて、その受け取り方の方なんだ」

 フェンネルを見るセージの目が大きくなる。
 口にせず、(来たぞ)と言うのは彼の目である。
 彼は抽象的な話に特にこだわりはないが、話が抽象的になると活き活きしてくるフェンネルを面白いと思う。

「受け取り方? どう行動するか、でもなくて、考え方の話かい?」
「そうだ。考え方、思想の話だ。だからこの思考を深めていったからといって生産性は全くない。でもむしろそれは求められていることかもしれない。つまりウィルスで経済活動が壊滅的に停滞している今こそが、生産性という価値観そのものを疑う岐路でありうるからだ」
「おいおいフェンネル、もう少し順序立てて話してくれよ。君の頭は理解しているのだろうけれど、その理解を言葉にしてもらわないと、こちらは君の論理についていけない」
「……いや、すまない。それは君の言う通りだし、君が間違っている所があるとすれば、それは君だけじゃなくて僕も理解していないことで、その点において僕は正しい」
「そこで自慢するのか? ああ、無知の知、とでも言いたいんだろう」
「鋭いな、セージ。君が話が逸れるのを喜んでくれる友人でよかったよ」
「喜んではいない。諦めているだけだ。君が逸れた道から戻って来れなくなることもね」
「すまない。……真面目さが必要なのはこういう時だな。いつも真面目なつもりなんだが、自分用と他人用で仕様が違うのが難儀だ。いや、君は何も悪くない」
 ぶつぶつ言いながら、フェンネルは渋い顔でコーヒーを一口飲む。
 眉間の皺によってコーヒーの苦味が増長されたという風情である。

「ニュースには良いニュースも悪いニュースもあるけれど、その2種類のニュースを念頭に置いた時に僕らが感じるのは、悪いニュースが圧倒的に多い、ということだろう」
「そうだな。毎日随所で起こる事件には気が塞ぐし、お祭り騒ぎのようなイベントのニュースには『もっと大事なことがあるだろう』と思ってしまう」
「ニュースの良し悪しにはもちろん個人の主観的判断が介在している。政府が国民に一律でいくら払うと決まって、ありがたいと喜ぶ人もいるし、金額が少ない、どうせ何ヶ月も先だろうと不満に思う人もいる。そういう個々の判断の違いはあるんだけど、一方でもっと大きな、一つひとつのニュースの内容とは別の次元における判断というのがあるんだ。たとえば、世の中が悪い方向に進んでいるという社会認識を持つ人がいくつかのニュースに触れた時、その中に肯定的な文脈のものが含まれていても、良いニュースの中から凶兆を嗅ぎ取ってしまう。彼にとっては、彼が目にし耳にするあらゆるニュースが悪いニュースとなる」
「まあ、そういう人もいるだろうね。悲観的というか、もう少し気楽に考えればいいのにと思いたくなるけれど」
「僕が問題にしたいのは、そういうネガティブな人が、なぜそんな考え方をするのかということなんだ」

「それこそ、その人個人の考え方の問題じゃないのかな」
「そう考えれば、それが結論で話が終わってしまう。…いや、話を続けたいからそう言っているわけじゃないんだが、これは実はとても大きな問題なんだ。社会問題にせよ、個人の生活上の支障にせよ、なにか不都合が起こった時、あるいは現にいま起きているという時、その不都合を個人の責任にする風潮がある。いつから始まったかは今はおいておくけれど、その風潮は、確かに、一つの思想であり考え方に基づいたものなんだ。…ああ、『自己責任』という言葉が妙な使われ方をして流行った時期があっただろう」
「紛争地域に個人の都合で行った民間人が、テロ組織に人質にとられたニュースがあったな。あれのことか」
「うん。あの時かもしれないし、あれは単に、僕らの社会にずっと通底していたその風潮がいっとき暴風域に発達したということかもしれない。とにかく、その…そうだな、名前をつけておこうか。自己責任主義、あるいは他責主義、といったところかな」
「え、その2つは同じなのかい」
「違うと思う。けれど、この2つが同じ文脈で使われること、2つ並べると違和感があるが別々に使われると同じ意味になってしまうこと、これもたぶん、今考えようとしている問題とつながっていると思う」

「厄介だな。いや、君がじゃなくてだよ…話が大きすぎて、話がちゃんと進んでいるのか脇道に逸れているのかがよく分からないという意味でね」
「確かに。これは僕以上に厄介だ」
 セージはスルーを決め込む。フェンネルのジョークに対する扱いは、それを発する時の彼の表情で判断できるのだ。
「まあ、結論が出るかどうかは大したことではなくて、問題意識を何かしらの形にできるところまでもっていければいいね」
「その通りだ」

 夜は長い。
 明けない夜はないが、待てども来ない朝もある。
 夜の底で二人が待つのは、朝ではない。

* * *
 

香辛寮の人々 2-6 (承前)

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* * *

 カップのコーヒーは空になっていたが、二人とも特に気にするふうでもない。
「君が居心地が悪いと感じたのは、会話はいちおう論理的に整合性がとれているというだけで、言葉のやりとり以外の面でコミュニケーションが成立していなかったからだ。君が彼といる時に気付けなかったメタ・メッセージの偏った読み落としは、彼にとっては合理的な判断だったはずだ。そしてそれが意味するところは、コミュニケーションの目的が君と彼とで違っていたということだよ」
「目的だって? そんなもの、普通に会話する時には想定しないんじゃないかな」
「その場合は『普通に会話する』ことが目的になる。純粋にコミュニケーションを楽しむ、とも言える」
「うーん。当人は意識していない目的、ということならそう言ってもいいのか」

「たとえば、販売員とか詐欺師とか、言葉を操って聞き手を特定の行動に導くのを仕事とする人々は、普通に会話しているだけのように相手に思わせながら、だんだんと話を自分の望む方向に誘導するだろう。政策を人々に納得させるために説得を試みる政治家も同じだ。必ずしも有権者の意向通りに政策が決定されるわけではないからね」
「彼がそういう類の人だというのかい?」
「いや、それは知らない。肩書きがどうこうではなく、性質として似た業種の人を例に挙げたまでさ。ともあれ、彼らは会話が自分の想定している筋道通りに進むことに神経を遣う。純粋なコミュニケーションを装うことと同時にね。どれだけスキルの高い人間でも、この二律背反的な2つの作業を矛盾なく完徹することはできない。だから彼らは自分の目的を達成するために、両立不可能な局面では前者を優先する。会話を楽しむだけだと思っていた相手が違和感を覚えるのはこの瞬間だ」

「なるほど。でも君の言うような洞察ができるのは、自然な会話の進行を自分で観察している人だけじゃないのか。そんなことをしている時点で、その人のコミュニケーションの目的が純粋かというのも疑わしいな」
「そうだなあ。判断が難しいところだけど、こういう考え方もできる。意識は必ず、自己言及的な一面を持っている。言葉の意味が確定していて、しかも他人とのあいだでその認識を共有できている、そういう前提で僕らは会話をするけれど、会話をしながら、一方では自分や相手が使った言葉の一つをとらえて『この言葉の意味は本当にこうだろうか?』と考えたりするだろう。実際に言葉の意味は、同じ文化圏にいても、使う時の文脈やニュアンスに応じて揺れ動くものだ。きっと、これと同じなんじゃないかな。『自然な会話ってなんだろう』と思いながら自然に会話する、という感じ」
「……ふむ。言われてみればそれは、現実にはありふれたことかもしれないね。無意識レベルでの符牒のような、『特定のこの人にとっての自然な言葉遣い』をお互いに形成したり、探り合ったりしながら会話をすることで、人間関係ができ上がっていくわけだから」

 セージは新たな発見に表情を明るくする。
 一方のフェンネルは伏し目がちに空のカップを見つめている。
 同じ地点を共有しようと彼に向き直ったセージは、置いてきぼりを食らった気持ちになる。

「コーヒー、もう一杯足そうか?」
 フェンネルの右手が、力なく中途半端に持ち上がる。返事をしようとして、その返事がなにかに中断された形だ。中空の手も、ばらばらに広がった五指も微動だにしない。
「いや……うん、そうなんだが、違うんだ。この頃よく新聞を読むんだけど……なに?」
 セージは口をへの字にして、目だけで笑っている。

「いいや、何も違わないよ。ちかごろの新聞がなんだって?」
 フェンネルは逆さ月になったセージの目を見る。視線の先の自分の右手を見る。
 試みに握りしめてみる。指がごわごわしていると感じる。

「もう一杯いれようか。今度は君、僕のを味わってみなよ。最近ペッパー・コーヒーが自分の流行りなんだ」
「なんだって? コーヒーに胡椒なんて、相性良いとは思えないけど」
「胡椒もスパイスの一種だからね、実は合うんだな。ふつうの胡椒は試してないけど、ロングペッパーってのがあってね。別の名をヒハツという」
「へえ。なんかそれ、シャーロック・ホームズの格闘技みたいだな」
「それはバリツ」

* * *
 

香辛寮の人々 2-5 「シンゾー・エクリチュール」

 
 フェンネルは共同の居間で新聞を読んでいる。両肘をテーブルにつけ、片手にコーヒー。居間には彼しかいない。
 業だな、と感じる。昨今のウィルス報道のことだ。
 報道はニュースをなんでもかんでも伝えるが、その姿勢はマスコミに必然の他力本願だ。その言葉を浴びるほど受け取れば、その人間が扱う言葉にも同じ傾向が現れる。「他人が自分のために何をしてくれるか」ばかり考える人間が増えれば、「他人のために何ができるか」を考えることがビジネスになる。そしてビジネスとして確立していく流れに沿うように、形式が内容を侵食していく。手段が目的にすり変わるのは、昔誰かが言った行雲流水のごとき自然現象にも思われてくる。
 玄関のドアが閉まる音がする。廊下を歩く足音に、誰が帰ってきたのかとフェンネルは思う。
 顔を上げると、居間の入り口にセージが立っている。

「おかえり」
「こんばんわ、フェンネル。今日は遅いね」
「こういう日もある。…何かあった?」
「わかるかい。ちょっとね、面白いことがあって」
 フェンネルが立ち上がろうとするのをセージが止める。
「いいよ、自分で淹れる。慣性さ」

 セージはフェンネルの向かいの椅子に座る。疲れているが元気そうな顔をしている。
 脳と身体の相反、という言葉がフェンネルの頭に浮かぶ。

「今日は人と会ってきたんだ。古い友人に『あなたのためになるからぜひ会ってみてほしい』と言われてね。街まで出て、カフェで話をした。夕食前に短く済ませるつもりが、気がついたらこんな時間だ。ふと外を見た時に暗くなっていてびっくりしたよ」
「それじゃあ夕食は抜いたの?」
「結果的にね。まあ、こういう日もある」
 セージは規則正しい生活を送っているが、神経質というわけではない。自分の規則から外れることに頓着がなく、むしろ楽しんでいるようにも見える。彼は「規則は時々破るために普段は守るんだ」と言ったことがある。
「空腹にコーヒーはこたえると思うけれど。冷蔵庫に何かなかったかな」
「いいんだ。疲れた体にはいい刺激になるさ」

 セージはため息をついてコーヒーをすする。フェンネルは俯いた彼の顔をじっと見ている。
 彼は顔を上げない。テーブルに広がった新聞の隅の記事を読んでいるように見える。

「どう言えばいいのかな。悪い人ではなかった。詳しい話は省くけれど、彼はいろんな分野の仕事に携わっているようで、僕の自己紹介を聞いたあとで、その僕のためになるようなことをいろいろ聞かせてくれた。その延長で、僕に新しく行動を起こすことも勧めてくれた。全体的になるほどと思ったんだが、どうも行動を起こす気にまではなれなくてね、彼にいい返事はできなかった。それでも彼は快く受け入れてくれたよ。最初から最後まで、こちらの目をしっかりと見て、真摯に受け応えしてくれたように思った。それでもなぜか、彼と分かれてから後味の悪さが残ってね。いや、後味というか、居心地の悪さみたいなものを会った最初から感じていたような気もするんだ。相手に全く非がないから、どうも理由は自分にありそうだ、でも何がそうさせるのかがよくわからない。……まあ、面白いと言うのは語弊があるか。見ての通り、どっと疲れる出来事だったのだけど、謎が生まれたという意味では興味深いとも言える」

「話の内容は面白かったの?」
「うん。自分が知らない分野のこと、関心はあるが掘り下げて調べたことはなかったこと、会話のなかで彼はそういった僕の関心を引き出してくれてね、上手に説明してくれたよ」
「それで……ただ熱心に話したから疲れたというだけではないように見えるけれど、どうしてだろう?」
「それなんだ。なんだかね、会話はちゃんと成立しているんだけど、手応えがないというか、ニュアンスが伝わっていないというか。いや、別にこちらに明確な意図があったわけじゃないから、ニュアンスもなにもないように思うんだけれど」
 フェンネルには"彼"の顔が、その表情がありありと思い浮かぶ。黒光りする乾いた瞳。流暢に踊る唇の頑なさ。
「そうだな。彼の話しぶりとか、聞き耳の立て方とかが、予定調和的だったということはない?」

「……?」
「具体的に言おうか。細かいところでは君の事情に合わせたことを喋っていながら、それが結局は彼が言いたいことに必然的につながっていく。彼が言いたいことは最初からあって、君の話がどうあれ、そこに結びつけられる。個別的な君の情報が、一つの結論を彩る装飾的な材料にしか用いられていない。そういう感じ」
「うーん、なるほど。言いたいことはわかるけど、相変わらず君の具体例は抽象的だな」
「君が彼との会合を抽象的にしか語らないから当然だよ」
「それはそうだ。しかし……うん、たしかに、僕の違和感は彼の話の内容ではなくて、態度にあったのかもしれない。僕の曖昧な話でよくわかったな。君にも何か経験があるのかい?」

「過去に君のいう彼と同じような人間に会ったことがあってね。僕は自分で考えるのが好きな人間だから、最初から違和感には気づいていた。コミュニケーション能力が高くて、予定調和的な展開を望んでいて、かつそれが自身の利益と結びついている人間には独特の雰囲気が宿るんだ。態度に揺らぎがない。真摯に聞く姿勢にブレがなさすぎてこちらを観察している印象を与える。予定調和を乱すこちらの反応を過小評価する、あるいは無視する。会話の逐一に敏感なはずが特定のメタ・メッセージには極めて鈍感になる」
「メタ・メッセージ?」
「コミュニケーションに関わる要素のうち、コミュニケーションの質や成立可否に関わる信号のことだ。会話の中の言葉や、しぐさや表情などがそれに含まれる」

「ふうむ。そこまで分析できているのか。君はその時、相当イヤな思いをしたんじゃないかな」
「その時はね。とはいえ、分析して昇華できれば、すべてはいい思い出だよ」
「ああ、君は好きだったね。『昇華班活動報告』ってタイトルで昔書いていたな。内容はどうあれ、文章にエネルギーが満ち溢れていて、読んでいるこちらまで元気になった」
「最近は昇華班の出動要請がめっきり減ってしまってね。この平和を喜べばいいのだろうけど、乗り越えるべき壁がないのが寂しい気もする」
「ふふ。どちらでもいいと思っているだろう」
「まあね」

* * *
 

脳化社会における庶民の「抽象的土着」について

あるいは本題の5倍以上は長いまえおき

 
理解よりも前、それを目指す考察よりも前の、興味の段階にある状態が、
なにごとかを指し示すことがある。

「普遍に至る個性」は、その個性が社会にもまれて生活している限りにおいて、
いわゆる個性的な人物でなくとも、すべての人が可能性として持っている。

ではその「普遍」とは、数多ある開始点がその終局で収斂するただ一点を指すのか、
それとも「個性の数だけある普遍」という矛盾じみた存在なのか?

一つわかっているのは、
そう問おうとする姿勢の主は「普遍」の意味を取り違えているということ。

 × × ×

引き続き『民衆という幻像』(渡辺京二)を読んでいます。

この本は過去に一度手に取った形跡があり(読始の日付が頁にメモしてある)、しかし読み通したかどうかに記憶がなく、気になる箇所からの再読という形で進めていて、ところどころに読んだことがあるなと思わせる場面がありつつ、それを気に留めることなく読む。


そういえば再読の価値を認めるようになったのは、内田樹氏の著作を多く読むようになってからのことでした。
同じ話を何度も読む(聞く)のは、新しい情報が得られるわけでもなく、意味のない無駄な行為である…思考に意味を見出すことを前提とした読書において、以前の自分はこのような認識でいました。
それが、以前に読んだ記憶がある文章を読んで、しかしその当時に得たものの中にはなかった視点や価値観の変化があったという経験が、「自分が変われば世界が変わる」という啓蒙本にありがちの擦り切れた標語に実感を与えたのでした。

読書を「書き手と読み手の一対一の対話」であるする見方があり、その比喩に従えば、対話主体は話の内容だけでなく「対話の場」について言及もし、また考察するという意味で、読書は絵的にマトリョーシカを連想させる「絶え間ない自己言及」をその活動のうちに含む。
よって、「一冊の本を読んで世界が変わる」という言い方が意味するのは正確には、読了したその時にがらりと認識が一新されることではなく、頁をめくり読み進める間に読み手の価値観が、そのいくつもの末端部において間歇的にじわじわと化学反応を起こすような、地味でいて着実な、息の長いプロセスのことである。
その一方で、一冊の本を読み終えることは読書行為の明確な区切りでもあり、この明確さは、同じ本の再読時における自己言及の対象として際立ったマーカーの役割をも果たす。

以上のことを了解しておけば、すなわち、一冊の本を読むことは終わりなき自己言及・自己参照のプロセスを含む経時的活動であること、そして自己の生活経験がそのプロセスに差し挟まれることで当の自己言及・自己参照が外に開かれたものであることを、一度は念入りに考え、常日頃は頭の片隅にでもいいから置いておくことができれば、「一度読んだ本を再度読む価値」について、計量できるはずもないコストパフォーマンスなどといったものさしを取り出してきて、頭を悩ませる徒労をおかすこともない。

 × × ×

閑話休題
タイトルの話を書こうとしていました。

私は雁さんのもっとも優秀な読者のひとりでありうる自信はさらにないが、そのもっともしつこい読者のひとりにならなりうる自信がある。なぜならこの人の負うている主題は、私自身ののがれられぬ運命にとってとうてい他者ではりえぬからである

「わが谷川雁」p.400-401(渡辺京二著、小川哲生編『民衆という幻像 渡辺京二コレクション[2]民衆論』ちくま学芸文庫

抜粋した文章は、『谷川雁作品集』の月報に寄せるために渡辺氏が書いたものです。
渡辺氏が谷川氏に対して表現したほどの強度というのか、覚悟はありませんが、この一文を読んで思わず線を引いた今現在の自分は、ここで書かれたものと同種の思いを渡辺氏に対して抱いているのだと思います。


民衆、あるいは市民といった表現は、為政者が在民をカウンタブルな対象とみなす価値観を時に含むことになる(たとえば行政文書に表れる場合)ものですが、そういうシステム設計者的な(今風にいえば「上から目線」の)姿勢の対極に位置するのが、各々が独自の生活を営み、互いに交換可能であるはずもなく、一般化という視点がそこでは実質的な意味を持たない、一人ひとりが思想として(言葉にしないまでも)各々のプラグマティズムを実践する主体である民です。
ここでは「庶民」という表現にこの意味を託しますが、僕はここ数年、現代社会におけるこの庶民のあり方について、関心を持っています。

この関心というのは、学問的なそれではなくもっと身近な経験に基づいています。
換言すると、身体性の賦活を維持した生活を送ろうとする僕自身が社会で出会う、またはすれ違う人々に抱く多くの違和感に対して(自分自身の反常識や不適応はさておいて)説明をつけたい、という意図がなす関心

常識や慣習というのは、無定形でとりとめがないながらも、同時代において無批判に金科玉条とされ、個人にはその適応度によって正しい・間違いを課されます。
個人が抱く違和感というのは、その正しさとは次元が異なるものです。
その本質は、その常識が正しいかどうかという疑問にも関係がないし、当然、別の正しい常識があるはずだという建設的(?)な考察にも関係がない。

違和感の出所、原因というのか、それを感じるに至る経緯は様々あります。
自分がよしとする価値観と「常識とされるもの」とがぶつかった時に違和感が生じたのであれば、それは「脳起因」である。
一方で、自分がこれまで生きてきて培われた身体感覚が呼び起こした違和感ならば、それは「身体起因」である。
起因するのが脳か身体か、二元論のように厳密に区別できるはずはなく、実際は両者が謎の比率(つまり数値化に意味はない)で混在しているのでしょう。

それはさておき、僕は、自分が抱いた違和感の起源から「身体起因」をより分ける…のではなくて、その違和感が「身体が発する声」であるという前提に立って、その違和感に思考でもってなんらかの根拠を与え、ひいては身体性の賦活に繋げたい、と思っている。


こう書いて、読まれた方は、思考(言葉)が身体感覚を向上させる(鈍磨を食い止める)、ということに矛盾を感じるかもしれません。
たとえば「頭でっかち」という表現が想定する人間像を思い起こすなどして。

けれど、言葉に全面的に依拠して生きている人間は、言葉によって身体を鈍感にさせるだけでなく、敏感にすることもできる。
このことに(ブログや著書を読むことを通じて)実感を与えてくれたのも、上で触れた内田樹氏です。
たとえば氏は「軒下から手を出して雨が降っているかを確かめる」というイメージを、合気道の稽古で手のひらの感覚を鋭敏にするために用いるそうです。
目の前にいる人の背中にそっと手で触れる時、彼(稽古者)に何も言わない場合と、このイメージを言葉で伝えて彼がその場面を想像しながらする場合とで、彼の手の感覚は明らかに違っている。


また逸れた話を戻しますが、上に書いた自分の関心を一言で表すのは難しいですが、敢えていえば…いや、やはり難しいですね。

とにかく、渡辺氏の著書はじめ、何冊かの本を読んでいて、庶民の在り方、そして実在性というのか……唐突ですが「デラシネ」とは根無し草のことで、これは中世ヨーロッパで農地改革だったか産業革命だかで都市に大量に流入した農民の生活基盤の脆さの喩えに使われた表現なのですが、それと同じ位相の喩えで逆の言葉、シモーヌ=ヴェーユのある著書のタイトルでもある「エンラシネメント」(邦訳は『根をもつこと』)、これですね……つまり、昔のいくつかの時代のいくつかの国の庶民のエンラシネメントについて読んで、その現代のあり方とはどんなものだろう、ということに関心を抱くようになりました。

(話のついでに書いておきますが、この「庶民のエンラシネメント」についてのグラスルーツな考察がなされているものとして、渡辺氏の当の著書を含む3冊を選び、セットとしてサンタナ鎖書店で販売しています。オススメという言い方はちょっと違うのですが、これまで僕が作成してきた鎖書の中ではいちばん「歯ごたえがある」ものだと思っています。この認識に基づいて(あと本の原価も考慮していますが)、鎖書の販売価格もいちばん高く設定しています)
3tana.thebase.in

「鼓腹撃壌」という言葉があります。

曖昧な記憶で書きますが…これはたしか中国の故事です。

 お忍びで町に出たある国の王が、一人の農民にこう尋ねる。
 「この世でいちばん偉大でない人間は誰か」
 相手が王と知らない農民は「我が国の王である」と答え、王のことを散々こき下ろす。
 けれど、それを聞いた王は腹を抱えて大笑いする。

その王が「民が自国の統治者を自由に批判することができる国こそ平和な国である」と言ったか、これがこの故事の意味であったか、だったと思います(正確なところは調べてください)。

この故事に関連づけてだったか、渡辺氏が著書の中で、アジアの国の「為政者の平和(安定)的統治観」として、古くからそれは民が政治のことに何ら関心がなくとも国(国政)が維持されることであった、と書いています。
それは市民の政治参加による民主的な政治運営というヨーロッパの文化と異なる、とも。

それで、この鼓腹撃壌が「庶民のエンラシネメント」とリンクしていて、庶民の庶民性は、一人ひとりが目の前の自分の生活のことにかかりきりになれる(なっている)ことにある、というようなことが、社会主義に関する戦後ロシア文学をテーマにした渡辺氏の文章に書かれています。

 人間とは風景であり、そして風景はたがいに愛しみあうものであるという思想は、とほうもない詩人の恣意のようにみえる。しかしこの思想には、少なくともロシア的な生活伝統という基礎がある。ロシアの民衆は風景のように生きて来たし、それは個が個たりうる生きかただったとパステルナークはいうのである。
 私には、ソルジェニーツィンもこれとほとんどおなじことを言っているように思える。少なくとも彼が『イワン・デニーソヴィチの一日』で提示し、『収容所群島』で展開した、日常些事こそ民衆の思想的とりでであるという思想は、パステルナークの圏域とけっして異なる世界を指してはいないと思う。

パステルナークの圏域」p.398 同上

ときに自分の話をします。
僕自身は抽象的な思考が好きで、その志向は森博嗣氏の膨大な著書に培われたのですがそれもさておき。

 物事を抽象的に捉える。
 具体的な体験を抽象化して教訓を見出したり一般論に結びつけたりする。

こういった思考はふつう、上で抜粋した「民衆の日常些事」とは遠いことのように思えます。
通常は、庶民がかかりきりになる「目の前の生活のこと」から目を逸らした想像、実際的な成果を生まない頭の中だけの妄想のように思える。

でも、実はそれは違うかもしれない。

なぜ「それは違う」と思ったか、その理由を先に書きます。
それは僕自身の関心にあります。

僕には、「庶民のエンラシネメント」に関心があり、それと違和感なく並ぶようにして、抽象思考、具体的な出来事の抽象的把握にも関心がある。
これは単に、一人の人間が全く関係のない2つの対象に関心を持っている、ということに過ぎないのかもしれない。
でも、もしかしたら、ここにはそれ以上の意味が、まだ言葉になっていないが言葉にされることを待っている意味があるかもしれない。

やっと本題

 
…本題を展開する前に書き過ぎてしまいました。
そしてほぼ力尽きています。
毎度のことですが。

タイトルに関して、思いつく限り、無秩序になりますがメモだけしておきます。


現代日本は、生活が不安定だ、先行きが見えなくて不安だ、といった言論に満ちている。
実際に、流行も技術革新も仕事(就労)環境も変化が目まぐるしく、起こる事件は凶悪化し、また大規模になっているように見える。
不安を覆い隠すようなテレビのどんちゃん騒ぎがあり、引きつった笑い声が街に、通りに、駅や電車に満ちる。
自分の仕事に、家庭のやりくりに、子供を外部の不確定要素から守るために、スマホが抱え込む膨大な情報をキャッチアップするために、「目の前の生活のこと」にかかりきりになる。そうして目の前のこと以外は存在しないもののように振る舞う。自分にとって存在しないものであるはずの外部から干渉を受けると、気分良く弛緩していた表情が歪み突然怒り出す。理不尽な現象には、理不尽に対処する。
こういった振る舞いをすべて、現代日本庶民のエンラシネメントの現れであると考えることは、可能ではある。
同時に、その逆として、彼らはデラシネである、と考えることも可能である。
後者を採用した場合に、その思考はどのような展開を見せるのか。

脳化社会において人、特に都会人は、人間の頭が設計し、計画した事物(街、道路、住居、インフラ、情報環境、…)に囲繞されて生活を営む。
事物は明確な因果関係を前提とし、数量化されることでシステマチックに管理される。
あるものを数量化するとは、そのものの性質のうち数量化できないものを捨象する作業である。
それはすなわち抽象化である。
我々は社会で暮らすにおいて、実際に使い、目にし、五感で感じることができると思っているが、それらの背景・布置が抽象化されたものに囲まれている。
そこで、こう問うてみる。

人は「目の前の生活のこと」にかかりきりになるだけで、抽象化された社会に「根付く」ことができるのだろうか?

そうではなく、もしかすると、歴史上かつてなく、現代社会に特有なこととして、
脳化社会に庶民が「根付く」ためには、いったんプラグマティズムを棚上げしての「抽象的な思考」を要するのではないだろうか?

ものごとの背景やメカニズムや構造を知るといった迂回的に実際的な効果を生む思考、とは次元の異なる「抽象的な思考」、すなわち抽象志向。
社会の脳化に呑み込まれて身体性を損なうのでなく、身体性の自由領域を保護すべく社会の抽象的な運営システムに対してバランサーとして機能する、抽象志向。

そうだとすれば、
脳化社会における「庶民のエンラシネメント」のための抽象志向とは、どのようなものか?

ゆくとしくるとし '19→'20 1

年の瀬です。

今年は、いつもより寒くない気がします。
だからなのか、年末という感じがあまりしません。

毎年、年末になると頭の中に流す曲がまた同じように流れて、それで年末だなと感じる。

「節目」という感覚が、年々薄れているかもしれません。
年齢のせいかもしれないし、それとはまた全然違う理由かもしれない。

 × × ×

テレビの「NHKドキュメント」で、自民党の政治についての特集をやっていました。
最後までけっこう真剣に見たんですが、なんだか甲斐がないなと思う。
「永田町」というキーワードがもはや、政治じゃなくて政局の話題であることの表明になっている。

現役の総裁や大臣がインタビューで話していた言葉は、僕らに向けられたものではなかった。
せいぜいが内輪向けの、実際は自分自身に向けての、鼓舞なのか慰撫なのか、政治と関係のないプライベートな言葉。
もっと言えば、心の声のだだ漏れ。
「せっかく政権をとったんだから続けたい」
何? 修学旅行の思い出作りと一緒?


ただ、枝野氏がインタビューで言っていたことは、本当だろうなと思う。
不祥事や事件に関する釈明や説明が、事実に関係なく、落着させたい筋書に沿うように捻じ曲げられ、論理を損ない、そしてそれらがまかり通っている。
そうして引き起こされている事態を、枝野氏は「モラルハザード」と呼んでいた。
同じことを、小田嶋隆氏は日経ビジネスで連載しているコラムでは、もっと端的に「日本語が死んだ」と書いていた。

僕らにできることは、一つしかない。
政治の言葉の死に、巻き込まれないことだ。
マスコミは、巻き込まれる運命にある。
だから、一人ひとりが対処するしかない。

それは「正気でいる」ことかもしれないし、
あるいは「孤独に耐える」ことかもしれない。

変わるべきではないことがあり、それを自分の中で守り続けることが、対外的には状況に応じて何らかの形をとって表れる。
その形には意味がない、そのクールな認識を保つこと。

 × × ×

今年は昨日から実家に帰省しています。
年末に予定はなく、年明けも、合間にジムに登りに行く以外には入れていません(今日は長岡京市のジムで登り納めをしてきました)。

今年を振り返るのか、来年の抱負を見据えるのか、「ゆくくる」の進行はなりゆき次第ですが、
考えたいこともあるので、じっくりと書いていきます。

時間は、とてもゆっくりと流れています。