human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

ラヴロフとシュレディンガ

 
 スーパーで同じアパートに住むご近所さんを見かける。

「あ、セイちゃんだ。わっほーい。買い物かのー?」
 サキさんがこちらに気付いて、手を大袈裟なほどに振ってくれる。彼女は多動症かと思うほど元気一杯で、ふわりとしたスカートがいつも空気を巻き込んでひらひらと踊っている。一方のアキさんは、こちらもいつも通りデニムジーンズとTシャツという簡素な格好で、脇目も振らず一心に売り場の棚を睨んでいる。眉間に寄ったシワは永久に定着しそうな力強さだ。彼女の華奢な腕はフラットな胸の前で頑丈に組まれていて、白い肌には血管が浮き出ている。あのまま殴られると痛そうだ、と思うと体が震えてくる。サキさんには全く堪えていないようだけど。
「そうなんです。アキさんサキさん、お悩み中ですか」
「うーんとね、ご飯何にしようかなって」
「あーわかります。眼の前に食材がたくさんあると迷いますよね。来る前にメニュー決めてきても、いざ野菜売り場に立つと特売に目が行っちゃって…あれ?」
 私は野菜コーナーから歩いてきたのだけれど、気付けば二人が立っているのは調味料売り場だ。
「うーん、今週は何味のそうめんでいくか。この前は塩だったし、ここらでちょっと趣向を変えて、食卓に彩りを添えるには…」
「カレー粉にしようよ、アキ! 瓶になんかたくさんカタカナ書いてあるし、これ使えばきっと複雑でビュウテッホーな味になるよ! サッとひとふり魔法の粉!! これで料理ダメっ子も失敗知らずだわさ」
「なんだとー! こらサキ、自分が料理できるからって調子に乗んなよ!」

 そうめんカレーかぁ。いや、カレーそうめんなのか。どちらでもいいけど。というか、そうめんは固定? おかずがあるかが心配だなぁ。というかこの二人の「料理できる」基準ってなんなのだろう。「ごちそうするからウチ来なよ!」なんて突然言われた時に、驚かない心の準備をしておかなくちゃ。あ、でも、だから二人とも細くてスタイルいいのかなぁ。お呼ばれしたらダイエットの秘訣なんか分かっちゃったりして。サキさんなんて「そんなの、そうめん効果に決まってるわさ! ツルッと食べればお肌つるつる! 体のラインは唇に吸い込まれる細麺のシナりのごとし!!」とか演説始めて、やっぱそうなんだー! って。いや、いやいや。そんな馬鹿な…いや、馬鹿なのは私か。うーん、なんか馬鹿にしてるなぁ。サキさんごめんなさい。

「あー、セイちゃん何こそこそ笑ってるのぉ。怪しいなぁ。また変な妄想して一人で楽しんでるんでしょう? ちょっと、サキ姉さんにこっそり教えなさいよ。アキには秘密で!」
「え、いや別になにも、…っぎゃー!!」
 不意打ちで腰を両側から掴まれて、つい叫んでしまう。
「あーあー、あんたはもうっ!」
 げしこっ。きゅう。
 アキさんの血管ウキウキ握りこぶしが、サキさんの頭の分け目を狙い澄まして炸裂する。女子の髪ってけっこうクッションになるから、痛いんだよなぁ、これ。殴られる方も、殴る方も。しかし本当、この二人はいつ見てもコントだな。アキさんって男性的だから、二人で恋人同士に見えないこともないけれど、実際近くにいるとどうしても、カップルというよりはコンビなんだよな。羨ましいなぁ…いや、そうでもないか。いやいや、どうだろう。実は案外、なんて。うふふ。

 × × ×

ふら・ふろ (3) (まんがタイムKRコミックス)

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香辛寮の人々 2-1 「脳の中の博物館」

 
 時が離散的に流れている。自分の周りを現れては消える事物が、移動ではなく、点滅しているようだ。日の光が、雨の細やかな粒が、チャンネルを切り替えるように明滅する。昼と夜の違いが、左右の違いでしかない。左右とはつまり、決まりごとのことだ。一方でなければ他方であるという、それらの対の名。
 抽象の思考が、抽象への志向へ進化しているのかもしれない。有機体の抽象志向、それは無機への還元と相似するだろうか。思考機械がある種の複雑化を極めると有機体へ近接するが、これも右と左の違いに過ぎないということか。左は右を目指し、右は左へ向かう。そうして何かが起きたようにも見えるし、何も起きていないようにも見える。

 二次元世界に生きるスクエア氏には、螺旋運動は回転運動として認識される。二次元世界をその外から眺めるスフィア嬢は、スクエア氏の動作や視点、思考も含めたあらゆる平板さを目下に、あたかも神のような心地に陥る。スクエア氏の視線の先を追うスフィア嬢の存在をスクエア氏は全く感知できない、全能感に満たされたスフィア嬢はそれを事実として疑わない。しかし二次元世界に神がいるなら、それは事実ではない。しかしスフィア嬢の神性は否定されない、神は時に間違いを犯すからだ。


「博物館というものに興味はあるかい?」
「えらく漠然とした聞き方だな。僕にとって興味のあるものがそこに展示されていれば、もちろんその博物館に興味があるといって間違いではない」
「いや、漠然としたまま考えてほしいんだが。つまり、何らかの方針に従って収集したものの展示を見ること、あるいは収集や展示をすることに対する興味なんだけど」
「ふむ。博物行為に対する関心、ということかな。考えてみると面白そうだね」

「博物館をやる側からすれば、一般的には訪れる者の興味をかきたてる構成を考えるだろう。来訪者がなければ、それは私的なディスプレイ趣味に過ぎない」
「そうだね。公共施設なら、運営方針もきちんとしたものになるだろうし、個人的な趣味から始まった収集が私設の博物館に発展するのだとしても、それは自分の情熱とか、展示テーマの知られざる奥深さなんかをアピールしたいと思うからだろうしね」
「ところが、誰も来るあてのない博物館の館長というのがいるんだ」
「どこに?」
「それは今はいいんだ。とにかくそういう孤独な館長の存在を僕は知っている」
「ああ、なるほど。自分の住処でぬくぬくとしながら警備員だと名乗る話と同じだろう」
「…そうだね、確かに、客観的にはその認識が成立するといえる」
「やけに素直だな、なにか悪いものでも食べたか。それで、君がその館長なのかな?」
「いや、そうではないんだが、僕の知るその館長に、僕は共感を持ちつつあるんだ」
「うーん、どうも話がわからないな。その孤立した博物館とは、一体どういうものなんだい?」

「そこには館長個人にまつわる品々が展示されている。個人的に意味のあるものも、意味のないものもある。もっと広く、一般性に照らして有用なものもあれば、全くゴミ同然のものもある。目にするだけで気分が悪くなり、真っ先に焼却炉に放り込んで炭化させたい衝動に駆られるものだってある。とにかくそれらは選り好みされることなく、あるリストに従って遺漏なく、システマチックに収集される。
 それらは日に連れて数を増やしていく。彼はその一つひとつを手に取り、ほこりを払い、から拭きをして、然るべき位置に並べる。スペースの心配は彼の関心を微塵も刺激しない。館内にいると奥が霞んで見え、あたかも博物館の壁が水平線に吸収されたかのように視線を遮るものがなく、白いシーツが被せられて上には何も乗っていない展示台は、墓碑銘の彫刻を行儀よく待ち続ける墓石のように、リノリウムの床に溶け込んで規則正しく整列している。
 展示された品々はもちろん同じ形を保ち続ける。時の経過に対してなんの反応もない。彼自身は年を取り、体は老いていき、また関心や思考の内容という意味での彼の精神も日々変化する。展示品たちはそんな彼自身の変化に頓着せず、薄暗い空間で日々ほこりをうっすらと被り続けるだけだ」

「それで、君は彼のどこに共感するというんだ?」
「彼にはどこか、時間を超越したところがあるんだ。僕らの寿命のスケールを遥かに超えた、途方もないものを見ているというか、それに取り込まれているというか。自分の博物行為になにか意味を求めているのではなく、自分が館長であることによってその途方もないものと繋がろうとしているように思える。意味を超えたものと繋がるためには、自分も意味を超えなくちゃいけないんだ」
「ふうむ。君はあれか、その謎めいた途方もなさに憧れていると言いたいのか?」
「そうかもしれない。いや、わからない。これはわかるような話じゃないんだ」

「おいおい、そんな話を僕にしていたのかい。いつものことだが、今日は特に横暴が過ぎるぜ」
「ごめん。どうも感覚が漠然とし過ぎていたから、とにかく言葉にしてみないといけないと思ったんだ」
「冗談だよ。もちろん、どんな話でも君がしたければいつでもすればいい。語りえないことは沈黙すべきではない。なにかが語りえないのならば、それを語りえない状況について、位相を繰り上げて語るべきだからね」
「その通りだ、僕もそう思うよ。言葉は本源的に有為であり、無為な言葉は存在しない。言葉を無為にするのはいつでも語り手か聞き手の怠慢だ」
「まあそうはいっても、実際には限度があるけれどな。で、わからないなりに喋ってみて、何かわかったかい?」

「うーん、えっとね、時間の流れ方について考えればいいのかな、って今思った」
「ほう。まず孤独な博物館の時間は止まっている、と考えるんだな」
「いや、多分そうじゃない。時間は相対的に流れる。博物館の時間は、外界とは異なる流れ方をしているだけなんだ」
「それは表現の問題に思えるけれど」
「そして、異なる時間の流れ方をする空間にまたがって存在する者は、複線的な時の経過を経験する」
「…どういうことだ?」
「そうか、それが物語の効果なんだ」
「ちょっと待て、一人で会話するなよ」

「では博物館とは一体何か。自分に関係するものが展示されているというのは…。それが自分の物語、自分が触れた物語だというなら、形を変えないのはなぜか。物語の進展に従って当然それは変化する。それが変化しないと言うのは…変化を待っている、待機状態のものが展示されている? いや、展示する意味が分からない。観客は自分自身で、自分に対して変化したいというアピールのためか。もしそうなら、変化したものは展示台から消滅する。消えてくれることを願うものたちを体よく並べるというのも妙だ。ひょっとして博物館というのは……」
「…まあ、なにかわかったのならいいけれども。少しは脈絡不明の迷走話に真面目に付き合うこっちの身にもなってほしいものだな。ぶつぶつ」

 ひょっとして博物館とは、思考の場に与えられた名の一つであるのかもしれない。自分だけの、他から隔絶された、静謐な空間。しかし、思考の俎上に置く対象は、その空間の外部のものだ。思考対象が行き来することで、その空気は純粋さを失う、不純物が混ざる。圧力の異なる空間が触れあえば、各々の気体は混合される、この比喩は物理現象以上にシビアだろう。
 管理人は精神のエントロピィに反抗すべく奮闘する。博物館に持ち込んだ展示物、すなわち思考対象の鮮度を維持しながら、思考空間である館内の静けさと落ち着きを保つ。日の目を見ない館長の業務は、まさに「雪かき仕事」だ。頭の中の小人の、誰にも知られず、頭の持ち主にさえ気付かれない、全く報われることのないシシュフォス的役務。
 ホムンクルスはいなかった。しかし我々の中に存在しないというだけで、その存在そのものを否定することはできない。白いカラスが世界中の陸地に存在しないことが証明されたその時、彼らは太平洋上を悠々と周遊しているかもしれないのだ。
 

電車の中で小説を読むと起こること

村上春樹の作品はいつも何かしらを読んでいます。
併読書がたくさんあって、それらの読むスピードはまちまちですが、その中でちまちま読むものの中にハルキ小説が混ざっている、という感じです。
一つ前が『1Q84』だったか(完読できませんでした)、その後になにか読んだかちょっと忘れてしまいましたが、今は『ノルウェイの森』を読んでいます。
実は再読ではなく、初読です。
いまさらですが。

村上春樹に限らないのですが、ある小説を読んでいる間は、その世界観が日常生活に染み込んできます。
電車の行き帰りで少しずつ読んでいたりするとなおさら、です。
単に文章やそれから自分で描いたイメージの記憶が鮮明に残っているから、なにかの機会にとか、なんの理由もなくふとある場面を思い出すとか、いうこともあります。
でも僕が、小説世界が「日常生活に染み込む」と言う時、それはもう少し「濃度の高い」影響があります。

本を読む時、頭の中には常に音楽が流れています(それを脳内BGMと呼んだり、過去にSIM=Synaptic Imaginative Musicなどと命名したもともあります。現実に音楽を聴きながら読むのと、音波に頼らず頭で仮想的に再生するのとでは、その影響が全く違ってくるとと経験的に確信していて、ぜひそのあたりを掘り下げてみたいのですが話が長くなるので別の機会にします)。
物語以外では、だいたいジャンルごとに流す曲の傾向が決まっていて、ある特定の本だけの曲、という割り振り方はしません。
小説だと、いや小説も本単位ではないのですが、ほとんど作家ごとに特定の曲を決めています。
(小さな例外はいくつもありそうですが、大きな例外は森博嗣で、シリーズがいくつもありそれぞれ雰囲気が違うので、シリーズごとに相性の良い曲を流すことにしています。覚えているだけでも6、7曲はあります)

村上春樹の小説もほぼ1つの曲に決まっているのですが(この曲になった経緯について、2012年に書いた文章がありました)、長いあいだハルキ小説を読み続ける間にずっとこの曲を頭で流し続けたおかげで、僕にとってはということですが、音楽の方が小説の記憶を獲得した、というような塩梅になりました。

だから例えば、小説を読んでいない時、ふつうに街中をぶらぶら歩いている時に、頭の中でこの曲を再生すると、ハルキ小説の「感覚」が自分の中に流れ込んでくるわけです。
その「感覚」は、今読中のハルキ小説があるのならその小説の具体的なイメージだったりしますが、そうでない時は、もっと漠然としたそれこそ「感覚」と呼んでふさわしいものが、歩いている僕のまわりを淡く包み込みます。
まるで自分がハルキ小説の主人公で、初めて上四(「上京」っていいますよね)していかにもよそよそしい高松(『海辺のカフカ』)や、月が2つあり些細な違和感がすべて凶兆として現れる平行世界の1984年東京(『1Q84』)を歩いているような。

そのようなことで、環状線や地下鉄堺筋線-中央線に乗りながら『ノルウェイの森』を読んでいる僕は、終電近くで酔客が大声を上げ、ひきつり笑いが響き渡る地下鉄ホームを歩いていて、「一度足を踏み入れたらどう足掻いても抜け出せない泥沼のような1969年*1」にいるような気分になってくる。

これも大概なんですが、もっとひどいというか影響がありすぎると思ってやめたのがあって、『ノルウェイの森』の前に通勤時に読んでいた小説があって、それがジョージ・オーウェルの『一九八四年』で、読んでしばらくするまで気づかなかったんですが、これが並々ならぬ暗鬱なディストピア小説で、これを読む時の脳内BGMが『harmony/』(伊藤計劃)と同じという輻輳効果も不幸を奏して、地下鉄の駅内を歩く自分の顔つきがたぶんひきつっていたことだろうと思うんですが、通行人と肩がぶつかった時の自分の態度の悪さに愕然として初めて今ここに書いてきたことに気付いて「これはやばいな」と思ったのでした。

ハルキ小説はそこまでの影響はなくて、ただ哀愁というのか、それも乾いた、ある種の哀しさが通奏低音としてあって、ただそれが憐憫に浸るというのでなく、混乱を含みつつもそれをも見据える「無色の自覚」が伴っているところが、今の自分には読みやすいところだなと感じています。
(「無色」で思い出したけれど、『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』を持っていますがまだ読んでいませんね。ノルウェイを読了したら次に読もうかな)

というわけで、そんな一節を最後に引用しておきます。
永沢さんという人は救いようのない人で、そんな救いようのない人に救われる「僕」は、やはり哀しさを覚えずにはいられない。

「冗談じゃないですよ」と僕は唖然として言った。
「冗談だよ」と永沢さんは言った。「ま、幸せになれよ。いろいろとありそうだけれど、お前も相当に頑固だからなんとかうまくやれると思うよ。ひとつ忠告していいかな、俺から」
「いいですよ」
「自分に同情するな」と彼は言った。「自分に同情するのは下劣な人間のやることだ」
「覚えておきましょう」と僕は言った。そして我々は握手をして別れた。彼は新しい世界へ、僕は自分のぬかるみへと戻っていった。

村上春樹ノルウェイの森(下)』*2

*1:これは引用ではないです。泥沼、ぬかるみ、といった言葉が出てきたことだけ覚えています。

*2:単行本は1987年刊

引っ越し後処理完了、ロフトとコーヒー、教訓と繰り返す失敗

引っ越しに伴う移行状態が、今日でひとまず収束しました。
旧居の退去立会いは荷物を引き上げてから間があいて、新居の廊下に積んでいた段ボールは少しずつ数を減らしながらも今日まで残っていました。

廊下は狭いので、段ボールがある間はトイレも洗面所もドアが半開きにも至らず、体を滑り込ませて入っていました。
料理する時に鍋が要る、水切り(スピナー)が要る、と必要に迫られるたびに段ボールを一つ開封し、これを機にと食後に開いた箱を空にする。
そうしたその場しのぎの積み重ねで、今夜ようやく引っ越し荷物をすべて収納することができました。

部屋の大きさが半分以下になり、もともと退蔵していたものは処分しましたが、家電や家具を含めて生活品はほとんど残したまま、なんとか新居内に配置できました。
余分はスペースが皆無ですが(客人は呼べて一人だろうと思います)、旧居よりは身の丈に合っているなと感じています。
ロフトがあって、収納が衣服吊りのついたクロゼットしかないので本来は荷物置き用なのでしょうが、ベッドを置くであろうスペースはまるまる一人用ソファとスツールが専有しているので、ロフトの奥に普段遣いでない荷物を置いて(その上に布をかけて)、手前に布団を敷いて寝ています(そのさらに手前、梯子を上った眼の前には文机と座布団があります。天井が屋根に沿って斜めで、壁に体を寄せても正座すると頭が天井に触れる、ギリギリの高さです)。
悪い夢かなにかを見て布団から跳ね起きたら、確実に頭を打ちます。
幸い、起床時に目を開ける前に体を起こした経験は(たぶん)ありません。

新居に住み始めて1週間前後経った頃、寝付きの悪い日が数日続いて、いつもなら気を失うように入眠する壁登りの日もあまり眠れず、「ロフトで寝るのは隠れ家みたいで面白いと思っていたが、天井が低いと圧迫感があるのかな」と不安になりました。
あるいは新生活にまだ慣れていないからか、でも引っ越し直後はふつうに寝られたはずだが、などと頭を悩ませていましたが、なにかのきっかけで(理由は忘れました)解決したようでした。
というのも、そのつい数日前に買った(初めて選んだ銘柄の)コーヒー(粉)の酸味がすごく強くて、一口飲んで「これは身体に悪いわ」と確信するような味がしました。
それでも800gの袋で買って、一杯だけ飲んであとは捨ててしまうのは勿体無いという貧乏性がはたらいて、何度か飲むうちに慣れるだろうと我慢して飲んでいました。
「コーヒーのせいかも」とどこかで気付いて、とりあえず別のコーヒーに代えてみたら、寝付きの悪さは改善されました。
この経験から、コーヒーが睡眠に影響を与えるのは、一日に飲む量とか飲む時間というより、飲むコーヒーの質なんじゃないかと思いました。
いや、大学生の頃からこのかた10年以上さんざっぱら飲んできて今さらか、という感じしますが、そういう「身の染みなさ」が問題なような気もするし、経験やそこから得た教訓などのまとまり(の全部なのか一部なのか)を忘れているだけのような気もします。
そして、どうしたことか、後者はとくに問題でもないのではないか、とすら思います。


たとえば、有名人の金言集だとか、偉人の格言集だとか、ああいうきちっとまとめられていながら一つひとつに納得させられてしまうようなものは、読めばなるほどと思いますが、あまり身に染みない。
数ある中で心に刺さる一節があるとすれば、自分が過去(とくに近い過去)に経験したことを言い当てている一つでしょう。

教訓には人を動かす力があって、合理的な根拠がなくとも、他人に同意されなくとも、時に頑なに守り通させる偉大さを発揮する。
そのような教訓に衝き動かされる人は、その教訓の生成過程に携わった経験があるのだと思います。
その教訓、一般に還元できるような抽象命題が導かれるような失敗(あるいは成功)を経験したのだと。
その経験こそが根拠で、だからこそ非合理な確信を帯びることになり、だからこそ(この先が言いたかったことなんですが)、その経験が色褪せると、後ろ盾を失った教訓の効力も衰える。

過去の失敗、その事実を忘れたわけではない。
ただ、事実が人ごとの過去として埋没している。
これが、「忘れたわけではないが色褪せた経験」。

だから、その再活性化を行うにあたって、失敗を繰り返すという手続きをとることになる。


同じ失敗は繰り返したくはないが、
ある失敗が過去の類似の経験と同じかどうかは、
その失敗の内容そのものにあるのではない。
たとえば、過去と同じような反省しかできなければ、
それによって「同じ失敗の繰り返し」の認定となる。

あるいは、
「同じ失敗は繰り返したくない」
という普遍的に(例外のないように)見える反省に頼る姿勢そのものが、
「同じ失敗」なのかもしれない。

身辺雑記のはずが面倒な話

ずいぶん間があきました。

忙しいのは理由の一つですが、「文章を書かずにはいられない」という状況が訪れなかった、ということもあります。
これはストレス、精神的な負荷があまりかかっていないと肯定的にとらえることもできます。
ただ、それだけでもありません。


頭がかなりとっちらかっていて、生活の変化や思考の変化、新しい発想など、言葉にすることで思考の流れができるような事柄、言葉以前の予感のようなものが錯綜しています。

このような機会をとらえるには落ち着いた精神が前提で、そのために落ち着いた環境が必要で、しかしまだ引っ越しが完全には済んでいないためか、腰を落ち着けるにまで至っていない。

未だ移行過程であることが一番の原因なのでしょう。


あとは、以前と同じことをするにも、環境が変わったためにすんなりと再開できないという感覚的な問題もある気がします。
環境変化に適応するための、厳密にいえば環境変化によらず習慣を維持するための、一時的な負荷をあえてかける必要がある

紙面上で(という言い方は古いですね)今まさにそれをやっている、のだと思います。

 × × ×

引越し時にネット契約業者を指定の会社に変えれば、工事費のサービスや切り替えによる違約金のキャッシュバックがあるという。
後者のキャッシュバックは、違約金がかからない場合(ちょうど引越し時に契約会社の定期更新月をむかえた場合など)にも受けることができる。

…という説明を賃貸業者から紹介されたサービス会社の担当者から受け、しかし後日同じサービス会社の別の担当者は「そんな説明をしていない」と言う。
言った言わないに関心はなくて、そう言うならそうだろうと二人目の担当者の話をそのまま進めたのですが、どうも電話で手続きをしているうちに話が見えてくる。

一人目は「うまくやれば(つまり違約金が発生しない場合でも「発生したテイで」話を進めれば)違約金分の商品券をゲットできる」というキャッシュバックサービスの仕組みの穴について、そういうニュアンスを全く込めずに「結果の可能性」のみをシンプルに提示したようだ。
そして二人目は、こちらが営業担当の当然の対応ではあるが、そういった可能性を否定した。


そういえば京都の家電量販店で洗濯機を購入した時も、クレジットカード機能つきの会員カード作成を勧められた際に「クレジットカードいらないなら、後日登録用紙が郵送されてきますけど無視したらいいです。そうすれば勝手に仮契約は消滅します。今店頭で手続きだけすれば値引きできておトクですから」みたいな説明を、こういう対応をいつも当たり前にやってますみたいな顔でされたことがあった。
その時は店員の押しが強くて、登録する気のないカードの申請書を書きました。
洗濯機が少し安く変えたメリットはありましたが、なにか心にわだかまりが残りました。


京都にいた時のそのわだかまり、精神的にいやな感じと同じ感覚を、今日電話でネット回線の手続きをしていて持ったようでした。
そして「お金は何のためにあるのか」という、何度も考えたことのあるテーマがふと頭に浮かびました。

 × × ×

表現を足せば「余剰のお金は何のためにあるか」です。

お金はあればあるだけ、消費生活のグレードを上げることができる。
上を見れば際限はないから、収入は多い方がいいし、余計な支出は少ないほうがいい。
…という「賢い消費者」の一般的(と僕が思っている)な発想を、僕はしません。

お金には必要な分量があって、その量は個人の生活が、身の丈の感覚が決めると思っている。
際限のない欲望(ここではその一種である「消費欲」が問題になっています)に限定を付せるのは、脳ではなく身体だからです。
そのようにして生活に必要なお金が(なんとなくであれ)はじき出されて、それ以上に持っている(あるいは稼いでいる)お金が、上で書いた「余剰のお金」が指すものです。


僕は「余剰のお金」は、お金のことに頭を悩ませる機会を減らすためにあると思っています

お金の心配、例えばそれは上で例に挙げたような、「得はするが心に違和を感じる(自分の倫理観に抵触する、あるいは合法的な不正に関わってしまう、といった感覚を催す)選択」をするかしないか、といったことです。
もっと日常的な例では、スーパーで日用品や食料を買う時に、沢山買えば(あるいは他の商品とセットにすれば)安くなる特売サービスを、利用するかしないか。
必要量を超えている、またはそれほど必要でないものも買うことになるから、利用しないでよいと思うが、利用しなければどこか損をした気になる、間違った選択をしたように思ってしまう。

つい安いから余計なものをいくつも買ってしまう。
消費生活においてあまりに日常的な出来事で、これに伴うマイナスの感情は、その頻度の高さによって簡単に擦り切れる(無害化される)ことになります。
でもこれは僕は、感度が鈍った結果だと考えます。
身の丈が要請する必要量が曖昧になった結果だ、と。

このことに良いも悪いもなくて、
個人がどういう思想に基づいて生活をしたいかによるのですが、
「感度を鈍らせたくない」という意志を持っている場合、賢い消費者でないことによる痛みをなくしたいと思った時に、「余剰のお金」が活きてきます。


お金はあればあるほどいい、のではない。
お金は必要最低限よりいくらか多めにあればよくて、その余剰分は必要最低限の「必要のものさし」を揺さぶられないためにある

「いやなことをしたくないがために余計に支払うお金」と、簡単にいえばこうなりますね。

社会のシステムが高度化して、自分の振る舞いが自分と関係のないところで自分の意に沿わない影響を及ぼすことも当たり前になって(たとえば日常生活の消費が回り回って軍事産業を潤すとか、捨てられる残飯でアフリカの子供が何人救えるだとか…後者は観点が違いますが)、でもそれはそれとして、自分が判断できる範囲内で自分の良心に従いたいと感じる。

自分の良心の、発揮によって想定される結果と実際に起こる結末の食い違いが、社会の複雑なシステムによって生じる。
別な言い方をすれば、ある状況に対して自分が望む結果を、自分の良心に反した行動を選択することでより効果的に実現できる、という選択肢が存在し得る
そしてそういう時、自分の良心に従った結果、自分が損をすることがある。

その損を、苦にせず引き受けるための余剰、余裕



…ややこしい記事になりましたが、「複雑な状況でシンプルに振る舞うためには複雑な思考を要する」という話かもしれません。

「砂漠だけが生きている」、生と死のフラクタル

 彼女は、すべてを見られる。世界中のどこにでも目を持っている。地理的にも歴史的にも、すべてを見てきた。人間のやることを、全部知っている。
 無限ともいえる知性、あるいは思考は、どこへ行き着くのか。壮大な実験を人間はスタートさせて、そのまま忘れてしまったのだ。コンピュータは、言われたとおりに学び続け、知性の実験を続けている。
 なんとなく、虚しい。
 人工知能が、無限の虚しさに襲われても無理はない。
 想像しただけで、躰が震えるほど、それは虚しく、悲しく、寂しい。
 あまりにも多くのものが動き回っているのに、トータルしたものは動かない。まるで大地のように、この果てしない氷原のように。
 生きているものを無数に集めれば、そこには死の静寂がある
 たぶん、そうなのだろう。
 理解はできないが、その雰囲気を少し感じることができる。
 できるような気がする。

森博嗣『青白く輝く月を見たか?』講談社タイガ

下線部を見た瞬間に、砂漠を思い浮かべました。

 砂漠…砂漠だけが生きている…?
 どこで読んだフレーズだったか。

思い当たる小説を参照してみました。
沢山貼られた付箋の中の一つの、関係はないがそのそばの箇所に、それはありました。
これと、もう一箇所、同じ小説の中にあったはずなのですが、ざっと全ページを見返しても見つけられませんでした。

「砂漠のことを考えていたんだ」と僕は言った。
「砂漠のこと?」と彼女は言った。彼女は僕の足元に腰をかけて、僕の顔を見ていた。「どんな砂漠?」
「普通の砂漠だよ。砂丘があって、ところどころにサボテンが生えてる砂漠。いろんなものがそこに含まれて、そこで生きている」
「そこには私も含まれているの、その砂漠に?」と彼女は僕に訊いた。
「もちろん君もそこに含まれているよ」と僕は言った。「みんながそこで生きているんだ。でも本当に生きているのは砂漠なんだ。映画と同じようにさ」
「映画?」
「『砂漠は生きている』、ディズニーのやつだよ。砂漠についての記録映画だよ。小さい頃に見なかった?」
「見なかった」と彼女は言った。僕はそれを聞いてちょっと不思議な気がした。

村上春樹国境の南、太陽の西

連想が、同じものを結びつけたかどうかは、わからない。

宇宙スケールの視点とか、諸行無常の比喩とか、ではない。
いや、2つのそれぞれが語るものではなくて、2つを並べてみて僕が思ったことの話。


フラクタル、が少し近いだろうか。
「生きているものを無数に集める」、たとえばこれは、人体一つについても言えること。
人体を構成する細胞、その一つひとつは、確かに生きているといえる。
つまりヒューマンスケールで人が自分自身を顧みて、同じ視点に立つことができる。

いや、肉眼の分解能を超えたミクロな視点を獲得した科学は、すでにヒューマンスケールではないのかもしれない。

いや、あるいはそうでもないか。
八百万の神」のアニミズムがある。
この中には、生の躍動と死の静寂が同居しているように思う。
対して違わない者たちとしての、併存。


そうか、

生と死は、隣り合わせなんかじゃない。
お互いに相手を含み合っている、フラクタルの構成因子。
だから、生の集積に死を発見できる。

だから、「一人の人間」という単位は、仮説なのだ。
あらゆる科学的言明が、仮説であることと同じく。

 × × ×

人間と人工知能の境界がどんどん曖昧になっていく、森博嗣のWシリーズは非常に興味深く読み進めています(引用したのは全10作中の6作目だったと思う)。
展開もそうですが、深く考え込ませる記述が随所にある。

 人間の定義が、変わっていく。
 それは、
 人間が人間でないものになっていく方向性と、
 人間でないものが人間になっていく方向性とを持つ。

いずれにせよ、人間のやるべきことは、なくならない。
そう信じることのできる、非常に楽観的な生物なのだ。
 
 × × ×

国境の南、太陽の西 (講談社文庫)

国境の南、太陽の西 (講談社文庫)

疾風ドトールの日々、ソファ多難

年始から昨日まで何やかやとバタバタしていました。
今日は久しぶりに家で読書をしていたんですが、
頭は回転速度が落ちない。

 新しく始めることが、
 変化を生み出すことが、
 いくつも重なっている。

判断の瞬間に大きく背負うものがあって、
その一歩が「越境」に感じられるのですが、
決まってしまえばあとは粛々と進めるのみです。

粛々と、とは「静かに躍動しつつ」といった意味です。

 × × ×

タテヨコの経緯があり、引っ越すことになりました。
鶴見区から、今度は北区です。
高校の頃を含め在阪時には全く縁がなかった、天六エリア。
駅にも近く、長さが日本一だという商店街にも近い。

とても面白そうなところです。
家も、街も。


新居での配置を計画すべく家具の寸法を測っていて、
昨日は内覧時に玄関や廊下の幅を測っていたんですが、
アーバンバル風の隠れ家ライクな物件のそれは非常に狭くて、
 これまで三度の引っ越しに踏ん張ってきた読書用ソファを手放さねばならんな、
 何せ今の家にも階段を通せなくて2階の窓からロープで入れたくらいだしな、
 頭を楽にもたせられる一人用ソファってなかなかないんだよな、
と、そのソファで読書しながら気が逸れてつらつら考えていたんですが、
IKEA製のご多分に漏れず着座部分もアームレストも幅広ながら、
寝られるくらい背もたれが倒れるリクライニングタイプのそれが、

倒した時の、

高さが、

お?

!!


と、

ソファの幅より短いことに(頭の中で倒すのを想像して)気付きました。
早速立ち上がって実際に倒して、
その高さを測ると68cm。
新居の通路で最も狭い玄関ドア幅は、65cm。
背もたれを倒したソファは「くの字」なので、
横に倒して前後で持ち、左右にひねりながら進めばいけるでしょう。

やったー
ムーレン手放さないで済んだー
(ちなみに現居への引っ越し時も窓から入れんでよかったな…)


思い返せば、
神奈川の社員寮を出る時はそのように運び出した記憶がうっすらあります。
…。

まあ、何にせよ良かったです。
今回も(同じく2階の)窓から入れる可能性は内覧時に検討はしていて、
でもベランダの窓がやたら重くて外せるのか確証が得られなかったり、
窓の外は現状空き地だけど建物ができちゃった時の面倒な事態を思ったり、
(部屋の中で解体作業? 騒音バツだからノコギリで切るのか? とか)
そんなこんなで「今回ばかりは手放した方がラクか…」と諦めムードになっていたのでした。


初めてなら、なんでも"いい経験"」だと思って、
自分では思いもしない色々なことに巻き込まれてきましたが(特にここ数年)、
自分一人の問題、決定権のすべてが自分に握られている判断では、
保守的な価値観が先行してまだまだ弱気が抜けていない。

いや、反省する気はなかったんですが、
書いているうちにこうなってしまいました。
まあ、これもまた発見。


…あー、

そうだ、新居はかなり狭くなる(有効床面積は現居の半分以下)から、
ちゃんと配置を考えないとスペース不足で処分になりかねないのだった。

よーし考えるぞー

ゆくとしくるとし '18→'19 5(完)

年末年始に書くこのシリーズですが、間が空いてしまいました。
原因は2日から長野へスノボへ行っていたこと、その出発までに書き上げられなかったこと。

さっきまで読み返して、加筆修正を少ししました。
勢いで書くと読みにくい所がちらほら、
それから、文脈上「書いておくべきこと」の追加。

今回はたくさん書きました(5までいったのは初めてです)。
読み返してみて、締めくくりのしようがない相変わらずの散漫さです。
まあ、最後まで思うまま書くことにします。

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これは昨日まで滑っていた栂池高原のゲレンデ。

 × × ×

去年は転機でした。

サラリーマンを辞めて2年ほどぶらぶらしていた(一本歯で四国遍路・そのための修行@京都、夏の岩手で司書資格取得・そのついでの雪国生活etc.)のが、去年なかばから新しい個人事業の仕事を始めた。

今年はまた、別の意味で転機になると思います。
去年がpublic turning pointなら、今年はprivate turning pointになる
そんな気がします。


先に、自分は「流される性質の人間である」と書きました。
けれど、これは実際のところ、見方の一つに過ぎません。

時々、自分のことをこのように認識することがあります。
自分を取り巻く「流れ」さえ見い出せば主体的に行動できる人間だ、と。

結局、思い込みや遺憾なき想像力の発揮によっても「流れ」は発生することがある。
それが自然なのか無理やりなのか、という話でもない。

意識は、自然か人工か?
脳の宿命的機能を自己参照すれば意識は自然であり、
身体から見れば意識活動は人工そのものである。
そういう話なのです。


縁とは、自然と人工の境界にあるものなのでしょう。
双方を包み込むもっと大きな、いや、際限のない存在。

そして不思議なことに、身の丈感覚は縁と相性が良い


縁を大切にして、
自分自身の生活の充実が、
僕と関わる人々にも伝播するような、
さらにはお互いに共鳴して"我々の"充実が増幅するような、
そういう生き方をする。

今年の目標。



今年もどうぞよろしくお願いします。

chee-choff

ゆくとしくるとし '18→'19 4

今年の抱負の話をしましょう。


仕事用のHPの更新が滞っていますが、これは「とりあえず更新しておこう」というモチベーションが薄くなったからです。
必要ではない、と思うことは書かなくなった。

ですが、その更新が今月また復活すると思います。

機械設計の仕事と並行して、新しく本の仕事を始める予定です。
以前、自分の関心の中心と本とを絡めて仕事をしたいと思って、「ブックアソシエータ*1」という肩書を思いついて、その職業の人間がなすべき仕事について考えようとして、入り口に立ったことがありました(変な表現ですね)。
これはその時に書いた文章。
bricolasile.strikingly.com
それからひと月ほどして、ちょっとしたきっかけがあって(その節は、司書講座同期のM女史に感謝しています。始める前からなんですが)、始めてみようかなと思った仕事がちょうど、「ブックアソシエータ」としても適うものであった。

具体的なことは、やる前から考えるよりは、やらざるを得ない状況に追い込んでから頭を回転させた方が現実的に動ける気がするので、ここではまだ書きません。
ただ、「本にポテンシャルエネルギィという潜在価値をつける仕事」とだけ言っておきましょう。
どう展開するかは、実際のところ、やってみないとわかりません。

 × × ×

ちょっと違う話を書きます。

去年の後半から「香辛料の国」というタイトルで、いくつか、超短編のようなものを書きました。
その文章には「小説的思考」とタグを付けた通り、小説だとは思っていません。
日々の生活でなにか思いついたこと、考えたいこと、あるいは考えさせられる出来事が起こった時に、それを物語らしきものに託そうと思ったのです。
そして一人称の語りの間に会話を挟む形式にしたのは、「僕ではない誰か」の言葉を借りて思考を進めようと思ったからです。

折角なので、サブタイトルをつけて、ここで整理してみましょう。
(1-2がないのは、初稿時の出来が悪くて公開していないからです)

 香辛料の国 1-1 セージと「共存の不可能性」について
 香辛料の国 1-3 ウーシャンフェンと「反省の普遍化」について
 香辛料の国 1-4 ウーシャンフェンと「自由のための限定」について
 香辛料の国 1-5 シナモンと「一般化を目指す個性」について
 香辛料の国 1-6 セージと「文字のない本」について
 香辛料の国 1-7 ローズマリーと「絵画と死の静謐」について
 香辛料の国 1-8 バジルと「比喩の神託」について
 香辛料の国 1-9 ディルウィードと「時間の主観性」について

読めばわかりますが、全ての章に出てくるフェンネルが、まあ僕のようなものです。
そしてそれぞれのスパイスたちは、特定の性格を持つと想定されたり、あるいは現実の知人をモデルにしたりしています。

そうは言っても、後者は「あの人ならこう考えて、こういうことを言うだろうなあ」というシンプルな想像ではない。
なんというのか、そういう正統的な他者思考の想定だけでなく、「あの人がこういうことを考えたら面白いだろうなあ」「あの人がこう言ったら、僕はそれにどう答えるだろう」という、具体的な知人の印象の一部を借りてそれを起爆剤にしているようなところもある
だから、僕がその人(って、誰も名前を挙げてはいませんが)に対して持っているイメージが書かれているというよりは、僕とその人の関わりが、それこそコミュニケーションの履歴が、不規則に絡み合うアモルファスな結晶の現れがここに並んでいます。

そう考えてみると、この超短編集に書かれていることは、僕が書いたことながら、僕でもその人でもない謎の主体の思考が混ざっているようにも思われて、時間が経って読み返すたびに僕自身が新たな刺激を受ける構造になっている。
…かもしれない。


これ以外にも会話調の記事を書いてきたんですが、趣旨は上記と似たようなものです。
最近になるほど「香辛料の国」の更新が減ったのは、伊藤計劃のエッセイの中で「SFの必然がないのにSFの形式にする意味はない」みたいな話を読んで「ああ、たしかに必然はないなあ」と思ったからです。
別に、なくてもいいんですけどね、スパイス達を擬人化することで、新しく表現が生まれるという現象もあるので。

まあ、気が向けばまた、続きを書くかもしれません。
ストーリーが生まれる気配は、まだありませんが。


p.s.「誰も名前を挙げない」と言いながら、改めて自分の文章を読み返すとなかなか本当に面白かったので(つまり僕が書いたとは思えないという意味で、やはり「謎の主体」の存在を仮定したくなります)、一つだけ。1-7の登場者には「画伯」という敬称がついていますが、僕の知人に画伯は一人しかいません(きっぱり)。
 

*1:アソシエータは、もとの単語から別の意味を与えた造語です。associatorとは、連想=associationを司る人…とは言い過ぎで、深く精通してその可能性を誰よりも信じているが、無意識の領野とも重なり、個人差の極めて大きい現象を「操れる」などという傲慢な考え方は持っていない。「ゆくくる」の1つ前の記事で「意識の研究」の話を書いたかと思うんですが、僕が誰でもできると言ったのは「在野でやる」の意味で、つまりプラグマティックなそれです。現象の解明よりも、実際的な可能性の開花、効果の探求に重きをおく。…話が抽象的なのは、事を始めていないから仕方のないことで、話を戻せば「ブックアソシエータ」の訳語をとりあえず提出しようとしているのでした。司書はlibrarianで、「司る」と最初に書いてみたのはここからなんですが、そうではなくて…非修飾的な表現をすれば「本と本を、または本と人を連想でリンクさせる人」になります。これを、つまりどうなのか、それによって何が起こるのか、ということも含めた表現に発展させたいと思っているのですが、そうですね、これは今後の課題としましょう。

ゆくとしくるとし '18→'19 3

実家の庭掃除をしました。

竹箒でアスファルトの上をガシガシ掃いていると、抵抗の強さと相性の悪さが身に染みます。
竹の枝一本ずつが触手となり、しかしそれらは巨大な非弾性体を前に、交信の余地なくはじき返される。

落ち葉を竹箒で集めてから、合成樹脂の箒と掃き口にゴムのついたちり取りを使いました。
小さな枯葉が中に吸い込まれていく効率の良さとは別に、先程までまざまざと感じていた抵抗がなくなって、何かが曖昧になり、もやもやとした感覚が生じました。

抵抗がないこと、それにふと、恐ろしさを感じることもある。

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これは家の庭の南天です。

 × × ×

2019年になりました。

今年は平成31年なのですね。
去年のあいだ、ずっと平成29年だと思って、その認識が改められた記憶がないのですが(いくつかの紙に29と書いたのは覚えています)、だからどうだということもない。


紅白歌合戦からずっと、「平成最後」という言葉を繰り返しテレビで聞いています。
「時代の終わり」のような雰囲気があります。

新年号が4月のはじめに発表されるようですが、なんだか、その名前を知らない今は、終わりだけがあって始まりが見えないような、展望がないというのか、宙ぶらりんの状態であるように思えます。
「未来の展望がない」、どうもこの認識も、当たり前になってしまったらしい。
人口減とか、経済の停滞のせいではなく、現在主義、「今がよければそれでいい」という無時間モデルで社会を動かしてきたのが原因でしょう。

僕は、派手なことが流行らなくなる、「縮小社会」としてこぢんまりとして、世相が落ち着いていく、こういった流れができていくことを、十分にポジティブな「未来の展望」だと思っています
人のために生きる、と言う時、このような認識を分かち合って、関わる人の個人の顔が見えて、各々が落ち着いた表情をしていればいい、それが一つの「自分があるべきあり方」だと考えています。


「べき」という当為の言葉をいま使ったのでちょっと脇道にそれます。

この表現は、あるいは責任という言葉も同じですが、自分に使うものだと思います。
他人に向かって使う時、その言葉は相手に届く前に、自分の中で響いている。
「自分ができないことを人に言うな」ということと、似ているようで少し違います。

相手の身を考えない、無責任な発言。
宴会の席ではそういった調子の良い言葉が飛び交うことでしょう。
あるいは、まじめに話している時に、自分はこうは考えないが、相手の考え方に沿って、自分が信じてもいない助言をすることもある。

それが、いけないのではない。
「自分が信じていないこと」を言って、それが何かの結果を招いた時に、自分の発言が自分自身には遠いものだったという理由で、その結果に関心を持たないこと。
これは、自分の言葉に対する裏切りなのです。
言葉への信頼を考えるとき、本当に大事なのは発言の内容ではありません。
自分の発言という事実を軽視すること、言葉をその場限りのものとして使い捨てる・消費することが、自分の言葉を、もっと言えば自分が考えることを、自分自身からどんどん遠いものにしていきます。

たとえば、そのようにして言葉は、感情の道具となって、論理の実質を失っていく。


感情に奉仕する論理、それは単語の一つひとつがすべて感嘆詞になるようなもの。
そういう言葉遣いを流行らせる人間には自覚があるが、その流行を享受し、波に乗ること自体に楽しみを見出す人々には自覚は芽生えない。
なぜなら、自覚がないこと自体が、波に上手く乗る条件だから。

こんな話になったのは、今朝の朝日新聞の文化欄に大塚英志が書いていた内容を読んだからだと思います。
その一部を抜粋します。

 ウェブは個人が自分の考えを持ち、他者と言葉を通じて合意をしていく近代、そして民主主義のツールになりえたはずでしたが、感情的な「共感」を促すインフラとしてむしろ今はある。しばしば問題とされるポピュリズムとは、民主主義の「感情化」であり、近代をサボったツケです。言語による合意形成をスルーし、感情で一体化する社会のリスクは歴史が証明しています。

「感情振動 ココロの行方 1」大塚英志インタビュー記事(2019年1月1日 朝日新聞

スマートフォンはわかりませんが、PCの画面の前に座って言葉を打ち込む時、感情的であることはほとんどありません。
感情的な文章を書こうとする場合、そこには「感情的になろうとする意識」があるために、感情の発露は意識を挟んだ間接的なものになる

痴話喧嘩のような、意味の欠落した言葉の応酬は、相手の顔が目の前にあってこそ成立する。
言葉に意味がなくとも、感情は全身で、また発言の形式で表現でき、伝わるからです。
これと同じことを、液晶画面に向かってできるという時、さぞや想像力の豊かな持ち主がいるものだ、と思っていました。
その解釈が、僕にとって「しっくりくる」ものだったから、それ以外には想像できなかった。

それが、言葉の運用方法という視点を与えられた時に、別の可能性があることを知りました。

言葉が感情と状況に付随して、論理の効果を封印されて使用されることがある。
これが「感情的な言葉」の本来のあり方です。
その一方で、
「感情的な言葉」を使いさえすれば、感情にも状況にも関係なく、感情表現ができる(ことになった)。
上と対比させた言い方をすれば、
感情と状況が言葉に付随して、感情と状況が言葉に含まれているという合意形成がなされて、本来の感情と状況の、言語情報以外のすべてが骨抜きにされて、仮想化した。

「感情社会」のメカニズムは、このようなものではないかと、今考えてみました。


「仮想こそが現実である」、街中でスマホを見ながら(しかし行く手の索敵は怠らずに)歩ける人間は、このことを体現していると言っていい。

うろ覚えですが、今読中の森博嗣のWシリーズ(4作目『デボラ、眠っているのか?』まで読みました)のどこかに、「現実と仮想が入れ替わったのかもしれない」といったことが書いてありました。
このシリーズは西暦2200年台の、人間の寿命がバイオ医療によって百年を超える伸びを見せ、ウォーカロンと人間の区別が見かけではつかなくなった遠未来世界が舞台ですが、抽象性の高いこの物語は、抽象性の高さによって現代社会を映すことが可能となっています。

技術には進歩の段階があり、それを段飛ばしで駆け上がることはできず、発展のスピードは遅々として、踏み締めるべきステップに1つ1つ足跡をつけていく宿命にある。
けれど、個人の思想には原理的に階梯はなく、飛躍が可能で、価値観を規定すると思われている生活物資の影響を受けながらも、つねに予想外の変化の可能性に満ちている。

言いたいのは、あるSFに描かれた、ある未来の技術水準とその社会の価値観に対して、現代社会の技術水準とその社会の価値観は、同じ関数で対応しているわけではないことです。
たとえばの話ですが、SFのその技術水準に、あと二百年もすれば達するかもしれない一方で、同じSFが描く価値観と、現代社会の価値観にはそう大きな違いはない、という見方があり得る。


話を少し戻しますが、
仮想領域が現実性を帯びていくほど、思考の意味するものは重要になってきます。
AIが進歩して労働がどんどん機械に代替できるようになっていくというのも、同じ流れです。
人間のみが担い、駆使できる意識・思考というものを、社会が軽視できない状況に進んでいます。

AIの研究や脳神経科学は、意識・思考の解明をめざすものですが、その(社会的な)目的は、それを随意に操作できるようにすることにあります
研究者個人の志向は様々あると思いますが(たとえば阪大の石黒浩教授はそんなこと考えてもいないでしょう)、研究が純粋に個人事業としてできない以上それはそういうものです。

「研究が純粋に個人ではできない」、書いたそばからなんですが、これは嘘です。
意識の研究なんて、人間なら誰でもできるはずです。
「意識の研究ができる」、人間をそう定義しても違和感がないくらい。

意識の研究、その成果の社会的な利用、この流れは明らかに、二極化へ向かいます。
本当は誰でもできること、それをすることで、この二極化を冷静に見つめることができるでしょう。
これが傍観となるか、流れの変化につながるかは、社会ではなく、個人の側に決定権があります。