human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

引っ越し後処理完了、ロフトとコーヒー、教訓と繰り返す失敗

引っ越しに伴う移行状態が、今日でひとまず収束しました。
旧居の退去立会いは荷物を引き上げてから間があいて、新居の廊下に積んでいた段ボールは少しずつ数を減らしながらも今日まで残っていました。

廊下は狭いので、段ボールがある間はトイレも洗面所もドアが半開きにも至らず、体を滑り込ませて入っていました。
料理する時に鍋が要る、水切り(スピナー)が要る、と必要に迫られるたびに段ボールを一つ開封し、これを機にと食後に開いた箱を空にする。
そうしたその場しのぎの積み重ねで、今夜ようやく引っ越し荷物をすべて収納することができました。

部屋の大きさが半分以下になり、もともと退蔵していたものは処分しましたが、家電や家具を含めて生活品はほとんど残したまま、なんとか新居内に配置できました。
余分はスペースが皆無ですが(客人は呼べて一人だろうと思います)、旧居よりは身の丈に合っているなと感じています。
ロフトがあって、収納が衣服吊りのついたクロゼットしかないので本来は荷物置き用なのでしょうが、ベッドを置くであろうスペースはまるまる一人用ソファとスツールが専有しているので、ロフトの奥に普段遣いでない荷物を置いて(その上に布をかけて)、手前に布団を敷いて寝ています(そのさらに手前、梯子を上った眼の前には文机と座布団があります。天井が屋根に沿って斜めで、壁に体を寄せても正座すると頭が天井に触れる、ギリギリの高さです)。
悪い夢かなにかを見て布団から跳ね起きたら、確実に頭を打ちます。
幸い、起床時に目を開ける前に体を起こした経験は(たぶん)ありません。

新居に住み始めて1週間前後経った頃、寝付きの悪い日が数日続いて、いつもなら気を失うように入眠する壁登りの日もあまり眠れず、「ロフトで寝るのは隠れ家みたいで面白いと思っていたが、天井が低いと圧迫感があるのかな」と不安になりました。
あるいは新生活にまだ慣れていないからか、でも引っ越し直後はふつうに寝られたはずだが、などと頭を悩ませていましたが、なにかのきっかけで(理由は忘れました)解決したようでした。
というのも、そのつい数日前に買った(初めて選んだ銘柄の)コーヒー(粉)の酸味がすごく強くて、一口飲んで「これは身体に悪いわ」と確信するような味がしました。
それでも800gの袋で買って、一杯だけ飲んであとは捨ててしまうのは勿体無いという貧乏性がはたらいて、何度か飲むうちに慣れるだろうと我慢して飲んでいました。
「コーヒーのせいかも」とどこかで気付いて、とりあえず別のコーヒーに代えてみたら、寝付きの悪さは改善されました。
この経験から、コーヒーが睡眠に影響を与えるのは、一日に飲む量とか飲む時間というより、飲むコーヒーの質なんじゃないかと思いました。
いや、大学生の頃からこのかた10年以上さんざっぱら飲んできて今さらか、という感じしますが、そういう「身の染みなさ」が問題なような気もするし、経験やそこから得た教訓などのまとまり(の全部なのか一部なのか)を忘れているだけのような気もします。
そして、どうしたことか、後者はとくに問題でもないのではないか、とすら思います。


たとえば、有名人の金言集だとか、偉人の格言集だとか、ああいうきちっとまとめられていながら一つひとつに納得させられてしまうようなものは、読めばなるほどと思いますが、あまり身に染みない。
数ある中で心に刺さる一節があるとすれば、自分が過去(とくに近い過去)に経験したことを言い当てている一つでしょう。

教訓には人を動かす力があって、合理的な根拠がなくとも、他人に同意されなくとも、時に頑なに守り通させる偉大さを発揮する。
そのような教訓に衝き動かされる人は、その教訓の生成過程に携わった経験があるのだと思います。
その教訓、一般に還元できるような抽象命題が導かれるような失敗(あるいは成功)を経験したのだと。
その経験こそが根拠で、だからこそ非合理な確信を帯びることになり、だからこそ(この先が言いたかったことなんですが)、その経験が色褪せると、後ろ盾を失った教訓の効力も衰える。

過去の失敗、その事実を忘れたわけではない。
ただ、事実が人ごとの過去として埋没している。
これが、「忘れたわけではないが色褪せた経験」。

だから、その再活性化を行うにあたって、失敗を繰り返すという手続きをとることになる。


同じ失敗は繰り返したくはないが、
ある失敗が過去の類似の経験と同じかどうかは、
その失敗の内容そのものにあるのではない。
たとえば、過去と同じような反省しかできなければ、
それによって「同じ失敗の繰り返し」の認定となる。

あるいは、
「同じ失敗は繰り返したくない」
という普遍的に(例外のないように)見える反省に頼る姿勢そのものが、
「同じ失敗」なのかもしれない。