human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

身辺雑記のはずが面倒な話

ずいぶん間があきました。

忙しいのは理由の一つですが、「文章を書かずにはいられない」という状況が訪れなかった、ということもあります。
これはストレス、精神的な負荷があまりかかっていないと肯定的にとらえることもできます。
ただ、それだけでもありません。


頭がかなりとっちらかっていて、生活の変化や思考の変化、新しい発想など、言葉にすることで思考の流れができるような事柄、言葉以前の予感のようなものが錯綜しています。

このような機会をとらえるには落ち着いた精神が前提で、そのために落ち着いた環境が必要で、しかしまだ引っ越しが完全には済んでいないためか、腰を落ち着けるにまで至っていない。

未だ移行過程であることが一番の原因なのでしょう。


あとは、以前と同じことをするにも、環境が変わったためにすんなりと再開できないという感覚的な問題もある気がします。
環境変化に適応するための、厳密にいえば環境変化によらず習慣を維持するための、一時的な負荷をあえてかける必要がある

紙面上で(という言い方は古いですね)今まさにそれをやっている、のだと思います。

 × × ×

引越し時にネット契約業者を指定の会社に変えれば、工事費のサービスや切り替えによる違約金のキャッシュバックがあるという。
後者のキャッシュバックは、違約金がかからない場合(ちょうど引越し時に契約会社の定期更新月をむかえた場合など)にも受けることができる。

…という説明を賃貸業者から紹介されたサービス会社の担当者から受け、しかし後日同じサービス会社の別の担当者は「そんな説明をしていない」と言う。
言った言わないに関心はなくて、そう言うならそうだろうと二人目の担当者の話をそのまま進めたのですが、どうも電話で手続きをしているうちに話が見えてくる。

一人目は「うまくやれば(つまり違約金が発生しない場合でも「発生したテイで」話を進めれば)違約金分の商品券をゲットできる」というキャッシュバックサービスの仕組みの穴について、そういうニュアンスを全く込めずに「結果の可能性」のみをシンプルに提示したようだ。
そして二人目は、こちらが営業担当の当然の対応ではあるが、そういった可能性を否定した。


そういえば京都の家電量販店で洗濯機を購入した時も、クレジットカード機能つきの会員カード作成を勧められた際に「クレジットカードいらないなら、後日登録用紙が郵送されてきますけど無視したらいいです。そうすれば勝手に仮契約は消滅します。今店頭で手続きだけすれば値引きできておトクですから」みたいな説明を、こういう対応をいつも当たり前にやってますみたいな顔でされたことがあった。
その時は店員の押しが強くて、登録する気のないカードの申請書を書きました。
洗濯機が少し安く変えたメリットはありましたが、なにか心にわだかまりが残りました。


京都にいた時のそのわだかまり、精神的にいやな感じと同じ感覚を、今日電話でネット回線の手続きをしていて持ったようでした。
そして「お金は何のためにあるのか」という、何度も考えたことのあるテーマがふと頭に浮かびました。

 × × ×

表現を足せば「余剰のお金は何のためにあるか」です。

お金はあればあるだけ、消費生活のグレードを上げることができる。
上を見れば際限はないから、収入は多い方がいいし、余計な支出は少ないほうがいい。
…という「賢い消費者」の一般的(と僕が思っている)な発想を、僕はしません。

お金には必要な分量があって、その量は個人の生活が、身の丈の感覚が決めると思っている。
際限のない欲望(ここではその一種である「消費欲」が問題になっています)に限定を付せるのは、脳ではなく身体だからです。
そのようにして生活に必要なお金が(なんとなくであれ)はじき出されて、それ以上に持っている(あるいは稼いでいる)お金が、上で書いた「余剰のお金」が指すものです。


僕は「余剰のお金」は、お金のことに頭を悩ませる機会を減らすためにあると思っています

お金の心配、例えばそれは上で例に挙げたような、「得はするが心に違和を感じる(自分の倫理観に抵触する、あるいは合法的な不正に関わってしまう、といった感覚を催す)選択」をするかしないか、といったことです。
もっと日常的な例では、スーパーで日用品や食料を買う時に、沢山買えば(あるいは他の商品とセットにすれば)安くなる特売サービスを、利用するかしないか。
必要量を超えている、またはそれほど必要でないものも買うことになるから、利用しないでよいと思うが、利用しなければどこか損をした気になる、間違った選択をしたように思ってしまう。

つい安いから余計なものをいくつも買ってしまう。
消費生活においてあまりに日常的な出来事で、これに伴うマイナスの感情は、その頻度の高さによって簡単に擦り切れる(無害化される)ことになります。
でもこれは僕は、感度が鈍った結果だと考えます。
身の丈が要請する必要量が曖昧になった結果だ、と。

このことに良いも悪いもなくて、
個人がどういう思想に基づいて生活をしたいかによるのですが、
「感度を鈍らせたくない」という意志を持っている場合、賢い消費者でないことによる痛みをなくしたいと思った時に、「余剰のお金」が活きてきます。


お金はあればあるほどいい、のではない。
お金は必要最低限よりいくらか多めにあればよくて、その余剰分は必要最低限の「必要のものさし」を揺さぶられないためにある

「いやなことをしたくないがために余計に支払うお金」と、簡単にいえばこうなりますね。

社会のシステムが高度化して、自分の振る舞いが自分と関係のないところで自分の意に沿わない影響を及ぼすことも当たり前になって(たとえば日常生活の消費が回り回って軍事産業を潤すとか、捨てられる残飯でアフリカの子供が何人救えるだとか…後者は観点が違いますが)、でもそれはそれとして、自分が判断できる範囲内で自分の良心に従いたいと感じる。

自分の良心の、発揮によって想定される結果と実際に起こる結末の食い違いが、社会の複雑なシステムによって生じる。
別な言い方をすれば、ある状況に対して自分が望む結果を、自分の良心に反した行動を選択することでより効果的に実現できる、という選択肢が存在し得る
そしてそういう時、自分の良心に従った結果、自分が損をすることがある。

その損を、苦にせず引き受けるための余剰、余裕



…ややこしい記事になりましたが、「複雑な状況でシンプルに振る舞うためには複雑な思考を要する」という話かもしれません。