human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

大岩〜樋ノ水峠〜貴船山

今日は日中歩いてきました。もちろん靴で。

「京都歩き」は前回の街歩きから2週間ぶりです。
右足裏の魚の目(ができていたところ)はほとんど痛みませんでした。
最後が岩場でちょっと痛んだかもしれませんが、気のせいかもしれません。
「ほぼ完全復帰」ですね。

 × × ×

前回に行こうとして気が変わって行かなかった方面へ今日は行きました。
加茂川を河川敷の歩道が終わるまで上ってさらに少し上り、「東海自然歩道」の立て札に従って大岩に向かいました。

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雲がステキだったので加茂川東岸から一枚。
雨の次の晴れた日はいい雲が多いですねえ。

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前回の最初に書いた立て札をたどって行ったんですが、最初はずっと車道(沿いの歩道)でした。
横に川がある所に出るも、交通量がそこそこあって、しかもトラックとかゴミ収集車ばかりでした。
それもそのはずでしばらく行くとクリーンセンターがあるのでした。
まあ、これはしかたがない。

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クリーンセンターへ向かう交差点を過ぎると本日最初の「京都一周トレイル」案内板がありました。
写真前方の見るからに自然道を行くと氷室というところに行くらしい。
大岩方面が車道なだけにそそられますが、またの機会におあずけ。

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と言いながらちょっとだけ自然道に入ると、苔がたくさん生してました。
いいなあ*1

車道へ戻って大岩コースをたどる。
通る車の数が一気に減って(ほとんどクリーンセンター行きだったようです)、空気も少しひんやりしてきました。
この辺から昼食を歩き食べ始める*2
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壁一面に苔びっしり。
貫禄があります。

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巻いて巻かれて、巻かれて巻いて。

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スーパー苔タイム。
ほんと色んな種類がありますね。

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意味が違うのは分かってはいるんですが、山道での目(←道が分からない時に血眼になって目印を探す時)で見ているとくらくらしてきます。
 「こっちだよ」
 「あら、そっちは違うわ。こっちよこっち、うふふ」
目の前にずらりとドアが並んでいて、一つひとつが色んなところに通じている(あるいは一つ以外は通じていない、ハズレである)、みたいな場面を連想しました。
『金色のガッシュ』(雷句誠)と『鞄図書館』(芳崎せいむ)にそういう場面があったと記憶しています。
あとやったことないけど、「ゆめにっき」というゲームもそんな感じじゃなかったかしら。

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立て札が。
柊野(ひらぎの)というところを通り過ぎていたようですね。
ひらぎのーる。

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さらに少し進んで、どうやら大岩に着いたようです。
名前からして大きな岩があると信じていたんですが、地名でしたか。ちょっと残念。
車道をそのまま進めば行ける雲ヶ畑というのは林業が盛んな山村のようです。
夜泣峠・二ノ瀬コースは前に正規の道を外れて悲惨なショートカットをしてしまったので、今日はその正規の道を行ってみよう。

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いざ夜泣峠へ。
…と思ったんですが、車も通れそうな広々とした砂利道の左側に狭くて峻険な上り坂があり、

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「樋ノ水峠」とある。
名前がついてるからちゃんとした道だし、なんか面白そうだし、方向的にどうせ夜泣峠とどこかで合流しそうだし、ということで方針変更、樋ノ水峠へ向かうことに。
ここから車道を離れて自然道(山道)になります。

山道は落ち葉が降り積もっていて、ということは木に葉はほとんど残っておらず、冬なのだと思わせられました(全然寒くないですが)。
落ち葉をもふもふ踏み進んでいると、自分が踏んでいるのが枯れ葉ではなく雪のように思われてくることが何度かありました(僕は歩く間はだいたい決まった脳内BGMを流すのですが、一度そう思ってしまうと、ほとんど意図せずBGMが雪バージョンに切り替わってしまうのです*3。もちろん意識して元に戻すのですが)。

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茸に寄生された木。
足場のようにぽこぽこ生えている。
「おっ、キミ、登ってみるかい?」

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でん。

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密着部が気になる。

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はっぱふみふみよんじゅうろく。

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ひねくれて十年。(山頭火*4

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玄関に飾りたくなるような奇岩ならぬ奇木。

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ひょっこり。

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山道に入ってから道を見失うことはなくて、というのもこまめに色テープが枝に巻いたり吊るしてあったからですが、現在地を示す文字情報はここまで全くありませんでした。
文字だと思って撮りましたが、当然ですが何のことやら、です。

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多発。

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中の襞まで接写。
「あられもない姿」というやつですね。

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山道のようすが変わってきました。
木の植わり方に人為を感じる。

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辺りが落葉樹から針葉樹主体になりました。
落ち葉はありますが地肌の土がおおかた見えています。

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奇木その2。

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ひょろすこ。

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道表示!
大岩から来たのですが、判官坂とは? 判官びいき

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表示のすぐそばに分岐がありました。
どうやらここが樋ノ水峠らしい。

さっきの判官坂はこの分岐(前、左、右)のどれとも違う道らしく、分岐の三方の行き先を示す情報が「白 右へ」(白石へ?)しかない。
相変わらず情報が少ないが、冷静な判断が要求される(というのも日がけっこう傾いてきているので山道を降りる算段をつけたいのです)。

方角からいって左へ行くとおそらく雲ヶ畑方面、前は不明、右は二ノ瀬・貴船方面。
雲ヶ畑に着くまでは長そうだし、行ってから交通手段が期待できない(鉄道があるか分からないし、車道を歩いている間にバスとはすれ違わなかった)。
二ノ瀬の方も、山道に入る時に分かれた夜泣峠からはずいぶん違う方に進んできたように思えるところから着くまでが長いと予想される。

…という思考をしたはずなんですが、結論が「前へ」。
「不明」というのはポジティブな響きがあるのでしょうか?
と誰かに聞いても仕方のない話ですが…

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が、なんと!
「前へ」少し進むと貴船山の三角点に来てしまいました。
自分の予想は外れていますが結果オーライ。
(特に見晴らしがあるでもなく、「ほんのちょっと開けた平地」という感じだったので三角点付近の全景を撮るのを忘れました)
もう先行きのメドは立ったようなものです。
というのも、二ノ瀬〜貴船口を歩いた時の「元々行こうとしていたコース」に合流したらしいからです。
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その時に撮った案内板の写真に加筆してみました。
おおざっぱに言って、赤矢印に示した道を歩いてきたと思われます。

で、ここからちょっとだけ気が緩みました。

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到達記録がいくつか残されていました。
貴船山は地味ですが人気のようですね。

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三角点から少し進むと積み石がありました。
「最高点 716m」かな?(右とは?)

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さらにしばらく進むと表示板。
立てたメドは合っていたようです。
(しかしここまで来た道で二ノ瀬駅に通じるような分岐はなかったような…?)

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私的素敵山道。

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ピーカーピー?

そういえばユリが見られる道だったようですが、そのようなものはありませんでした。
(思い起こせば「湿原地帯」のような地点はありましたが、草だけでした)
やはりシーズンは過ぎたようです。

そうか、だからでしょう、今日は一人も登山者とすれ違いませんでした。
はっぱふみふみ山道も面白いんだけどなあ。

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滝谷峠に到着。
薄暗いが先は見えているので楽観。
貴船口へ向かう。

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滝谷峠の分岐からは下りだったんですが、鹿ヶ谷と似ているかそれ以上に苔が好みそうな、日当りが悪くしっとりしていて風が通らない道でした。
途中でふと立ち止まると、静かどころか全くの無音で空気が静止しているようで、日が暮れゆく中しばし呆然としていました。

自分の鼓膜が揺れる音なのか、中低音の一定のノイズが引き延ばされて聞こえるだけで本当に無音で、すぐ上のシダの葉がわずかな風に揺られて上下しているのを見て、それを無音の環境で見ているとなんだか映画の中にいるようでした。
河瀬直美監督の『殯の森』にこんな場面があったかもしれないとその時思いました。あるいは、『もののけ姫』でアシタカが森の奥深くへ行った時も全く無音だったことを思い出しました)
無音の空間で、自分自身も身じろぎせずに音を立てないでいると、寂しいとかそういう感情的なものは全くなくて、なんだか自分もこの空間の一部、森の一部になっているような気がしました
それはある意味で、満員のスタジアムで聴衆と一体になって自分も熱狂しているような状況と同じかもしれないと思いました。
毎朝読み進めている『禅堂生活』(鈴木大拙)の言葉を借りれば「没我」ということでしょうか。

写真はその身じろぎしないでいた場所で坂の方を向いて撮った一枚と、真上を撮った一枚です。
どんどん日は暮れて行きます。

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薄暗い中で足場の悪い(手で持つためのロープが張ってあるような)岩場を下りたりして多少危険を感じましたが、なんとかライトを使うほどとっぷり暮れる前には(という言い方はライトの光量がとても小さいことを鑑みれば言い訳になりませんが)山道を下りることができました。
毎回こんな感じですが、フラッシュを焚いて案内表示を撮りました。

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車道に出てから下りていくと、貴船神社の奥宮にたどり着きました。
つい最近一度来ましたが、シーズンオフになると雰囲気が全く違いますね。
最小限のライトアップ(ライトアップというか、単に照明ですね)があり、それを見る人は一人もいない。
僕はこの方が断然好きなので(人混み嫌いですから)、ゆっくり写真を撮りました*5

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奥宮に通じる砂利道。
いいですね。たまりませんね。

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本堂…かどこかだったかな。
貴船神社のチラシに使われる場所だと思います。

今日も貴船口駅までは歩いて、駅で電車を待つ人に時間を聞いたら18時前でした。
18:01の電車に乗り、帰ってきたのが18:40で、いつもちょうどプールに行く時間帯。

うーん、結果オーライ。
 

*1:「こけばむ」を作成してから初日になりますが、苔を大量に撮りました。今後もそうなると思います。

*2:今日はパン3つ(ごぼうチーズパン、シュガーなんたらパン(忘れた)、さつまいもパン)とかき揚げと紅茶花伝。しかしかき揚げはいいですね。野菜が何種か入ってるし油もとれるし、山で歩きながら食べるとまた格別です。

*3:「いつもの」は久石譲の「風のとおり道」。今日流れた雪の曲は、最近いくつかの曲を色んな生活場面で活用されているタクティクスオウガSFC)のサントラから「さむいッス」です。

*4:ウソです。すみません。

*5:そういえばつい最近シャッターボタンを押してから離さないでよいことに気づいたので、夜景を撮る時のブレが大幅に減少しました。ほんと、いまさらですけど。

公案の第二十歩

今日は府立図書館へ。

歩いて片道30分くらいなんですが、今日は歩いている間も図書館にいる間も帰ってくる時も、魚の目は痛くなりませんでした。
一番痛い時(スピール膏を貼っていて出っ張っていたせいが大きいですが)は歩いていると痛くて、そうでなくても一度歩いてしばらくじっとしてから再び歩き出す時に痛むことがよくあって、けれど今日はそういった痛みが全くありませんでした。
見た目も固まった芯のようなものはなくなってあとは削げた(というか削いだ)皮膚の再生を待つばかりの状態です。

というわけでまた一日歩き回ろうと思えばできる体勢に戻れそうなわけですが、さて実際に戻るかどうか。
一本歯歩行は毎日やった方がよい気が最近はしているので、日中歩き回るならも少し早起きせねばなりません。
けれど夜のプール後に夕食のルーティンがほぼ固定で、食事が早くとも21時からとなると、逆算するとどうしても遅い起床になってしまう。

そういえば靴は新しい方からもとの年季のある方に戻したんですが、歩く調子が前と違っています。
古い方は靴底が平らで薄くて地面の凹凸を拾いやすいんですが、新しい方は靴底が丸まっていてしかも厚くて衝撃吸収のバネがきいています。
ので靴を変えたらそのたびに歩き方の調節が必要で、旧→新→旧と戻ったばかりなのでまだ調節がきいていない、と考えるのは妥当なんですが、どうもそれだけではない。
一本歯を履く頻度が急に高くなって、一本歯歩行が身につくとともに靴歩行にも変化をもたらしている気がしています。
もしそうなら、その変化を受け入れるために、「以前の感覚に戻す」とは別の方へ向かわねばなりません

(ということを念頭におくと「一日山道歩き」がこの過渡期にどう影響を及ぼすかが気がかりではあります。やってみないと分からないといえばそうなんですが)


図書館では引き続き『山頭火 放浪の旅』を読みました。

今日読んだ分で「歩々到着」という表現が頭に残っています。
山頭火が旅先で訪問した知己に禅の言葉として語る、ということが書いてあり、「一歩一歩が到着である」…の続きの説明は忘れましたが、「”一寸座れば一寸仏”となんだか似ている」という感想のような言葉が印象に残っています。
この表現については日暮れに高野川沿いを歩く間も考えていました。

 × × ×

その、今日の一本歯歩行について。
今日で五日連続になります。

一本歯で歩いたのが二十日目という節目にふさわしいというか丁度良いというか、新たな段階に達したというのが今日歩いた結論であります。
つまり一本歯歩行について、少なくとも平地(と下りもかな?)での歩行においては、純粋に技術的な考察の余地がほとんどなく、技術面以外の面に主だった関心を寄せる必要がある、と。
その「技術面以外の面」というのが、簡単に一言で済ませたくないようで(とはいえちょっと言うと、前回書いた「全体」とか「総合」に関係することです)、それに関わろうとする姿勢は公案に取り組むようなものではないか、とちょうど最近『禅堂生活』(鈴木大拙)を読み始めたことを縁に考えています。

大拙氏は、公案は「何だか下らぬ謎」のように思えるがそうではない、として以下のような説明を加えられています。

今使っているペンがわかると、人生も天地も何もかもわかるのである。すべてのものは重重に聯関[れんかん]しているので、その一隅又は一点に触れると、すべてがそれに繫がって動いて来るのである。我等は今まで物事を余りに分析的に対象的に見て来たのだ。我等も亦宇宙構成の一環なのだから、この一環を攫む[つかむ]ことによりて、宇宙全体も亦攫まれる。ただ一環を一環として全体から離さぬようにしなくてはならぬ。(…)大凡[おおよそ]ある所与の物の在る場処からその物を抽出して、それを研究するとか領解するとか云うことは、その物の真相に徹することではないのである。これはその物を殺すのだとも云い得るのである。これは具体的にその物の在る姿をその儘[まま]に見ることではないのだ。学禅の方法論は、それ故に、従来の科学的・哲学的・抽象的・論理的など云うものとは大いに逕庭[けいてい]があるのである。公案を見るにもこの辺の消息を心得ていなくてはならぬ

第一章 入衆 註 p.56(鈴木大拙『禅堂生活』岩波文庫

この抜粋部は昨日書いたこととも深く関係していて、この本はちょうど一月前↓に「たまたま視界に入った」から買ったと思っていたんですが、やはりというか何というか、今僕が読むべき本だったのですね。
まさに「お前が本を選ぶんじゃない 本がお前を選ぶんだ」@御子柴司書(『図書館の主』篠原ウミハル)というやつです。  
cheechoff.hatenadiary.jp
さて、今日は全体的にすらすら歩けたようで、河川敷を上って下っての1時間が今までで一番短く感じました。

これに関わることで、しかしちょっと別の話をします。

自分が移動中に風景の中の何か一つのものに焦点を絞る時に「それが止まって、それ以外のものがそれを中心に回転しているように見える」経験が誰しもあるかと思いますが、僕はこの現象をずっと不思議に思っていました。
塀に囲まれた庭にまばらに林立する竹があって、歩いている自分がある竹に注目するとそれ以外の竹は動いて見え、また別の竹に注目するとその別の竹以外は動いて見える、という経験を神奈川での徒歩通勤時に日常的にしていて、その原理について集中的に考えたこともあります。
が、今はその原理の話をしたいのではなく、「そのようにものを見ること」と「そのようにものを見ないこと」について書こうとしています。

…あまり言語化するとそれに縛られそうでつい慎重になるんですが(たぶん公案というのも「言語化を極限まで削ぎ落とすための言葉」ではないかと思います。それ自体が「削ぎ落とした言葉」なのではなく。)、とりあえず今日歩きながら試したところによると、前者よりも後者の方が(つまり「そのようにものを見ないこと」で)安定して歩くことができました。

さて、落ちをつけるのが大変難しいのですが…


そうだ、あともう一つ思ったことが、上で「新たな段階に達した」と書きましたが、たぶん一本歯歩行の「所作」*1は一本歯で歩いているその間だけのことではなく、靴で歩いている時も、プールで泳いでいる間も、もっといえば生活全体が関わってくる気がしています。

 

*1:「良し悪し」と言いたいところなんですがそういう視点の話ではないし、「安定性」と書けばそれを含むところ大なんですが意味が狭くなってしまう。「成り行き」も何か違うような…難しいですね、日本語。

アフリカンなジャズ曲を聴きました

料理と食事の間によくラジオを聞きます。

NHKをよく聞くんですが、土曜の10時からだったか、ゴンチチがパーソナリティをやっている「迷宮喫茶」という番組が、かける音楽もトークも落ち着いていて好きです*1
この番組では日ごとに決められたテーマに沿ってメンバー(3人いるのかな?)がそれぞれ選曲するんですが(例えば「迷う曲」とか)、昨日は「緑と黄色の曲」という不思議なテーマで、曲のジャンルはほんとうにばらばらなんですが、その中でビッグバンドジャズの曲が流れたので元ジャズ研としては聞き耳を立てたんですが、エチオピアのビッグバンドと言っていた気がしますが曲名は「Green Africa」と聞き取れました。

あとでyoutubeで探してみると、同じ曲でビッグバンドの演奏のものがありました。

 Mulatu Astatke - Green Africa - YouTube

ラジオで聞いた時ははっきり聞こえて、動画だとちょっと分かりにくい(ヘッドフォンで聞けばわかる)んですが、ベースラインがかっこいい。
管がばらばらな感じがしますが(即席バンドですかね?)、リズム隊が聴かせる曲なのでいいのでしょう。

このアフリカ調というのか、地響きズンドコな感じにはまって、コンマスらしきMulatu Astatkeという人のバンドの曲をいくつか聴いてみました。
この曲とかすごくよかったんですが、ベースの固定フレーズがヤミツキになりますね。
現役の時はこの良さがわからなかったはずで(きっと「飽きる」とか不届きなことを言っていた)、「無限に続くが如き感覚」が法悦境なのでしょう。
あと「勤勉実直なシンセシスト」ってなんかいいですね。見とれちゃいます。

 Mulatu Astatke & The Heliocentrics - Chik Chikka - YouTube

ところでアフリカの曲(というかタイトルにAfricaとつく曲)といえばすぐにAfrican Skiesを思い浮かべます。
手持ちの音源ではMichael Breckerのts&gtフロントの爽やかな演奏と、山野ビッグバンドジャズコンテストの演奏*2があります。
これらを聞き直して、せっかくだし他にどんなテイクあるかなとyoutubeで見ると、なんとメセニーがいました。
…というかバンドの中でPat Methenyしか知らないのですが、なんだか彼が弾くとなんでもコンテンポラリーっぽくなりますね。
偏見かな。

 METHENY/STENSON/LANDGREN/STRICKLAND/SANCHEZ/COLLEY - African Skies (live 2006) - YouTube

というわけで久しぶりにジャズを聞き込んだ二日間*3でした。
 

*1:CMがないし基本的に淡々とした番組が多いのでNHKラジオはいいですね。FM京都α-stationも平日9時からやってるエエコエの男性の番組も好きなんですが(ニュースの話題でアメリカが多いのは京都だから?)、CMとラジオショッピングが耳障りですね。

*2:過去の大会で入賞したバンドの演奏を収録したCDをジャズ研で所有していました(あるいはかのサビ先輩が持っていたのかもしれません)。第31回の演奏のようですが、どの大学かはちょっと調べた限りではわかりませんでした(出場大学を見た感じだと、国立か慶応かな?…と思ったんですが、聞き直してるとサックス隊のソロがあったんで明治ビッグサウンズですね。そうか、これ一位の演奏だったか…)。テーマに入る前のアーシーなイントロがむっちゃかっこいいです。

*3:先に動画だけ載せたのが12/3で、翌12/4に文章を加えました。

クロール+古式泳法(の兆し)、考察の第十九歩

今日は夕方まで『菅野満子の手紙』(小島信夫)を読んでいました。

前に一日本を読んだ日(外出せず、プールも行かずほんとうに一日中)があって、その翌朝に背中が痛くて目が覚めるということがあって、思えばデッキチェアにもたれて読んだり一人用ソファにもたれて読んだりと「もたれてばっかり」だったので床ずれでもしたかと思ったんですが、もう若くはない(身体は。精神は青年と爺のアモルファスですね)という認識はさておき背中が痛くて歩けないみたいなことになるのは御免被りたいので、一日読書をやる時は読書姿勢に気をつけると同時に合間に体を動かすことにしました。

それで今日は久しぶりに木刀を振ってみて*1、『バガボンド』(井上雄彦)をまた読みたくなりました。
もともとはこのマンガを読み始めて剣を振りたくなって、段ボールで刀を作ったり(把持部分に重石をつけたもので、室内で振って壁やらにぶちあてても平気なのです。初期の頃の記事は以下↓)、実家から木刀を譲り受けたりしていました。

cheechoff.hatenadiary.jp

型がどうこうという話はできませんが、「腕だけでなく身体全体で振る」とか「剣の運動を邪魔しない」とか今まで文章で読んできたことをイメージして振っていて、今日は「身体(の上半身と下半身)をねじらない」を念頭におきました。
それが剣の振りだけでなく、構えや剣の持ち替えなどの動作でもできるかと思い、いろいろと動いていました。


夕方からは高野川沿いを一本歯で歩き(四日連続ですね。これについては後半書きます)、その後プールに行きました。

泳ぐことについて最近書いていないのはほぼ毎日泳いでいて考察する暇がないといったところですが、そういえばスポーツクラブに通い始めて2ヶ月弱、神奈川にいた頃に通っていた市営プールも合わせれば4ヶ月弱くらいは日常的に泳いでいたことになりますが、初期の頃にあったような明らかな上達は最近はありません*2
スポーツクラブで泳ぐようになってからは、25m泳ぐまでの息継ぎ数(ストローク数はちょうどその2倍)をカウントするようになったんですが、幅があって今は11〜15くらいです。
その数が減れば上達かなあと思ったりもしましたが、水の流れる方向によってかなり左右されるし(泳ぐコースによっても違うし、いつも隣でレッスンをしているんですが猛者達がガンガン泳ぎまくるようなレッスンだとプール全体が波打ってなかなか大変なことになります)、もともとは「水に親しむ」をモットーとしていたので息継ぎ数はあくまで目安程度です。
「水に親しむ」というのは具体的には「水の流れに乗る」とか「なるべく水の抵抗を受けない」とかになりますが、流れに乗ることについてはちょっと前から掴めてきたかなあと思うところがあって、例えばクロールのフォームをぴちっと守って一掻きごとに正確に泳ぐというよりは水の状態(主に波ですよね)や体の状態(疲労度?)や位置によって柔軟に動きを変えて泳ぐ方が流れに乗れている感じがします。
渾身の力を込めて水を掻いてもあまり前には進まなくて、むしろリラックスしている方が進むのはその方が水の状況を感知しやすいからだと思うんですが(なんてことをフォームをしっかり習ったことのない僕は思います)、かといって力を抜き過ぎてふにゃふにゃしていると水が全然掻けなくてそれはそれで前に進まなくて、その中間がよいのでしょうが難しいところです。

言いたかったのは「最近大きな発見はなかった」ということで(でも思い出せばいろいろあったような気もするので断言はしたくありませんが)、それに対して今日は閃きがあったことが泳ぐことについて書こうと思う動機になったわけです。
それで最初に木刀を振る話をしたのは、なんだかそのことがプールでの閃きに関係しているように思えたからです。

…と、引っ張ったわりに大したことは書けないのですが、クロールで泳いでいる間にも「身体をねじらない」ということが念頭にあったようで、ふと古式泳法的な動きを導入できそうな気配を感じました*3
その内容を漠然といえば「手足の連動」とか「先端を尖らせる(ことで水の抵抗を減らす)」といったことになりそうです。

これは今日泳ぎ終えるちょっと前に閃いたことなのでほとんど試す時間がありませんでした。
なので続きは明日ですね。
明日も書くかはわかりませんが。

 × × ×

時間を戻しまして、夕方の高野川ナイトウォークについて。

今日は鼻緒の締め付けは痛くなかったです。
連続の4日目なのでさらに痛みが増すかと思ったんですが、これも理由がよくわかりません。
前日夜のプール後のサウナで適当にマッサージしたのがよかったのかな?(と思ったので今日もやりました)
とにかく毎日連続で歩くことに支障はなさそうなので明日も続けてみます。

接地時の下駄をぶれさせない」「胴体を上下させずに歩く」が大きく言って守るべき二箇条といったものになるのですが、これができている状態であっても長続きせずにいつの間にかどちらか(またはどちらも)が崩れていたりするんですが、そこからの立ち直り方法として、あまり局所的な身体部位の使い方を意識してもいけないような気がします。
もちろん個々の身体部位の運用の総体として歩行が実現されているので個々を見直すことは大事なのですが、意識としてはあくまで身体全体に向ける
たぶんそれは「足し算」ではないからでしょう(細かい一つを気にし過ぎると他のいくつかが崩れてくる、ということがあります)。
個々を見直す、とはその部位の動きを見るわけですが、そのためには(というかその部位を見ることになった原因なわけですが)その部位の疲労(あるいは損傷)の具合を把握します。
足が重いなと思った時にふくらはぎが痛いことに気づけば、それを庇うような動きを考える(身体全体の動きのバランスを再編成することになります)とか、修行中の今なら「ここを鍛えんといかんなあ」とか考える。
まあ後者はいいんですが、前者の例えに書いたように、個々の把握は全体へと戻って行く(フィードバックされる)必要があります。

ふつうに靴で歩くときもほんとうは同じだとは思うんですが、長時間(というか「長期間」)歩く時は身体の状態に合わせて歩き方を(疲労が局所的でなく身体全体に行き渡るように)変化させた方がよく、それができるには、一つのちゃんとした歩行フォームを固めるというよりは、「歩行が各部位のどのような運動によって実現されているか」と「それらの単純加算でない総和の仕組み」を把握しなくてはならない。

こういうことを意識して歩けば、またいろいろと発見があるだろうと思います*4

*1:部屋に三畳ほどの「工作スペース」があって、簞笥を直したり本棚を改造したりする時に活躍したがらんどうの空間なんですが、板敷きでもあるので「運動スペース」にもなると気づきました。

*2:もともと学校の体育ではクロールがまともに泳げなかったのが遅いながらもいくらでも泳げるようになるまでの最初の頃は毎日が発見に満ちていた…のかな?あまり覚えていませんが、このカテゴリ↓の記事にはそのあたりのことが書いてあるかもしれません。 cheechoff.hatenadiary.jp

*3:前にもリンクを張った気がしますが、僕が古式泳法として参考にしているのはこの動画です。

*4:今日歩いている間に考えていたのは「意識は全体に向ける」というだけで、本記事の残りはそれを展開させたものになるようですね。なんだか「疲労に応じて歩き方を変化させる」という話は水泳のところで書いた「水の状態によってフォームを微調整する」と響き合っていますね。影響されたかな…。

持久の第十八歩、「がんばりすぎだろ日本人」

今日から12月なのですね。
そんな気がしないのは寒くないからでしょうか。

近所のマンション工事で使ってるユンボの機種が小さくなってました。
というのはいつも8時半くらいから始まる工事の音で目が覚めるんですが、今日は起きた時が静かで(時計は10時半)、今日祝日だっけなと思って外を見ると工事はいつも通りやっているのでした。
ちゃんと寝られれば一眠りで6時間以上寝られるんですね。

というわけで朝食が11時過ぎになってしまったので、ラナーバイキングに行ってきました。

冷静に考えると、6つに区画が分かれたプレートにおかずを詰め込んで、ご飯(白ご飯or炊き込みご飯)と汁物(味噌汁、ミネストローネ、中華スープ等いろいろ)のお椀が1つずつ、そしてカレー皿に盛られたサラダというセットをバイキングでは2回食べていて、これは明らかに2食分食べていますね。
(ちなみに今日の汁物はちゃんこ鍋とビーフシチューでした。…汁物?)
帰りの一本歯ウォークは慣れたものですが、その後のプールで吐きそうになったのも無理もないですね。
そして泳いだ後に体重を量るといつもより1kg増えていました。
これはすぐ戻っちゃうんですが。

 × × ×

ということで、今日は加茂川を下りました。

最近頻度高いかなと思って今日から逆に数えてみると、今日で三日連続で、その前二日あけてまた三日連続でした。
それまでは週1〜2くらいだったんですが、これだと週4〜5ペースですね。
右足親指付け根の魚の目治療中というのがその理由となっています。
魚の目については、スピール膏を貼りつつ(プールに入る前に剥がすので)状況を確認して角質を二度ほど剃刀で切除して、なんとなく芯というか堅くなった皮膚(これを角質というのかな?)がなくなった気がしたのでオロナイン塗布+絆創膏に切り替えています。
もうすぐ治るといいんですが…足に気兼ねなく歩きたいですね。

で、一本歯なんですが、今日はちょっと疲労が溜まっていたようで、あまり心地良くは歩けませんでした。
履き始めの鼻緒の締め付け具合も今までで一番痛くて、なんとかした方がいいのかなと思ったんですが、これはいつも通り歩くうちに気にならなくなって、これが麻痺してるだけなのかどうか判断が難しいところです。
履き始めの痛さが増す理由もよく分からなくて(鼻緒は履くごとに緩んでいるはずなのですが)、足指の締め付け部分が腫れているのか、むくんでいるのか、あるいは鍛えられて発達しているのか、などが予想されます。
鼻緒を緩めた方がいいような、でも履いてるうちに緩んでくると今度は足指に力を入れてずれないようにしないといけなくなるので緩めると歩行の後半で苦労することになります。
1時間ちょっとでこれだから、もっと長く歩くことを考えると緩めない方がいい気がしてきます。
ここは足指の調子と相談ですね、あまり痛いのもよくないので。

歩行動作については、足が重い感じがずっと続いていたので何か発見のようなものはなかったと思います。
(「旅は持久戦だからこういう場面も当然あるはずだ」と思って、疲労が濃い中でもなんとかリラックスして歩けるようにはしていました)
そもそも今日は歩きながらあまり言語化をしなかったんですが、それは食堂まで靴で歩いた行きも同じで(というか行きだそうだったから帰りもそうなったということですが)、「自然が一本歯歩行のヒントになる」みたいなことを昨日書いたことに影響されて、動物だけでなく落ち葉が風に飛ばされる様とか川に落ちて流れる様とかも同じ目で見ていて、それで「調和というのは言語化以前のところにあるのだろう」と思っていたのかとにかく頭を空っぽにして観察に徹していたのでした(言語化だけでなく比喩とか連想方面の思考もほとんど非活性でした)。

 × × ×

一本歯で歩いた日に毎回書いていると生産的なことが書けないこともあるんですが(今日はわりとそんな日です)、毎回進歩というわけにもいかないし、何より「生産的かどうか」には拘りたくないのでやはり毎回書く意味はあります。
何かしら書くのはいいんですがタイトルの漢字二字も同時に困ることになって多少考え込むわけですが、こういう時にはweblio類語辞典がとても役に立つんですが、時々やたらと類語が多い表現に出会うと「おっ」と思います。
今日も出会いました。

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つまり、なんだか日本人の感性というか文化が表れているように思うのです。
(この↑類語の多さを見ると「がんばりすぎだろ日本人」と思っちゃいますね)

前にこういう語のことを「Cool Japanese」と呼んだことがあります。
…ということを書くのは3回目のようですね。

カテゴリ作っちゃいましょう。
cheechoff.hatenadiary.jp

鳥歩の第十七歩

今日も昨日と同じように高野川で歩いてきました。

気づいたこと、考えたことをいくつか書いておきます。

(1)軸足意識へのシフト

前回(昨日)に歩幅が広がった話を書きました。

軸足(踏み出す方とは違う足)をなるべく長く地に着けておくことで歩幅が広がるんですが、実は今までは着地にばかり意識が向いていた(踏み込みに失敗したら足をひねりかねないわけですから最初は特にシビアでした)のが、今回の歩幅アップ歩行では軸足の歯がけっこう斜め(前傾)になるために、着地に専念していた意識の幾分かを軸足にも向ける必要があることに気づきました。
踏み出し足の着地や地を蹴る軸足の踏ん張りで足(下駄)がぶれると力のロスが生じるんですが、地を蹴る時に軸足の歯が斜めなほどぶれやすくなる*1ために、意識をこれまで以上に割く必要があるということです。

ちょっとした程度のぶれではなくこけるこけないの問題が最も生じやすいのは着地時なので、この意識のシフトは歩行姿勢をより不安定にさせることになります。
この不安定性の増大分は経験・慣れでカバーするしかありません。
今のところはできている気がしますが、調子に乗って歩幅を大きくしていくとこけるリスクがどんどん高くなるので、着地に向ける意識をちょっとずつ減らしていくとどういうことになるかを見極めつつ進めていきたいと思います。

(2)セキレイの歩き方

別の話から入ります。
日中に鴨川沿いを歩く時はだいたい川を見ているんですが、その理由の一つには動物の動きになんらかのヒントがあると思っているからです。

動物に対しては無駄のない動き、とか効率の良い動き、とかいった表現が使われるかと思いますが僕が見ようとしているのはそういう特徴ではなく、動物の動きがそのそれぞれの体(大きさ、重さ、手足のつくりなど)と調和している、その調和を見ようとしているのだと思います*2
この「調和」を具体的に説明するのはとても難しそうで、たぶん「美しい動きだ」みたいな感想としてしか言えないことのような気もします。
が、ある与えられた体がありその体における「調和のとれた動き」がある、というサンプルをいくつも見ていくうちに、その動きを見たことのない動物について「調和のとれた動き」を想像することができるようになる、というようなことがもしあるとすれば、これは人間の動きにも応用できるでしょう*3

本題に入りますが、セキレイは「ててーっ」という効果音が似合うような素早い足捌きで一目散に駆けるように歩くんですが、今日鴨川でそのセキレイ(たぶんセグロセキレイです)が歩くのを見た時に、地上(ちょっとした草むらか岩場だったか忘れましたが)にちょっとした凹凸があるのにセキレイの胴体がほとんど上下していないように見えました。
昔のアニメーションかなにかで、登場人物が走っているのを、背景だけを動かして表現するようなのがあったと思いますが(動く絵本でもありそうですね)、なんだかそれを連想しました。
つまり胴体だけが画面に固定されていて、背景と足が動いている(地面の高さに合わせて足が伸びたり曲がったりする)、というような。

一本歯歩行(に限らず和歩もですが)では胴体を上下に揺らさないことを心掛けているので、セキレイのこの歩き方を見て「おお!」と思ったのでした*4
具体的にどこをどう参考にする、という話は全然できませんが、動物に例(手本?)があるというのはなんだか心強いのです。

というわけで今日はセキレイ歩行をイメージして歩いていました(それでどうなったという話ももちろんできません)。
今思うとすばしっこいセキレイよりはダチョウの方が「時間の流れ方」の面ではイメージ近いかもしれませんね。
いや、あれはあれで躍動感がありすぎるか…
 

*1:と当たり前のように書きましたがこれは慣れの問題かもしれない…こともないか。歯が斜めになるほど接地面積が小さくなりますからね。

*2:「調和のとれた動き」と「無駄のない動き」はどう違うのか、と言われるとこれまた難しいのですが、「無駄」を「あそび」と言い換えてみるとよいかもしれません。あそびのない動きは、ある一つの目的を厳密に遂行するのに向いてはいても、おそらく周りの状況の変化に即応して動きを変化させる場合には向かないでしょう。そうだとすれば、「調和のとれた動き」は臨機応変の余地も含んでいると考えればよい。あるいは、例えば鳩は頭を前後させながら歩きますが、体の構造上そうしないと前に進めないとはいえ、頭の前後動作は人が見れば「無駄な動き」に見えるかもしれない、しかしその頭の動きも含めて鳩の歩行は「調和がとれている」。

*3:学問分野でいえば解剖学にあたるのかな?

*4:まあ、問題意識が先にあってセキレイの歩行をして僕にそのように見せた、とも考えられるわけですが、それじゃ面白くないですよね。

遊歩の第十六歩

今日はブレークスルーがありました。

ナイトウォークを終えて帰宅した時にあった「これはすごい」(今風にいえば「やばい」くらいのニュアンスです)という感覚のリアルさはその後プールで泳いでいる間に薄れてしまいましたが、なんとか当初の驚きを言葉にすべく頑張ってみます。


右足親指付け根の魚の目はじわじわと治ってそうな気がする*1ので、悪化はさせまいと最近はあまり靴で出歩いていません。
そのかわりというかその一方で下駄歩きでは魚の目が全く支障にならないので、一本歯を履く頻度はむしろ最近高くなっています。

今日は夕方までは家事と読書をして、日が暮れかけた頃に高野川沿いを上り下りしてきました。

最初はスポーツサンダルで向かい、河川敷に下りたら一本歯に履き替えるのですが、その直後の歩き始めではいつも体が上下に揺れてしまうのと足首が着地時にブレてしまうことになっていて、一本歯歩行用に身体運用をカスタマイズする時間を要します。

今日も「この上下に動くのがいかんのよなあ」と思って調節をして、でも局所的に力まないようにすると歩幅が狭くなって、「なんか違うんだよなあ」と思って、ちょっと歩幅を広げよう、例えば膝のバネを使えばいいんではないかと思ってやってみると走ることになってしまって、「走れるのになあ…」てなことを考えていました。


それから、何がきっかけだったかよくわかりませんが*2、そしてどういう工夫をしたのかも記憶が定かでありませんが、(分かりやすい部分だけの)結果だけ書くと、踏み込んだ一本歯の角度をいつもより前のめりにして(←下駄の台の先端が地面に着くか着かないかくらい)ちょっと股を開きめにしたら、いい感じの歩幅になってしかも上下のブレを抑えつつ歩けるようになりました

「いい感じの歩幅」は説明を要するんですが(でもあまりまともになる自信がありませんが)、人によって適切な、自分にちょうどよいと思える歩幅があって、それの一本歯版ということなんですが、もちろん(と断言できないようにも思えますが)一本歯のそれはふつうの靴時のそれより狭いです。
その「いい感じの歩幅」の決定要因はよくわかりませんが、これと関係あるか分かりませんがある歩幅を靴と一本歯のそれぞれで実現しようとするとき、一本歯の方が股を大きく開く必要があります。
一本歯は歯の分だけリーチが伸びるから逆ではと考えるのは間違いで、それは着地時も踏み込み時も歯が足(太腿〜ふくらはぎ)の延伸方向と垂直ではなくより立っている(=地面に垂直方向に近い)からです。
より立つということは稼げるリーチが短くなると同時に足首の角度も(靴の場合とは)変わってきます。
おそらく僕が「いい感じの歩幅」だと感じたのは、股(の開き具合)が「歩幅を稼ぎたいという意図に対しては十分に機能している」と感じたからではないかと、あえて言葉にするとこんなまどろっこしいことになるのですが…。

で、歩幅が広がった最初の認識としては上の下線部のような単純なものだったんですが、そのまま歩いているうちに和歩(≒ナンバ歩き)の完成度(と書くと完成形があるみたいですが、僕の感覚では完成形が(まだ?)見えないので熟達度の方がしっくりきます)も大きく影響していると分かりました。
これはちゃんと説明しようとすると難しいのですが、簡略化して言えば、和歩がちゃんとできているほど身体全体を使えると同時に腰をひねらないで歩けることになり、後者の「腰をひねらない」ことは軸足に長く体重を残しておく(=振り出して踏み込んだ側の足に早々に体重を移さなくてよい)ことを可能にし、ひいては歩行の安定性が増すわけです。


また、上下のブレの抑制は、これも簡単にいえば「足首捌き」が重要だと気づきました。
足首は固めてはいけないんですが安定させなくてはいけなくて、これが最初は矛盾に思えたので固める方に意識が向いたことがあったんですがそれはもう昔のことで、今言葉にするとこうなります。

 「足首をバネのように使わない」*3

本当かな?と今書きながら思うんですが、これは実際に一本歯で歩いている時よりは、それを脱いでスポーツサンダルに履き替えた時の身体の感じからすれば妥当なのです。
というのも、これが今日一番びっくりしたことなんですが、これまでも一本歯でしばらく歩いてからふつうの靴なりサンダルに履き替えた時はいくぶんか身体が軽くなったように感じられて、「一本歯には靴底みたいな弾性ゴムついてないからなあ」などと思ったものでしたが、今日のその履き替え後の「身体の軽さ」は異常で、どう異常だったかをその時の感覚で書くならば、

 「"ナンバ歩き"で走れる」「腰を落とせば勝手に身体が走り出す

というもので、これは履き替えた時にすぐ上の歩道の信号が点滅しそうだったので履き替えた直後に走ることになったんですが、走っている時に「上半身を全く使わずに(しかもスムーズに)走れている」という感覚があって*4、「忍者走りのようだ」とも思いました(走りながら手裏剣を打てそうな勢いでした。手裏剣投げを会得していればの話ですが…)。


この、今日一本歯で歩いてから履き替えた直後の身体の動きを体感してみて、「一本歯歩行が定着したら本当に身体の使い方ががらりと変わっているだろうな」と確信しました。
姿勢がよくなるとか、そんななまやさしいものでなく。

あと、今日のブレークスルーによって(散漫に書き過ぎてどの部分がブレークスルーなのかよくわからない記事になってしまいましたが)今までの試行錯誤の諸々*5が正しかったというか、報われたような感覚がありました。
もちろん修行はまだまだ続きますが…まず今日のことも身体に定着させる必要があるし、歩幅を広げた歩き方については日頃使っていない身体部位を鍛えないと長時間歩けないような感じもありました。

そして文章に起こしたからといってものにできるわけでもない(逆効果で、変な方向に行ってしまうことだってあるのだから)ので、油断せず、日々精進ですね。


そうそう、タイトルのことですが、今日で「ふつうの靴歩き」の感覚にだいぶ近づけたという手応えがあって、どういう近づきかというと「気楽に歩けること」「歩くことそのことを楽しめること」という観点においてです、という意味を込めました。
 

*1:スピール膏を使っているのですが、これだけだと白くなるだけで角質が剥がれる気配がほぼないので、剃刀での物理的除去と組み合わせています。傷の部分にスピール膏を貼ってはいけないらしいので血が出ないようにギリギリを狙うんですが、これがなかなか難しい。

*2:もう足下は基本的には見なくても歩けるのでずっと川を眺めていて、ちょうどサギ(でしたっけ?鴨川によくいる、足が長くて緩慢に動く白い鳥)を見つけてじーっと眺めていた時だったかもしれません。または、いつも歩く時に(脳内BGMとして頭の中で)かけている曲から今日は気分転換に途中で黒江氏のriteに切り替えた時だったかもしれません。この曲は『群青日和』(入江亜紀)を読んでいる間ずっと流れていたんですが、最近朝食時に保坂和志氏のエッセイ(=氏のHPから印刷した紙媒体)のストックがなくなったので前に買って目の前の本棚に置いてあった『禅堂生活』(鈴木大拙)を読む時の後半(←説明が面倒なので詳細は割愛)に(これはプレーヤで)かけることにした曲で、今日の歩行時にスッと出てきたのでした。

*3:どんどん煩雑になっていますが…本記事を書き上げて読み直している間に気づいたのですが、これは言い方を変えると、「足首をバネにすると足首を境目にして一本歯が身体から分離してしまう」となります。つまり、これまで何度か書いてきた「一本歯を身体の一部として使う」ことに反する身体運用となってしまうわけです。甲野善紀氏のいう、腰をひねる運動やヒンジ運動が「鰯の群れ的動き」において忌避されることと同じイメージを持ってよいはずです。

*4:これはたぶん「足を前に踏み出す」以外に身体各部について意識しなかった(しないことが自然だった)」ということだと思います。

*5:例えば足指をだんだん自由に動かせるようにする足指自由体操だとか、朝起きた時に日なたぼっこついでにベランダで一本歯を履いてする謎の(←やることを決めてない、という意味です)エクササイズだとか、(これはつい最近ですが)プールでの歩行で足指だけで底を蹴って歩くことに集中したりだとか、直接関係ありそうなものもなさそうなものも全部含めて、ですね。

川に佇む

禅のことばで水は流れず橋は流れるなどという。
論理ではないらしいから考えてもしかたがない。
しかし流れない水には興味をひくものがある。

水たまりやバケツのほかはだいたい水は流れるものである。
流れない水が水たまりやバケツではなく流れている水である場合に興味をひく。
魚が川の流れを感じないことは我々が空気の流れを感じないことと似ているだろうか。
流れにのれば、あるいは流れが極端にゆっくりしていれば感じないこともある。

しかしここでとりあげたいのはそういったことではない。
例をあげるなら流れている水がある瞬間に、あるいはある時から流れないような水のことだ。
水は流れず水は流れる、ちなみにこれは禅のことばではない。

魚ではなく川になれば水は流れずとなるかもしれない。
人はみたものになれるというから川をみればよい。
水が自分のなかを流れれば水は流れずとなる。
血は我々のなかを流れるが川における水は我々における血ではない。

それをあえていうならそれも我々である。

 × × ×

↓こういうのあります。

www.noisli.com

↓川のせせらぎアイコン。

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"めめ"の話

 目は見るものを見るためでなく、見ないものを見ないためにあるのではないかと思うことがある。もちろん手や足もそうだが目も目的があってついているわけではない。本人の意思というよりは(それもいくぶんかはあるかもしれないが)結果として手や足があり、目がある。だから目に目的をかんじるのは本人の勝手であって、その勝手であるところの目的は見ないものを見ないことである、といいたいのである。目が悪くなるのもそのせいではないかとすらいいたい。つまりそれは見ないものがあるから目が悪くなるのであり、見ないものがなければ(そういう時代の方がはるかに長かった)目が悪くなどならないはずだ。目が悪くなるのが結果であることは目があるのと同じことであるが、目があるのが目的であるかもしれない以上に目が悪くなるのも目的であるかもしれない。
 見えるのは見るものも見ないものも同じである。見えるのは目的ではなく結果だからである。見ないものを見ないのは目的がある。目的といえば積極的にも見えるし、この場合は消極的にも見えるしそれは意思といっても同じことである。ただ見るとは積極的に見ることだが、これは本当に積極的といってよいのだろうか。見るのが見える結果であるとすれば、それは消極的なのではないだろうか。同じことは見ないにもいえるが、これも本当にそうだろうか。
 見るのは見えるのを続けさせるが、見ないのは見えるのを欲望させあるいは見るのを欲望させる。意思がより強くはたらくことに関していえば見るより見ない方が強い、それは欲望は現状維持を超えるのだから当然だ。だとすれば見る欲望は欲望といっていい過ぎではないかと思える。あるいは意思のある欲望とそれのない欲望とに分ければよいだろうか。けれど話は戻るが意思のない欲望は欲望だろうか。見える欲望などというものがあるだろうか。

精進の第十五歩

今日も一本歯で歩いてきて、三日連続です。

この三日とも1時間超歩いて、足に特に支障はありません。
親指のできかけのタコもなんとか収まってくれています(現状維持か快方に向かっているのかはよくわからない)。
右足親指付け根の魚の目は、一本歯で歩いている間は全くその存在を感じません。
今の状況だと靴歩きより一本歯歩行の方が楽だと思えるくらいです。
まあこれは「そういう一面がある」という話ですが、この状況を利用しない手はありません。
(というか利用した結果がこの三日連続のナイトウォークになるわけですが)

歩き始めの間は鼻緒で抑えている部分がきついのか多少痛むんですが(右足だけ)、歩くうちになんともなくなってくるので、足が冷えていたせいだと思われます。
そういえば今週後半からぐっと冷え込んできましたが(東京では初雪が降ったらしいですね…)、夜の一本歯はまだ裸足で歩けています。
歩くうちに体だけでなく足も温まってくるのが、裸足+一本歯で歩いているとよくわかります。
ただこれから冷えていくと、歩き始めがどんどんつらくなっていくはずで、どこまで耐えられるでしょうか。
あと止まったらすぐ体冷えるし(歩き終えた時はほかほかしていても一本歯からスポサンに履き替える間にけっこう冷えてしまいます)。


さて、今日は加茂川べりの鴨川公園〜北大路通間を往復しました。
北大路通の橋の西詰そばの公衆トイレを使って、そのまま橋を渡ろうとした時に、交差点は明るいんですがその陰になっている地肌の部分で木の根っこを踏んでしまい、あやうく鼻緒を切りそうになりました。
車のライトや電灯の明かりで瞳孔が開いてしまって暗がりが見えなかった、というのは言い訳で、わりと車通りの多いところで公衆トイレそばにも車が停まっていたので早々に立ち去ろうと気が急いたことが油断の原因でした。
また橋を渡っている間も夜とはいえ通行量が多くて、気が散って姿勢が乱れてうまく歩けませんでした。

というわけで本記事タイトルは「精進できた」ではなく「精進が足りない」の意味です。
まあこれに関しては、人のいるところで歩き慣れるよりも、多少気が散ってもふつうに歩けるようにフォームを定着させる方がいいのでしょう。
もちろん精進も要しますが。

 × × ×

そういえば昨日読んだ山頭火の本の内容で思い出したことがあります。
四国八十八ヶ所は四国で空海が修行した場所がその由来である、とたしか書かれていて「大師の修行の地が巡礼道になったのならその道を修行で歩いても何ら違和感あるまい」とこれは今日思いました。

大事なようなどうでもいいようなことですが、つまり四国遍路に一本歯で行く意義もあるにはあるのかな、と。