human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

二ノ瀬スタート〜貴船神社

今日は昨日の続きを歩いてきました。
なんというか、「生還できた」と表現して過言ではない一日でした。
ちょっと無茶が過ぎましたね…終始落ち着いてはいたんですが。
あまり多くは語りたくないので、今日こそ写真メインで進めていきます。


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二ノ瀬駅にあったハイキングコース案内板。
「貴船山コース」を歩きます。

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昨日書いた、とても駅の入口には見えない石段。

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民家の上にひっそりと二ノ瀬駅

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二ノ瀬駅のすぐ近くにあった神社。
お祈りするところが2つ並んでいました。

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上り坂をぐんぐん登っていくと「夜泣き峠」に到着。

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表示板の近くにあった地図。
これから行こうとしている「滝谷峠」だけ点線なのが気になる。

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上がってきた道。

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向山高原へ向かう道。

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大岩へ向かう道。

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どちらもそそられる道ですが、進む先は決まっていて、第3の選択肢を進むことに。

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わりとステキな道が続きます。

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「接写でござる」

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道は続き…

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分岐(中継点?)に出ました。
引き続き滝谷峠を目指す。

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ここが今日の運命の分かれ道。
右の道には中央に意味ありげな石材が立ててあり、同時に黄色い布が枝から垂れ下がっている。
石材は「止まれ(左へ行け)」なのか、でも布は「こっちも通れるよ」と言っている。
好奇心が勝って今回は右の道を選びました。

が、この道は止めておいた方がよいです(二ノ瀬ユリにも滝谷峠にも行けません)。

もともときつい斜面にかろうじて(人の踏み跡によって)形成された細くてとても傾いた道しかなくて(だからまっすぐ立てる場所がほとんどない)、その道も落ち葉の積もり方でかろうじて道だと判断できるような代物で、そのうえここ数年誰も通ってないんじゃないか思えるくらい行く手が荒れ放題で、倒木によって通れなくなっている箇所もいくつもありました(そういう場合は迂回するんですが、迂回路はもはや道ではなく単なる斜面で、自分で開拓して進みました)。今自分が進んでいるところが道なのかどうかが、ふっと気がつくと分からなくなっていたり、歩いてきた道を振り向くとどう歩いてきたかが思い出せないくらい難儀な道を進んだり…

以下の写真はこの難所の「道なき道」を気分に任せて撮ったものです。
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黄色い布。合ってはいるが、果たして布を張った直後の面影がこの道に残っているのかどうか。

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これだけは通った道ではなく、水の流れるところの上流に向かって撮ったもの。
湿り気がある。

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水の流れているところ。こうしたところが3つくらいあり、見つけるたびに手や顔を洗っていました。

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運命の分岐ポイントからたぶん3時間くらい歩いて、ようやく人通りのある道に出ました。
写真は山から下りて来た所を撮ったものですが、暗くて何がなんだか分かりませんね。
正規の道でないことだけは確か(こんなんばっかやな…)。
降り立ったところは、貴船神社のバス停のすぐそばでした。

以下、貴船神社で撮った写真を載せます。
途中で日が暮れたので露光時間が長くなる夜景はブレブレです。
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貴船神社をひととおり見回った後は叡電貴船口駅まで歩きました(約2km、と表示がありました)。
以下は駅の写真です。
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 × × ×

さすがに今日はへろへろです。
時間が作れてもとうてい本が読める元気がありません。
明日起きてまたスッキリしていれば明日も歩くかもしれないし(でも山はちょっといいかな、平地にしよう)、ぐったりしていれば明日は読書デーにしましょう。


総括するような言葉は特になくて、今日の経験はしっかり身体に刻み込まれました。

ただ、最近*1読んだ保坂氏の文章と通じるところがある(というか今日歩く中の「瀬戸際」でその文章を思い浮かべました)ので抜粋しておきます。
保坂氏の文章は流れのままに書かれるので、文脈をつかむにはリンク先へ行って最初から読まれるとよいです。…と言っても、連載の第一回から読まないと分からない話もありますが。

 さっき書いた二通りの書き方のもうひとつの方の書き方とは、それを理解しようとしない人をわからせることでなく、
「こんなにほっとするなんて、自分でも信じられなかったが、ペチャの隣りに並んだジジを見たら心の底から安心した。」
 という、まさにこのことを、このことだけを、音楽や絵や小説に感動した、それと同じように書くことだ。
 と、文字にきちんと書いてみると、急に思った。このやり方は嘘になる。というか、理解しようとしない人を説得すること以上に空疎なのではないか。いま実際に書く(文字を置く)まで私はこれこそが正しいと思っていたが、これは空疎だ。だいたい、「音楽や絵や小説に感動した(感動する)」とはどういうこと(状態)なのか。それは書くそばから、いわゆる「感動」に持っていかれて、何も残らない

真夜中 第十三回 後半

連想したのは下線部なんですが、どういうことかというと、ほんとうに生死の瀬戸際にいる時は「生きよう」「自分は生きたい」「生き残らなくては」みたいな言葉はその状況にいる自分を鼓舞する力なんて全然なくて(保坂氏のいう「空疎」で)、あえてその状況を言葉にするなら「今は”生きるか死ぬか”どころじゃない」。言葉は今目の前の現場への集中を疎外するようにしか機能しない。

と、いうことを実感したような気がします。

また、冷静な思考や判断は、必ずしもその思考や判断を言葉に置き換えられる場合に限らない、ということも。


…ふう。寝ます。

*1:最近と言って、確認したら今朝読んだ部分ですね。