human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

公案の第二十歩

今日は府立図書館へ。

歩いて片道30分くらいなんですが、今日は歩いている間も図書館にいる間も帰ってくる時も、魚の目は痛くなりませんでした。
一番痛い時(スピール膏を貼っていて出っ張っていたせいが大きいですが)は歩いていると痛くて、そうでなくても一度歩いてしばらくじっとしてから再び歩き出す時に痛むことがよくあって、けれど今日はそういった痛みが全くありませんでした。
見た目も固まった芯のようなものはなくなってあとは削げた(というか削いだ)皮膚の再生を待つばかりの状態です。

というわけでまた一日歩き回ろうと思えばできる体勢に戻れそうなわけですが、さて実際に戻るかどうか。
一本歯歩行は毎日やった方がよい気が最近はしているので、日中歩き回るならも少し早起きせねばなりません。
けれど夜のプール後に夕食のルーティンがほぼ固定で、食事が早くとも21時からとなると、逆算するとどうしても遅い起床になってしまう。

そういえば靴は新しい方からもとの年季のある方に戻したんですが、歩く調子が前と違っています。
古い方は靴底が平らで薄くて地面の凹凸を拾いやすいんですが、新しい方は靴底が丸まっていてしかも厚くて衝撃吸収のバネがきいています。
ので靴を変えたらそのたびに歩き方の調節が必要で、旧→新→旧と戻ったばかりなのでまだ調節がきいていない、と考えるのは妥当なんですが、どうもそれだけではない。
一本歯を履く頻度が急に高くなって、一本歯歩行が身につくとともに靴歩行にも変化をもたらしている気がしています。
もしそうなら、その変化を受け入れるために、「以前の感覚に戻す」とは別の方へ向かわねばなりません

(ということを念頭におくと「一日山道歩き」がこの過渡期にどう影響を及ぼすかが気がかりではあります。やってみないと分からないといえばそうなんですが)


図書館では引き続き『山頭火 放浪の旅』を読みました。

今日読んだ分で「歩々到着」という表現が頭に残っています。
山頭火が旅先で訪問した知己に禅の言葉として語る、ということが書いてあり、「一歩一歩が到着である」…の続きの説明は忘れましたが、「”一寸座れば一寸仏”となんだか似ている」という感想のような言葉が印象に残っています。
この表現については日暮れに高野川沿いを歩く間も考えていました。

 × × ×

その、今日の一本歯歩行について。
今日で五日連続になります。

一本歯で歩いたのが二十日目という節目にふさわしいというか丁度良いというか、新たな段階に達したというのが今日歩いた結論であります。
つまり一本歯歩行について、少なくとも平地(と下りもかな?)での歩行においては、純粋に技術的な考察の余地がほとんどなく、技術面以外の面に主だった関心を寄せる必要がある、と。
その「技術面以外の面」というのが、簡単に一言で済ませたくないようで(とはいえちょっと言うと、前回書いた「全体」とか「総合」に関係することです)、それに関わろうとする姿勢は公案に取り組むようなものではないか、とちょうど最近『禅堂生活』(鈴木大拙)を読み始めたことを縁に考えています。

大拙氏は、公案は「何だか下らぬ謎」のように思えるがそうではない、として以下のような説明を加えられています。

今使っているペンがわかると、人生も天地も何もかもわかるのである。すべてのものは重重に聯関[れんかん]しているので、その一隅又は一点に触れると、すべてがそれに繫がって動いて来るのである。我等は今まで物事を余りに分析的に対象的に見て来たのだ。我等も亦宇宙構成の一環なのだから、この一環を攫む[つかむ]ことによりて、宇宙全体も亦攫まれる。ただ一環を一環として全体から離さぬようにしなくてはならぬ。(…)大凡[おおよそ]ある所与の物の在る場処からその物を抽出して、それを研究するとか領解するとか云うことは、その物の真相に徹することではないのである。これはその物を殺すのだとも云い得るのである。これは具体的にその物の在る姿をその儘[まま]に見ることではないのだ。学禅の方法論は、それ故に、従来の科学的・哲学的・抽象的・論理的など云うものとは大いに逕庭[けいてい]があるのである。公案を見るにもこの辺の消息を心得ていなくてはならぬ

第一章 入衆 註 p.56(鈴木大拙『禅堂生活』岩波文庫

この抜粋部は昨日書いたこととも深く関係していて、この本はちょうど一月前↓に「たまたま視界に入った」から買ったと思っていたんですが、やはりというか何というか、今僕が読むべき本だったのですね。
まさに「お前が本を選ぶんじゃない 本がお前を選ぶんだ」@御子柴司書(『図書館の主』篠原ウミハル)というやつです。  
cheechoff.hatenadiary.jp
さて、今日は全体的にすらすら歩けたようで、河川敷を上って下っての1時間が今までで一番短く感じました。

これに関わることで、しかしちょっと別の話をします。

自分が移動中に風景の中の何か一つのものに焦点を絞る時に「それが止まって、それ以外のものがそれを中心に回転しているように見える」経験が誰しもあるかと思いますが、僕はこの現象をずっと不思議に思っていました。
塀に囲まれた庭にまばらに林立する竹があって、歩いている自分がある竹に注目するとそれ以外の竹は動いて見え、また別の竹に注目するとその別の竹以外は動いて見える、という経験を神奈川での徒歩通勤時に日常的にしていて、その原理について集中的に考えたこともあります。
が、今はその原理の話をしたいのではなく、「そのようにものを見ること」と「そのようにものを見ないこと」について書こうとしています。

…あまり言語化するとそれに縛られそうでつい慎重になるんですが(たぶん公案というのも「言語化を極限まで削ぎ落とすための言葉」ではないかと思います。それ自体が「削ぎ落とした言葉」なのではなく。)、とりあえず今日歩きながら試したところによると、前者よりも後者の方が(つまり「そのようにものを見ないこと」で)安定して歩くことができました。

さて、落ちをつけるのが大変難しいのですが…


そうだ、あともう一つ思ったことが、上で「新たな段階に達した」と書きましたが、たぶん一本歯歩行の「所作」*1は一本歯で歩いているその間だけのことではなく、靴で歩いている時も、プールで泳いでいる間も、もっといえば生活全体が関わってくる気がしています。

 

*1:「良し悪し」と言いたいところなんですがそういう視点の話ではないし、「安定性」と書けばそれを含むところ大なんですが意味が狭くなってしまう。「成り行き」も何か違うような…難しいですね、日本語。