human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

万霊の第二十六歩

おととい、昨日とゆっくりして、今日は久しぶりに一本歯で高野川を歩いてきました。

まだ疲労が残っていましたが(足首の痛みというかしこりというか滑らかでない感じが気持ちよくなかったですね)、歩くうちに慣れていきました。
歩き方についても、やはり普段靴で歩いているので一本歯用の身体運用にシフトチェンジするまでに時間がかかります。
この感じは回数を重ねても同じようにつきまとっていて、歩き始めのぎこちなさが旅への不安をかき立てるのですが、後半になって慣れてくると「うん、これならいける」とポジティブに切り替わるのも毎度のことです。

そのことに関係するのですが、3日前に雲ヶ畑へ行った時(1つ前の記事)に痛感した長時間歩行の大変さについて、一日に歩く量をちゃんと計画を立てて決めるほかに、装身具でなんとかしてみようという気になり、さっそく今日手甲と脚絆を注文してみました。
自分でメジャーで測ってネット注文するのはサイズが合うかが気になりますが、ダメならダメでまた店に行くと思います。
一度は遍路用品店に行くはずなので(ちょっと調べると枚方にあるらしい)、必要ならそこで試着をしてみましょう。

そういえば最近なぜか左手首が痛くて、原因不明ながら前にも同じことがあった気もして、前は腱鞘炎だった気がするんですが、今回はそんなになるほど手首を使っていないので不思議です*1
寝起き時に特に痛いとか、冷えると痛いとか、風呂に入るとマシになるとか、手がかりはいくつかあるんですがよくわかりません。
手甲が手首の安定によいらしいので、歩く時だけでなく日常生活でも使ってみて効果をみようと思います。


そうだ、面白いと思ったのは今日歩きながら「下駄にもその時々の気分がある」という感覚を持ったことでした。
下駄の気分が良ければ力を抜いても足がぶれずにすいすい歩けるし、なぜだか意固地になってそっぽを向かれるといくらこちらで制御しようとしてもうまくいかずに身体がぐらぐらしてしまう。
もちろん自分の身体や精神の状態が下駄の操法に影響を与えているという見方が科学的ですが、自分次第の部分がある一方で「下駄次第」の部分もあると考えてみると、それはそれで面白いです。

四国遍路で「同行二人」とは杖をお大師さんと見立ててのことだと言います。
僕はたぶん杖は持って行かないと思いますが*2、下駄と一緒に歩いて「同行二人」でもいいのでは、とふと思いました。
もちろん下駄をお大師さんに見立てるわけではなく、まあ友人くらいの関係でしょうか。
比喩でなく、いや比喩でもよいのですが、同行の友人と気楽に喋りながら歩ければ乙なことだし、互いに黙り込んで(でも機嫌が悪いわけでもなく)淡々と歩調を合わせるのもまたよし。

あまり意識しすぎずに、ときどき聞き耳を立ててみようと思います。


タイトルですが、『禅堂生活』(鈴木大拙)の以下抜粋する文中から借りました。

仏教者の中には、針供養*3とか筆供養とか鰻供養とか云うことを行う人々がある。如何にも仏教的世界観の発露の一面であると思う。鰻や鰌[どじょう]は生き物であって、それを殺して人間の食餌にするのであるから、その霊に供養して人間的報恩底を尽すとも云える。が、針や筆の如き非情物の供養には如何ような意味を附すべきであろうか。これはやはり何れも「三界万霊」の中へ含めておいてよいと信ずる。筆も針も紙もペンも石燈籠も朝顔も皆その中にそれぞれ恰好の場処を見出し得るものと考えてよい。筆や燈籠は人間の自作で、朝顔や鰻は自然の生物だと云う区別は、畢竟は人間的・知性的分別上の事件でしかない。

第五章 祈願と報謝 p.136

*1:歩く時に「足だけなく全身を使う」を意識しているので変に力がかかっている可能性もありますが…鷹取の手とか親指を人差し指の付け根に沿わせて畳むとかすると腕を緊張させることができるんですが、たしかに手首の自由度が制限されている気もします。

*2:道中でどうしようもない難所があれば一本歯を脱いで代わりに履ける何か(草履とか?)を持って行こうとは思っています。ふつうの道であれば一本歯に対する杖はあまり役に立たない気がします。

*3:そういえば前に宝ケ池から鞍馬へ歩く途中にあった幡枝八幡宮には針供養の神社がありました。