human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

遊歩の第十六歩

今日はブレークスルーがありました。

ナイトウォークを終えて帰宅した時にあった「これはすごい」(今風にいえば「やばい」くらいのニュアンスです)という感覚のリアルさはその後プールで泳いでいる間に薄れてしまいましたが、なんとか当初の驚きを言葉にすべく頑張ってみます。


右足親指付け根の魚の目はじわじわと治ってそうな気がする*1ので、悪化はさせまいと最近はあまり靴で出歩いていません。
そのかわりというかその一方で下駄歩きでは魚の目が全く支障にならないので、一本歯を履く頻度はむしろ最近高くなっています。

今日は夕方までは家事と読書をして、日が暮れかけた頃に高野川沿いを上り下りしてきました。

最初はスポーツサンダルで向かい、河川敷に下りたら一本歯に履き替えるのですが、その直後の歩き始めではいつも体が上下に揺れてしまうのと足首が着地時にブレてしまうことになっていて、一本歯歩行用に身体運用をカスタマイズする時間を要します。

今日も「この上下に動くのがいかんのよなあ」と思って調節をして、でも局所的に力まないようにすると歩幅が狭くなって、「なんか違うんだよなあ」と思って、ちょっと歩幅を広げよう、例えば膝のバネを使えばいいんではないかと思ってやってみると走ることになってしまって、「走れるのになあ…」てなことを考えていました。


それから、何がきっかけだったかよくわかりませんが*2、そしてどういう工夫をしたのかも記憶が定かでありませんが、(分かりやすい部分だけの)結果だけ書くと、踏み込んだ一本歯の角度をいつもより前のめりにして(←下駄の台の先端が地面に着くか着かないかくらい)ちょっと股を開きめにしたら、いい感じの歩幅になってしかも上下のブレを抑えつつ歩けるようになりました

「いい感じの歩幅」は説明を要するんですが(でもあまりまともになる自信がありませんが)、人によって適切な、自分にちょうどよいと思える歩幅があって、それの一本歯版ということなんですが、もちろん(と断言できないようにも思えますが)一本歯のそれはふつうの靴時のそれより狭いです。
その「いい感じの歩幅」の決定要因はよくわかりませんが、これと関係あるか分かりませんがある歩幅を靴と一本歯のそれぞれで実現しようとするとき、一本歯の方が股を大きく開く必要があります。
一本歯は歯の分だけリーチが伸びるから逆ではと考えるのは間違いで、それは着地時も踏み込み時も歯が足(太腿〜ふくらはぎ)の延伸方向と垂直ではなくより立っている(=地面に垂直方向に近い)からです。
より立つということは稼げるリーチが短くなると同時に足首の角度も(靴の場合とは)変わってきます。
おそらく僕が「いい感じの歩幅」だと感じたのは、股(の開き具合)が「歩幅を稼ぎたいという意図に対しては十分に機能している」と感じたからではないかと、あえて言葉にするとこんなまどろっこしいことになるのですが…。

で、歩幅が広がった最初の認識としては上の下線部のような単純なものだったんですが、そのまま歩いているうちに和歩(≒ナンバ歩き)の完成度(と書くと完成形があるみたいですが、僕の感覚では完成形が(まだ?)見えないので熟達度の方がしっくりきます)も大きく影響していると分かりました。
これはちゃんと説明しようとすると難しいのですが、簡略化して言えば、和歩がちゃんとできているほど身体全体を使えると同時に腰をひねらないで歩けることになり、後者の「腰をひねらない」ことは軸足に長く体重を残しておく(=振り出して踏み込んだ側の足に早々に体重を移さなくてよい)ことを可能にし、ひいては歩行の安定性が増すわけです。


また、上下のブレの抑制は、これも簡単にいえば「足首捌き」が重要だと気づきました。
足首は固めてはいけないんですが安定させなくてはいけなくて、これが最初は矛盾に思えたので固める方に意識が向いたことがあったんですがそれはもう昔のことで、今言葉にするとこうなります。

 「足首をバネのように使わない」*3

本当かな?と今書きながら思うんですが、これは実際に一本歯で歩いている時よりは、それを脱いでスポーツサンダルに履き替えた時の身体の感じからすれば妥当なのです。
というのも、これが今日一番びっくりしたことなんですが、これまでも一本歯でしばらく歩いてからふつうの靴なりサンダルに履き替えた時はいくぶんか身体が軽くなったように感じられて、「一本歯には靴底みたいな弾性ゴムついてないからなあ」などと思ったものでしたが、今日のその履き替え後の「身体の軽さ」は異常で、どう異常だったかをその時の感覚で書くならば、

 「"ナンバ歩き"で走れる」「腰を落とせば勝手に身体が走り出す

というもので、これは履き替えた時にすぐ上の歩道の信号が点滅しそうだったので履き替えた直後に走ることになったんですが、走っている時に「上半身を全く使わずに(しかもスムーズに)走れている」という感覚があって*4、「忍者走りのようだ」とも思いました(走りながら手裏剣を打てそうな勢いでした。手裏剣投げを会得していればの話ですが…)。


この、今日一本歯で歩いてから履き替えた直後の身体の動きを体感してみて、「一本歯歩行が定着したら本当に身体の使い方ががらりと変わっているだろうな」と確信しました。
姿勢がよくなるとか、そんななまやさしいものでなく。

あと、今日のブレークスルーによって(散漫に書き過ぎてどの部分がブレークスルーなのかよくわからない記事になってしまいましたが)今までの試行錯誤の諸々*5が正しかったというか、報われたような感覚がありました。
もちろん修行はまだまだ続きますが…まず今日のことも身体に定着させる必要があるし、歩幅を広げた歩き方については日頃使っていない身体部位を鍛えないと長時間歩けないような感じもありました。

そして文章に起こしたからといってものにできるわけでもない(逆効果で、変な方向に行ってしまうことだってあるのだから)ので、油断せず、日々精進ですね。


そうそう、タイトルのことですが、今日で「ふつうの靴歩き」の感覚にだいぶ近づけたという手応えがあって、どういう近づきかというと「気楽に歩けること」「歩くことそのことを楽しめること」という観点においてです、という意味を込めました。
 

*1:スピール膏を使っているのですが、これだけだと白くなるだけで角質が剥がれる気配がほぼないので、剃刀での物理的除去と組み合わせています。傷の部分にスピール膏を貼ってはいけないらしいので血が出ないようにギリギリを狙うんですが、これがなかなか難しい。

*2:もう足下は基本的には見なくても歩けるのでずっと川を眺めていて、ちょうどサギ(でしたっけ?鴨川によくいる、足が長くて緩慢に動く白い鳥)を見つけてじーっと眺めていた時だったかもしれません。または、いつも歩く時に(脳内BGMとして頭の中で)かけている曲から今日は気分転換に途中で黒江氏のriteに切り替えた時だったかもしれません。この曲は『群青日和』(入江亜紀)を読んでいる間ずっと流れていたんですが、最近朝食時に保坂和志氏のエッセイ(=氏のHPから印刷した紙媒体)のストックがなくなったので前に買って目の前の本棚に置いてあった『禅堂生活』(鈴木大拙)を読む時の後半(←説明が面倒なので詳細は割愛)に(これはプレーヤで)かけることにした曲で、今日の歩行時にスッと出てきたのでした。

*3:どんどん煩雑になっていますが…本記事を書き上げて読み直している間に気づいたのですが、これは言い方を変えると、「足首をバネにすると足首を境目にして一本歯が身体から分離してしまう」となります。つまり、これまで何度か書いてきた「一本歯を身体の一部として使う」ことに反する身体運用となってしまうわけです。甲野善紀氏のいう、腰をひねる運動やヒンジ運動が「鰯の群れ的動き」において忌避されることと同じイメージを持ってよいはずです。

*4:これはたぶん「足を前に踏み出す」以外に身体各部について意識しなかった(しないことが自然だった)」ということだと思います。

*5:例えば足指をだんだん自由に動かせるようにする足指自由体操だとか、朝起きた時に日なたぼっこついでにベランダで一本歯を履いてする謎の(←やることを決めてない、という意味です)エクササイズだとか、(これはつい最近ですが)プールでの歩行で足指だけで底を蹴って歩くことに集中したりだとか、直接関係ありそうなものもなさそうなものも全部含めて、ですね。