human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

"めめ"の話

 目は見るものを見るためでなく、見ないものを見ないためにあるのではないかと思うことがある。もちろん手や足もそうだが目も目的があってついているわけではない。本人の意思というよりは(それもいくぶんかはあるかもしれないが)結果として手や足があり、目がある。だから目に目的をかんじるのは本人の勝手であって、その勝手であるところの目的は見ないものを見ないことである、といいたいのである。目が悪くなるのもそのせいではないかとすらいいたい。つまりそれは見ないものがあるから目が悪くなるのであり、見ないものがなければ(そういう時代の方がはるかに長かった)目が悪くなどならないはずだ。目が悪くなるのが結果であることは目があるのと同じことであるが、目があるのが目的であるかもしれない以上に目が悪くなるのも目的であるかもしれない。
 見えるのは見るものも見ないものも同じである。見えるのは目的ではなく結果だからである。見ないものを見ないのは目的がある。目的といえば積極的にも見えるし、この場合は消極的にも見えるしそれは意思といっても同じことである。ただ見るとは積極的に見ることだが、これは本当に積極的といってよいのだろうか。見るのが見える結果であるとすれば、それは消極的なのではないだろうか。同じことは見ないにもいえるが、これも本当にそうだろうか。
 見るのは見えるのを続けさせるが、見ないのは見えるのを欲望させあるいは見るのを欲望させる。意思がより強くはたらくことに関していえば見るより見ない方が強い、それは欲望は現状維持を超えるのだから当然だ。だとすれば見る欲望は欲望といっていい過ぎではないかと思える。あるいは意思のある欲望とそれのない欲望とに分ければよいだろうか。けれど話は戻るが意思のない欲望は欲望だろうか。見える欲望などというものがあるだろうか。