human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

クロール+古式泳法(の兆し)、考察の第十九歩

今日は夕方まで『菅野満子の手紙』(小島信夫)を読んでいました。

前に一日本を読んだ日(外出せず、プールも行かずほんとうに一日中)があって、その翌朝に背中が痛くて目が覚めるということがあって、思えばデッキチェアにもたれて読んだり一人用ソファにもたれて読んだりと「もたれてばっかり」だったので床ずれでもしたかと思ったんですが、もう若くはない(身体は。精神は青年と爺のアモルファスですね)という認識はさておき背中が痛くて歩けないみたいなことになるのは御免被りたいので、一日読書をやる時は読書姿勢に気をつけると同時に合間に体を動かすことにしました。

それで今日は久しぶりに木刀を振ってみて*1、『バガボンド』(井上雄彦)をまた読みたくなりました。
もともとはこのマンガを読み始めて剣を振りたくなって、段ボールで刀を作ったり(把持部分に重石をつけたもので、室内で振って壁やらにぶちあてても平気なのです。初期の頃の記事は以下↓)、実家から木刀を譲り受けたりしていました。

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型がどうこうという話はできませんが、「腕だけでなく身体全体で振る」とか「剣の運動を邪魔しない」とか今まで文章で読んできたことをイメージして振っていて、今日は「身体(の上半身と下半身)をねじらない」を念頭におきました。
それが剣の振りだけでなく、構えや剣の持ち替えなどの動作でもできるかと思い、いろいろと動いていました。


夕方からは高野川沿いを一本歯で歩き(四日連続ですね。これについては後半書きます)、その後プールに行きました。

泳ぐことについて最近書いていないのはほぼ毎日泳いでいて考察する暇がないといったところですが、そういえばスポーツクラブに通い始めて2ヶ月弱、神奈川にいた頃に通っていた市営プールも合わせれば4ヶ月弱くらいは日常的に泳いでいたことになりますが、初期の頃にあったような明らかな上達は最近はありません*2
スポーツクラブで泳ぐようになってからは、25m泳ぐまでの息継ぎ数(ストローク数はちょうどその2倍)をカウントするようになったんですが、幅があって今は11〜15くらいです。
その数が減れば上達かなあと思ったりもしましたが、水の流れる方向によってかなり左右されるし(泳ぐコースによっても違うし、いつも隣でレッスンをしているんですが猛者達がガンガン泳ぎまくるようなレッスンだとプール全体が波打ってなかなか大変なことになります)、もともとは「水に親しむ」をモットーとしていたので息継ぎ数はあくまで目安程度です。
「水に親しむ」というのは具体的には「水の流れに乗る」とか「なるべく水の抵抗を受けない」とかになりますが、流れに乗ることについてはちょっと前から掴めてきたかなあと思うところがあって、例えばクロールのフォームをぴちっと守って一掻きごとに正確に泳ぐというよりは水の状態(主に波ですよね)や体の状態(疲労度?)や位置によって柔軟に動きを変えて泳ぐ方が流れに乗れている感じがします。
渾身の力を込めて水を掻いてもあまり前には進まなくて、むしろリラックスしている方が進むのはその方が水の状況を感知しやすいからだと思うんですが(なんてことをフォームをしっかり習ったことのない僕は思います)、かといって力を抜き過ぎてふにゃふにゃしていると水が全然掻けなくてそれはそれで前に進まなくて、その中間がよいのでしょうが難しいところです。

言いたかったのは「最近大きな発見はなかった」ということで(でも思い出せばいろいろあったような気もするので断言はしたくありませんが)、それに対して今日は閃きがあったことが泳ぐことについて書こうと思う動機になったわけです。
それで最初に木刀を振る話をしたのは、なんだかそのことがプールでの閃きに関係しているように思えたからです。

…と、引っ張ったわりに大したことは書けないのですが、クロールで泳いでいる間にも「身体をねじらない」ということが念頭にあったようで、ふと古式泳法的な動きを導入できそうな気配を感じました*3
その内容を漠然といえば「手足の連動」とか「先端を尖らせる(ことで水の抵抗を減らす)」といったことになりそうです。

これは今日泳ぎ終えるちょっと前に閃いたことなのでほとんど試す時間がありませんでした。
なので続きは明日ですね。
明日も書くかはわかりませんが。

 × × ×

時間を戻しまして、夕方の高野川ナイトウォークについて。

今日は鼻緒の締め付けは痛くなかったです。
連続の4日目なのでさらに痛みが増すかと思ったんですが、これも理由がよくわかりません。
前日夜のプール後のサウナで適当にマッサージしたのがよかったのかな?(と思ったので今日もやりました)
とにかく毎日連続で歩くことに支障はなさそうなので明日も続けてみます。

接地時の下駄をぶれさせない」「胴体を上下させずに歩く」が大きく言って守るべき二箇条といったものになるのですが、これができている状態であっても長続きせずにいつの間にかどちらか(またはどちらも)が崩れていたりするんですが、そこからの立ち直り方法として、あまり局所的な身体部位の使い方を意識してもいけないような気がします。
もちろん個々の身体部位の運用の総体として歩行が実現されているので個々を見直すことは大事なのですが、意識としてはあくまで身体全体に向ける
たぶんそれは「足し算」ではないからでしょう(細かい一つを気にし過ぎると他のいくつかが崩れてくる、ということがあります)。
個々を見直す、とはその部位の動きを見るわけですが、そのためには(というかその部位を見ることになった原因なわけですが)その部位の疲労(あるいは損傷)の具合を把握します。
足が重いなと思った時にふくらはぎが痛いことに気づけば、それを庇うような動きを考える(身体全体の動きのバランスを再編成することになります)とか、修行中の今なら「ここを鍛えんといかんなあ」とか考える。
まあ後者はいいんですが、前者の例えに書いたように、個々の把握は全体へと戻って行く(フィードバックされる)必要があります。

ふつうに靴で歩くときもほんとうは同じだとは思うんですが、長時間(というか「長期間」)歩く時は身体の状態に合わせて歩き方を(疲労が局所的でなく身体全体に行き渡るように)変化させた方がよく、それができるには、一つのちゃんとした歩行フォームを固めるというよりは、「歩行が各部位のどのような運動によって実現されているか」と「それらの単純加算でない総和の仕組み」を把握しなくてはならない。

こういうことを意識して歩けば、またいろいろと発見があるだろうと思います*4

*1:部屋に三畳ほどの「工作スペース」があって、簞笥を直したり本棚を改造したりする時に活躍したがらんどうの空間なんですが、板敷きでもあるので「運動スペース」にもなると気づきました。

*2:もともと学校の体育ではクロールがまともに泳げなかったのが遅いながらもいくらでも泳げるようになるまでの最初の頃は毎日が発見に満ちていた…のかな?あまり覚えていませんが、このカテゴリ↓の記事にはそのあたりのことが書いてあるかもしれません。 cheechoff.hatenadiary.jp

*3:前にもリンクを張った気がしますが、僕が古式泳法として参考にしているのはこの動画です。

*4:今日歩いている間に考えていたのは「意識は全体に向ける」というだけで、本記事の残りはそれを展開させたものになるようですね。なんだか「疲労に応じて歩き方を変化させる」という話は水泳のところで書いた「水の状態によってフォームを微調整する」と響き合っていますね。影響されたかな…。

持久の第十八歩、「がんばりすぎだろ日本人」

今日から12月なのですね。
そんな気がしないのは寒くないからでしょうか。

近所のマンション工事で使ってるユンボの機種が小さくなってました。
というのはいつも8時半くらいから始まる工事の音で目が覚めるんですが、今日は起きた時が静かで(時計は10時半)、今日祝日だっけなと思って外を見ると工事はいつも通りやっているのでした。
ちゃんと寝られれば一眠りで6時間以上寝られるんですね。

というわけで朝食が11時過ぎになってしまったので、ラナーバイキングに行ってきました。

冷静に考えると、6つに区画が分かれたプレートにおかずを詰め込んで、ご飯(白ご飯or炊き込みご飯)と汁物(味噌汁、ミネストローネ、中華スープ等いろいろ)のお椀が1つずつ、そしてカレー皿に盛られたサラダというセットをバイキングでは2回食べていて、これは明らかに2食分食べていますね。
(ちなみに今日の汁物はちゃんこ鍋とビーフシチューでした。…汁物?)
帰りの一本歯ウォークは慣れたものですが、その後のプールで吐きそうになったのも無理もないですね。
そして泳いだ後に体重を量るといつもより1kg増えていました。
これはすぐ戻っちゃうんですが。

 × × ×

ということで、今日は加茂川を下りました。

最近頻度高いかなと思って今日から逆に数えてみると、今日で三日連続で、その前二日あけてまた三日連続でした。
それまでは週1〜2くらいだったんですが、これだと週4〜5ペースですね。
右足親指付け根の魚の目治療中というのがその理由となっています。
魚の目については、スピール膏を貼りつつ(プールに入る前に剥がすので)状況を確認して角質を二度ほど剃刀で切除して、なんとなく芯というか堅くなった皮膚(これを角質というのかな?)がなくなった気がしたのでオロナイン塗布+絆創膏に切り替えています。
もうすぐ治るといいんですが…足に気兼ねなく歩きたいですね。

で、一本歯なんですが、今日はちょっと疲労が溜まっていたようで、あまり心地良くは歩けませんでした。
履き始めの鼻緒の締め付け具合も今までで一番痛くて、なんとかした方がいいのかなと思ったんですが、これはいつも通り歩くうちに気にならなくなって、これが麻痺してるだけなのかどうか判断が難しいところです。
履き始めの痛さが増す理由もよく分からなくて(鼻緒は履くごとに緩んでいるはずなのですが)、足指の締め付け部分が腫れているのか、むくんでいるのか、あるいは鍛えられて発達しているのか、などが予想されます。
鼻緒を緩めた方がいいような、でも履いてるうちに緩んでくると今度は足指に力を入れてずれないようにしないといけなくなるので緩めると歩行の後半で苦労することになります。
1時間ちょっとでこれだから、もっと長く歩くことを考えると緩めない方がいい気がしてきます。
ここは足指の調子と相談ですね、あまり痛いのもよくないので。

歩行動作については、足が重い感じがずっと続いていたので何か発見のようなものはなかったと思います。
(「旅は持久戦だからこういう場面も当然あるはずだ」と思って、疲労が濃い中でもなんとかリラックスして歩けるようにはしていました)
そもそも今日は歩きながらあまり言語化をしなかったんですが、それは食堂まで靴で歩いた行きも同じで(というか行きだそうだったから帰りもそうなったということですが)、「自然が一本歯歩行のヒントになる」みたいなことを昨日書いたことに影響されて、動物だけでなく落ち葉が風に飛ばされる様とか川に落ちて流れる様とかも同じ目で見ていて、それで「調和というのは言語化以前のところにあるのだろう」と思っていたのかとにかく頭を空っぽにして観察に徹していたのでした(言語化だけでなく比喩とか連想方面の思考もほとんど非活性でした)。

 × × ×

一本歯で歩いた日に毎回書いていると生産的なことが書けないこともあるんですが(今日はわりとそんな日です)、毎回進歩というわけにもいかないし、何より「生産的かどうか」には拘りたくないのでやはり毎回書く意味はあります。
何かしら書くのはいいんですがタイトルの漢字二字も同時に困ることになって多少考え込むわけですが、こういう時にはweblio類語辞典がとても役に立つんですが、時々やたらと類語が多い表現に出会うと「おっ」と思います。
今日も出会いました。

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つまり、なんだか日本人の感性というか文化が表れているように思うのです。
(この↑類語の多さを見ると「がんばりすぎだろ日本人」と思っちゃいますね)

前にこういう語のことを「Cool Japanese」と呼んだことがあります。
…ということを書くのは3回目のようですね。

カテゴリ作っちゃいましょう。
cheechoff.hatenadiary.jp

鳥歩の第十七歩

今日も昨日と同じように高野川で歩いてきました。

気づいたこと、考えたことをいくつか書いておきます。

(1)軸足意識へのシフト

前回(昨日)に歩幅が広がった話を書きました。

軸足(踏み出す方とは違う足)をなるべく長く地に着けておくことで歩幅が広がるんですが、実は今までは着地にばかり意識が向いていた(踏み込みに失敗したら足をひねりかねないわけですから最初は特にシビアでした)のが、今回の歩幅アップ歩行では軸足の歯がけっこう斜め(前傾)になるために、着地に専念していた意識の幾分かを軸足にも向ける必要があることに気づきました。
踏み出し足の着地や地を蹴る軸足の踏ん張りで足(下駄)がぶれると力のロスが生じるんですが、地を蹴る時に軸足の歯が斜めなほどぶれやすくなる*1ために、意識をこれまで以上に割く必要があるということです。

ちょっとした程度のぶれではなくこけるこけないの問題が最も生じやすいのは着地時なので、この意識のシフトは歩行姿勢をより不安定にさせることになります。
この不安定性の増大分は経験・慣れでカバーするしかありません。
今のところはできている気がしますが、調子に乗って歩幅を大きくしていくとこけるリスクがどんどん高くなるので、着地に向ける意識をちょっとずつ減らしていくとどういうことになるかを見極めつつ進めていきたいと思います。

(2)セキレイの歩き方

別の話から入ります。
日中に鴨川沿いを歩く時はだいたい川を見ているんですが、その理由の一つには動物の動きになんらかのヒントがあると思っているからです。

動物に対しては無駄のない動き、とか効率の良い動き、とかいった表現が使われるかと思いますが僕が見ようとしているのはそういう特徴ではなく、動物の動きがそのそれぞれの体(大きさ、重さ、手足のつくりなど)と調和している、その調和を見ようとしているのだと思います*2
この「調和」を具体的に説明するのはとても難しそうで、たぶん「美しい動きだ」みたいな感想としてしか言えないことのような気もします。
が、ある与えられた体がありその体における「調和のとれた動き」がある、というサンプルをいくつも見ていくうちに、その動きを見たことのない動物について「調和のとれた動き」を想像することができるようになる、というようなことがもしあるとすれば、これは人間の動きにも応用できるでしょう*3

本題に入りますが、セキレイは「ててーっ」という効果音が似合うような素早い足捌きで一目散に駆けるように歩くんですが、今日鴨川でそのセキレイ(たぶんセグロセキレイです)が歩くのを見た時に、地上(ちょっとした草むらか岩場だったか忘れましたが)にちょっとした凹凸があるのにセキレイの胴体がほとんど上下していないように見えました。
昔のアニメーションかなにかで、登場人物が走っているのを、背景だけを動かして表現するようなのがあったと思いますが(動く絵本でもありそうですね)、なんだかそれを連想しました。
つまり胴体だけが画面に固定されていて、背景と足が動いている(地面の高さに合わせて足が伸びたり曲がったりする)、というような。

一本歯歩行(に限らず和歩もですが)では胴体を上下に揺らさないことを心掛けているので、セキレイのこの歩き方を見て「おお!」と思ったのでした*4
具体的にどこをどう参考にする、という話は全然できませんが、動物に例(手本?)があるというのはなんだか心強いのです。

というわけで今日はセキレイ歩行をイメージして歩いていました(それでどうなったという話ももちろんできません)。
今思うとすばしっこいセキレイよりはダチョウの方が「時間の流れ方」の面ではイメージ近いかもしれませんね。
いや、あれはあれで躍動感がありすぎるか…
 

*1:と当たり前のように書きましたがこれは慣れの問題かもしれない…こともないか。歯が斜めになるほど接地面積が小さくなりますからね。

*2:「調和のとれた動き」と「無駄のない動き」はどう違うのか、と言われるとこれまた難しいのですが、「無駄」を「あそび」と言い換えてみるとよいかもしれません。あそびのない動きは、ある一つの目的を厳密に遂行するのに向いてはいても、おそらく周りの状況の変化に即応して動きを変化させる場合には向かないでしょう。そうだとすれば、「調和のとれた動き」は臨機応変の余地も含んでいると考えればよい。あるいは、例えば鳩は頭を前後させながら歩きますが、体の構造上そうしないと前に進めないとはいえ、頭の前後動作は人が見れば「無駄な動き」に見えるかもしれない、しかしその頭の動きも含めて鳩の歩行は「調和がとれている」。

*3:学問分野でいえば解剖学にあたるのかな?

*4:まあ、問題意識が先にあってセキレイの歩行をして僕にそのように見せた、とも考えられるわけですが、それじゃ面白くないですよね。

遊歩の第十六歩

今日はブレークスルーがありました。

ナイトウォークを終えて帰宅した時にあった「これはすごい」(今風にいえば「やばい」くらいのニュアンスです)という感覚のリアルさはその後プールで泳いでいる間に薄れてしまいましたが、なんとか当初の驚きを言葉にすべく頑張ってみます。


右足親指付け根の魚の目はじわじわと治ってそうな気がする*1ので、悪化はさせまいと最近はあまり靴で出歩いていません。
そのかわりというかその一方で下駄歩きでは魚の目が全く支障にならないので、一本歯を履く頻度はむしろ最近高くなっています。

今日は夕方までは家事と読書をして、日が暮れかけた頃に高野川沿いを上り下りしてきました。

最初はスポーツサンダルで向かい、河川敷に下りたら一本歯に履き替えるのですが、その直後の歩き始めではいつも体が上下に揺れてしまうのと足首が着地時にブレてしまうことになっていて、一本歯歩行用に身体運用をカスタマイズする時間を要します。

今日も「この上下に動くのがいかんのよなあ」と思って調節をして、でも局所的に力まないようにすると歩幅が狭くなって、「なんか違うんだよなあ」と思って、ちょっと歩幅を広げよう、例えば膝のバネを使えばいいんではないかと思ってやってみると走ることになってしまって、「走れるのになあ…」てなことを考えていました。


それから、何がきっかけだったかよくわかりませんが*2、そしてどういう工夫をしたのかも記憶が定かでありませんが、(分かりやすい部分だけの)結果だけ書くと、踏み込んだ一本歯の角度をいつもより前のめりにして(←下駄の台の先端が地面に着くか着かないかくらい)ちょっと股を開きめにしたら、いい感じの歩幅になってしかも上下のブレを抑えつつ歩けるようになりました

「いい感じの歩幅」は説明を要するんですが(でもあまりまともになる自信がありませんが)、人によって適切な、自分にちょうどよいと思える歩幅があって、それの一本歯版ということなんですが、もちろん(と断言できないようにも思えますが)一本歯のそれはふつうの靴時のそれより狭いです。
その「いい感じの歩幅」の決定要因はよくわかりませんが、これと関係あるか分かりませんがある歩幅を靴と一本歯のそれぞれで実現しようとするとき、一本歯の方が股を大きく開く必要があります。
一本歯は歯の分だけリーチが伸びるから逆ではと考えるのは間違いで、それは着地時も踏み込み時も歯が足(太腿〜ふくらはぎ)の延伸方向と垂直ではなくより立っている(=地面に垂直方向に近い)からです。
より立つということは稼げるリーチが短くなると同時に足首の角度も(靴の場合とは)変わってきます。
おそらく僕が「いい感じの歩幅」だと感じたのは、股(の開き具合)が「歩幅を稼ぎたいという意図に対しては十分に機能している」と感じたからではないかと、あえて言葉にするとこんなまどろっこしいことになるのですが…。

で、歩幅が広がった最初の認識としては上の下線部のような単純なものだったんですが、そのまま歩いているうちに和歩(≒ナンバ歩き)の完成度(と書くと完成形があるみたいですが、僕の感覚では完成形が(まだ?)見えないので熟達度の方がしっくりきます)も大きく影響していると分かりました。
これはちゃんと説明しようとすると難しいのですが、簡略化して言えば、和歩がちゃんとできているほど身体全体を使えると同時に腰をひねらないで歩けることになり、後者の「腰をひねらない」ことは軸足に長く体重を残しておく(=振り出して踏み込んだ側の足に早々に体重を移さなくてよい)ことを可能にし、ひいては歩行の安定性が増すわけです。


また、上下のブレの抑制は、これも簡単にいえば「足首捌き」が重要だと気づきました。
足首は固めてはいけないんですが安定させなくてはいけなくて、これが最初は矛盾に思えたので固める方に意識が向いたことがあったんですがそれはもう昔のことで、今言葉にするとこうなります。

 「足首をバネのように使わない」*3

本当かな?と今書きながら思うんですが、これは実際に一本歯で歩いている時よりは、それを脱いでスポーツサンダルに履き替えた時の身体の感じからすれば妥当なのです。
というのも、これが今日一番びっくりしたことなんですが、これまでも一本歯でしばらく歩いてからふつうの靴なりサンダルに履き替えた時はいくぶんか身体が軽くなったように感じられて、「一本歯には靴底みたいな弾性ゴムついてないからなあ」などと思ったものでしたが、今日のその履き替え後の「身体の軽さ」は異常で、どう異常だったかをその時の感覚で書くならば、

 「"ナンバ歩き"で走れる」「腰を落とせば勝手に身体が走り出す

というもので、これは履き替えた時にすぐ上の歩道の信号が点滅しそうだったので履き替えた直後に走ることになったんですが、走っている時に「上半身を全く使わずに(しかもスムーズに)走れている」という感覚があって*4、「忍者走りのようだ」とも思いました(走りながら手裏剣を打てそうな勢いでした。手裏剣投げを会得していればの話ですが…)。


この、今日一本歯で歩いてから履き替えた直後の身体の動きを体感してみて、「一本歯歩行が定着したら本当に身体の使い方ががらりと変わっているだろうな」と確信しました。
姿勢がよくなるとか、そんななまやさしいものでなく。

あと、今日のブレークスルーによって(散漫に書き過ぎてどの部分がブレークスルーなのかよくわからない記事になってしまいましたが)今までの試行錯誤の諸々*5が正しかったというか、報われたような感覚がありました。
もちろん修行はまだまだ続きますが…まず今日のことも身体に定着させる必要があるし、歩幅を広げた歩き方については日頃使っていない身体部位を鍛えないと長時間歩けないような感じもありました。

そして文章に起こしたからといってものにできるわけでもない(逆効果で、変な方向に行ってしまうことだってあるのだから)ので、油断せず、日々精進ですね。


そうそう、タイトルのことですが、今日で「ふつうの靴歩き」の感覚にだいぶ近づけたという手応えがあって、どういう近づきかというと「気楽に歩けること」「歩くことそのことを楽しめること」という観点においてです、という意味を込めました。
 

*1:スピール膏を使っているのですが、これだけだと白くなるだけで角質が剥がれる気配がほぼないので、剃刀での物理的除去と組み合わせています。傷の部分にスピール膏を貼ってはいけないらしいので血が出ないようにギリギリを狙うんですが、これがなかなか難しい。

*2:もう足下は基本的には見なくても歩けるのでずっと川を眺めていて、ちょうどサギ(でしたっけ?鴨川によくいる、足が長くて緩慢に動く白い鳥)を見つけてじーっと眺めていた時だったかもしれません。または、いつも歩く時に(脳内BGMとして頭の中で)かけている曲から今日は気分転換に途中で黒江氏のriteに切り替えた時だったかもしれません。この曲は『群青日和』(入江亜紀)を読んでいる間ずっと流れていたんですが、最近朝食時に保坂和志氏のエッセイ(=氏のHPから印刷した紙媒体)のストックがなくなったので前に買って目の前の本棚に置いてあった『禅堂生活』(鈴木大拙)を読む時の後半(←説明が面倒なので詳細は割愛)に(これはプレーヤで)かけることにした曲で、今日の歩行時にスッと出てきたのでした。

*3:どんどん煩雑になっていますが…本記事を書き上げて読み直している間に気づいたのですが、これは言い方を変えると、「足首をバネにすると足首を境目にして一本歯が身体から分離してしまう」となります。つまり、これまで何度か書いてきた「一本歯を身体の一部として使う」ことに反する身体運用となってしまうわけです。甲野善紀氏のいう、腰をひねる運動やヒンジ運動が「鰯の群れ的動き」において忌避されることと同じイメージを持ってよいはずです。

*4:これはたぶん「足を前に踏み出す」以外に身体各部について意識しなかった(しないことが自然だった)」ということだと思います。

*5:例えば足指をだんだん自由に動かせるようにする足指自由体操だとか、朝起きた時に日なたぼっこついでにベランダで一本歯を履いてする謎の(←やることを決めてない、という意味です)エクササイズだとか、(これはつい最近ですが)プールでの歩行で足指だけで底を蹴って歩くことに集中したりだとか、直接関係ありそうなものもなさそうなものも全部含めて、ですね。

川に佇む

禅のことばで水は流れず橋は流れるなどという。
論理ではないらしいから考えてもしかたがない。
しかし流れない水には興味をひくものがある。

水たまりやバケツのほかはだいたい水は流れるものである。
流れない水が水たまりやバケツではなく流れている水である場合に興味をひく。
魚が川の流れを感じないことは我々が空気の流れを感じないことと似ているだろうか。
流れにのれば、あるいは流れが極端にゆっくりしていれば感じないこともある。

しかしここでとりあげたいのはそういったことではない。
例をあげるなら流れている水がある瞬間に、あるいはある時から流れないような水のことだ。
水は流れず水は流れる、ちなみにこれは禅のことばではない。

魚ではなく川になれば水は流れずとなるかもしれない。
人はみたものになれるというから川をみればよい。
水が自分のなかを流れれば水は流れずとなる。
血は我々のなかを流れるが川における水は我々における血ではない。

それをあえていうならそれも我々である。

 × × ×

↓こういうのあります。

www.noisli.com

↓川のせせらぎアイコン。

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"めめ"の話

 目は見るものを見るためでなく、見ないものを見ないためにあるのではないかと思うことがある。もちろん手や足もそうだが目も目的があってついているわけではない。本人の意思というよりは(それもいくぶんかはあるかもしれないが)結果として手や足があり、目がある。だから目に目的をかんじるのは本人の勝手であって、その勝手であるところの目的は見ないものを見ないことである、といいたいのである。目が悪くなるのもそのせいではないかとすらいいたい。つまりそれは見ないものがあるから目が悪くなるのであり、見ないものがなければ(そういう時代の方がはるかに長かった)目が悪くなどならないはずだ。目が悪くなるのが結果であることは目があるのと同じことであるが、目があるのが目的であるかもしれない以上に目が悪くなるのも目的であるかもしれない。
 見えるのは見るものも見ないものも同じである。見えるのは目的ではなく結果だからである。見ないものを見ないのは目的がある。目的といえば積極的にも見えるし、この場合は消極的にも見えるしそれは意思といっても同じことである。ただ見るとは積極的に見ることだが、これは本当に積極的といってよいのだろうか。見るのが見える結果であるとすれば、それは消極的なのではないだろうか。同じことは見ないにもいえるが、これも本当にそうだろうか。
 見るのは見えるのを続けさせるが、見ないのは見えるのを欲望させあるいは見るのを欲望させる。意思がより強くはたらくことに関していえば見るより見ない方が強い、それは欲望は現状維持を超えるのだから当然だ。だとすれば見る欲望は欲望といっていい過ぎではないかと思える。あるいは意思のある欲望とそれのない欲望とに分ければよいだろうか。けれど話は戻るが意思のない欲望は欲望だろうか。見える欲望などというものがあるだろうか。

精進の第十五歩

今日も一本歯で歩いてきて、三日連続です。

この三日とも1時間超歩いて、足に特に支障はありません。
親指のできかけのタコもなんとか収まってくれています(現状維持か快方に向かっているのかはよくわからない)。
右足親指付け根の魚の目は、一本歯で歩いている間は全くその存在を感じません。
今の状況だと靴歩きより一本歯歩行の方が楽だと思えるくらいです。
まあこれは「そういう一面がある」という話ですが、この状況を利用しない手はありません。
(というか利用した結果がこの三日連続のナイトウォークになるわけですが)

歩き始めの間は鼻緒で抑えている部分がきついのか多少痛むんですが(右足だけ)、歩くうちになんともなくなってくるので、足が冷えていたせいだと思われます。
そういえば今週後半からぐっと冷え込んできましたが(東京では初雪が降ったらしいですね…)、夜の一本歯はまだ裸足で歩けています。
歩くうちに体だけでなく足も温まってくるのが、裸足+一本歯で歩いているとよくわかります。
ただこれから冷えていくと、歩き始めがどんどんつらくなっていくはずで、どこまで耐えられるでしょうか。
あと止まったらすぐ体冷えるし(歩き終えた時はほかほかしていても一本歯からスポサンに履き替える間にけっこう冷えてしまいます)。


さて、今日は加茂川べりの鴨川公園〜北大路通間を往復しました。
北大路通の橋の西詰そばの公衆トイレを使って、そのまま橋を渡ろうとした時に、交差点は明るいんですがその陰になっている地肌の部分で木の根っこを踏んでしまい、あやうく鼻緒を切りそうになりました。
車のライトや電灯の明かりで瞳孔が開いてしまって暗がりが見えなかった、というのは言い訳で、わりと車通りの多いところで公衆トイレそばにも車が停まっていたので早々に立ち去ろうと気が急いたことが油断の原因でした。
また橋を渡っている間も夜とはいえ通行量が多くて、気が散って姿勢が乱れてうまく歩けませんでした。

というわけで本記事タイトルは「精進できた」ではなく「精進が足りない」の意味です。
まあこれに関しては、人のいるところで歩き慣れるよりも、多少気が散ってもふつうに歩けるようにフォームを定着させる方がいいのでしょう。
もちろん精進も要しますが。

 × × ×

そういえば昨日読んだ山頭火の本の内容で思い出したことがあります。
四国八十八ヶ所は四国で空海が修行した場所がその由来である、とたしか書かれていて「大師の修行の地が巡礼道になったのならその道を修行で歩いても何ら違和感あるまい」とこれは今日思いました。

大事なようなどうでもいいようなことですが、つまり四国遍路に一本歯で行く意義もあるにはあるのかな、と。

「苔バム」作成、地道の第十四歩

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今日は前↑に書いた通り、山頭火の日記を読みに図書館へ行きました。
前回見つけて今日読み始めたのは日記の原本ではなく、注釈や解説の入ったこの本↓です。

山頭火・放浪の旅

山頭火・放浪の旅

こまめに通って読み進めていきます。

 × × ×

今日は上の山頭火の本を読む時間があまりなかったんですが、それはその本を手に取る前に他の棚をぶらついていて、ステキな本を見つけてしまったからです。

胞子文学名作選

胞子文学名作選

背表紙の訳の分からなさに惹かれて手に取り、ステキな装幀にまた惹かれ、著者は誰かと探すと「田中美穂/編」とあり、見覚えのある人だと思って*1ぱらぱらめくってみると、なんかページがいろいろすごいことになっている。
どうやら「胞子」にまつわる文章を集めたものらしく、最初の手書きの詩(永瀬清子「苔について」)を読んで「手書きは味があるなあ。読めない字もまあいいかと思える」と思い、その次の書き手が小川洋子氏で「おお!」となって*2、読み始めたら止まらなくなって立ち読みで最後まで読み(小川洋子『原稿零枚日記』の抜粋)、なんだか陶然となって、読むか分からないけどとにかく借りようと思って借りてしまいました。

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苔は前から好きで、いつ好きになったかはよく覚えていませんが(でもそう昔でもないと思う)、『蟲師』(漆原友紀)の1巻第1話「緑の座」で光酒が撒かれたあとにできた一面の苔を見た時にそのつやつやしっとりもふもふ感を丹念に想像して「俺も裸足でこの上歩きたい!っていうか庭一面苔に覆われた家に住みたい!」と思ったことは覚えています。
今期の京都山道歩きでもちょこちょこ苔の写真を撮っているんですが、今日のこの本との出会いを記念して、苔のアルバム「こけばむ」をFacebookに作りました(こんな感じ↓)。

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実は京都へ引っ越してきた少し後にこっそりmixiを閉じてFacebookを始めたんですが、「こっそり」なのはどうせブログを書く以外に何もやらないと思ったからで(ではなぜ始めたのか)、それがここにきて「こけばむ」作成と相成ったので周知のために「こっそり」をおしまいにしました。
Facebookには既に本ブログの更新ログを上げているんですが、ブログからFacebookへのリンクづけはなんとなくまだいいかなと思うので、ここに書いたことは旧知の方々に宛てたものになります(Facebookには実名で登録しているので)。

ブログに載せてきた苔系の写真を集めただけですが、まとめてみるとなかなか壮観です。
興味があればどうぞ。
今後も山歩きで苔に出会うはずなので更新していくと思います。

蟲師(1) (アフタヌーンコミックス)

蟲師(1) (アフタヌーンコミックス)

 × × ×

夜にプールへ行く前に高野川沿いを一本歯で歩いてきました。
日が暮れるのが早いとこういうスケジュールが可能になります*3
今日は、うーん、だいぶ慣れてきたな、という感じですかね。
特に考察はありません…今日はあまり何も考えずに歩いていました。

ただ、つい最近「消音用にゴムをつける」と書いたところですが、今日(歩く前に)思ったのは「歯底が削れて丸まっているからこそ歩行がスムーズにいく面もあるんじゃないか」ということで、また硬い地面を歩いて鳴る音は歩き方次第である程度軽減できるはずだとも思ったので、ゴムをつけず裸木のままでいく可能性も残しておこうと思いました。

いや、決して買いに行くのが面倒とか、そういうわけでは…

*1:朝日新聞で書評書いてた人じゃないかと思って今調べたんですが、同姓同名で別の人みたいですね。でも年齢まで一緒って…まさか同じ人なのかな。

*2:何冊か読んだことがあり、今現在積ん読も何冊かあります。読んだ中では『猫を抱いて象と泳ぐ』が好きですね。ヒロインにイメージぴったりの人が会社にいて、その人と話す時にイメージが先行してしまって困った時期がありました。

*3:泳いだ後に夕食を食べるのであまり遅いと大変なのです。今日も食べ始めが23時前で結構遅くはなりましたが…

慣性の第十三歩(「下駄に預ける」)、足指の成長記録

今日は朝食が遅かったので、夕方にラナー*1バイキング食堂で食べた後、加茂川を一本歯で下りました。
前回と同じ道のりです。

足裏は治療中なんですが、右足親指の付け根の魚の目は一本歯を履く時には支障はなくて、あと実は靴をストックしていた新品(何年か前に実家近くで買ったもので、今履いている靴を履き潰してから使おうと思っていたもの)に換えてみると魚の目がそれほど痛くなかったので、今でも歩けるといえば歩けます。
一日中歩くのはきつい気がするんですが、今日みたいな一本歯メインの行程なら平気です。

 × × ×

さて、前回と同じく今日も満腹状態でスタートでした。
胴体を上下に揺らさないように、あと足に局所的に力がかからないように歩くことを意識します。

いくつか気付きがあって、まず一つ目は、これはまだよく分からないんですが感覚的なことで、第八歩で「上を向いて歩こう」と書いたのはやはり間違っていなくて、ただその角度が「仰角45°」だとちょうどよい、その角度だと「全身を使って歩ける」ような気がします。
なんとなく、一本歯歩行に適した全身の「しなり方」がつかめてきたかもしれません。


二つ目はちょっと面白いというかきっと「極意」です。

長嶋茂雄にとって素振りは絶対的なもので、阪神の掛布がスランプに陥ったとき長嶋が掛布に電話をかけてきて、
「掛布君、そこで素振りしてみて。」と言ったのは、もうほとんど伝説化している話で、私も実際掛布がそれをしゃべるのをテレビで見た(と思ってるだけで本当は見てないかもしれないけど)。
長嶋に言われたとおり掛布が受話器を置いて受話器のそばで素振りすると、何回目かの音を聞いて長嶋が、
「今のスウィングだ。」と言った。
これはもう本当でも作り話でもどっちでもよくて、長嶋と素振りを結びつける重要な話だ。選手はバットを振りながら一回一回、バットと対話し、自分の体と対話する。これもまた比喩じゃない。松井は長嶋とそうやって二人きりで、一回一回、ブンッ! ブンッ! とバットを振ることで対話した。
(…)
素振りは単調な反復練習ではない。バットとの対話、体との対話だ
試行錯誤に漂う 11保坂和志氏がHPに載せているエッセイ)

この「試行錯誤に漂う」のエッセイを今日の朝食時に読んでいたんですが、一本歯で加茂川を下っていてふとこの抜粋部の話を思い出し、一本歯で歩く一歩一歩も自分の体との対話であり、「下駄との対話」なのだと気づきました。
そう思ったそばから足の動きが緻密になった(肌理が細かくなった)気がして、その勢いというか何か連想がはたらいて、たぶん「こういうことをしているのはどんな人だろう?」みたいなことを考えたのではないかと思うんですが、『バガボンド』(井上雄彦)の沢庵和尚が頭に浮かびました。
「あ、いいなあ」と心の中でにやにやして、さらに体が軽くなったような気がして、すると天啓のように閃きが訪れた、その閃きの内容を一言で表したのが本記事タイトルの「下駄に預ける」です。


居合や杖道*2で刀を振る時に、手や腕に力を込めて振るのではなく「刀の動きを邪魔しないように全身を動かす」という術理を内田樹氏や甲野善紀氏の文章で知りました。
バガボンド』でもこれと似た意味の描写があったような気がします*3

この話は得物全般に言えるはずで、いや下駄は武器ではないですがそれはさておき、一本歯下駄にだって刀と同様に「下駄にとっての理想的な動き」があってもおかしくはなく、その下駄の理想的な動きを乱さないように歩くことが「理想的な一本歯歩行の形」であってもおかしくはない
つまり、歩行の主導権を下駄に明け渡すこと、これを「下駄に預ける」と呼ぶのです*4


ということは今考えたんですが、歩いている間にはこの「下駄に預ける」の実際的かつ簡略的な表現として、「下駄の慣性に従う」ということを考えていました。

ふつうに歩く場合に「なぜ前に進むのか」というと、足を前に出すからではなく(小学生ならこう答えそうですね)、体が前に傾くからで、体が前に傾くと(倒れたくないので)自然と足が前に出る、この一連の流れは「最初の一撃」(=体を前傾させる)以外は慣性に従うことで実現されています。
一本歯ではこの基本的な流れに一つ付け加えることがある、あるいは「最初の一撃」に工夫の余地がある。

…あんまり引っ張るのもアレなんで本題書きますが、歩行のスタートである前傾を、一本歯を前に傾けることでそのきっかけとすることができるのです。
つまり軸足を前に踏み込むことが、全身の前傾動作を引き出す
これ、当たり前のように思えて(しかし一本歯の「当たり前」って何だろう?)とても大事なことで、これを意識する、これが(一単位の)一本歯歩行のスタートであると認識するだけで動きが断然変わってきます。
整理すればこんな感じ。

 ・通常の歩行:全身前傾→足の振り出し→…
 ・一本歯歩行:軸足の踏み込み→全身前傾→足の振り出し→…

今日書いた内容を自然にこなせれば(と言っても多少抽象的な話なので意識しながら慣れていくしかないのですが)、一本歯歩行の持久力がぐんと増す(より通常歩行に近づく)と思います。

 × × ×

そうだ、あと今日のコースを前回歩いた時は両足の親指にタコ(の「なりかけ」)ができて痛い思いをしたんですが、今日はそのタコの名残り(皮剥けとか、皮が硬くなってるとか)が残っていたにもかかわらず平気でした。
鼻緒を締めた効果もあるでしょうが、これは限界があって(きつすぎると足が圧迫されて指に血が通わなくなるから)、その限界とは別にやっぱり歩きながら緩んできたのは今回も一緒で、でも大事なのは「足指の踏ん張り」だと気づきました。
これも靴歩きと全然違うところですね(靴を履いてる時は指に力を入れなくても歩ける)。
今回は行程の最後まで足指をちゃんと踏ん張っていたので、あまり指と台がこすれなかったようです。

というわけで足指も鍛えないといけないんですが、これと関連する話で、京都で下駄歩きを始めた頃に足指に関心が向いて、家で靴下を脱ぎ履きする時に足指をひょこひょこ動かすことを続けているんですが、たしか最初の1週間くらいで左足の親指が親指だけ動かせるようになり、その後も着々と動きに成長が見られ*5、たしか先週のどこかの段階では左足の指を全部開ける(じゃんけんでいう「パー」の状態)ようになりました(下の写真)。
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そしてつい昨日のことですが、右足もパーができるようになりました。
まだ親指以外は個々の指はそれだけでは動かせません。
今後の成長も楽しみです。

*1:ブランチ的な、昼食兼夕食。lunch+dinner=lunnerということでラナー。今期2回目で今後も頻度高そうなので命名しました。

*2:杖道(じょうどう)がどんなものかはよく知りませんが、内田樹氏のブログには時々真剣も使う型稽古として書かれていたと思います。

*3:「相手を斬ろうとするのではなく、刀の赴くままに振った先に(たまたま)相手がいるのが理想だ」といった感じの。あれ、ちょっと違う話かな?そんで『バガボンド』ではなく「五輪書」かもしれません。

*4:お気づきかと思いますが、「下駄を預ける」をもじっています。この「下駄を預ける」という言葉、最近読了した『寓話』(小島信夫)にも出てきたんですよね…とても無関係とは思えません。ふふふ。

*5:この成長については、なんだか赤ん坊のようだなと思っています。ハイハイを始めそうでへたっとなったり、歩き始めそうで立ち上がれなかったり、といった状景と同じものを自分の足指に感じたんですが、自分の足指はもちろん自分の身体の一部であって、うまく言えませんが何か神秘的なものを感じました。だって、まだ自由に動かせるほどではないんですけどだからこそなんですが、「念じれば動く」んですよ。意識として立ち上がる前の無意識に触れている、と言えるかもしれません。

死者として

cheechoff.hatenadiary.jp
一昨日のこと↑ですが、遍路について調べた時に四国八十八ヶ所についての論文集みたいなものをちらりと読みました。

「四国遍路における装備の由来と歴史」という項目に惹かれて拾い読みをしたのですが、杖は大師(空海)であって宿に泊まる時には足を洗うように杖の先端を清める、杖と共に歩くから「同行二人」という(この文字は笠(正式名忘れました)に記してある)、といったことを知り、また笠に記された(上記とほかの)文言や白衣は死者を擬制する装束で、というのも笠に記された文言は棺の蓋に記されるものでもあるから笠を被る巡礼人は棺の中にいるのである、そして(その関連で?*1)巡礼中に行き倒れた場合は杖を墓標とする、という話を読みました*2

論文を読んでまず「そうか、死者なのか」と思って、前に一本歯で爽快な音を立てて歩くことについて「周りは気にしてられない」みたいなことを書いたけれど、そういうことではないのだなと思いました。
そして「歯底に消音のためにゴムを付けた方がよいな」と思い、「これは裸木のままだとしんどいからという言い訳ではない」と前の自分の認識を改めんとするように念じました*3


この、巡礼する間は死者を擬制することについて、思えば、巡礼の準備を主な目的とする今の生活の中の自分も半分死んでいるようなものだなと、ふと考えました。
もちろん擬制の意味は「その死が社会的な死である」ということです。
これは憂鬱になるような話ではなく、大変重要な認識のように思ったので、ちゃんと考えてみようと思います。

そのとっかかりになるかは分かりませんが、本記事を書こうとする前に『パンプキン・シザーズ』(岩永亮太郎)を連想しました。
本記事のタイトルは、確か10~12巻のどこかの断章のタイトルと同じものです。
あらすじなどは書きませんが、主人公の一人であるランデル・オーランド伍長はその断章で、「死者として」生きることに光を見出しています。
そこに至るまでの少尉(アリス・L・マルヴィン少尉ではなく、前の部隊にいた時の上司)との回想における会話は、数度読んだだけでは呑み込めない深いものを感じました*4

まさかこのマンガが四国遍路と関係してくるなんて思いもしませんでしたが、そう思っておきます。

*1:関連ではないかもしれまえんが、回り終えた時に杖を奉納(供養?)する、と書かれていたように記憶しています。

*2:このような話はネットでそういうサイトを調べれば正確な知識が得られるのでしょうが、そういうことはしません(と言うくらいなので本記事の記述をあてにしないで下さい)。正確さは重要ではなくて(とは保坂氏がエッセイで度々強調しているから僕もお題目ではなく実際そう思えるようになってきました)、遍路の歴史や由来はそれに対する個人にとっては、遍路に向かう人がその目的や願いとして抱く思いが千差万別であるのと同じことだと思います。ただ作法(の意味ではなく「実際の作法」の方です)については、個人や集団や場所の作法の集積として八十八ヶ所が成立しているのだから、それを乱さない程度には踏襲すべきだとは思います。「一本歯で巡る」ことがそれを乱さない範疇にあるかどうかは…どうなんでしょう。このことに対する心配が本記事の表の(裏ではない、と信じたい)テーマです。

*3:それで昨日さっそく歯底にゴムを取り付けようとしたんですが、歯底がなかなか丸くすり減っていてちょっと平らにしようとするくらいではまともにつけられなかったので、消音用の一本歯としてもう一足買おうと思います。下駄ごとに若干の個体差はあるでしょうが、靴から一本歯へ移行するほどの苦労はないはずです。

*4:立ち読みで2、3度読み返しましたが、「これはちゃんと読まねばならぬ」と思って1巻からまとめて買おうと前に決意しました。といって「まとめ買い」ではなく、108円棚に並んだ分を買うのですが(お金がないのではなく、それを一種の縁とみなしているからです)。この本は立ち読みで一度12,13巻くらいまで読みましたが、購入しなおして家でゆっくり読んでいて、今は7巻を読み終えたところです。手元には10巻まであります。