human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

死者として

cheechoff.hatenadiary.jp
一昨日のこと↑ですが、遍路について調べた時に四国八十八ヶ所についての論文集みたいなものをちらりと読みました。

「四国遍路における装備の由来と歴史」という項目に惹かれて拾い読みをしたのですが、杖は大師(空海)であって宿に泊まる時には足を洗うように杖の先端を清める、杖と共に歩くから「同行二人」という(この文字は笠(正式名忘れました)に記してある)、といったことを知り、また笠に記された(上記とほかの)文言や白衣は死者を擬制する装束で、というのも笠に記された文言は棺の蓋に記されるものでもあるから笠を被る巡礼人は棺の中にいるのである、そして(その関連で?*1)巡礼中に行き倒れた場合は杖を墓標とする、という話を読みました*2

論文を読んでまず「そうか、死者なのか」と思って、前に一本歯で爽快な音を立てて歩くことについて「周りは気にしてられない」みたいなことを書いたけれど、そういうことではないのだなと思いました。
そして「歯底に消音のためにゴムを付けた方がよいな」と思い、「これは裸木のままだとしんどいからという言い訳ではない」と前の自分の認識を改めんとするように念じました*3


この、巡礼する間は死者を擬制することについて、思えば、巡礼の準備を主な目的とする今の生活の中の自分も半分死んでいるようなものだなと、ふと考えました。
もちろん擬制の意味は「その死が社会的な死である」ということです。
これは憂鬱になるような話ではなく、大変重要な認識のように思ったので、ちゃんと考えてみようと思います。

そのとっかかりになるかは分かりませんが、本記事を書こうとする前に『パンプキン・シザーズ』(岩永亮太郎)を連想しました。
本記事のタイトルは、確か10~12巻のどこかの断章のタイトルと同じものです。
あらすじなどは書きませんが、主人公の一人であるランデル・オーランド伍長はその断章で、「死者として」生きることに光を見出しています。
そこに至るまでの少尉(アリス・L・マルヴィン少尉ではなく、前の部隊にいた時の上司)との回想における会話は、数度読んだだけでは呑み込めない深いものを感じました*4

まさかこのマンガが四国遍路と関係してくるなんて思いもしませんでしたが、そう思っておきます。

*1:関連ではないかもしれまえんが、回り終えた時に杖を奉納(供養?)する、と書かれていたように記憶しています。

*2:このような話はネットでそういうサイトを調べれば正確な知識が得られるのでしょうが、そういうことはしません(と言うくらいなので本記事の記述をあてにしないで下さい)。正確さは重要ではなくて(とは保坂氏がエッセイで度々強調しているから僕もお題目ではなく実際そう思えるようになってきました)、遍路の歴史や由来はそれに対する個人にとっては、遍路に向かう人がその目的や願いとして抱く思いが千差万別であるのと同じことだと思います。ただ作法(の意味ではなく「実際の作法」の方です)については、個人や集団や場所の作法の集積として八十八ヶ所が成立しているのだから、それを乱さない程度には踏襲すべきだとは思います。「一本歯で巡る」ことがそれを乱さない範疇にあるかどうかは…どうなんでしょう。このことに対する心配が本記事の表の(裏ではない、と信じたい)テーマです。

*3:それで昨日さっそく歯底にゴムを取り付けようとしたんですが、歯底がなかなか丸くすり減っていてちょっと平らにしようとするくらいではまともにつけられなかったので、消音用の一本歯としてもう一足買おうと思います。下駄ごとに若干の個体差はあるでしょうが、靴から一本歯へ移行するほどの苦労はないはずです。

*4:立ち読みで2、3度読み返しましたが、「これはちゃんと読まねばならぬ」と思って1巻からまとめて買おうと前に決意しました。といって「まとめ買い」ではなく、108円棚に並んだ分を買うのですが(お金がないのではなく、それを一種の縁とみなしているからです)。この本は立ち読みで一度12,13巻くらいまで読みましたが、購入しなおして家でゆっくり読んでいて、今は7巻を読み終えたところです。手元には10巻まであります。