生きた言葉と公案(まえおき)
「公安」ではなく「公案」です。
『無心ということ』(鈴木大拙)をルカラガーム(月パスで通っている京都のジム)で読んでいる時に、
「活句と死句」という表現を見つけ、
この「活句」こそが僕がブログで何度も考えてきた「生きた言葉」のことだと思い、
嬉しくなって、
その記述の少し前の(というか本の全般にわたってある)公案が、
禅・仏教の中で言葉を活句として維持するための工夫だと分かって、
個々の公案自体はなかなか理解が届かないんですが、
それはそれでもよいというかそういうものだということで、
そうして家で『春風夏雨』(岡潔)を読んでいて、
これも仏教の話がよく出てきて呼応箇所も多いのですが、
この活句の話と「法界」の話とが繋がって、
そのことを書こうとしてブログを立ち上げたのが2時間以上前で、
じゃあその間何をしていたんだというと、
過去記事を見て面白いなと思ったり(ある時期の自分の文章はなかなか飽きが来ません)、
書評に使えそうなのを見つけて追記して書評サイトに投稿したりしていて、
目が疲れてしまいました(結論)。
というわけでその書評サイトのリンクだけ貼っておきます。
「活句」の話は、
言葉以前のものを言葉によっていかに賦活する(し続ける)かというもので、
そのようなことを言葉で考えられるのかという途方もなさというか、
言ったらおしまいじゃないのかといった予感もありますが、
その予感は正しいながら抗うべきものである、
というのが「祖師方のお情け」であるようなので、
興味をもって取り組む予定です。
以下、後半に続きます。
・『「歴史」の体制』(フランソワ・アルトーグ)
https://shimirubon.jp/reviews/1705748
・『民衆という幻像』(渡辺京二)
https://shimirubon.jp/columns/1705747