human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

着脱式鰓呼吸器の詩

最近、仏教や禅の本を並行していくつか読んでいて、
おそらくそのせいで文章があまり書けません。

何度か動機が湧いて書き始めたことがあって、
でもだんだんと内容が書きたいことからずれていって、
それ自体はいつものことですが、
その収拾のつかなさを放置できずに、
そのまま書き続けることが今持っている感覚を損なうようで、
筆を措くということを繰り返しています。

この傾向自体は新鮮なので別に構わないのですが、
そして違うのですがスランプのようにも思えて、
この状態から脱してみたいという興味もあり、
しかしこれは本記事のテーマではありません。

どちらでもよいのですが、
この記事が(タイトル通りの)投稿にたどり着けば、
それもまた吉。

 × × ×

古めの本ですが、加藤典洋『この時代の生き方』をちびちび読んでいます。
そのちびちびが、最近の長雨が手伝って、今日は勢いが増しました。

の、増したはずなのですが、思いの外思索に誘う節があり、
その勢いがまたすぐに止まってしまいました。

加藤氏の本はいくつも読んでいて、
論理のすべてに納得したり、賛同するわけではないのですが、
なにか妙に身体に響くものがあり、好きです。
なぜだろうとは今日まで思わなかったのですが、
今日読んでいて、ふと保坂和志のエッセイを連想して、
なるほどなあと一人合点がいきました。

程度としては加藤氏のほうが「重い」とは思うのですが、
両氏とも「言葉に生かされている」という気がします。
それほど、言葉に自分を賭けている。
言葉を、明確な目的をもった道具ではなく、手足のように、
あるいはもっと中枢的な臓器のように、扱っている。
だから、嘘を、社会や常識に対してではなく、
自分に対して嘘をつくと手ひどい傷を負う。
だから、滅多に嘘はつかないし、
嘘をついた時には取り繕わず、すぐ外聞にさらす。
それは傷に消毒液を塗るよりは、砂土をこすりつける行為に近い。
傷の治りが遅いことよりも、傷の記憶の風化を恐れている。
後者こそが、奥深く、臓器としての言葉に濁りを与えるから。

それはさておき。
加藤氏の、上述した一節というのは、このようなタイトルです。

 " 「元気がない」ということの元気のなさ "

氏が評論の仕事を請け負った時(いつもかどうかは知りません)、
まずいろいろ調べ、算段も立てる。
しかし締め切り直前まで、ぐずぐする。
締め切り二日前の半日を、ベッドでの輾転反側に浪費したりする。
頭の中では評論を罵倒したり、この関心も今だけだと思ったりする。
そのような「元気のない」時間の滞留、
非生産的な行為と観念のただ中にあって、
それでも「自分にとって書かずにはいられないもの」、
そのようなものがじわじわと湧き出てくるのを待つ。

 そう、それは、部屋の真ん中にパン屑をおいて、部屋の四隅からネズミ、ゴキブリ、ミミズ、ヘビ等マイナスなものが出てくるのを待つのに似ている。部屋に人がいてガヤガヤ元気よく騒いでいる間、この「不元気」は息をひそめている。連中が部屋から去り、誰もいなくなり、しんとしている、その状態が半日も続くと、カサ、コソ、音がして四隅の穴の暗がりに眼が光り、小さな鼻先が現れ、やがてマイナスのもの達がそろそろとパン屑のほうに歩み出、近づいてくる……。
(…)
──この「不元気」状態は、この「それでもやはり書きたい」ひとカケを得るための、つまりは、わたしのイニシエーション(通過儀礼)なのである。

p.173-174

喩えがやけに視覚的に面白いので長々と引用しました。

さて、それから、森田療法中原中也の(強度の神経衰弱時の)詩、
ハイデガーを比してのレヴィナスの思想のなどを氏は連想して書く。

その後半の、というか最後の部分を引用します。
氏の連想に、僕の連想が連なった部分です。

 こういうことを書いていると、また一つのことが思い浮かんでくる。わたしは最近若い友人を一人亡くした。そのことでわたしは、自分が長らく忘れていたある感覚を呼び覚まされた。それを垂直性の感覚といっておいていい。落雷のように、真上から何かが降ってくる。それを感じる垂直性の感覚。でも、わたしはその友人に、元気のないということが十分に密度の濃い生の状態であること、元気のある状態より、時には濃密な生がそこにあること、そういうことを一度、話したかったハイデッガーはその哲学の中心に死への不安をおいたが、レヴィナスはその思惟の中心に生きることのカッたるさ、無為、怠惰、疲労をおいた。彼は朝起きてベッドからぬけだせないけだるさの感覚を、生の感覚と呼んでいる。元気のない時の自画像、さえない自分の自画像を一つ、お守りのように、もっていることは、死なないためにでなく、より道しながらぐずぐず生きるために、必要なことである。(「思想の科学」一九九五年二月号)

p.176-177

「死なないためにでなく」

ここを読んで僕は、この加藤氏の若い友人は、
自分で命を絶ったのだと思いました。
そして僕は、若い友人の自殺、といった言葉から毎度必ずといっていいほど浮かぶ、
大学時代のサークルの友人のことを連想しました。
僕のその友人は、加藤氏がここに書くようにまさに、

「垂直性の感覚」

に従って、それを軸にして生を深々と味わう人物でした。
だから、加藤氏が言ってあげたかったこと、この同じ言葉を彼女が聞けば、
救われたかもしれないし、
やはり彼女自身のその「垂直性の感覚」に従って、耳を貸さなかったかもしれない。

と、ここまで書いて注釈をすべきだと思ったのは、
僕の友人、いくつか同じバンドを組んだこともあるその彼女の死を、
大学院を出て、就職して二、三年経った頃に、その知らせを受けたこと、
そしてその衝撃に一週間ほど自分の身辺のすべてが色あせ、
自分のそばで笑うすべての人間が憎いと思い、
詳細を知ることの恐怖から、仕事を理由に葬儀への出席を辞退したこと、
その結果、彼女がどのようにこの世を去ったのかを、
未だに僕自身は知らないということです。

そして、あるいは彼女の友人などは気を悪くするかもしれないが、
大学時代に密度の濃い時間を一緒に過ごした一人の人間として言わせてもらえば、
彼女は状況が状況なら、強い意志で生を放棄することも十分あり得る、
それほどに激しく、振れ幅の大きく、ゆえに庇い、守りたくなる人だった。

…思い出話はこのくらいにして。

「詳細を知ることの恐怖」と先に書きました。
彼女のことを思い出すたび、何とも言えぬ虚無的な思いが去来していたのですが、
その感覚も時とともに変わってゆきました。
そこには経験的実感の風化、記憶の風化だけでなく、
死生観や縁起(因縁)感覚が変わってきたことも作用しています。

その詳細は別の機会に譲るとして、
ここでは記事タイトルの話をしたいと思います。


いや、一言だけ書いておけば、
こうして彼女が僕の頭の中を何度も訪れ、
そのつど考えずにはおれない思いにさせる。

「彼女は生き続けている」

僕がそう言うには、それは十分なことです。

 × × ×

冒頭に書いた「仏教・禅の本」の一つで、
あくまで「系」ということですが、
岡潔のエッセイ(『春風夏雨』)をここ数日読み始めました。

そこに「無明」や「唯物観」のことがよく出てきて、
というかそれらに染まった戦後日本社会を憂うのが本テーマですが、
岡氏はそのような戦後社会を「ダム湖に沈んだ町」に喩えています。

いきなり話が大雑把に飛んでわかりにくいのですが、
本記事のタイトルはこのメタファを踏まえたものです。


先の加藤氏のエッセイから引いた「垂直性の感覚」、
これは必ずしも個人的な気質に因るというのでなく、
時代によっては、それが主流として前面にでてくる、
そして僕は連想からですが、現代はそうなりつつある、
という考えを持ちました。

「キレやすい若者」という雑誌記事タイトルのようなテーマ、
また感覚的、無時間(短期)的な価値を煽る商品社会の消費主義、
といったものを思い浮かべれば、
現代社会と「垂直性の感覚」とは相性が良いと思えてきます。

そしてこれは、生理学的にはすべて脳のこと、
抽象的にいえば言葉のこと、だといえます。

規則もシステムも言葉が組み上げるものだし、
お金が価値尺度を支配するのも共同的な合意がもとだし、
物質的な欲求が身の丈を遥かに越えるのは脳の主体性に因るからです。


話がまた大きく変わりますが、
加藤氏の引用した先のエッセイの一つ前に、
本、読書についての話がありました。
この話も関連してくるので、飛び飛びに引用します。

 孤独だったから本を読んだのではなくて、本を読んだから孤独になったのでは、なかっただろうか。
 そう思うと、実に多くのことが合点いく形で思い浮かんでくる。
 (…)
 ぼく達が人に本をすすめる時、ぼく達はときどきそのことを忘れている。そのことというのは、本を読むことのはじまりにあるのが、引き抜く力だということ、人を共同性に加える力ではなくて、人を共同性から引き剥がす力、話の輪に加える力ではなくて、話を通じさせなくする力だということだ。
 (…)
 近頃の読書のキャッチフレーズは、これを読まないと、あなたは「時代」に遅れますよ、と囁く。もちろん、これは別に「時代」でなくとも構わない。「学校の授業」でも「時代を超越した永遠の真実」でもよいし、また、「人間らしい生活」でも「暮らしをまもる生活者の声」でも、さらにいうなら、「人類の知的遺産」でも構わない。
 それは、ぼく達を孤独にしない読書、なんらかの意味で、ぼく達を話の輪に加える読書である。
 (…)
 本を読むことで作られている話の輪、社会の輪から、もう一度自分を引き抜く、そのためには本を捨てなければならないだろうか。というより、むしろ、本の本来の引き抜く力こそが、この管理社会からもう一度自分を引き抜く、その源泉になりうるだろうか。
 ぼくは一つの答えを持っている。しかしそれは経験的な答えに過ぎない。

「引き抜く力」p.169-171

僕が常々考えていることをそのまま言い当てているような箇所で、
けれどそれはきっと、僕が加藤氏の本を読んできたからこそだと思う。

「ぼくは一つの答えを持っている」

その内容が気になるようで、でも気にならない気もする。
僕も「一つの答え」を、同じ「経験的な答え」を持っている気がするからだ。
それはいい。

とても正直な文章だ。
たとえば高校の図書通信などには、こんな文章はとても載せられないだろう。
でも、本当のことなのだ。
「本を読むことのはじまり」は、そうなのだ。
このことを学校は、主体的には教えてくれない。
でも、それも道理なのかもしれない。

話を戻します。
いや、話は戻っていきます。

 × × ×

「むしろ、本の本来の引き抜く力こそが、
 この管理社会からもう一度自分を引き抜く、
 その源泉になりうるだろうか」

加藤氏のこの言葉が、
「脳化社会」(@養老孟司)である現代社会、
そのメタファーである上述の岡潔氏のいう「水底の町」、
と反応したのでした。

 × × ×

 町は湖に沈み、水底にある。
 言葉の湖、その水は見えないが、たしかに呼吸に作用する。
 息が浅くなる。
 なにも対策せずにはいられない。

 皆は道具を拵える。
 酸素ボンベとその吸入口。
 呼吸器の機能そのままに、空気を別系統で用意するわけだ。
 でも、なんだか重そうだ。

 ちょっと考えてみる。
 手段は一つではない。

 水の中で暮らす生き物を見よう。
 彼らは鰓をもっている。
 原理はよくわからないが、苦しくはなさそうだ。
 何しろスイスイ泳いでいる。

 彼らの鰓は体の一部としてある。
 目的があって造られたものではない。
 結果として、そう見えるに過ぎない。
 そのような鰓を、僕らも持てるだろうか。

 言葉の海で、自然に呼吸するための鰓。
 それは外的なものでありながら、人の中心に作用する。
 人の中心、それは意識だ。
 意識の内圧を、水中都市の外圧と一致させるんだ。

 それは、頭の中を情報で満たすことではない。
 言葉の湖は均質ではない。
 でも、そこに法則はある。
 量は凄まじいが、量に惑わされないことだ。

 また、変化の激しさにも。

 物質の四季と次元を異にする、情報の四季。
 早く進みたければ、泳げばいい。
 じっとしたければ、漂えばいい。
 どちらにせよ、自然体でそうするための鰓。

 鰓とは本のことだ。
 
 寺山修司はかつてこう言った。
 「書を捨てて、町へ出よう」
 それを僕は、こう言い直そう。
 「書を拾って、町へ出よう」

 君を救う一冊の本は、どこかに必ずある。
 けれど大事なことがもう一つある。
 その本を見つけることは、君にしかできない。
 言い方を変えればこうだ。

 その本は君だけしか救わないかもしれない。

 本が君を見つけてくれることも、まれにある。
 どちらにせよ、最初の一歩を踏み出すのは君だ。
 それを忘れないように。
 グッドラック。

 本の海で、いつか会おう。