human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

毎日新聞(1/12 日)

 
なにか、習慣的なことがらに関連して書こうと思った時に、それを書くこと自体が習慣になるかどうかを、書く前から考えてしまいます。
その「先読み思考」が、習慣化できないのなら書く意味はない、という判断材料になってしまうのは、よくない。

やってみたいと思ったことが、やって得られるものの結果を(本当はできるわけないのに)先取りして、無駄なことはするまい、などと賢しらを自分に誇る。
その「無駄」の判断基準は成果主義に統御されていて、この成果主義は実は一貫性がない。
仕事に対してはいいとして、それ以外の生活の中では、都合のいい時だけこの判断基準をもってきて、確信を得た気になる。
が、ご都合主義的な成果主義の運用は、その運用そのものの疑義を招く。
「なぜ今この基準で判断するのか? 矛盾なきよう、常に同じ基準を行動指針とすべきではないのか?」

このような迷いは、人間的であり、社会との折り合いの可能性を見限っていない、という姿勢でもある。
迷うな、と社会は言うが(「人間は迷うものだよ」と言ってくれるのは個人だけだ)、迷わない人は「社会との折り合い」を超えて、社会との一体化を志向することになる。
言い換えればそれは、私は世間の一般人である、私は常識に属する、私がすることは誰もがしている、という認識への染まり込み。
迷わない人は、疑いが持ち上がった時に、その目を自分自身には向けない。

…だからといって、迷わない人は人間的でない、というわけでもありませんが。

人はどこまでいっても人、です。
その視点を忘れないこと、目の前の人の不可解さを(関心をもって)問い続けること。
この姿勢におけるキーワードは、内田樹氏の思考の根幹の一つである「主観的合理性(の探求)」です。
忍耐には限界がありますが、身体性の賦活をベースに、時が経てばこの姿勢に戻ってこれること。

そういう人に、私はなりたい。

まえおき

先週に新聞を読み始めて、平日はオフィスで読んでいます。

昨年の秋頃にアパートのすぐ裏でマンション工事が始まってから、日中家にいる日が工事のない日曜だけになって(土曜も、祝日の月曜も工事がある)、日曜だけは家で読むことにしました。

それで、家でコーヒーを飲みながら(いつも1日一杯と決めているが今日は久しぶりに二杯飲んだ)じっくり読んでいると、これがなかなかいい。

学生時代はジャズ研に入っていて、その時に聞いていた大量のジャズその他音源が今もデータとして手元にあって、今日はそれを整理して、新聞を読む間に流すBGMを選び出しました。今日はその中のボサノバ。


新聞の日曜版は平日と同じ調子のニュース欄に加えて、連載コラムや書評欄があり、社説のような記者の書いた記事も日々のニュースを遠目に見ての視野の広いもののように思えて、なんだかホッとします。

閉塞感とか、成長時代の終わりとか、先行きの見えなさとか、ニュースの内容も社会批評のテーマもネガティブな調べが底流していますが、それらのテーマや内容が僕をネガティブにさせるかといえば、実はそうではない。

ネガティブな感情は、それを否定せず受け入れるにしろ、吹き飛ばそうとポジティブに反跳するにしろ、近視眼的な姿勢を誘導します。
だから、目の前のことしか見ていないような記事ばかり読まされると、そこから(自明なものであれ、隠されたものであれ)ネガティブな感情を読み取ってしまうのだと思います。
そう思えば、短期利益を追求する経済志向も、ある種のネガティブさの顕れかもしれません。


それはさておき、時が経つのを気にせず日曜版を読むのもいいものだと思い、このゆっくりさを維持して自分の思考を文章にできればそれもまたいいなと思い、この記事を書き始めました。
最初に書きましたが、これが習慣化するかのような記事タイトルがついていますが、あまりその可否とか結果とかを想定せずに書ければと思います。

ブログの記事のタイトルには、その記事内容の要点やキーワードが並ぶものですが、そうやって整理分類とか、要約的意味づけを、してもいいのですが、しないのでもいいのではないか。

また話が抽象的に逸れますが、成果主義と習慣というのは(特に反発するでもなく見えて)本質的には相性が悪いと僕は考えます。
先の「ゆくくる」でも少し触れましたが、その時とは別の言葉で書くと、習慣とは「なにげなく続くもの」で、意味(価値)はないし、仮に意味を見出すならばそれは続いていること自体にしかありません(なぜなら、続かなければそれは習慣ではなくなるから)。

成果主義は、この習慣という行雲流水的営為に、全く別の価値基準を持ち込みます。

上で「相性が悪い」と書いた理由は、成果主義はこのことによって習慣に対し、常に潜在的な破壊可能性を有するからです。
このような自覚がなくとも、人は柔軟に習慣を破壊しては新たに構築し、そしてそれをまた繰り返すものですが、社会の成果主義が個人に負荷する圧力が増すに連れて、柔軟性だけでは対応し切れなくなります。
そして、「ゆくくる」の繰り返しになりますが、成長から老いへシフトする宿命である人間が全的に成果主義に染まることの帰着は、構造的な不幸の増大です。

…話が本題にたどり着く前に力尽きそうなので、ここで本題に入ります。

今週の「毎日」日曜版

今週のというか、今回は初めて毎日新聞の日曜版を読んだので、その感想も入ります。

これまで朝日新聞(実家で読んでいるし、「ののちゃん」が好きで個人的な購読期間が一番長い)、読売新聞(工学部の院生の時に酔狂にも入社を目指して、就活時にしばらく読んでいた)、日本経済新聞(実家に帰った時に読む)、日本農業新聞(神奈川で働いていた時、ニュースを読んでネガティブになる自分に耐えきれなくて「一番害がない」という選定基準でしばらく読んでいた)を読んできました。
それらとの比較はしません(できません)。
今列挙した意味も…特にありません。

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連載記事に、僕にはお馴染みの著者がいたのが少し嬉しいです。
・「人生相談」に、高橋源一郎
・別紙「日曜プライムくらぶ」に「炉辺の風おと」というタイトルで、梨木香歩

書評の(社外)担当者では、橋爪大三郎白井聡池澤夏樹の各氏。
同じ担当者で、名前をどこかで見たという記憶しかありませんが(音楽評論家だったかな…)、山崎正和氏の書評が、とりあげられた本が面白そうというのもあるんですが、文体が好きで、氏の著書も読んでみたいという気になりました。

山崎氏が取り上げていたのはトーマス・ベルンハルト著『破滅者』。

破滅者

破滅者

書評記事から二箇所、引用します。
記事のタイトルは、「わかる」ことの悲劇と救い、です。

 「わかる」ことは、人を孤独にする。わからないすべての他人を敵に廻し、わかり知る密室に閉じこもることになるからである。
 とくにわかる対象が自然物ではなく、人間の知恵や才能である場合、事態は致命的な悲劇となる。他人の優越がわかればわかるほど、人は自分にはそれができないことが切実にわかり、自分自身を見下して、孤独を深めるほかはない。

 文体が直接に主題を表現する前衛的な手法がみごとだが、その厭世観も読み終わると救いがなくもない。人は誰しも自分だけにわかる何ものかがあるわけで、狂気には到らなくともその意味で人生共苦のなかにいるからである。

「わかる」ことの孤独、それがもたらす悲劇。
その悲劇の内容は書評内で述べられていますが触れません。
孤独がエスカレートして運命的に悲劇が導かれる、ということのようですが、もちろん本の内容は知らぬまま、この要約だけを目にして、考えるところがありました。


無知の知、という言葉があります。

なにかを知る、理解することは、そのことよりももっと多くのことを自分が知らないことを教えてくれる。
解決はつねに、新たな問いを携えてやってくる。

人に対する理解において、一般論や客観的な観察結果、そして主観のバイアスへの認識など、アプローチを突き詰めれば人は他者をかなりのところまで把握することができる。
ただ、そのアプローチがどれほど精緻に、慎重にとられようとも、他者理解を不変の確定的なものとしてしまえば、それは「見限り」になる。
(話は逸れますが、現代日本で蔓延しているのがこの「他者の見限り」で、他人への関心を持たない、想像力をはたらかせることもない、という現象の大元です…いや、因果関係ではなく単に言い換えただけかもしれません。すぐ思いつく原因としては、個人の頭の情報処理をオーバーヒートさせる高度情報社会の複雑さ、プラス養老孟司先生いうところの脳化社会の進行、等々)

知の袋小路は、思考の閉鎖性と不変志向によって形を成し、その影響力を増していきます。
しかし、この両者は意識活動の自然過程の必然であり、そうだとわかっていて簡単に回避できるものではない。
そこにメカニズムはあっても、メソッドはない。
意識の自己言及、マトリョーシカ入れ子構造の外に出るには、身体性の助力が必須です。

そして、身体の本質は不確定性、すなわち変化することにあります。


話がオチないので前言撤回します(オチを気にするのは大阪人のよくない癖ですね)。
書評内の「悲劇の内容」ですが、この小説(二編の中編)の登場人物は孤独が極まって自殺してしまいます。

僕はもちろん、人生の中で自殺を考えたことがないとは言いませんが、今の僕が(将来にわたって)自殺する可能性は限りなく低いと思っています。
それは、意識活動の深奥には身体があること、このことの「実践的な」理解があるからです。


いや、言い直せば、理解を志向している、ですね。
それは終わりのないプロセスだからです。

寿命という「終わり」がありながら、人が取り組むプロセスに終わりがないものがある、そのことの意味は、「人は永遠を知ることができる」です。
それは今流行りの「永遠の一瞬」などという刹那的把握とは対極にあるものです。

(オトしたそばからこれだもの。。来週に続…けばいいですね)