human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

尽きぬ流れの「初源」の風景

『水源 The Fountainhead』(アイン・ランド)を読了しました。
かなりの大著で、平日に一日1~2時間読み進めて、半年かかりました。

あとがきに書いてあったことですが、
著者は20世紀初期にロシアで生まれたユダヤ系の人で、本名はアリッサ・ローゼンバウム、アメリカに亡命して映画業に関わりながら小説や論文をものしたと言います。
一般的にはハイエクフリードマンと並んでのリバタリアニズム(libertarianism)提唱者と言われ、しかしそれを本人は認めておらず、論文によって自らが追求したのは客観主義(objectivism)の思想であったらしい。
『水源』の執筆から完成まで、七年。

それはさておき。

───

この本からいろいろなものを得て、
いろいろ考えてみたいこともあり、
でも何かまとめたことを言おうという気にはならない。

物語は(僕が最後まで読んだのだから)終わってしまったのですが、
何かが終わったという感覚、たとえば喪失感のようなものはない。

あるいは、読中に心を動かされた一節につけた多くの付箋が、
これから読み返されるのを待っているからかもしれない。

───

この本では、「自己中心主義」と「利他主義」が大きなテーマの一つです。
本ブログでちょっと前に「自己責任主義」と「他責主義」のことを書きましたが、
これらに関係することでもあり、僕はこの点に深い関心を持って読んでいました。

リバタリアニズムは「自由至上主義」とも呼ばれていて、
自由はいいのですが「至上」が付されることで、原理主義の一種のように見えてしまう。
原理主義も一括りになどできませんが、どこかしら頑なで融通がきかず、ある方面で極端になるというイメージがある。

でも、そうだけど、そういうことではないんだと。


著者がある思想の体現者で、その思想が一言で表せて、
それを前提にして著者の物語を読んだ時に、読者の理解は進むかもしれない。
読みながら、ある場面描写や人物の発言について、疑問に思うことが減ることもある。

でも、その前提に依拠することで、圧倒的に失われてしまうものがある。

───

僕は以前に、小説でも随筆でもいいんですが、ある種の書き手のことを「渾身系」と呼んだことがあります。
もちろん学問に資する分類ではありませんが、この分類に沿えば、『水源』の著者もその一人です。
「渾身系」の著者の作品を読む時の僕の姿勢には共通点があります。
それは「この人の文章には並々ならぬものが詰まっている」という想定をすることです。
というか、読んでいて、気負わずともそう思わせてしまう書き手のことを僕は「渾身系」と名付けたのでした。

 ここには、深く考えるべきことが書かれている。
 考えて考えて、今の自分に分からなくとも、心に留めておくべきことかもしれない。
 この文章の中に、世界の認識を変える一言が含まれている予感がする。
 これが当時に書かれ、数えきれぬ人々が読み、
 その人の数だけ受け取られ、解釈が施されてきたが、
 今自分が考えているこの文章が賦活する予感が、
 かつての読者に既に見出されているものだ、という考えにはどこにも根拠がない。
 世界の真理が言葉として書かれ、その文章が世に出回り、しかし世界を何も変えない、
 それは必ずしも言葉が力を持たないことを意味しない。 
 ある本に託された真理がその未曾有の力を発揮するのはいつか、
 本が出版された時か、ベストセラーになった時か、世界中の人が読んだ時か、

 それとも他ならぬ自分自身がこの本を読み終えた時か?

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水源―The Fountainhead

水源―The Fountainhead

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