human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

『特性のない男Ⅰ』を読んで (2)

前回の続きです。

だが興奮状態や興奮した行為の状態にあっても、彼の態度は情熱的であると同時に無関心だったのである。彼はかなりいろいろな経験をしてきたし、かならずしも自分には意味のないことでも、それが彼の行動意欲を刺戟さえすれば、いつでも身を挺しかねない、と感じていた。したがって、ほとんど誇張なしに、彼の人生におけるすべてのことは、彼自身によるというよりは、むしろ相互の関係で起こったものだ、といってもよかったのである。(…)それゆえ彼は、このようにして獲得した個人的な特性も、彼のものというよりはむしろ相互の関連によるものだと信じるほかなかったし、くわしく調べてみると、個々の彼の特性は、それをもっていると思われる他の人たちよりも、彼とより親密な関係にあったわけではなかったのである。
p.180「30 特性のない男は男のない特性で構成されているということ」

今もう一度これを打ちながら読んでみて、これは「前科学的自己認識」だと思いました。
ここでいう科学とは、要素還元主義の別名です。
あるいはレヴィ=ストロースの「構造主義」と共通するところもありそうです。
鷲田清一氏の臨床哲学的に言えば、個の境界を曖昧にしていく方向性をもった思考。

すごく共感して、「主体的か受動的かどちらかなんてのはなくて、発生を考えれば人間はみんな受け身に決まってる」という生活の逐一の判断に適応するにはすごく大枠の認識と同様に「これは"そう考えればそういうことになる"話だよな」と最初に読んだときに思って、このすぐあとに僕がこう思ったことがそのまま書いてあるのを見て「やっぱり」と思いました。
「このすぐあと」を以下に抜粋します。

だが確かに彼は、常に自力を信じている人間だった。いまでも彼は、自分独自の体験と特性をもつということと、こういうものとは無縁だということとの相違は、ただ態度の上での相違にすぎないことを──これは在る意味では、一般性と個人性の間でなされる意志決定、ないしはその間で選択される度合いに過ぎないことを──少しも疑っていなかった。平たくいえば、人の身に起こったり、人がする事柄に対して、人はより一般的な態度もとれるし、より個人的な態度もとれる、ということだ。
p.181

この章にはとても重要なことが書いてあって、この本を読んでしばらくして「ああ、ウルリヒって自分みたいだな」と思ったことは前の記事に書きましたが、そう思った理由はウルリヒの問題意識の対象に僕自身とても興味を持っていること、それと関連して本記事の上に抜粋したような個人的性質(考え方)を僕も「もっている」(これと「興味がある」との違いはそう大きくない)ことなんですが、話を戻してその重要なこととは、本書のタイトルでありウルリヒと名の与えられている「特性のない男」とは現代人の別名である、ということ。

これに反して今日では、責任の重心は人間の中にあるのではなく、事物関係の中にある。体験が人間から独立したことに、人は気づかなかったのだろうか。体験は劇場へ移ってしまった。また書物の中へ、研究所の報告書や研究旅行の報告書の中へ、社会的実験の試みに見られるような、他を犠牲にして何か特別な体験を育成する思想団体や宗教団体の中へ、移ってしまった。そして体験がかならずしも稼動しているとはいえないかぎり、それはただ宙に浮いたものとなる。今日のように、じつに多くの人たちが容喙して、怒っている当人以上にその怒りについてよく知っている場合、自分の怒りが事実ほんとうに自分の怒りだといいうる人がいるだろうか?! 男のない特性の世界、つまり人間を抜きにした特性の世界が、体験するもののいない体験の世界が、出現したのである
p.182

 

 彼は腹が立った。
 自我の薄暗い領域から発生して根深くはびこり、病的にもつれて体にはよくないものを、解きほぐして取り除くという、医者たちが発見した有名な思考の能力は、おそらく個人を他の人や物と結びつけるという社会的で対外的な思考の特質によるものだと言って過言ではあるまい。だが残念なことに、思考にこのような治癒の力を授けるものは、思考の個人的体験性を減少するものと同一物らしい。鼻についた一本の髪の毛についてちょっと言及することの方が、最も重要な思想よりはるかに重みがあるし、行為や感情や感動は、たとえそれがどんなにありきたりで非個人的なものであろうとも、それが繰り返されると、一つの事件に、多少なりと個人的な大きな出来事に立ち会ったという印象を与えるのである。
 「ばからしい」とウルリヒは考えた。「だが、事実そうなるのだ」。それは、自分の肌の臭いを嗅いだときに感じる、刺戟的でじかに自我に触れる、ばかばかしいほど深い印象を思い出させた。
p.137 「28 思考の仕事に格別意見をもたない人なら、読み飛ばしてよい章」

面白い章タイトルです。
そしてウルリヒには「自覚」があります。

ウルリヒが怒っているのは、偉大な思考が「取るに足りない現実」より取るに足りないという現実にちょうど居合わせたからで、それで「残念なことに」という表現にここではなっていますが、もちろん「思考の個人的体験性を減少するもの」が思考にあってこその思考の抽象性で、「だが、事実そうなるのだ」とは何かというと、つまりは「やれやれ」と。


改めて抜粋のために読み直して、非常に僕にタイムリーな箇所だと気づきました。
なにしろ、しようがないものは、しようがないのだから。
 

『孤独の価値』(森博嗣)を読んで

孤独の価値 (幻冬舎新書)

孤独の価値 (幻冬舎新書)

以下、抜粋とコメント。

小説を呼んだり、ドラマを見たり、といったフィクションの世界に浸ることもできるし、また、現実を基にして、自分が想像した虚構を楽しむこともできる。(…)
 虚構が崩れるのは、その虚構が現実の他者に支えられている構造を持っているときだ。すべてが自分の内にあれば、簡単には崩れない。他者に依存しているため、その他者の行動が自分のイメージに反していれば、虚構が成り立たなくなる。(…)
 大事なことは、そのダメージを受けたとき、つまり、寂しいとか孤独だなと感じたときに、自分がどんな虚構の「楽しさ」を失ったのか、と考えてみることである。場合によっては、それがった一つの特定できる原因であり、また別の場合では、よくわからない沢山のものの積み重ねのように感じられるだろう。
 (…)
 考えることは、基本的に自身を救うものである。考えすぎて落ち込んでしまう人に、「あまり考えすぎるのはよくない」なんてアドバイスをすることがあるけれど、僕はそうは思わない。「考えすぎている」悪い状況とは、ただ一つのことしか考えていない、そればかりを考えすぎているときだけだ。もっといろいろなことに考えを巡らすことが大切であり、どんな場合でも、よく考えることは良い結果をもたらすだろう

「第1章 何故孤独は寂しいのか」p.50-52

虚構についての思考は、とても参考になります。
虚構の構築に生きがいを感じるのであれば、同様に虚構の崩落に致命的なダメージを受ける。
じゃあ虚構に深入りするなということではなく、虚構についてよく考えよう、と。
すべての人が、「虚構の当事者」なのだから。
 

すなわち、「寂しい」のが悪いという理由は、「死」を連想させるものだから、というだけのことで、「死」そのものではない。その正体がわかってしまえば、さほど恐くはない。たとえば、多くの人は、人が何人も死ぬドラマや映画を平気で見ることができる。恐ろしい場面が頻出するスリラものも、「楽しむ」ことができるではないか。
 いや、フィクションの寂しさと自分に降りかかった寂しさは全然違う、と言う人もいるかもしれないが、自分に降りかかったその寂しさの根源は、貴方が頭の中でただぼんやりとイメージした夢のような「死」への予感にすぎないのである。これは、まちがいなくフィクションだろう。
 寂しさを紛らすために、なにか手を打たなければならないし、そのための苦労が面倒だ、これは実害ではないか、と主張するかもしれない。しかし、その寂しさがフィクションだと考えれば、気持ちを切り換えるだけの「面倒」で済む問題なのである。
 このように物事を突き詰めて考えることで、自分が囚われている得体の知れない感情を克服することができる。考えれば考えるほど、気持ちは楽になり、自分を自由にすることができる。これが、たぶん本書で僕が書きたい最も大切なテーマだ、と思われる

「第2章 何故寂しいといけないのか」p.74-75

長々と抜粋をしました。
 

 現代人は、あまりにも他者とつながりたがっている。人とつながることに必死だ。これは、つながることを売り物にする商売にのせられている結果である。金を払ってつながるのは、金を払って食べ続けるのと同じ。空腹は異常であって、食べ続けなければならない、と思い込まされているようなものだ。だから、現代人は「絆の肥満」になっているといっても良いだろう。
 つながりすぎの肥満が、身動きのできない思考や行動の原因になっていることに気づくべきである。ときどきは、断食でもしてダイエットした方が健康にも良い。つまり、ときどき孤独になった方が健康的だし、思考や行動も軽やかになる。

「第3章 人間には孤独が必要である」p.128-129

下線部の比喩は、今の僕にはとても身近に感じられます。
空腹に慣れすぎて空腹感がよくわからなくなっている気もしますが、適度な空腹時の方がそれ以外の状態の時よりも、身体もよく動くし頭もよく回ります。
「脳が時々感じる不安が空腹を不健康にしている」という実感もあったので、なるほど、です。
 

 人はいずれは死ぬ。それは究極の「寂しさ」だろう。孤独とは、つまりは死への連想でもある。死ねばもう誰とも話ができない。誰にも会えない。この世から自分だけが隔離され、なにも見えなくなり、誰にも認められない状態になることだ。しかも、何人もそれを免れることはできない。拒絶しても、必ず訪れる。
 そういったものから目を逸らすのではなく、逆に目を向け、そこに美を見出す精神というのは、この人類最大の難題を克服する唯一の手法だろう。芸術とは、最大の不幸を価値あるものへと変換するものだ、という逆転は、ここにその極致を見ることができる

「第4章 孤独から生まれる美意識」p.138-139

この少し前では日本の「わびさび」について述べられています。
わびさびは古さを尊ぶ、古さとは過去、もうなくなった人やものに導く。
直接こう書かれてはいませんが、「わびさびは死に目を向け、美を見出す」という考えにはじめて触れました。
武士道の腹切りも美の表現かもしれませんが、あれは「死の実践による美の表現」で、ここでいうわびさびとは異なる。
古さは、それが極まると人の生の短さの表現、つまり死を連想させるもので、しかしその古さそのものに、長い時間の経過によってこそ獲得される古さに美しさを感じることで、死と美しさを結びつける。
骨董趣味の動機はここにあるのでしょうか。
 

 友情も愛情も、相手に向かう気持ちのことであって、相手から恵みを期待するものではない。もし、自分が相手からなにかを受けたいと期待しているなら、それは本当の友情、真の愛情ではなく、単なる妄想である。したがって、友情や愛情に満ち足りた人生もまた、自分自身が孤独であることには変わりないはずだ。孤独を知っている者だけが、友情や愛情に満たされる、と言い換えても良いだろう。

「あとがき」p.182

うまく言えませんが、非常にタイムリーな指摘に思えました。
つまり、岡氏のいう「無私」と関係がありそうだ、という。


自覚は大事で、
その徹底はしかし自己を濃密にすることではなく、
むしろ自己を透明にするものである

最初の抜粋で下線を引いた「考えることは、基本的に自身を救うものである」というのも、
これと同じことを言っている。

そういうことではないか。

記憶の供養、「観念の遊戯」でない知性 ─ ある関係の始終についての演繹的思考 (1)

、言いましたが、やはり書かねばならないようです*1

ではまず、たぶん、そのまえおきから。

 × × ×

 何かについて述べた意見を人がよく聞いてくれそうになったり、書物を書いてよく売れたりしたときに、朝ふと目がさめて自分のいっていることに不安を感じる。この不安な気持が理性と呼ばれるものの実体ではないだろうか。ところがその不安、心配、疑惑を取り去ってしかも理性らしい頭の働かせ方をすると観念の遊戯といったものになる。近ごろ、本を出すといったことはかなり流行しているが、それらはかなり前から観念の遊戯になっているのではないかと思えるふしがある。

「一番心配なこと」p.89-90(岡潔『春宵十話』角川ソフィア文庫

いつもと同じことをしていて、ふと、あることが頭をよぎる。
文章を読んでいて、ふと、あることとの関連を見出そうとしている。

これは、もう終わったあることの余波だと思い、
時間が経てばこういう、ある種無意識的な反応も薄れると思い、
それが自然な流れであると思い、
そのような中で岡氏の文章に出会い、
終わった後しばらくの間は思いもしなかったことだが、
これは不安なのかと思い、
理性の発動を促す不安なのだと思った。

時が経てば、という認識も間違いではないが、
いまだ頭の中で生きている「あること」は、
役目を終えたはずだがまだ生きているその理由を知らせるために、
つまりは、変化したいという「流れ」があることを自分に教えている。
いや、記憶に意志はなく、あるとすればそれを部分とする秩序の当為で、
言い直せばそれは「変化するものであるという流れ」。

自分にとってみれば、その変化を促すことは、
昇華と呼べば一般的には話が通る。
ただ、思いついたことには、
むしろこれは、供養と呼んだ方がいいのかもしれない。

 有機的な生においてだが、命の尽き果てた生は、
 生前の外形を失うかたちで死に迎えられる。
 意識の介在しない自然界においては、
 この根本的な外形の変化そのものが供養であると、
 意識を持った人間は考えることができるかもしれない。
 そして、意識を持った人間が死者の供養をするのは、
 死者のためではなく生き残った人間たちのためであるが、
 生前から変わり果てたその姿を目に留めた経験とは別に、
 それでも変わらず生き残った人間たちの中に生き続ける
 その死者の記憶の変化を促すためではないか。


ある関係に終わりが告げられ、流れが生じ、
それをまっとうな形で終わらせるために、
自分の意志で「流れを変えた」。
唐突に曲げられた流れは、角にぶち当たってはじけ、
その先で急流となり、当事者たちをのみ込んだ。

しかし、その流れは比喩であり、精神的な流れであり、
もっと言えば「気分とか気持ちみたいな流れ」であり、
抵抗できずにそのまま流されてしまった者がいて、
足場を築いてしがみつき踏みとどまった者がいた。
この足場ももちろん比喩であり、精神的な足場であり、
すなわちそれは「知性」であった。

そのようにして、
情念の、あるいは憎悪の渦巻くさなかで発動し、
確固として姿勢を崩さない知性の存在感を、
初めて経験した。


まっとうさ、あるいは常識は、人に押しつけるものではない。
責任と同じく、集団に属する個人が自ら負うものだ。
このことは、無私にも通じる。
今唐突にこう書いてみて、
知性の発動も無私に通じるのではないかと思った。
岡氏のいう「観念の遊戯」ではない知性の発動。

そうだとすれば、最初に触れた不安も、
「変化するものである記憶」のはたらきかけも、
自分の外からやってくるものかもしれない。

もし、そうだとすれば、
今、自分の内側を掘り進めようとしているその先は、
自分の外側に通じている。
見方を変えれば、
わずかだがすでに外側に通じた穴から、
自分の内側に向かって風が吹いている。

その風が、この文章を生み出す源流なのかもしれない。
 

*1:注釈:タイトルにある通り、おそらく「ある関係の始終」そのことについては書かれないと思います。それゆえ非常にわかりにくい文章となることが予想されますが、もし琴線に触れるようなフレーズが見出されるとすれば、それが読む方にとっての価値の一つになると思われます。僕自身が、僕がこれから書く文章をあとから読むことにおいて見出せる価値も、それと同じです。

『特性のない男Ⅰ』を読んで (1)

ムージル著作集 特性のない男Ⅰ』を読了しました。
面白い。
引き続き第2巻も図書館で借りて読むつもりです。
以下、抜粋とコメント、下線と太字は引用者。

ムージル著作集 第1巻 特性のない男 1

ムージル著作集 第1巻 特性のない男 1

 × × ×

人は、正確を旨とする精神状態の方が、審美を旨とするそれよりも、根本的には神を信ずるものだということを忘れてはならない。なぜなら、正確を旨とする精神状態は、それが神の審美性を認めるために定めた条件下で、神が顕現し給うときには、たちまちにして「神」に屈服するのだから。だがこれに反して、われらの審美的精神の持ち主の方は、たとえ神が顕現しても、神の才能は十分に独創的なものではなく、その世界観は充分はっきりしたものでもないのだから、神を真に神の恵みを受けた天才たちと同列に置くことはできないと、みなすだけだろうからだ
p.312

「天才」と聞くと真賀田四季を思い浮かべることが多いのですが、
これを読んだ時にも多分にもれず、そして思ったのは、
犀川創平は「審美的精神の持ち主」なのかな、と。

もちろん誰もがどちらの精神もいくらかもっているもので、
彼も普段は正確性が表に出ていますが、
根本のところで審美性が行動源(判断基準)になっている。

真理を欲するものは学者となり、おのれの主観をおもむくがままにしようと欲するものは、おそらく作家になろう。だが、その中間にあるものを欲するものは、何をなすべきか? ところで、この「中間」にあるものの例は、どの道徳的命令もこれを提供しているが、たとえばかの有名にして簡潔な「汝殺すなかれ」がそれである。一見してわかることだが、この命題は真理でもなく、また主観でもない。われわれ人間がかなり多くの場合には厳格にこの教えを守っていることは知られているが、他の場合には、ある種の、そして非常に多数の、しかし厳密に限られた例外が許されている。(…)この真理でもなく主観でもないものは、往々にして要請と呼ばれている
p.310

要請!
なるほど、な訳ですね。
原語(ドイツ語)のニュアンスはどんなだろう。

「要請のいたずら」なんて軽薄なシャレ、いや、
別種であれ「要請」も「妖精」と同じく、ある神秘性を帯びている。

ウルリヒの本性には、論理的体系化、偏狭な意志、決まりきった方向に向けられる野心の衝動に対して、とりとめなくはあるが相手をすくませて無力にさせるような何かがあった。そしてこれは、当時彼の選んだエッセイズムという名称とも関係があった(…)従来行われてきたように、エッセイという言葉を試論と訳すだけでは、この文学上の原型に対して、ただ不正確にその本質をほのめかすに過ぎない。(…)エッセイとは、決定的な思考が人間の内面生活にとらせる一回限りの揺がしがたい形態である。主観と呼ばれている思いつきがもつ無責任さや生半可なものほど、エッセイと縁遠いものはないのであるが、しかし真と偽、賢と愚といった概念は、このような思想には当てはめられないものである。
p.309

「特性のない男」である主人公ウルリヒにはこういう魅力がある。
ステキですね。
このこととか、一つ上の抜粋部にあるようなテーマが、本書に通底していると読みました。
非常に興味深いテーマです。

エッセイの定義、高尚ですね。
毎週読んでいる「ア・ピース・オブ・警句」(小田嶋隆)を、これを念頭に読むことにします。

 ウルリヒが、自分のことで知っていることといえば、自分はあらゆる特性の近くにいると同様にそれから遠く離れているということ、そしてそれらの特性が彼のものになっていようといまいと、奇妙なことにどれも彼には興味がないということだけだったにせよ──この三十二歳の男の輪郭を描くことはさして困難なことではない。
p.183「40 あらゆる特性をもつ男、だが彼には特性などは興味がないということ。精神の王侯が逮捕されて、平行運動が名誉秘書を獲得すること」

長い章タイトルですが、この章で起こる出来事によってウルリヒが高等遊民から、
平行運動というプロシアに対抗したオーストリアの愛国運動の中央委員会の秘書になります。
(たしか20世紀初頭の「カカニア」という現オーストリアに位置する仮想国が小説の舞台です)

この章でウルリヒの思考が長々と開陳されるのですが(無論それはこの章に限りませんが)、
この抜粋部は「仕事してないとそうなるよね」と同意したくなります。
そして先に高等遊民と書いたせいかこの抜粋を読み返して、
「可能が可能のままであったころ」という夏目漱石の言葉を思い出しました。

漸く落ち着いて

前に書いた「流れ」についてですが、
これには乗らないことになりました。
まあ、しかたないですね。

この件についての感想は、
「自分もまっとうに成長したなあ」
という一言だけにしておきます。

 × × ×

今日偶然読み始めた『ゲド戦記』(ル・グウィンの原作小説の方)もそうなんですが、
なにかの節目にそれとなく読む文章が非常に高確率で身に染みます。
こういうの横文字でなんていったっけな…
セレンディピティ」ではなくって…
内田樹氏がよく使うんですが。

さっき読んだ小田嶋隆氏の日経BO連載の最新記事もそうで、
「そうなんでしょうね」と思わず溜め息をついた箇所を抜粋しておきます。

われわれが政治の話を嫌っている理由は、権力の陰謀だとか、そういう話ではなくて、おそらく、単に、わたくしども日本人が、他人と論争するタイプのコミュニケーションに慣れていないからだ。それほど、われわれは揉め事がきらいなのだ。
(…)
私たちは、異なった意見が互いに対立することになる現場を恐れ、論争を恐れ、もしかしたら、生身の人間が真面目に対話することにすら、生理的な恐怖を抱いている

business.nikkeibp.co.jp

今回の挿絵内コメントには吹きました。
「にげだした」とひらがなで書かれると、
挿絵のゴーシ氏がポケモンみたいです。


p.s.
しかしこのゴーシ氏、高校で同じクラスやった「ぽ氏」にそっくりやなあ。
理数科のメンツやったらわかってくれると思います。

夏秋と彼岸

『The Void Shaper』(MORI Hiroshi)を数日前に読了して、
その数日前に読んだ箇所が発見で、
しばらく寝る前に考えるなり思うなりしていたのですが、
昨日と今日の起きがけ(といっても時間は長いですが)に感じたことを
書いておこうと思います。

抜粋したいその上記の1箇所は後半にするとして、
先にそこから触発されたことを書くので、
抜粋と違う話になっているかもしれません。

 × × ×

「無はなくならない」ということ

形のあるものはすべて時間がたてば朽ちる。
形のないもの、思いや考えなどは、
それを担う形のあるものがなくなると同時に消える。
これが変化ということであり、不安定ということである。

思いは形がないとすぐ上で書いたが、
思う対象は形の有無にとらわれない。
特定の誰かを思うことがあれば、
その人の思いを思うこともある。

思う対象はそれゆえ全てが変化しうる。


無を思うというときに、

自分の印象では、
無は不定形だと思うが、
形があるとは言えないものの、
形がないとも言い切れない。
それは変化しないという無の性質と矛盾しそうだが、
自分は無そのものを想定することしかできず、
もし感じるとすれば自分を通して、
自分の身体や心や頭を通して感じるしかなく、
無が不定形であるとはその結果だと考えることができる。

仰向けに寝ていて、
息をはき続けると身体の厚みがうすくなっていく。
物理的にはそうで、でもその感覚を維持すると、
息を吸っている間も身体がうすくなり続けていることを感じる。
おそらく感じているのは、身体の厚みではなく、
身体を除いた六畳一間の厚みの方である。

 この考えは今朝すでにあって今文字にしたが、
 文字にして思ったのはマーク・ストランドの詩のことだ。
 「僕のいる分だけいつも 草原の一部分が欠けている」という。
 何か関係があると思うがここでは掘り下げない。

身体がうすくなる感覚とは、
比喩かもしれない。
物質的な対象を感覚的に表現する多くの比喩ではなく、
感覚を物理現象に置き換える比喩。
意識が、制御できる意識が遠くなっていく。
眠りにつく感覚。

無を考えることは、
自分が無に近づくことかもしれない。
無に近づくとは、それ自体が無になっていくということ。

 話は変わるが、
 京都に住んでいる時に通っていたスポーツジムの、
 サウナルームで座禅をしている時に、
 意識が秋田の玉川温泉のサウナルームと繫がる経験が幾度かあった。
 あれは温泉にいる間にずっと頭の中を流れていた曲を、
 ジムのサウナでも再生することを通じてのことだったが、
 今いるジムのサウナが温泉のサウナに置き換わるという感覚だったり、
 ジムのサウナのすぐ向こう、空間的に隣接して温泉のサウナがある、
 という感覚だったりした。

無には変化も不変もなくて、
無に近づく、無に触れることで、
変化と不変の違いが曖昧になっていく。
そこには、その場では常識も判断もなく、
その場で起こったことに対してあとから下す分析は、
その場では常識も判断もなかった自分自身に対しても下すことになるが、
それはそうできるというより、そうせずにはいられない。
そのようにして、変化の意味が、不変の価値が、回復していく。

夢は無の一部だろうか。
あるいは夢は、無が人を通じて生じるものだろうか

 × × ×

 そもそも、殺気とはどこから生まれるものか。
 それは、無からではない。動きの切っ掛けではあるが、動きそのものではない。気とは、考えのことだ。考えているから、気が生まれる。殺気も同じ。では……、
 考えなければ、殺気を消せるのか?
 考えないとは、何だ?
 何を考えれば、考えないことになる?
 違う。考えてはいけないのだ。
 そんなことができるのか。
 それは、今まで思いもしなかった領域、想像すらしなかった新しい地のように感じられた。
 山の向こうに、雲に霞んで、その大地が広がっている。
 なにもない。森も山もない。なにもない地だ。
 否、地もない。
 空と同じ。
 空。
 無。
 そこに立てば、おそらくなにも考えないだろう
 (…)
 ないものばかりが、自分を取り囲む。
 すべてが新しかった。
 ないものなのだから、古くはない。生まれたばかり。そしてたちまちにして消えていく。
 そうか……。
 ないと思うことも、ないのだ。
 思わなければ、消えることもない
 風や火のようなものか。
 風も火も、そういう名のものは実はない。
 ただ、感じられるだけだ。
 人は、無を感じることができる
 ないと知ることができる。

episode 4 : Another shape

過活動、資格取得、冬支度

近況です。

 × × ×

体調を崩しました。
風邪でしょうか。

原因ははっきりしていて、無理がたたりました。
講習が終わってからボルダリングに行く時間が早くなり、
それでいて終わる時間が講習中と変わらない。
という日々をやはり週3で続けていて、
今週はその合間に大沢温泉へ行ったり、
(日帰り一日で4つの湯に計6回入りました。卓球もした)
第二回図書館巡りをしたり、
(宮城の一関図書館と川崎図書館を見に行きました。運転は自分)
いつもは7時間壁登った次の日は家でへばり続けているのにそんなことして、
調子を崩して当然ですね。

一昨日、昨日と一歩も家を出ず、寝るか一人用ソファで読書をして、
今日も同じ感じでしかし食糧備蓄が尽きたのと図書返却日なので外出はして、
外では終始ふらふらしてましたが帰ってからご飯を作る元気もあり、
今も若干身体が熱いものの治る過程にはあるようで、
明日はジムへ復帰できそうな気がします。

半日睡眠生活というのもなかなかいいですね。
(病気以前に、講習が終わってからこんなかんじです)
身体がのびのびしているようです。
今日借りて夕食時に読み始めた『春宵十話』(岡潔)にありましたが、
副交感神経の調子が良いと大胆な発想ができるそうです。
この調子でムージルの『特性のない男』を読み続けると何が起こるでしょうか。

ナカタさん(@『海辺のカフカ』)が自分みたいだと思って、
またウルリヒ(『特性のない男』の主人公)も自分みたいだと思って、
でもナカタさんとウルリヒにどういう共通点があるのかといえば、
そこがおもしろいところなんですね(?)。

 × × ×

大学から通知が届きました。
単位取得通知と、修了証明書。

ぱっと見で何が言いたいのかわかりませんでしたが、
取得できた単位を数えると受けた講義の分は全て取れているようです。
とりあえずこれで司書資格保有者になれたのだと思います。

そして求人ですが、
岩手県内で探せばちょくちょくあるものの、
高卒以上可のバイト的なものが多く(別にそれでもいいんですが)、
今の家からの通勤を考えるとだいたいが遠い。

まあ、ハローワークの求人情報は刻々と更新されるようなので、
週一くらいで確認しながら家から通える仕事を探します。

 × × ×

ふらふらしてはいましたが、
スーパーへ行ったついでにホームセンタにも寄りました。
冬の準備をせねばなりません。
暖房器具と、雪かき用具。

灯油は、ホームセンタの前に販売所があります。
講座の誰かと話しましたが、天板に常駐させたやかんから、
「しゅんしゅん」と湯気が出ている、そんな石油ストーブがいい。
いつでもお湯が飲めるし、加湿にもなるし、
なにより「あったかい感じ」があるのがいい(と想像します)。
そして「しゅんしゅん」という音は、静けさに溶け込む音でもある。

石油ストーブとその上のやかんという状景が静けさを、
いや静謐といっていい神秘的な雰囲気をつくるイメージは、
群青学舎』(入江亜紀)の2巻にある「時鐘」からのものです。

 主人公の寮生の女の子が、夜に老人を訪ねて用務員室に入った時、
 微動だにせず座る老人のそばで、やかんが「しゅんしゅん」と音を立てている。
 外に降りしきる雪とともに、やかんの湯気が「動」を吸収し尽くしたその部屋で、
 少女は老人が既に死んでいるのを知っても、顔色一つ変えない。

 (彼女が肩に手をかけると彼は床に崩れ落ちる)
 そしてスコップを持ち出して、彼を校庭のそばの林にある穴に埋めに行く。
 彼女は、彼がこの数日のあいだ掘っていたその穴の意味に気付いたのだ。

この短編はなぜか年に一度は思い出すようです(今日を含めれば3度目)。
あるいはこの短編が僕を花巻に導いたと言っても、大袈裟ではないかもしれません。
前にマーク・ストランドの詩と併せて書いたもののリンクを張っておきます。
cheechoff.hatenadiary.jp

石油ストーブはホームセンタにいろいろ種類はありましたが、
行きつけのリサイクルショップも見てから買おうと思います。

雪かきの方は、ヤンマーかどこかの電動の大掛かりなものだけあって、
それ以外に「雪かき用」と名のつくものはありませんでした。
(園芸コーナーにそれっぽいけれどたぶんふつうのスコップはあった)
そり、と呼ぶのではないと思いますが巨大なちりとりのようなものを
想像していたんですが、ああいうのは他にどこにあるんでしょうか?
これもリサイクルショップかな。

新花巻の実家から講座に通っていた年上の女性に、
「雪かきがしたくて岩手に来た」と行ったら(あながち嘘ではない)、
普段の会話では控えめで奥ゆかしい人なのに、
「そんな甘いもんじゃないですよ(ふっ)」と
吐き捨てるように返されたりしましたが、
別に何か夢を見ているわけではなく(しかしそれはどんな夢だろう?)、
価値判断以前に身体で経験できればという思いがまずはあります。

ここまで説明して、
「ん、君はナチュラリストなのかい?」
ナチュラルに(つまり何の皮肉もなく)返してきた、
今は富山に帰ったらしい僕より一回り以上年上の中南米気質の女性もいましたが、
元編集者の彼女は昨今村上春樹ノーベル文学賞を逃したことを嘆いていました。
「受賞にかこつけてバカ騒ぎしたかったのに」という理由で。

そんな彼女には「騒ぎたきゃ残念会すりゃいいですよ」と言っておきました。
内田樹氏の言葉を借りて、
村上春樹にまつわるあらゆる文脈(もちろん諸々の著作含む)から
 愉悦と快楽を引き出せるのがハルキストたるゆえんです」
とも。

なにはともあれ、
冬を無事に過ごせればそれで満足かもしれません。
と思えるくらい、数日前はほんとうに寒かった。
秋はどこへ行ったんだろう、
「ごめんなさい、今年はウチが忙しくてそっちに行けそうにないんです」
そうか、季節は巡るくらいだから遠征というか遠出しているのはわかるが、
では秋の実家はいったいどこにあるのだろう、という(?)。


ああ、はやく元気にのぼりたいなあ。

カーヴァー詩集『水と水とが出会うところ』

読了しました。
音読しました。
何度もかけて。
噛み締めるように。

お気に入りのタイトルをメモしておきます。
今の僕の感覚に、なぜだかわからないがぴったり合うもの。

今だけの出会い。
今だけの記憶。
記憶にはけっしてなり得ない記憶。

「パイプ」
「電波のこと」
「水と水とが出会うところ」(表題作)

水と水とが出会うところ (村上春樹翻訳ライブラリー)

水と水とが出会うところ (村上春樹翻訳ライブラリー)

星野青年と大島さんの対話より


 それそのものではなく、
 それがもたらしたものごとに目を向ける。

 それとともにある時も、
 それがそばにはいない時も、
 それとの出会いをことほぎながら、
 変わり続けるために。

「じゃあひとつ訊きたいんだけどさ、音楽には人を変えてしまう力ってのがあると思う? つまり、あるときにある音楽を聴いて、おかげで自分の中にある何かが、がらっと大きく変わっちまう、みたいな」
 大島さんはうなずいた。「もちろん」と彼は言った。「そういうことはあります。何かを経験し、それによって僕らの中で何かが起こります。化学作用のようなものですね。そしてそのあと僕らは自分自身を点検し、そこにあるすべての目盛りが一段階上にあがっていることを知ります。自分の世界がひとまわり広がっていることに。僕にもそういう経験はあります。たまにしかありませんが、たまにはあります。恋と同じです」

村上春樹海辺のカフカ(下)』
引用太字は本文中の傍点

一億総「ナカタさん」説

4ヶ月くらい前から再読している『海辺のカフカ』(村上春樹)がまだ読中で、そんな中久しぶりに自分が昔書いた書評もどきを読んでいて閃いたのでその内容をタイトルに込めました。

カフカを読みながら「今の僕ってナカタさんみたいだなあ」と思っていたんですが、そうか、僕だけのことでもないのかな、と。

日本文化っていうのは、自分の中には自分がなくて、自分を探したかったら自分の周りの風景にさわれっていう、初めっからアイデンティティーなんてものを無視してる文化なんですね。言ってみれば、自分という”肉体”はなくて、”自分”を知りたかったら、感じたかったら、自分にふさわしい“衣装”をまとえという、そういう文化ですね。
 自分というものは平気で”空洞”になってるから楽だけど、でも探そうとするとどこにもないから苦しい──日本が”伝統的日本”を捨てて”西洋近代”っていうのを求めたのは、この後者”自分が見つからなくて苦しい”からの脱却をはかりたかったからですね。

橋本治『風雅の虎の巻』p.152-153

www.honzuki.jp

あとついでに思いついたのは、いま朝食時にちびちび読んでいる『緑の資本論』(中沢新一)所収の「モノとの同盟」の中に、容れものとしてのモノにタマシヒが(外から)入って充実してきてカヒ(貝?殻のことですかね)を破って出てくるのがモノ(=よきもの)であったりモノノケ(=あしきもの)だったりするという話があって(←すいません相当うろおぼえです)、日本人の頭というか思考の源は容れものとしてのモノなのかな、とか。

歴史を重く見れば日本人は「身体が主で頭が従」の方が向いていて、頭をその実現のために回すのが健全なのかなと思いました。