human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

夏秋と彼岸

『The Void Shaper』(MORI Hiroshi)を数日前に読了して、
その数日前に読んだ箇所が発見で、
しばらく寝る前に考えるなり思うなりしていたのですが、
昨日と今日の起きがけ(といっても時間は長いですが)に感じたことを
書いておこうと思います。

抜粋したいその上記の1箇所は後半にするとして、
先にそこから触発されたことを書くので、
抜粋と違う話になっているかもしれません。

 × × ×

「無はなくならない」ということ

形のあるものはすべて時間がたてば朽ちる。
形のないもの、思いや考えなどは、
それを担う形のあるものがなくなると同時に消える。
これが変化ということであり、不安定ということである。

思いは形がないとすぐ上で書いたが、
思う対象は形の有無にとらわれない。
特定の誰かを思うことがあれば、
その人の思いを思うこともある。

思う対象はそれゆえ全てが変化しうる。


無を思うというときに、

自分の印象では、
無は不定形だと思うが、
形があるとは言えないものの、
形がないとも言い切れない。
それは変化しないという無の性質と矛盾しそうだが、
自分は無そのものを想定することしかできず、
もし感じるとすれば自分を通して、
自分の身体や心や頭を通して感じるしかなく、
無が不定形であるとはその結果だと考えることができる。

仰向けに寝ていて、
息をはき続けると身体の厚みがうすくなっていく。
物理的にはそうで、でもその感覚を維持すると、
息を吸っている間も身体がうすくなり続けていることを感じる。
おそらく感じているのは、身体の厚みではなく、
身体を除いた六畳一間の厚みの方である。

 この考えは今朝すでにあって今文字にしたが、
 文字にして思ったのはマーク・ストランドの詩のことだ。
 「僕のいる分だけいつも 草原の一部分が欠けている」という。
 何か関係があると思うがここでは掘り下げない。

身体がうすくなる感覚とは、
比喩かもしれない。
物質的な対象を感覚的に表現する多くの比喩ではなく、
感覚を物理現象に置き換える比喩。
意識が、制御できる意識が遠くなっていく。
眠りにつく感覚。

無を考えることは、
自分が無に近づくことかもしれない。
無に近づくとは、それ自体が無になっていくということ。

 話は変わるが、
 京都に住んでいる時に通っていたスポーツジムの、
 サウナルームで座禅をしている時に、
 意識が秋田の玉川温泉のサウナルームと繫がる経験が幾度かあった。
 あれは温泉にいる間にずっと頭の中を流れていた曲を、
 ジムのサウナでも再生することを通じてのことだったが、
 今いるジムのサウナが温泉のサウナに置き換わるという感覚だったり、
 ジムのサウナのすぐ向こう、空間的に隣接して温泉のサウナがある、
 という感覚だったりした。

無には変化も不変もなくて、
無に近づく、無に触れることで、
変化と不変の違いが曖昧になっていく。
そこには、その場では常識も判断もなく、
その場で起こったことに対してあとから下す分析は、
その場では常識も判断もなかった自分自身に対しても下すことになるが、
それはそうできるというより、そうせずにはいられない。
そのようにして、変化の意味が、不変の価値が、回復していく。

夢は無の一部だろうか。
あるいは夢は、無が人を通じて生じるものだろうか

 × × ×

 そもそも、殺気とはどこから生まれるものか。
 それは、無からではない。動きの切っ掛けではあるが、動きそのものではない。気とは、考えのことだ。考えているから、気が生まれる。殺気も同じ。では……、
 考えなければ、殺気を消せるのか?
 考えないとは、何だ?
 何を考えれば、考えないことになる?
 違う。考えてはいけないのだ。
 そんなことができるのか。
 それは、今まで思いもしなかった領域、想像すらしなかった新しい地のように感じられた。
 山の向こうに、雲に霞んで、その大地が広がっている。
 なにもない。森も山もない。なにもない地だ。
 否、地もない。
 空と同じ。
 空。
 無。
 そこに立てば、おそらくなにも考えないだろう
 (…)
 ないものばかりが、自分を取り囲む。
 すべてが新しかった。
 ないものなのだから、古くはない。生まれたばかり。そしてたちまちにして消えていく。
 そうか……。
 ないと思うことも、ないのだ。
 思わなければ、消えることもない
 風や火のようなものか。
 風も火も、そういう名のものは実はない。
 ただ、感じられるだけだ。
 人は、無を感じることができる
 ないと知ることができる。

episode 4 : Another shape