human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

南相馬市立図書館と「成長する有機体」

近隣の図書館めぐりをしています。

昨日は講習を受けた仲間と一緒に車で南相馬市立図書館へ行ってきました。
岩手から、宮城を横切って福島まで。
その途中、仮設の名取市図書館にも寄りました。
名取では館長と、南相馬では係長(主任?)と話をすることができました。

 × × ×

図書館にいる間は、やはり利用者目線で空間や書架を見てしまいます。
が、仲間と一緒に見に行ったおかげで、図書館を職員目線で、いやたぶんそれよりも広く、町にあることの、住民に利用されることの機能について考えることができました。
花巻から車で3時間かかりましたが(行きは寄り道もあったので5時間)、帰りは特に、図書館を見て思ったこと、考えたことを互いに喋り続けて、長いとは感じませんでした。

喋った内容は忘れたわけではないが再現できるほど形がきちんと残っているわけではなく、図書館を見た印象も、その場にいた時から評価する姿勢が強くなかったし、今の自分に残っているのは、これからちょっと書いてみたいと思うようなことがほとんどです。

 × × ×

「理想の図書館」について、考えさせられ、思いを新たにすることになりました。
自分にとっての図書館の理想像をいつも思い描いていないと図書館員として仕事をしていくうえで向上していかない、講義では何度もそう教わりました。

それはきっとそうだろう、いちど現状維持に甘んじてしまえば、外部(利用者、行政、教育関係者など)からの数少ないアプローチがあっても変化できなくなる。
図書館は教育機関で、教育機関は急激に変化するべきではない(変化のアウトプットへの影響を測るには長い時間と複雑な手続きを要する)、このことは逆に言えば、変わらないことが奨励される一面もある。
でも、現場の意識では現状維持と思っていても、少しずつ状況が変わっていき(たとえば資料費の予算が年々削られていき)、図書館の質も少しずつ落ちていく。
外部がそれを仕方ないと思ってしまえば、その流れを食い止め、変える可能性は図書館関係者の意識の中にしかない。


理想は常に念頭にあるべき、それはそう。
けれど、昨日思ったのは、その理想は現場で働く経験を重ねていくうちに形をもってくるものであるだろうこと(逆に言えば、現場も知らずに具体的に理想の内実を数え上げるなんて大した意味はないだろうこと)、そして昨日の帰りの車内で喋りながら形にならなかった考えとして、その理想はゴールではないということ。


南相馬は、あの図書館の書架は、ひとつの理想の具体化のようでした。
友人はそれを「読書家の友人の本棚」と表現しました。
自分がこういう本を持っていたら自分の部屋にこういう風に並べるだろう、あるいは、もっと本質的な表現として、「書架の本の並びから個人(図書館員)の顔が見える」と。

その書架はほんとうに活き活きとしていて、即物的な表現では(純粋に本の内容の関連性を重視していて、新書・文庫も画集・資料集サイズの本も単行本と一緒に並べられているために)「配架がデコボコしている」のですが、書架に並ぶ一冊一冊が個性を発揮して、あるいは自己主張をしているような印象を受けました。
書店の一部スペースを松岡正剛が監修した書棚を実際に書店で見たか本関連の雑誌で見た覚えがありますが、僕はそれを連想しました。
そしてそれと同じことが、公共図書館の書架で実現されている。

友人はそのことを公共図書館のひとつの到達点だと言い、僕はそれは個人書店や古本屋ないしは私設図書館の役目ではないのかと言い、そう言いながらもこれまでの公共図書館の司書がしてきた仕事が「ふつう」だという考えがそう言わせているのかと思い、「司書がプロとして専門性を発揮するのはそこだろう」という友人の言葉に、そうかもしれないと納得しそうになりました。

いや、納得はしたのかもしれません。

でも、そのような「理想の図書館」とは何なのだろう?
「理想の図書館」を住民が生活の一部として利用していって、住民はどうなる(どう変わっていく)のだろう?

そこが、想像できないのでした。
なぜなら、それは今頭の中のごちゃごちゃを言葉にしながら分かってきたことですが、なぜなら、僕が想像している「理想の図書館」の利用者に、僕自身が含まれていないからです。

では、なぜ僕はそこにいないのか?


その理由に直接答えることは今はできませんが、僕がそこにいないという気付きから導かれた認識が、上にも書いた「理想(の図書館)はゴールではない」ということ。

ランダナカンの図書館五法則の5番目には、こうあります。

 A library is a growing organism.
 図書館は成長する有機体である.

きっと「理想の図書館」も、成長する有機体なのだと思います。

図書館員と「可能性の感覚」

一段落して、読書生活を再開し、またこれまでを振り返ったりしています。

大した文章ではないですが、講習の応募のために書いた文章を載せます。

 私は大学院を出てから去年の9月末まで6年半、神奈川県の○○○で働きました。それから約半年の準備期間を経て、一本歯の下駄で2ヶ月かけて四国を一周しました。四国遍路から戻りこれから先のことを考えた時、司書資格を取得しようと思い、△△大学の司書講習に応募しました。
 受講の動機は、とにかく本に関わる仕事をしたいと思ったからです。就職口が少なくても、働く条件が不安定でも構わない。それなりに面白い仕事と安定した生活だけでは長くは続けられないということを、一度働くことで身に染みるように感じました。
 本には自分の頭で思考を深めることの充実を教わりました。高校までは読書感想文の時にしか本を読みませんでしたが、『下流志向』(内田樹)を大学生の時に読んでからは社会批評や教育論など幅広い分野に興味を持ち、読書が生活の一部になりました。この本は父の書棚にありましたが、本が人に与える影響の大きさにとても驚きました。研究所では人のために働きながら、実際は会社の短期利益を確保するシステムのために働いていました。しかし本のために働けば、長い目で見て人の成長や変化を手助けすることができます。
 住まいを変えるたびに近所の図書館に通っています(本講習を受けるべく、現在は△△図書館の近くに住んでいます)が、司書の方とは貸出・返却手続の時以外で話したことはありません。それでも、図書館の本が司書の方々によって維持され、守られていることは肌に感じています。本質的に個人の営みである読書は、スマホで過剰に繫がるネット社会において、ますますその陰ながらの存在感を増すことでしょう。冊子形態で読むという身体性も、同様の文脈で重要だと考えています。図書館で働けるか否かに関わらず、本を大切に扱ってきた図書館の歴史と現在を学び、ゆくゆくは「本を守る」仕事に就きたいという意思により、司書講習の受講を希望します。

この応募文に引いた下線部のことを、『孤独の価値』(森博嗣幻冬社新書)を読んでいて思い出したのでした。
そうか、自分はこういうことを言いたかったのだ、と。

ものを考えるときには、誰もが一人である。ものを発想する、創作するという作業はあくまでも個人的な活動であって、それには、「孤独」が絶対に必要である。(…)もちろん、だからといって、他者を無視しろというわけではない。個人の知能には限界がある。他者とのやり取りから生まれるものも非常に多い。それでも、その多くは書物を通して得られる情報である。読書をするときは、やはり一人で静かな方が良い。
 こうしたことは、かつては当たり前に認識されていただろう。静かに一人で過ごす時間の大切さは、どの文化でも語られているし、また、それは贅沢で貴重なものだと多くの人が認識していた。それが、ここ数十年の情報化社会において、少し忘れられているところではないかと思う。現代は、個人の時間の中へ、ネットを通じて他者が割り込んでくる時代であり、常に「つながっている」というオンライン状態が、この貴重な孤独を遠ざけている構図が見える

森博嗣『孤独の価値』(幻冬社新書366、2014、[914.6/モ])p.78-79

図書館は「資料と利用者との確実な出会いを提供する」場であり、図書館員はその仲介の任を負う。
でも、その出会いがゆくゆくは利用者が読書の本質に行き着くことを願う気持ちは、講習前に書いた文章の通りで、今もそのまま変わりません。

叶うまでが遠く、時間がかかり、そしてその事実すら滅多に知ることができない願い。
ムージルの言葉を借りて、一種の「可能性の感覚」と呼ぶべきこの願いを保ち続けられる能力は、図書館員として仕事をしていくうえで核たる思想を形成するだろう
と、今考えています。

だが現実感覚があるのなら──そしてそれにはその存在理由のある事を誰も疑わないだろうが──可能性の感覚と名づけてしかるべきものもやはりあるにちがいない。(…)可能性の感覚とは、現実に存在するものと同様に現実に存在しうるはずのあらゆるものを考える能力、あるいは現実にあるものを現実にないものよりも重大視しない能力、と規定してもよいだろう。(…)彼の考えは、それがむだな妄想でないかぎり、いまだ生まれざる現実にほかならないのだから、彼ももちろん現実感覚の所有者なのだ。しかしこれは、可能的現実に対する感覚であり、たいていの人がもつあの現実可能性に対する感覚と比べると、はるかにゆっくりと目的に達するものである。いわば彼は森をほしがり、他の人たちは立木をほしがる。森、これは表現困難なものであるが、これに反して立木の方は、一定品質の山林の坪数を意味するものだ。

加藤二郎訳『ムージル著作集 第一巻 特性のない男Ⅰ』(松籟社、1992、[948/ム])p.16-18

司書講習が終わって

7/18に始まった2ヶ月超にわたる司書講習がつい3日前(9/21)に終わりを迎えました。

ボルダリングのおかげで体調不良もなく全出席で、4日ごとのテストもほどほどにできて、おそらくは単位を1つも落とさず、資格取得できているはずです。
週6日で大学に通っていた生活がいきなりまた完全フリーの要自律生活に戻り(ちょうど1年前に会社を辞めてからだいたいそんな感じです)、ひとつの転機が訪れています。

まず仕事は近隣図書館の司書を探すことになります(とりあえず講習が終わった翌日から動き始めています)。
決して暮らせるほどの給与にすぐ恵まれるわけではなく、また募集自体も少ないのでここは運次第です(「勢い」も大事かもしれませんが)。

そしてもうひとつ、講習中にそれとは別の大きな流れが生じ、今はその流れをじっくり見極める立ち位置にいます。
自分の人生でこれまで経験したことがないことが起き、驚いてはいますが、この事態を冷静に眺めていられる自分にも驚いています。
歳をとったということかもしれないし、実経験よりむしろある方面の読書経験が落ち着きをもたらしているのかもしれません。
この点はほんとうに流れまかせの風まかせ、なるようにしかならないので今は特に書くことはありません。
流れが決まったら、何か書くかもしれないし、書かずにはいられなくなるかもしれません。

 × × ×

仕事探しも大事ですが、生活思想の軸をはっきりさせておくことも重要です。
生産的でないことをする時に、その生産性のなさに気を取られないために、とても重要です。
そのことについて、ここでは簡単に触れておきます。

 人のために生きる。

まさにこれです。
具体的な人であれ、もっと漠然とした人々であれ(たとえばジカンの利用者全体)、あるいは現在は存在しない人々(過去に生きていた人、これから未来に生まれてくる人)であれ。
図書館法の「図書館奉仕」という言葉が気に入っています。

これさえおさえておけば、束縛のない生活が堕落していくことはないでしょう。

また詳しく書ければ書きます。

未来の詩は

 過去の詩は 昏々と 眠っていた

 昨日の詩は 思うまま 昨日を語った
 今日の詩は ただ黙して 待ち続ける
 明日の詩は 明日を 語れるだろうか

 未来の詩は ただ未来のみが 語るだろう

ふたたび "Keeping Things Whole" について

『犬の人生』(マーク・ストランド)を数年前に単行本で購入して読みましたが、近所の図書館に新書判(「村上春樹 翻訳ライブラリー」)で見つけたので、あらためて借りて読みました。

この本でいちばん記憶に残っているのはハルキ氏のあとがきに引用されている著者の詩("Keeping Things Whole"「物事を崩さぬために」)です。
今回また読んで、しみじみと思うところがあって、過去に自分がこの詩に対してなにを考えたかを知りたくなって、読みかえしてみました。

cheechoff.hatenadiary.jp
cheechoff.hatenadiary.jp

過去の自分が書いたことは、読み返せば「自分が書いたな」という記憶はよみがえりますが、どこか他人風なところもあって、言わずもがなではなく「なるほどな」と思えるところが、当時と今とでなにかしら変わったことを物語っています。

詩の受け取り方、向き合い方も昔と今とで違っているなと思い、それは具体的には「今の自分はこんな論理的には書けないな」という思いです。

そこは掘り下げませんが、二年と半年ほど前に書いた中で言葉になっていない部分が目に留まったので、これを足がかりにしてなにか書いてみようと思います。

そこに価値判断はなくて、だから何だということもない。
ないのだけど、何もなく通り過ぎるのではなく、「……」。
何か、頭を空っぽにさせる魔力のようなものがある。
思索が深まるでもなく、他に意識がそれるでもなく、「……?」。

「野原の不在」について - human in book bouquet

野原に立つ自分は、その身体のぶんだけ、野原の不在である。
今こう書いて、このことを想像していると、
「宇宙カンヅメ」(@赤瀬川原平)のような、空間が裏返る感覚になりました。

 × × ×

自分が野原の不在だと感じている今、彼(自分)の時の感覚はどうなっているのだろう?

感じる、と今書いたが、これは頭のことだろうか、それとも身体のことだろうか?

野原の不在は、悲しむべきことなのだろうか?
もしそうだとして、それでは、自分の存在も悲しむべきだろうか?
あるいは、もともとすべてが、悲しいのかもしれない。
生の基調が悲しみにあるからこそ、死は安らかに到来する。

野原の不在は、死者の不在と、どんな関係があるだろうか?
野原の不在の回復は、ひとりの死者の存在を生む。
死者の不在とは彼がもはや野原にはいないことを言うのであって、
死者の存在とは彼が野原ではないところにいることを言う。

どうして死者の不在と死者の存在が同じなのだろう?

未来の詩は…

 
 過去の詩は 昏々と 眠っていた

 昨日の詩は 思うまま 昨日を語った
 今日の詩は ただ黙して 待ち続ける
 明日の詩は 明日を 語れるだろうか

 未来の詩は…

 × × × 

水と水とが出会うところ (村上春樹翻訳ライブラリー)

水と水とが出会うところ (村上春樹翻訳ライブラリー)

無題13

『クマと仙人』
ジョン・ヨーマン作、クェンティン・ブレイク絵
のら書店

この本を選んだ理由:
 ほんわかした挿絵に惹かれた。

紹介文:
 森の中でクマとばったり出会ったら、みなさんはどうするでしょうか? 全力で逃げますか? 死んだふりをしますか? そんなことが実際にあったら、こわいですね。でもだいじょうぶ、この本に出てくるクマは出会った人をおそったりはしません。ちょっと不器用ですが、やさしくて力持ちで、しかも向上心があるのです!
 この本は、不器用で頭のあまりよくないクマが、森に一人で住む仙人のもとで、いろんなことを学んでいくおはなしです。
 仙人の家の門には、家庭教師の生徒を募集する看板がぶら下がっています。クマはその看板の文字が読めないのですが、運がよいことに、仙人が看板をなおしているところにちょうど通りかかります。仙人が独り言をつぶやくと、クマは自分が話し掛けられたと思って返事をする、と、ここから二人の会話が始まります。人にものを教えたい仙人と、頭がよくなりたいクマのおもわくが一致して、仙人がクマの家庭教師となって、一緒に生活をしながら様々な科目を教えることになります。
 クマは「科目の合格証書」をもらうために、仙人の出す課題に熱心に取り組みます。その科目は、舟をこいだり、料理をしたり、トランプに応急手当まで、さまざまです。ところが不器用なクマは、すぐに目移りするし、加減を知らないので失敗ばかりします。( (1):p122)いかだの上でトンボを追いかけていかだをひっくり返したり、( (2):p.57)料理するためのたき火に空気を送ろうとして勢いよく吹き消してしまったり。でも、( (3):p43)釣りの科目では釣りざおをあやつる仙人の横で、前足で魚を放りあげてたくさんとったり、( (4):p126)川に落ちた仙人を背泳ぎで助けたりと、得意な分野では大活躍します。授業の中で予想外のことばかりが起こって、仙人は大変な思いをしますが、クマが熱心に授業を受けてくれることが嬉しくて、どの科目にも結局は合格を出します。
 この本の面白さは、仙人の優しくて寛容なところとクマの素直さがとてもよくマッチしているところにあります。クマがどれだけ失敗しても仙人は怒らず、クマがしょげている時は元気になるような言葉をかけてあげます。一方で、クマは目の前のことに夢中になってもともとの科目をめちゃめちゃにしてしまいますが、機転のきいた仙人のほめ言葉に気をよくして、次の科目はなんだろうと興味津々になります。仙人が失敗した時でさえ、それを自分への指導だと思って機嫌よく助けてしまうのです。
 二人が仲の良い友だち同士のように、気分よく毎日を過ごしていくのを読んで、こんな日がいつまでも続けばいいなあと思ってしまいます。でも、先生に学んだ生徒は、いずれは卒業しなければなりません。教える科目が少なくなってくると、仙人はこのことを考えて少し悲しくなりますが、ある朝にとってもよい案が思い浮かびます。クマへの思いやりに満ちたその素敵なアイデアは、ぜひこの本を読んで、確認してみてください。

クマと仙人

無題12

みなさま、長丁場の講習お疲れさまです。

花巻はよい町ですね。
夏の時期は関東以西とは比較にならないくらい過ごしやすいです。

この地でみなさまと共に勉強できたことを光栄に思います。
そして、図書館概論の担当教員がH先生であったことも。

「考え続けることをやめない、あきらめない」

先生のこの励ましは、講習の間だけのことではなく、
また司書として働く人に限られず、
本の可能性を信じる人すべてに向けられていると感じました。

近く取得されるはずの司書資格の活用如何は様々でありましょうが、
短期集中で机を並べて学んだ我々の間には、
ある共通の意思が芽生えたことと思います。
そんな我々にうってつけの言葉を紹介しておきます。

「私は人間だ。およそ人間に関わることで私に無縁な事は一つもない」
               (梨木香歩『村田エフェンディ滞土録』)

みなさまの今後がより充実したものとなるよう、陰ながら祈念いたします。

025 N.S.

崖っぷち系3級クリア

前回↓
cheechoff.hatenadiary.jp

週3で通い、毎回どこかしらでちょっとずつ進歩があります。
進歩と思えない時でも、同じコースで、今までにない動き方をしていたりする。

2週間くらい取り組んでいた、3級(赤)のいちばん簡単そうなコースを、昨日はじめてゴールまでたどり着きました。
人に手本を見せてもらっても体がついて来ず、進歩はじわじわといった感じでしたが、山場を越えるとその後の3手はするっと進めました。
傾斜のいちばんゆるい壁で、両手を離して片足でホールドに立てるところもあるのですが、ホールドの小ささと位置関係によって、可能な限り壁にべったりくっついて手足を動かす場面が2,3手続きます。しかもその中の初手が「両手は何ももたず右足でホールドに乗って右側を向いたまま左足を前(右)に出す」(右足を左側にある壁からなるべく離さずかつその右足と壁の間から左足を抜き出す)というなかなかの体幹を要する動きです。このような足場がわずかしかない崖にへばりついて横移動する様から、「崖っぷち系」と命名しました。
腕力でなく体幹(バランス)で登るコースについては、中級の入口に立てたかな、という手応えがあります。

講習は相変わらず忙しいですが(明日で開始後3週間になります)、ボルダリングとうまく両立できています。
登った翌日の回復度も早くなってきたようで、その翌日の疲労度も今日はとくに「全身的な疲れ」で、講義中に眠くなるというより倒れそうになったりしましたが、頭は正常に回るし(身体の疲労で多少なげやりな気分になりますが)、なんというのか疲労の質はわりといいんじゃないかと思っています。
さらに慣れていけば毎日ジムに行けるかもしれません。

前傾壁のコース、ぶら下がり系(いちばん傾斜がきつい150°の壁)コースも着々と進歩しています。
腕の筋肉は一月前とたいして変わらないように見えますが、たぶん肩や背中をいくらか使えるようになって、腕力のなさをカバーできているようです。
背中や肩甲骨の使い方について、基礎トレーニングをしながら色々気づいたこともあるので、時間のあるときにまた書きたいと思います。

都留氏とこれから読みたい本たち

市場には心がない―成長なくて改革をこそ

市場には心がない―成長なくて改革をこそ

図書館の経済の棚を見ていて、都留重人氏の本をみつけました。
都留氏は鶴見俊輔の伝記によく出てくる人で、戦前・戦中にアメリカで生活を共にした先輩という間柄だったと思います。
経済学の本を手に取ることは滅多にないのですが、著者名を見て、借りようと思いました。
内容はさておき、その人が見える風に読もう、と。

 × × ×

タイトルの感じ通り、社会に対する提言もいくらかありますが、それは強いものではない。
「ぼくはこう思うけど、みなさんはどうですか?」というやわらかい物腰。
当時の時事ニュース(小泉政権時)に、氏の経験(体験、読書)を対置させ、提言がでてくる。

「第七章 成長なくて改革をこそ」では経済学者や思想家の引用がいくつか並べられ、それらの内容が呼応し、また現代的な問題とも非常に深い関係をもっていて、この章を読んで、引用の原著を読んでみたいと思いました。
引用されている著者のメモをしておきます。

キーワード:
「労働の人間化」
「ゼロ成長(stationary)」
「生活の芸術化」
「『豊かさ』の貧困」
ジョーンズ効果*1
「レジャー国家」

ジョン・スチュアート・ミル(イギリスの古典的経済学者)
→"Principle of Political Economy"(1848)
○E・F・シュマッハー(ドイツの経済思想家)
→"Small is Beautiful"(1973)
○ジョン・ラスキン
ウィリアム・モリス*2
都留重人科学的ヒューマニズムを求めて*3
エズラ・J・ミシャン
→『経済学の神話性』(1986)
○クライヴ・ハミルトン(オーストラリアの経済・政治学者)
→『経済成長神話からの脱却』(邦訳,2004)
○ポール・ワクテル(心理学者、ニューヨーク市立大学教授)
→『「豊かさ」の貧困─消費社会を超えて』(邦訳,1985)
○ガバン・マコーマック(オーストラリアの歴史家)
→『空虚な楽園──戦後日本の再検討』(邦訳,1998)

今は講習で忙しいので、終わってから読むことになるでしょうか。

p.s.
最近読んだ内田樹氏のブログ記事↓も、都留氏の本と共鳴しているように感じました。
この「大風呂敷論考」は、図書館関係者にとって重要であると思い、機会があれば一緒に講習を受けている人にも一読を勧めています。
図書館はこういう考え方を姿勢として示せる、あるいは、もしこういう未来に日本(のある地域)が向かっていれば図書館において「それ」が可視化されるだろうからです。

日本はこれからどこへ行くのか (内田樹の研究室)

*1:「市民の福祉は、なかんずく他人との相対関係における市場財に対する彼の支配力に依存する」という動機付け──これは「ジョーンズ家に遅れをとらない」と表現されることから「ジョーンズ効果」と呼ばれる(p.142、太字は引用書では傍点)

*2:ラスキンのこの「労働の人間化」という考え方に呼応したのが、彼の盟友ウィリアム・モリスの唱えた『生活の芸術化』という発想であって、」(p.141)
鶴見氏の『限界芸術論』でモリスの名を知りましたが、『限界芸術論』のタイトルの意味は「芸術に限りなく近接した生活」で、まさにこの「生活の芸術化」についての本です。

*3:ラスキンやモリスの思想面での貢献にかんして」(p.183)書かれた論考が載っているようです。