human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

「野原の不在」について

in a field
 野原の中で
I am the absence
 僕のぶんだけ
of field.
 野原が欠けている。
This is
 いつだって
always the case.
 そうなんだ。
Wherever I am
 どこにいても
I am what is missing
 僕はその欠けた部分。


"Keeping Things Whole" Mark Strand
「物事を崩さぬために」マーク・ストランド(村上春樹訳)
一部(最初の一節)を抜粋

『犬の人生』(マーク・ストランド)の訳者あとがきからの抜粋です。

自分の存在が別の何かの欠落あるいは不在である、という感覚。
生活で時におぼえるとすれば、「誰かの代わり」という意味でのことだと思います。
僕がこのパーティに出ているのは、彼が欠席したからだ。
私がこの会社に入れたのは、私の代わりに誰かが採用試験で落とされたから。

あるいは「居場所」という言葉もあります。
自分がいるべき場所、そこにいて何の不都合もない地点。
それは学校の教室、家のリビングから川のほとり、ジャングルまで地理的制限がない。
ですが、都会でも大自然の中でも、「居場所」と言えるためには誰かがいます。


この詩から、何か悲観的なイメージを受け取るでしょうか。
自分の存在をある基準において否定している、と読めるかもしれません。
が、春樹氏があとがきで書いていますが、僕も一読して「透明さ」を感じました。
自分の存在は野原の不在である、まずそれは一つの事実である、と。

そこに価値判断はなくて、だから何だということもない。
ないのだけど、何もなく通り過ぎるのではなく、「……」。
何か、頭を空っぽにさせる魔力のようなものがある。
思索が深まるでもなく、他に意識がそれるでもなく、「……?」。


「僕の存在とは何だろう?」という問いは、如何様にも深まり、終わりがない。
けれど、僕の存在は野原の不在で、それは事実だから、では、
「野原の不在とは何だろう?」と問うてみる。
…何なのだろう?

そして、僕の不在は野原の存在だけど、
僕の存在の欠落は野原の不在の欠落で、
野原の不在の欠落は、野原の存在とは違う。
「野原の不在の欠落」とは、何なのだろう?

……いや、一緒?