human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

記憶の供養、「観念の遊戯」でない知性 ─ ある関係の始終についての演繹的思考 (1)

、言いましたが、やはり書かねばならないようです*1

ではまず、たぶん、そのまえおきから。

 × × ×

 何かについて述べた意見を人がよく聞いてくれそうになったり、書物を書いてよく売れたりしたときに、朝ふと目がさめて自分のいっていることに不安を感じる。この不安な気持が理性と呼ばれるものの実体ではないだろうか。ところがその不安、心配、疑惑を取り去ってしかも理性らしい頭の働かせ方をすると観念の遊戯といったものになる。近ごろ、本を出すといったことはかなり流行しているが、それらはかなり前から観念の遊戯になっているのではないかと思えるふしがある。

「一番心配なこと」p.89-90(岡潔『春宵十話』角川ソフィア文庫

いつもと同じことをしていて、ふと、あることが頭をよぎる。
文章を読んでいて、ふと、あることとの関連を見出そうとしている。

これは、もう終わったあることの余波だと思い、
時間が経てばこういう、ある種無意識的な反応も薄れると思い、
それが自然な流れであると思い、
そのような中で岡氏の文章に出会い、
終わった後しばらくの間は思いもしなかったことだが、
これは不安なのかと思い、
理性の発動を促す不安なのだと思った。

時が経てば、という認識も間違いではないが、
いまだ頭の中で生きている「あること」は、
役目を終えたはずだがまだ生きているその理由を知らせるために、
つまりは、変化したいという「流れ」があることを自分に教えている。
いや、記憶に意志はなく、あるとすればそれを部分とする秩序の当為で、
言い直せばそれは「変化するものであるという流れ」。

自分にとってみれば、その変化を促すことは、
昇華と呼べば一般的には話が通る。
ただ、思いついたことには、
むしろこれは、供養と呼んだ方がいいのかもしれない。

 有機的な生においてだが、命の尽き果てた生は、
 生前の外形を失うかたちで死に迎えられる。
 意識の介在しない自然界においては、
 この根本的な外形の変化そのものが供養であると、
 意識を持った人間は考えることができるかもしれない。
 そして、意識を持った人間が死者の供養をするのは、
 死者のためではなく生き残った人間たちのためであるが、
 生前から変わり果てたその姿を目に留めた経験とは別に、
 それでも変わらず生き残った人間たちの中に生き続ける
 その死者の記憶の変化を促すためではないか。


ある関係に終わりが告げられ、流れが生じ、
それをまっとうな形で終わらせるために、
自分の意志で「流れを変えた」。
唐突に曲げられた流れは、角にぶち当たってはじけ、
その先で急流となり、当事者たちをのみ込んだ。

しかし、その流れは比喩であり、精神的な流れであり、
もっと言えば「気分とか気持ちみたいな流れ」であり、
抵抗できずにそのまま流されてしまった者がいて、
足場を築いてしがみつき踏みとどまった者がいた。
この足場ももちろん比喩であり、精神的な足場であり、
すなわちそれは「知性」であった。

そのようにして、
情念の、あるいは憎悪の渦巻くさなかで発動し、
確固として姿勢を崩さない知性の存在感を、
初めて経験した。


まっとうさ、あるいは常識は、人に押しつけるものではない。
責任と同じく、集団に属する個人が自ら負うものだ。
このことは、無私にも通じる。
今唐突にこう書いてみて、
知性の発動も無私に通じるのではないかと思った。
岡氏のいう「観念の遊戯」ではない知性の発動。

そうだとすれば、最初に触れた不安も、
「変化するものである記憶」のはたらきかけも、
自分の外からやってくるものかもしれない。

もし、そうだとすれば、
今、自分の内側を掘り進めようとしているその先は、
自分の外側に通じている。
見方を変えれば、
わずかだがすでに外側に通じた穴から、
自分の内側に向かって風が吹いている。

その風が、この文章を生み出す源流なのかもしれない。
 

*1:注釈:タイトルにある通り、おそらく「ある関係の始終」そのことについては書かれないと思います。それゆえ非常にわかりにくい文章となることが予想されますが、もし琴線に触れるようなフレーズが見出されるとすれば、それが読む方にとっての価値の一つになると思われます。僕自身が、僕がこれから書く文章をあとから読むことにおいて見出せる価値も、それと同じです。