human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

大文字山〜比叡平〜近江神宮

今日の全行程を書けば、

 大文字山(火床下部経由)
 〜比叡平
 〜皇子山カントリークラブ近辺
 〜近江神宮
 〜近江神宮駅(京阪)

となります。
11時半に出て、帰ってきたのが19時半で、座ったのは駅で電車が来るまでの数分だけ(ほんとは立って待つつもりだったんですが待合椅子に老人クラブかどこかから寄贈の座布団が敷き詰められていたので思わず座ってしまいました)だったので、ほぼ8時間歩きっぱなしの立ちっぱなしでした。
なんというか、やりすぎですね。今日はこんなに詰め込む気はなかったんですが…

明日は静養か外出しても図書館くらいですかね。

では例によって以下に写真つきで報告。

 × × ×

今日は大文字山はいつものコースを通って比叡平から滋賀に抜ける道を考えて出発しました。
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小さな橋に至るまでの砂利道。
「こけばむ」を作ってからあらためて眺めると、ステキな道ですねえ。

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というわけで石垣で戯れる苔たちをばしばし撮りました。
コメントは「こけばむ」をご参照下さい(たぶん明日投稿します)。
(もし「見れないけど見たい」という方がいればどうにかしますのでご連絡下さい)

橋を渡って通常の登山道を上り始めたんですが、途中で分かれ道にそそられて新コース探索を始めてしまいました。
行きつ戻りつして結局火床の下側に出る道(道というか…管理道?)を見つけたんですが、ここではもろもろ省略して途中のこけ+αだけ載せておきます。
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「もふ…もふ…」という鳴き声というか呟きが聞こえてきそうな…。

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最後の2枚は火床の下側に出る直前にあった小さな森にて。
その昔子どもたちが植樹した木々が今は立派に生い茂って…ということなんでしょうか。
すぐ抜けられはするんですけど、ステキな入口ですね。

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で、火床に出て「大」の字の四画目の「はらい」を上って一画目の筆の方向に進んだんですが、ここでもまた脇道にそれて斜面のきつい道なき道(ただしテープがこまめに配置してある)をしばらく進んで、一回落ち葉に滑って壮大に転んだりひとまず落ち着こうと昼食のパン(今日はさつまいもパン、チーズフォンヂュパン、かたいフランスパン、とかき揚げ)を食べ始めたりして、結局は山頂に通じる道に合流するんですがけっこう時間をくいました。
このかわいい写真は「落ち着こう」と思ってふと木を見たらぴょこんと健気に生えていたので撮ったもの。
「やあ、元気かい?」

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今日の山頂からの景色。
遠くが霞んで、靄の中に(たぶん)大阪のビル街のシルエットが見えていました。

今日はいろいろ寄り道をしたので大文字山付近の行ったことない道をてきとうに回ろうかと思い始めてたんですが、結局山頂に足が向いてしまって、山頂に着いたからには(まだ日も高いし)比叡平に行こうかな、という気分になりました。

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山頂を越えて、最初の分岐に着く前にいた苔。
城下町(塔下街?)のミニチュアみたいです。

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右に行けば三井寺方面(前に行きました)、左に行けば池ノ谷地蔵尊比叡平方面。薬草園は池ノ谷のそばにあります。
今日は右。

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大文字山〜池ノ谷間にいた苔たち。
最後3つの写真は、その上の朽ち木に屯している苔です。
苔のワンダーランド。
小さな人型の人形(レゴのやつとか。別にスタートレックでも構いませんが)を置けば想像力をかき立てられそうですね。

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林道。
冬ですね。

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「こけれどもこけれども」*1

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そういえば大文字山〜池ノ谷間を歩いている時に小柄で体力のありそうなおじいさんとすれ違う前に立ち止まってしばらく喋ったんですが、「比叡平から来こられたんですか?」と聞くと「いえ、大文字の方から。」と返されて「???」となったんですが、どうも大文字から三井寺方面に向かおうとしてどこで間違えたかぐるっと回って戻ってきたようでした。このとき「コンクリートの柱の所で云々…」ということを聞いたんですが上の写真がたぶんそのことで、何か私有地っぽい雰囲気があってこの柱ゲートに入らずにV字に戻る道があるので、たぶんおじいさんはこのゲートを見て入らずに戻ってきたのだろうと思います。そう思って、僕はゲートの先へ進むことにしました。

おじいさんと話していて「どこに向かわれてるんですか?」と聞いたら「いやあ、特に行くあてはありませんで」と返事があって、つい「あー、僕もそんな感じなんですよ」と相槌をうちました。もちろん本心からのことで、つまりは「ただ歩きたい」ということ。この辺の(本格的でない)山道を歩く人にこういう考えの人はそこそこいるとは思いますが、実際にそういう人に会うと嬉しいですね。

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選んだ道は正解で、池ノ谷地蔵尊に着きました。
そのまま過ぎて車道に出ると左右の分かれ道になっていて、左が比叡平バス停とか団地がある方(とここに来る途中の看板広告に書いてあった)、右が皇子山カントリークラブへ至る道。
(分かれ道の看板のところにちょうど車が停まっていたので写真は撮れませんでした)
「団地」という表現に引っかかっていたので(でも地図で道路の感じを見たらたしかに団地だったかもしれない)、進めば他に道があるだろうと思ってカントリークラブの方へ行くことにしました。

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車道をずっと歩いていて、途中で見つけた洞穴。
中には何が…! と相当期待して中に入ったんですが、底が浅くすぐ行き止まりでした。
トンネル掘ろうとして早々に諦めた、という感じでしょうか。

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洞穴から外を撮る。

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洞穴付近の苔たち。

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カントリークラブの看板には「琵琶湖を一望できるフィールド(コースだっけかな?)」みたいなことが書いてありましたが、途中の道からすでに琵琶湖を眺めることができます。

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と、カントリークラブの入口が近づいてきたところで林道に入れそうな所がありました。
鉄塔があってすぐに思い出したんですが、この鉄塔は前に浜大津へ行った時に通りました。
その時の写真を2つここに再掲します。
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鉄塔の柵に書かれた行き先(下の写真)の、写真でいう右側には「比叡平・ゴルフ場」と書かれています。
前にこれを見た時は「すぐ近くにありそうもないな。どれだけ歩けば着くんだろう…」と周りの景色を見て途方もない感じを抱いていたんですが、それが、この鉄塔のすぐ裏に車道が通っていて、ゴルフ場もその車道のすぐ先だったとは。
まあ、いいんですが。

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車道からゴルフ場のコースが見えます。

鉄塔そばの林道入口を見つけたので、ここは前に通ったから戻ろう、と潔く何十分かかけて歩いてきた車道をとって返し始めたんですが、その矢先に(方角的に)滋賀に出られそうな自然道の入口を見つけました。

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行きに通った時↓は「看板があるな」と思っただけで見逃していたのでした。
(なのでこの写真は入口を見つけた時に、最初に通り過ぎた時の視点をイメージして撮ったもの)
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で、最初は木が固定された階段とかがあってわりと整備された自然道かと思わせたんですが、途中から道がなくなったように見えて(すぐ先にはフェンスの向こうにゴルフコースがある)、うーんと思って見回すとかすかに道に見えないこともないようなコースが覚醒ガウェインのように光って見えて*2、戻って車道をずっと歩くのも気が進まなかったので思い切って進んでみました。
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写真で見ると道っぽく見えますが人が通るにはどうも狭かったり低かったり(すぐ上が枝葉で覆われているような道もありました)して、そういえばこの自然道に入ってからやたらと鹿の糞があるなと思ってもいて(たとえば上の写真の2つめのような)、もしかしてこれは人の道ではなく鹿の道ではないかと思ったりもしたんですが、進んでいくなかで人の道のようにも見えたり鹿の道にも見えたりして、よくわからないながらとにかく進めたので道は道であったのでしょう。

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木の根っこ付近に密生する苔を勢い余って足で掘り返してしまったんですが、表面の新しい苔の下には古い苔が積層されていました。
いいですね、積層。

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「苔の国から」*3

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奇木。

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林道を進む途中で妙な構造物に遭遇しましたが、これは車道を歩いている時に見えていたゴルフコースの一部です。
確か上には芝生が植わっていたような気がしますが、なぜ足場を組んでまでしてわざわざコースを足すようなことをしたんでしょうか。
バンカーだったのかな…なんでもいいですが。

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ゴルフコース構造物のすぐそばにはゴルフボールがたくさん落ちていました。
まあそりゃ、飛んできますわな。
ここで登山者にショットが命中するのは、スタジアムの観客席でホームランボールにぶつけられるよりもだいぶ確率は低いでしょう。

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人の道か鹿の道を方角を頼りに進んで行くと川の先に工事現場がありました。
林道はその先にもあったんですが方向が元の車道に戻るようだったのでこの工事現場に下りることにしました。

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鹿の足跡。

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そういえばこのゴルフコースそばの林道には赤や黄のテープの目印が一つもなかったんですが、「ここにあったか!」と思って近づくと椿の花でした。
ちょっとこわい。

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ここから出られます。
橋を渡った上に車がいてすぐ車道かとも見えますが、この車は廃車で上ったところもぼうぼうの草で覆われてました。

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ぼうぼうの草をかきわけて出たら工事現場の裏でした(写真のショベルカーの裏から出てきました)。

出てきた時にちょうど現場のおじさんが通りかかって、僕をじーっと見ながら通り過ぎていったんですが、僕がこの上の写真を撮るちょうどその時に引き返して戻ってきたようで「なんで撮ってんの」と尋問口調で聞かれてひやっとしました。
山道を歩いててここから出てきて比叡平に行きたいんですけど(と言ったんですがこれは「比叡平から来た」の間違いでした)ここどこですかねへへへ、みたいな気弱で愛想の良い感じを出してなんとかその場をしのぎました。
「車道下りたら大津だよ。だいぶかかるけど」と言ってくれたので、さっそく車道を下り始める。

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もうけっこう薄暗くなっていたんですけど、車道の途中で自然道の入口があり、「近江神宮」の文字があり、20分とあるので「これなら行ける」と勢いで入っていったんですが、これはペケでした。
わかりやすい道のはずがいつの間にか勾配が急な細い道になっていってしまいには道がなくなってただの山の斜面になり、しかもどんどん暗くなっていくので「これはやばい」と引き返すことにしたんですが、引き返し始めると今度はさっき来た道が分からない、というか見えない。
かなりピンチになりながらも這々の体で元来た道に戻って来れた時は大きな溜め息がもれました。

今日はこういうパターン(「車道をずっと歩くのか…」と思っているとちょうどよい時にちょうどよさそうな林道を見つける、という)が多かったから調子に乗ってしまいました。
いやしかし、そもそも薄暗いのに新たに自然道に入るなよというのはありますが、引き返す時の判断が素早くできたのはよかったです。
こうして勘が鍛えられていって、油断さえなければ大事には至らないはずなんですが…毎回なにかと危機がありますね。
気を抜かないよう気をつけましょう。

車道をずっと下って街にたどりついて、京阪の駅を探そうとてきとうに歩いているとこのような道路標示が。
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「えー5km!?」とまずは思いました。坂本という駅があったはずなので(少し後で京阪の終点だとわかりました)。
で、このすぐそばに近江神宮があるらしいことに気付き、地図があるだろうと中に入ると、

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近江神宮前駅」というもっと近い駅があることを知ったのでした。
これに安心して、近江神宮の敷地内を少し歩いてみました。

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本宮は閉まっていたので、手水場の写真だけ。
水が竜の口から出ています。

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近江神宮前駅
琵琶湖からは遠かったです。


ぷふー、疲れました。

これで、滋賀へ至る山道はあと比叡山を残すのみ、かな?
大文字山経由ではあと京都山科と蹴上があったと思います。
まあ、気分とその日の持ち時間で決めましょう。
比叡山は半日では到底かなわない気がするので、行くなら予定をちゃんと立てないとですね。
 

*1:小説タイトルのもじりです。わかるかな?

*2:ゴルフコースなので『ライジングインパクト』(鈴木央)にちなんでみました。もちろん光って見えてなんていませんが。

*3:言わずもがな。

曲に刻む経験の強度、脳内BGMについて

『菅野満子の手紙』(小島信夫)の派生で『白衣の女』(ウィルキー・コリンズ)を読んでいます。
語り手が複数いて、「それぞれの場面で最も適切な者が語る」みたいなことが序文に書いてあります。
今日は一日読むかと思っていましたが、その一人目の手記が終わったところでちょっと気分を変えたくなって、その時ちょうど頭の中を流れた音楽に導かれて『晴子情歌』(高村薫)を読み始めました(ちなみに二度目の再読です)。

その音楽というのが、僕はやったことないですがRO2という(名前からして多分オンラインの)ゲームに使われているらしいYoru Voという曲。
この曲は僕にとってかなり濃厚に経験が刻まれた曲の一つで、というのは脳内BGMとは読む本や作業と一度結びつけると決めてそれを続けることで曲と経験が相互参照されるようになるもので、「濃厚な曲」は他にもいくつかあります*1

この曲は高村薫氏の「福澤家三部作」(『晴子情歌』『新リア王』『太陽を曳く馬』)を読む間ずっと頭の中を流れていて、それは読書記録によれば2010年10月〜11年8月末までのことでこれだけでも長い付き合いと言えるんですが、(今思うとこの長い付き合いの延長だったのかもしれませんが)そのあと修論を書く間もずっと*2聴いていて(これは研究室PCでイヤホンをして。だからふつうのBGMですね)、その修論執筆がというか所属した研究室が大変なところで、ただ今は「当時は閉鎖的かつ孤独だった」と言うにとどめますがつまりはこれによって小説の記憶に上乗せ*3して濃密な負の経験を背負ってしまい、卒業後就職してからもずっと能動的に聞く気にはなれなかったのですが、今年のGWに秋田の玉川温泉へ七泊八日の湯治へ行った時に*4、温泉に浸かっている間に流す曲はないかと記憶に検索をかけると、温泉家屋の総木づくりで古色蒼然ながら重厚な風情にぴったりだと思いついたのがまたこの曲で、負の記憶のこともあるが場所が非日常だからいいかと決めて、八日間に温泉場に入っている間はずっと流し続けていました*5

というわけでこの曲を聞けば連想されることがたくさんあって、一日中この曲を聴きながらぼーっと過ごせるんではないかと思えるほどです。


そういえば、内田樹氏が昔のブログに大瀧詠一さんのことをけっこう書いていて*6、その中の話で、「無人島に一冊だけ持って行ける本を何にするか」というアンケートがその昔業界人の間にあったらしく大瀧さんは「○○年のレコード年鑑」と回答した。これはある年(何年かは忘れました)に出荷されたレコードの詳細が一覧できる冊子で、つまり曲名(と歌手)を見ればその曲を頭の中で流せるからこの一冊があれば一生暮らせるのだと。

脳内BGMに対してこれほどの情熱を持つ人がいるのだということを僕はこれを読んだ時に初めて知ったのでした。

 × × ×

このブログに脳内BGMについて書いた記事が既にいくつかあるのでタグを作りました。
記事を読み返すと、なかなか面白いことが書いてありました。
2つ張っておきますので、興味があればご覧下さい。

cheechoff.hatenadiary.jp
cheechoff.hatenadiary.jp

*1:たとえば村上春樹の小説を読む時にいつも流す曲とか。何の曲かはまた機会があれば書きます…と打ち込む間にもう書いてあったことを思い出しました。興味があればどうぞ。マニアックな話ですが脳内BGMについて熱く語られています。

*2:本当にずっと、一日中聴くのを何日続けたか、というくらい。他の曲も時々挟んでいましたが。

*3:「上書き」ではないのですが、記憶の新しさのせいか体験の強度のせいか、曲を聴けばまず修論を思い出すのでした。

*4:そういえば湯治記がまだ途中でした。肝心の温泉治療のことをまだ書いていませんが…思い出すの大変かもですね。このすぐ下↓にちょこっと書いて、書いた気になっちゃいましょうか(笑)。そして湯治記のタグもつけちゃいましょう。

*5:ふつうの温泉旅行と違うのがこの長さで、源泉100%のお湯なんかはずっと浸かれない(治したい患部と感度の高い部分がヒリヒリというか、筆舌に尽くせないような「堪え難い状態」になるのですが、こうなるまでに「温泉皮膚炎」が生じてこれは効いてる証拠だという説もありますが、滞在が長くなるほど皮膚炎が発達して一度浸かった時に「堪え難い状態」になるまでの時間が短くなります。こんな具合なので源泉に浸かる時間よりそれ以外の時間の方が長いです)ので入っては出たり別の所(サウナとか、頭だけ出して蒸気で満たされた箱に入る「箱風呂」とか)へ行ったりを繰り返すんですが、この繰り返しをやるうちに二時間くらいは経って(つまり一度温泉場に行けばこれだけの時間滞在する)、体力が続けばこの繰り返しを一日三〜四回はやります。つまり僕の脳内では最長で一日八時間はこの曲が流れていたわけです。

*6:はっぴいえんど」というグループで一世を風靡した人らしいのですが、時代が違うので僕は全然知りません。ウチダ氏がどれほど熱烈な「ナイアガラー」かを氏のブログを読んで知るのみです。

減速の第二十五歩、歯の磨耗と脚絆問題

今日はラナーバイキング→加茂川下り。
なぜかいつもより多く食べてしまい、歩き始めが大変でした。
(帰宅後も変わらず満腹で、泳いだら吐くと思ったのでプールは行きませんでした)

最近気づいたというか、現象自体は知っていたんですが歩行に影響が出ているのを知ったのはここ2、3日のことで、なにかと言えば歯の減りがけっこう激しくてしかも外側が大きく削れて斜めになっています。
写真を見れば一目瞭然です(前からと後ろから)。
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靴がすり減るのも外側からなので違和感はないですが、これでよいのかがよくわかりません。
自分の歩き方に歯の角度が最適化されたのか、歩き方の癖が歯の削れに反映されてどんどん癖が酷くなっている(歯が傾くことで癖が強調されている)のか。
両足の歯を揃えて立とうとすると両足が外側に傾いてしまう(ちゃんとした言い方がわかりませんが、「よりO脚になる」と言えばわかりやすいかな)のであまりよくないような気がしていたんですが、今日歩いていて、がに股っぽく歩く(つまり足先を前方に対して少し両足が開くように向けて歩く)とそんなに違和感はないかもしれないと思いました。
もともと僕は(つまり靴で)がに股気味で歩いていたのだったか?

いずれにせよ、前にも検討したことですがもう一足一本歯を買ってみて歩きやすさの比較をした方がいい気がします。
その時は二足目で歩き始める前に歯底にゴムをつけるつもりです。


あとは、安定していると思ってしばらく歩いていて足がぶれてきたら、原因が何であれとりあえずゆっくり歩く、一歩一歩を確かめるように歩くと落ち着いてくるようです。
「歩歩到着」を心の内で唱えるだけでなく実際に行動に移すのがこれである、ということにしましょう。

今日も歩きながらあまり考えませんでしたが、加茂川河川敷の足場が悪いせいもあります。
足下を見るべきときはしっかり見ながら歩く、をやると当然頭は空っぽになります。
やはり高野川だけでは悪路慣れできないので、時々加茂川も歩かないとですね。


さて、日中歩行はいつやろうかと今ふと思いましたが、厳しく冷え込む前の方がいいですね。
今日はまたぐっと冷えて歩行時に上着を1枚足しましたが(大外のGore-Texレインコートも合わせてつごう5枚)、足はまだ裸足でもなんとか平気です。
もっと冷えるとちょっと考えものですが、だからといって靴下や足袋を履いて一本歯で歩こうとは思えません。
(つい最近足袋を購入して履いてみました*1。グリップ力がなかなかあって畳の上では動きやすそうだと思ったんですが、一本歯を履くとやはり裸足に比べて滑りやすい。ふつうの二本歯の下駄なら台が前方にしか傾かないから足袋を履いても平気に思えますが、一本歯は後ろにも傾くのでグリップが弱いと脱げてしまうのです)
 

*1:足袋のことを書いて思い出しましたが、足袋は道中で使わないと思いますが脚絆はいるかもしれないとこれは想像の段階ですが考えています。長時間歩いて足首に大きな負担があるようなら付けた方がよい気もしますが、そもそも脚絆がいかなるものかがよく分かっていません。近いうちに調べるつもりです。

ところで「裸足で脚絆」が可能なのかもちょっと疑問ではあります。

元同僚と会う、魚心の第二十四歩

今日は北大路ビブレで元の会社の同期Iくんと食事してきました。
京都で知人とまともに話をするのは初めてですね*1
そのこと自体はどうということもなくなってしまいましたが。

辞めた者同士が別天地で再会するというのもなかなかなものです。
本当は僕が京都に来る前に連絡していて、引っ越し後落ち着いたら会うつもりだったんですが、ちょうど子どもが生まれたということだったので彼が落ち着いてからの今日となったのでした。

まず元気そうで何よりでした。
自分にとって興味深い話(奥さんが大学の時に四国遍路をまわったこと、彼の東北旅行や長崎、小倉(福岡)、弘前の話など)もたくさん聞けました。
この冬に北海道(か東北)に行ってみるよ、という話もしたのでした。

またご飯食べにいきましょう。

 × × ×

今日も高野川へ。

最近は歩き始めにあった鼻緒の締め付けによる痛みがほとんどなくなりました。
鼻緒の締め具合を微調整することもしなくてよくなり、このあたりは安定してきた感があります。


今日はだいたい空を見ながら歩いていました。


歩いている間は何も考えないのがいいのではと今日思いました。
修行なのでフィードバックが必要な部分もありますが、反省や分析は少なくとも歩いている間はしなくてもいいのではないか。
反省や分析の材料が生じれば(「材料が生じる」なんて言い方するのは初めてですね)、それは脇に寄せておいて歩き終わってから再び手に取ればよい。
(実際の遍路の)道中でいろいろと考えることがきっとあるにしても、それは歩いている時以外の時間のことで、というかそうである方がよいのではないか。
「ただ歩く」あるいは「歩かざるを得ないから歩く」というのはそういうことではないのか。
歩きながら考えることはもはや当たり前のこととして僕の中で定着はしているし、じっとしている時よりもある意味で健全な思考ができていることも間違いはなく、それはそれで「生活の中で歩くこと」として相応の意味があるとは思います。
でもそれは「ただ歩く」とは異なる歩き方である。

今日も昨日思いついた歩き方のシフトをやってみて「なかなかいいかも」と思ったりしたんですが、後半の下りの途中で、眠くなるというか「眠くなってもいいかも」と思いました
靴で歩く時はけっこう当たり前にしていて、最近一本歯で歩く時も安全を確認してから時々やるんですが、目を瞑りながら歩く経験はわりと長くあるのですが、その目の瞑り方というのが、精神統一の時のそれというのか、力の入ったというか「若干眉間に皺が寄る感じ」なのですね。
「眠くなっていいかも」と書いたのは、こういうのではなく「脱力に伴って目が閉じられる」あるいは「脱力を誘うように目を閉じる」というようなもので、もちろん本格的な脱力だと困るんですが局所的な力みを緩めるような効果がその目の閉じることにはあるようだと感じました。
このことのさわりをさっき(というのはプールで泳いでからシャワーを浴びている間ですが)考えた時に連想したのが『魚は海の中で眠れるが鳥は空の中では眠れない』という保坂和志氏のエッセイの謎めいたタイトルで、前に似たようなことを書いた記憶があるんですがたぶんちょっと違っていて、魚は水の中で泳ぐ時と同じ姿勢で寝られるわけですが、これを思った時に「目指すべきは魚だ!」と直感しました

 「魚心あれば歩心」

でどうでしょうか。
「歩」は「かち」と読みます。

魚は海の中で眠れるが鳥は空の中では眠れない

魚は海の中で眠れるが鳥は空の中では眠れない

*1:そういえば先月あたりには大阪で大学院の研究室仲間(ゴウ君)の家に遊びに行ったのでした。長男、長女と会うのは初めてで、元気いっぱい高感度のレオくんも貫禄たっぷり志村喬似のルリちゃんも良い子でした。ちなみに志村喬は『七人の侍』(黒澤明)で野武士から村を守る侍集団のリーダ役をやった人です。きっと大物になるよ。女の子だけど。

街で求職と買い物、転換の第二十三歩

今日は烏丸御池ハローワークに行ってきました。

修行と両立できて生活リズムが整うようなパートを探します。
希望職種に「未定(職歴問わずなんでもいい)」、その他備考に「PCをあまり使わない仕事、事業規模10人以下」と書きました。

どんな仕事があるでしょうか。


街へ出たついでに買い物をしてきました。

コーヒーのドリッパが欲しかったのでロフトを探したんですが、新京極から河原町に出る道にあった記憶があったんですがそこにはなく(記憶が古すぎる?)、四条通まで出て通りを歩き、河原町通も四条-三条間を歩きました。
木曜のまだ夕方だというのに人でいっぱいでした。

ロフトでなくともそれっぽい店があれば、という目で通りを歩いてはいて、河原町通でOPA(だったかな?)を見つけて、各階の店舗一覧を見ると目当てのキッチン雑貨屋はないがBookOffがあって、寄ってみるとちょうど欲しかったマンガが求める分だけあったのでまとめ買いしました。
これで「今ほしいマンガ」がなくなったので、BookOffに行く主要な目的はなくなりました。
(「読みたくなる(かもしれない)本・マンガ」はいざそれを前にすればたくさんあるんですが、今は図書館の本を読んでいるのでこれ以上積ん読を増やそうという気もなくて、多少の例外*1を除いて手を出さないことにしています。とはいえその例外も店に入らなければ発生しようがありません)

ロフトは河原町通にあって、4Fに目当てのカリタの陶器(茶色)ドリッパがありました*2


時を遡りますが、ハローワークへ行く前に府立図書館に寄りました。

昨日『菅野満子の手紙』(小島信夫)を読了したのでその次を借りるためです。
次は短篇集成かな、と思っていたんですが、ふと『手紙』の中で話題になっていたマリアン・ハルカムのことを思い出して、彼女が主人公の小説『白衣の女』を見てみようと図書館内で検索したら自動書庫にあったので司書さんに取り出してもらって最初を読んで「うん、読もう」と思って上中下巻を借りました。
何しろ『手紙』の登場人物がみんなこの小説のことを夢中になって語るものだから、読まずにはいられなくなるというか、これは避けられない寄り道なのです。

ちなみに「白衣」は「はくい」でなく「びゃくえ」なのですね。
ハルカム女史のことなのかな…どきどき。

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というわけで今日の出物。

 × × ×

街へひと歩きしてから、今日も一本歯で歩いてきました。

前半は大丈夫だったんですが、だんだん疲れが見えてきて、どうもふくらはぎあたりの筋肉が使い過ぎなのか脚が固まっている感じがしてきました。
小手先の制御がきかないので、前回に考えた(というか「これから考えよう」と考えた)「歩行方法の転換」をさっそく実地に移そうとしました。
といって、その実地に移す内容をこの歩きながら考えるということなんですが、ふくらはぎが固いということで身体のもっと上の部分を使って歩こうと思い、歩き方とその意識について色々試していたんですが、後傾とまではいかなくとも重心を後ろめにすることで歩行に主に使う足の部分がふくらはぎから太腿に移るような感覚を得ました
一度やってみてからあらためて考えると、下り坂では確かに太腿に力を入れる歩き方になっているし、下り坂で疲労する部位も太腿だと気づきました(上り坂で疲労するのは膝ですね)。
これはたぶん、歩行の1サイクルにおいてどの瞬間に足に負荷が強くかかるかの問題であって、下り坂だと着地時、上り坂だと踏ん張り時です。
というふうに考えると、平地での負荷のかかり方は上り坂と下り坂の中間だと思ってよいはずです。

話をまとめると、平地を歩く場合において、身体の重心位置を前後にずらすことで歩行時に負担の大きい足の部位を変えることができる
とりあえず今日歩く中で「後ろにずらす」方はなんとなくできたのでした。
(軸足をなるべく地面から離すのを遅らせることで…いや逆か、重心を後ろにずらせばこうなります。振り出した足が着地する時にも軸足が地面に残っていれば、着地する足にかかる負荷(つまり体重)が減るのは当然です。この歩き方は一本歯での足音を小さくするためにも有効です)
前にずらす方はまだおぼつかないのはわかっていて、というのは平地から上り坂へさしかかる時に歩行動作の切り替えが瞬時にできず歩行速度が途端に落ちてしまうのです。
こちらの切り替えもスムーズにできるようにしたいですね。

*1:例えば前に買ったポール・オースターとか森博嗣とか。

*2:前に持っていたコーヒーメーカは廃棄しました。一日に一杯以上飲まなくなったからです。また豆を挽くこともなくなって、粉でもインスタントでもなんでもいいか、とこだわりがなくなってしまいました。いつからだろう…プールに行き始めてからかな? コーヒーは運動と相性が良くないですしね。

這箇の第二十二歩

今日も高野川ナイトウォークへ。

 × ×

と、いきなりですがちょっと引用します。

 雲厳曇晟(うんがんどんじょう)が薑園(きょうえん)で働いていた時、同参の道吾(どうご)が云うには、
「黄身は只這箇を鋤き得るが那箇はどうするつもりか。」
と。雲厳答えて曰わく、
「その那箇なるものを、此処(ここ)に持出し来れ。」
(…)
彼等の考え方、彼等の感じ方には、二元的な分別がなされなかった。若し然らざれば、凡て是等の問答は、彼等が、或は野外にありて、或は寺内にありて働きつつあった時に、為されはしなかったであろう。問答は極めて密接に生活そのものに関聯していた。心臓の鼓動、手の動き、足の運び、凡ては極めて真面目な性質を帯びた思考を喚起した。何となれば、こは禅を学び禅を生活する唯一の道であるからだ。

第三章 作務 p.77-78(鈴木大拙『禅堂生活』)

引用の前半部は作務としての野良仕事に従事する禅僧同士の問答で、禅問答そのものです。
薑園はたぶん田(稲田)のことです。
這箇(しゃこ)とはここでは「ここ」「この辺り」といった意味らしく、そうすると那箇(なこ)は「そこ」か「あそこ」かどちらかでしょう。

今日は(実は昨日からですが)この禅問答のことを考えながら歩いていました。
そしてたぶんこのことと繋がりがある一つのイメージを思い浮かべようとしていました。

思い浮かんだんじゃないのかと言われると、歩いている間は言語化がかなわないくらいのぼんやりしたイメージがあるだけでした。
それを今頭をひねって言葉にしてみようと思います。

 * * *

 川があって、川の中には魚や草がいて、川の沿いには木があって、人があって、車がある。
 川面には建物の灯と月がある。

 川と魚と草と木と人と車と灯と月と、がある。

 * * *

川はなにか中心のような役割をして見えますが、基点ではありません。
中心というなら「中心はどこにでもとれる」という意味での中心です。
何らかの視界にこれらが含まれた場合には、川が比較的にその存在感を目立たせている。
だから並列に近いものの、完全な並列ではありません。

僕は川を見つめながら歩くわけですが、川になるわけではありません。
川を見つめることで、川のまわりにいるみんなの一員であることを自覚できます。
それは個としての自覚ではありません。
川のまわりにかりそめに、あるいはたしかにある秩序を成り立たせている数多くの存在。

秩序に貢献しているのではなく、秩序は成立していてそれを傍観している。

 × ×

「技術的な問題はほとんどない」と前に書いたような気がしますが、あれは思い上がりでした。
まず定着していないし、定着させるまでに変化しないはずがないので問題はまだまだ生じてくるでしょう。
技術的な問題には引き続き取り組みつつ、「技術的でない問題」にも取りかかり始める、という段階です。

上にはその「技術的でない問題」について書いたつもりです。
多少というかけっこうわけが分かりませんが、「言い切らないように表現する」「要点をまとめず示唆に留めてその周りをうろうろする」といったことを考えています。
タイトルの意味もよくわかりませんが…まあ、いいことにします。


で、技術的な問題も少し書いておきますが、上下に揺れない、下駄をぶれさせないという意識をするにおいて、下駄に意識を集中させるのはよくありません。
末端に意識が集中すると、使われる身体も末端に偏ってきます。
今日歩いていて時々揺れ・ブレの修正をしようと思って、下駄の細かい挙動に神経を遣うのではなく(踏み込んだ時にきっちり止まっているか、どれだけぶれているか、というような)、「腰で歩く」「肘で歩く」というようなイメージを持ちながら安定化を図るとなかなかうまくいったように思いました。
「腰で歩く」といっても腰だけで歩けるわけではもちろんなく、具体的にいえば「足の末端から腰までの身体部位を総動員する」という感じ。
たとえば腰の動き(というのか負荷・抵抗というのか)と踏み込み・踏ん張りの足の動きとが連動しているように感じる、とか。

もちろんこれはどこかの筋肉とかが局所的に疲労していない場合には有効です。
そうでない場合にも有効にする方策は…あるんでしょうか。
局所的な疲労がある場合は「全体を動員する際の個々の部位の無意識的運動」を修正すればよい。
実感に乏しい仮説ですが…記憶のどこかには入れておきましょう。

疲労の第二十一歩

昨日の疲れでぐったりしていたんですが、今日は日暮れ後に一本歯で歩いてきました。

足に溜まった疲れのせいと、あと今日は体感として今期いちばんの冷え込みだったせいで、終始ふらふらしていました。
ふらふらというのは踏ん張り時に下駄がぐらつくことで、気持ちの問題かなと頭をなるべく空っぽにして立て直そうとしたんですが、身体の疲労は気持ちではどうにもならず(当たり前か)、そのふらふらがまた気持ちに動揺を与えるといった具合でした。
時々しゃっきりしたり、でもそれは長続きせずまたふらふらして、の繰り返しで行程を終えました。

一日中靴で歩いたのは昨日が久しぶりだったので、また歩行の感覚が変わったかもしれないとも思います。
ただこれは外出をすべて一本歯にするわけにはいかないのでどうしようもなく、お互いに歩み寄る(できれば靴が一本歯の方に合わせる形で)しかありません。
靴で一日歩いた日はほぼナイトウォークは諦めねばならず、それよりは日中はおとなしくしていて毎晩一本歯で歩いた方が熟練度も増すだろうという考え方もありますが、自然の中をひたすら歩く楽しさというのも日常的に感じていたいとも思います。
これはもう、どっちに集中させるという話ではなく、その日の勘や気分で選んでいくのがよいのでしょう。
なんにせよ「歩きたいから歩く」というコンセプトを見失ってはいけません。

今日の収穫は、疲れている時はどうしようもないという単純なことを再認識したことですかね。
身体が休息を欲していたら、その日は休むか、無理を押して歩くかのいずれかです(これは道中の話)。

山頭火は生涯放浪していたわけではなく、行乞放浪する時期があったり庵で細々と暮らす時期があったりしたようですが、日記には「歩かざるを得ないので歩く」とあり、空腹はもちろんとは思いますが身体的に苦労をして歩くことも多かったと想像します。
もちろん山頭火のような境地を目指すわけではありませんが(でも彼の旅日記は今の自分にどこか響くところがあり、地名などほとんど分からずとも読み進めることができます)、でも自分についてよく考えてみると、「歩きたいから歩く」のはいざ歩き始める時の心境を表しているわけですが、歩くことを生活の中心におく動機なり因果なりはどこにあるのかといえば、もしかすると僕も「歩かざるを得ないから歩いている」のかもしれません
無理はしたくないのは確かですが、そう言えるのは無理をしないでも不都合がないという環境(境遇といっても、もっと大きく時代といってもいい)がそう言わせるのであって、無理をせざるを得なければ(僕だけでなく誰だって)無理をするのです。

何が言いたいのか書いている自分もわかりませんね。

まあ、修行における無理(つまり強行)は成長や発達を促すかもしれず、あるいは妙な癖をつけたり故障を呼び込んでしまうこともあり得る。
だから一概に無理はよくないとは言えませんが、とりあえず明日体調が崩れていないとよいけれど(さきほど遅めの夕食をとった後から舌が荒れているのです)。

逆に明日しゃきっと元気になっていればまた一日京都歩きに出掛けるかもしれません。

大岩〜樋ノ水峠〜貴船山

今日は日中歩いてきました。もちろん靴で。

「京都歩き」は前回の街歩きから2週間ぶりです。
右足裏の魚の目(ができていたところ)はほとんど痛みませんでした。
最後が岩場でちょっと痛んだかもしれませんが、気のせいかもしれません。
「ほぼ完全復帰」ですね。

 × × ×

前回に行こうとして気が変わって行かなかった方面へ今日は行きました。
加茂川を河川敷の歩道が終わるまで上ってさらに少し上り、「東海自然歩道」の立て札に従って大岩に向かいました。

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雲がステキだったので加茂川東岸から一枚。
雨の次の晴れた日はいい雲が多いですねえ。

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前回の最初に書いた立て札をたどって行ったんですが、最初はずっと車道(沿いの歩道)でした。
横に川がある所に出るも、交通量がそこそこあって、しかもトラックとかゴミ収集車ばかりでした。
それもそのはずでしばらく行くとクリーンセンターがあるのでした。
まあ、これはしかたがない。

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クリーンセンターへ向かう交差点を過ぎると本日最初の「京都一周トレイル」案内板がありました。
写真前方の見るからに自然道を行くと氷室というところに行くらしい。
大岩方面が車道なだけにそそられますが、またの機会におあずけ。

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と言いながらちょっとだけ自然道に入ると、苔がたくさん生してました。
いいなあ*1

車道へ戻って大岩コースをたどる。
通る車の数が一気に減って(ほとんどクリーンセンター行きだったようです)、空気も少しひんやりしてきました。
この辺から昼食を歩き食べ始める*2
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壁一面に苔びっしり。
貫禄があります。

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巻いて巻かれて、巻かれて巻いて。

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スーパー苔タイム。
ほんと色んな種類がありますね。

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意味が違うのは分かってはいるんですが、山道での目(←道が分からない時に血眼になって目印を探す時)で見ているとくらくらしてきます。
 「こっちだよ」
 「あら、そっちは違うわ。こっちよこっち、うふふ」
目の前にずらりとドアが並んでいて、一つひとつが色んなところに通じている(あるいは一つ以外は通じていない、ハズレである)、みたいな場面を連想しました。
『金色のガッシュ』(雷句誠)と『鞄図書館』(芳崎せいむ)にそういう場面があったと記憶しています。
あとやったことないけど、「ゆめにっき」というゲームもそんな感じじゃなかったかしら。

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立て札が。
柊野(ひらぎの)というところを通り過ぎていたようですね。
ひらぎのーる。

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さらに少し進んで、どうやら大岩に着いたようです。
名前からして大きな岩があると信じていたんですが、地名でしたか。ちょっと残念。
車道をそのまま進めば行ける雲ヶ畑というのは林業が盛んな山村のようです。
夜泣峠・二ノ瀬コースは前に正規の道を外れて悲惨なショートカットをしてしまったので、今日はその正規の道を行ってみよう。

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いざ夜泣峠へ。
…と思ったんですが、車も通れそうな広々とした砂利道の左側に狭くて峻険な上り坂があり、

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「樋ノ水峠」とある。
名前がついてるからちゃんとした道だし、なんか面白そうだし、方向的にどうせ夜泣峠とどこかで合流しそうだし、ということで方針変更、樋ノ水峠へ向かうことに。
ここから車道を離れて自然道(山道)になります。

山道は落ち葉が降り積もっていて、ということは木に葉はほとんど残っておらず、冬なのだと思わせられました(全然寒くないですが)。
落ち葉をもふもふ踏み進んでいると、自分が踏んでいるのが枯れ葉ではなく雪のように思われてくることが何度かありました(僕は歩く間はだいたい決まった脳内BGMを流すのですが、一度そう思ってしまうと、ほとんど意図せずBGMが雪バージョンに切り替わってしまうのです*3。もちろん意識して元に戻すのですが)。

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茸に寄生された木。
足場のようにぽこぽこ生えている。
「おっ、キミ、登ってみるかい?」

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でん。

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密着部が気になる。

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はっぱふみふみよんじゅうろく。

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ひねくれて十年。(山頭火*4

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玄関に飾りたくなるような奇岩ならぬ奇木。

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ひょっこり。

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山道に入ってから道を見失うことはなくて、というのもこまめに色テープが枝に巻いたり吊るしてあったからですが、現在地を示す文字情報はここまで全くありませんでした。
文字だと思って撮りましたが、当然ですが何のことやら、です。

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多発。

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中の襞まで接写。
「あられもない姿」というやつですね。

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山道のようすが変わってきました。
木の植わり方に人為を感じる。

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辺りが落葉樹から針葉樹主体になりました。
落ち葉はありますが地肌の土がおおかた見えています。

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奇木その2。

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ひょろすこ。

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道表示!
大岩から来たのですが、判官坂とは? 判官びいき

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表示のすぐそばに分岐がありました。
どうやらここが樋ノ水峠らしい。

さっきの判官坂はこの分岐(前、左、右)のどれとも違う道らしく、分岐の三方の行き先を示す情報が「白 右へ」(白石へ?)しかない。
相変わらず情報が少ないが、冷静な判断が要求される(というのも日がけっこう傾いてきているので山道を降りる算段をつけたいのです)。

方角からいって左へ行くとおそらく雲ヶ畑方面、前は不明、右は二ノ瀬・貴船方面。
雲ヶ畑に着くまでは長そうだし、行ってから交通手段が期待できない(鉄道があるか分からないし、車道を歩いている間にバスとはすれ違わなかった)。
二ノ瀬の方も、山道に入る時に分かれた夜泣峠からはずいぶん違う方に進んできたように思えるところから着くまでが長いと予想される。

…という思考をしたはずなんですが、結論が「前へ」。
「不明」というのはポジティブな響きがあるのでしょうか?
と誰かに聞いても仕方のない話ですが…

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が、なんと!
「前へ」少し進むと貴船山の三角点に来てしまいました。
自分の予想は外れていますが結果オーライ。
(特に見晴らしがあるでもなく、「ほんのちょっと開けた平地」という感じだったので三角点付近の全景を撮るのを忘れました)
もう先行きのメドは立ったようなものです。
というのも、二ノ瀬〜貴船口を歩いた時の「元々行こうとしていたコース」に合流したらしいからです。
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その時に撮った案内板の写真に加筆してみました。
おおざっぱに言って、赤矢印に示した道を歩いてきたと思われます。

で、ここからちょっとだけ気が緩みました。

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到達記録がいくつか残されていました。
貴船山は地味ですが人気のようですね。

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三角点から少し進むと積み石がありました。
「最高点 716m」かな?(右とは?)

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さらにしばらく進むと表示板。
立てたメドは合っていたようです。
(しかしここまで来た道で二ノ瀬駅に通じるような分岐はなかったような…?)

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私的素敵山道。

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ピーカーピー?

そういえばユリが見られる道だったようですが、そのようなものはありませんでした。
(思い起こせば「湿原地帯」のような地点はありましたが、草だけでした)
やはりシーズンは過ぎたようです。

そうか、だからでしょう、今日は一人も登山者とすれ違いませんでした。
はっぱふみふみ山道も面白いんだけどなあ。

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滝谷峠に到着。
薄暗いが先は見えているので楽観。
貴船口へ向かう。

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滝谷峠の分岐からは下りだったんですが、鹿ヶ谷と似ているかそれ以上に苔が好みそうな、日当りが悪くしっとりしていて風が通らない道でした。
途中でふと立ち止まると、静かどころか全くの無音で空気が静止しているようで、日が暮れゆく中しばし呆然としていました。

自分の鼓膜が揺れる音なのか、中低音の一定のノイズが引き延ばされて聞こえるだけで本当に無音で、すぐ上のシダの葉がわずかな風に揺られて上下しているのを見て、それを無音の環境で見ているとなんだか映画の中にいるようでした。
河瀬直美監督の『殯の森』にこんな場面があったかもしれないとその時思いました。あるいは、『もののけ姫』でアシタカが森の奥深くへ行った時も全く無音だったことを思い出しました)
無音の空間で、自分自身も身じろぎせずに音を立てないでいると、寂しいとかそういう感情的なものは全くなくて、なんだか自分もこの空間の一部、森の一部になっているような気がしました
それはある意味で、満員のスタジアムで聴衆と一体になって自分も熱狂しているような状況と同じかもしれないと思いました。
毎朝読み進めている『禅堂生活』(鈴木大拙)の言葉を借りれば「没我」ということでしょうか。

写真はその身じろぎしないでいた場所で坂の方を向いて撮った一枚と、真上を撮った一枚です。
どんどん日は暮れて行きます。

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薄暗い中で足場の悪い(手で持つためのロープが張ってあるような)岩場を下りたりして多少危険を感じましたが、なんとかライトを使うほどとっぷり暮れる前には(という言い方はライトの光量がとても小さいことを鑑みれば言い訳になりませんが)山道を下りることができました。
毎回こんな感じですが、フラッシュを焚いて案内表示を撮りました。

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車道に出てから下りていくと、貴船神社の奥宮にたどり着きました。
つい最近一度来ましたが、シーズンオフになると雰囲気が全く違いますね。
最小限のライトアップ(ライトアップというか、単に照明ですね)があり、それを見る人は一人もいない。
僕はこの方が断然好きなので(人混み嫌いですから)、ゆっくり写真を撮りました*5

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奥宮に通じる砂利道。
いいですね。たまりませんね。

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本堂…かどこかだったかな。
貴船神社のチラシに使われる場所だと思います。

今日も貴船口駅までは歩いて、駅で電車を待つ人に時間を聞いたら18時前でした。
18:01の電車に乗り、帰ってきたのが18:40で、いつもちょうどプールに行く時間帯。

うーん、結果オーライ。
 

*1:「こけばむ」を作成してから初日になりますが、苔を大量に撮りました。今後もそうなると思います。

*2:今日はパン3つ(ごぼうチーズパン、シュガーなんたらパン(忘れた)、さつまいもパン)とかき揚げと紅茶花伝。しかしかき揚げはいいですね。野菜が何種か入ってるし油もとれるし、山で歩きながら食べるとまた格別です。

*3:「いつもの」は久石譲の「風のとおり道」。今日流れた雪の曲は、最近いくつかの曲を色んな生活場面で活用されているタクティクスオウガSFC)のサントラから「さむいッス」です。

*4:ウソです。すみません。

*5:そういえばつい最近シャッターボタンを押してから離さないでよいことに気づいたので、夜景を撮る時のブレが大幅に減少しました。ほんと、いまさらですけど。

公案の第二十歩

今日は府立図書館へ。

歩いて片道30分くらいなんですが、今日は歩いている間も図書館にいる間も帰ってくる時も、魚の目は痛くなりませんでした。
一番痛い時(スピール膏を貼っていて出っ張っていたせいが大きいですが)は歩いていると痛くて、そうでなくても一度歩いてしばらくじっとしてから再び歩き出す時に痛むことがよくあって、けれど今日はそういった痛みが全くありませんでした。
見た目も固まった芯のようなものはなくなってあとは削げた(というか削いだ)皮膚の再生を待つばかりの状態です。

というわけでまた一日歩き回ろうと思えばできる体勢に戻れそうなわけですが、さて実際に戻るかどうか。
一本歯歩行は毎日やった方がよい気が最近はしているので、日中歩き回るならも少し早起きせねばなりません。
けれど夜のプール後に夕食のルーティンがほぼ固定で、食事が早くとも21時からとなると、逆算するとどうしても遅い起床になってしまう。

そういえば靴は新しい方からもとの年季のある方に戻したんですが、歩く調子が前と違っています。
古い方は靴底が平らで薄くて地面の凹凸を拾いやすいんですが、新しい方は靴底が丸まっていてしかも厚くて衝撃吸収のバネがきいています。
ので靴を変えたらそのたびに歩き方の調節が必要で、旧→新→旧と戻ったばかりなのでまだ調節がきいていない、と考えるのは妥当なんですが、どうもそれだけではない。
一本歯を履く頻度が急に高くなって、一本歯歩行が身につくとともに靴歩行にも変化をもたらしている気がしています。
もしそうなら、その変化を受け入れるために、「以前の感覚に戻す」とは別の方へ向かわねばなりません

(ということを念頭におくと「一日山道歩き」がこの過渡期にどう影響を及ぼすかが気がかりではあります。やってみないと分からないといえばそうなんですが)


図書館では引き続き『山頭火 放浪の旅』を読みました。

今日読んだ分で「歩々到着」という表現が頭に残っています。
山頭火が旅先で訪問した知己に禅の言葉として語る、ということが書いてあり、「一歩一歩が到着である」…の続きの説明は忘れましたが、「”一寸座れば一寸仏”となんだか似ている」という感想のような言葉が印象に残っています。
この表現については日暮れに高野川沿いを歩く間も考えていました。

 × × ×

その、今日の一本歯歩行について。
今日で五日連続になります。

一本歯で歩いたのが二十日目という節目にふさわしいというか丁度良いというか、新たな段階に達したというのが今日歩いた結論であります。
つまり一本歯歩行について、少なくとも平地(と下りもかな?)での歩行においては、純粋に技術的な考察の余地がほとんどなく、技術面以外の面に主だった関心を寄せる必要がある、と。
その「技術面以外の面」というのが、簡単に一言で済ませたくないようで(とはいえちょっと言うと、前回書いた「全体」とか「総合」に関係することです)、それに関わろうとする姿勢は公案に取り組むようなものではないか、とちょうど最近『禅堂生活』(鈴木大拙)を読み始めたことを縁に考えています。

大拙氏は、公案は「何だか下らぬ謎」のように思えるがそうではない、として以下のような説明を加えられています。

今使っているペンがわかると、人生も天地も何もかもわかるのである。すべてのものは重重に聯関[れんかん]しているので、その一隅又は一点に触れると、すべてがそれに繫がって動いて来るのである。我等は今まで物事を余りに分析的に対象的に見て来たのだ。我等も亦宇宙構成の一環なのだから、この一環を攫む[つかむ]ことによりて、宇宙全体も亦攫まれる。ただ一環を一環として全体から離さぬようにしなくてはならぬ。(…)大凡[おおよそ]ある所与の物の在る場処からその物を抽出して、それを研究するとか領解するとか云うことは、その物の真相に徹することではないのである。これはその物を殺すのだとも云い得るのである。これは具体的にその物の在る姿をその儘[まま]に見ることではないのだ。学禅の方法論は、それ故に、従来の科学的・哲学的・抽象的・論理的など云うものとは大いに逕庭[けいてい]があるのである。公案を見るにもこの辺の消息を心得ていなくてはならぬ

第一章 入衆 註 p.56(鈴木大拙『禅堂生活』岩波文庫

この抜粋部は昨日書いたこととも深く関係していて、この本はちょうど一月前↓に「たまたま視界に入った」から買ったと思っていたんですが、やはりというか何というか、今僕が読むべき本だったのですね。
まさに「お前が本を選ぶんじゃない 本がお前を選ぶんだ」@御子柴司書(『図書館の主』篠原ウミハル)というやつです。  
cheechoff.hatenadiary.jp
さて、今日は全体的にすらすら歩けたようで、河川敷を上って下っての1時間が今までで一番短く感じました。

これに関わることで、しかしちょっと別の話をします。

自分が移動中に風景の中の何か一つのものに焦点を絞る時に「それが止まって、それ以外のものがそれを中心に回転しているように見える」経験が誰しもあるかと思いますが、僕はこの現象をずっと不思議に思っていました。
塀に囲まれた庭にまばらに林立する竹があって、歩いている自分がある竹に注目するとそれ以外の竹は動いて見え、また別の竹に注目するとその別の竹以外は動いて見える、という経験を神奈川での徒歩通勤時に日常的にしていて、その原理について集中的に考えたこともあります。
が、今はその原理の話をしたいのではなく、「そのようにものを見ること」と「そのようにものを見ないこと」について書こうとしています。

…あまり言語化するとそれに縛られそうでつい慎重になるんですが(たぶん公案というのも「言語化を極限まで削ぎ落とすための言葉」ではないかと思います。それ自体が「削ぎ落とした言葉」なのではなく。)、とりあえず今日歩きながら試したところによると、前者よりも後者の方が(つまり「そのようにものを見ないこと」で)安定して歩くことができました。

さて、落ちをつけるのが大変難しいのですが…


そうだ、あともう一つ思ったことが、上で「新たな段階に達した」と書きましたが、たぶん一本歯歩行の「所作」*1は一本歯で歩いているその間だけのことではなく、靴で歩いている時も、プールで泳いでいる間も、もっといえば生活全体が関わってくる気がしています。

 

*1:「良し悪し」と言いたいところなんですがそういう視点の話ではないし、「安定性」と書けばそれを含むところ大なんですが意味が狭くなってしまう。「成り行き」も何か違うような…難しいですね、日本語。

アフリカンなジャズ曲を聴きました

料理と食事の間によくラジオを聞きます。

NHKをよく聞くんですが、土曜の10時からだったか、ゴンチチがパーソナリティをやっている「迷宮喫茶」という番組が、かける音楽もトークも落ち着いていて好きです*1
この番組では日ごとに決められたテーマに沿ってメンバー(3人いるのかな?)がそれぞれ選曲するんですが(例えば「迷う曲」とか)、昨日は「緑と黄色の曲」という不思議なテーマで、曲のジャンルはほんとうにばらばらなんですが、その中でビッグバンドジャズの曲が流れたので元ジャズ研としては聞き耳を立てたんですが、エチオピアのビッグバンドと言っていた気がしますが曲名は「Green Africa」と聞き取れました。

あとでyoutubeで探してみると、同じ曲でビッグバンドの演奏のものがありました。

 Mulatu Astatke - Green Africa - YouTube

ラジオで聞いた時ははっきり聞こえて、動画だとちょっと分かりにくい(ヘッドフォンで聞けばわかる)んですが、ベースラインがかっこいい。
管がばらばらな感じがしますが(即席バンドですかね?)、リズム隊が聴かせる曲なのでいいのでしょう。

このアフリカ調というのか、地響きズンドコな感じにはまって、コンマスらしきMulatu Astatkeという人のバンドの曲をいくつか聴いてみました。
この曲とかすごくよかったんですが、ベースの固定フレーズがヤミツキになりますね。
現役の時はこの良さがわからなかったはずで(きっと「飽きる」とか不届きなことを言っていた)、「無限に続くが如き感覚」が法悦境なのでしょう。
あと「勤勉実直なシンセシスト」ってなんかいいですね。見とれちゃいます。

 Mulatu Astatke & The Heliocentrics - Chik Chikka - YouTube

ところでアフリカの曲(というかタイトルにAfricaとつく曲)といえばすぐにAfrican Skiesを思い浮かべます。
手持ちの音源ではMichael Breckerのts&gtフロントの爽やかな演奏と、山野ビッグバンドジャズコンテストの演奏*2があります。
これらを聞き直して、せっかくだし他にどんなテイクあるかなとyoutubeで見ると、なんとメセニーがいました。
…というかバンドの中でPat Methenyしか知らないのですが、なんだか彼が弾くとなんでもコンテンポラリーっぽくなりますね。
偏見かな。

 METHENY/STENSON/LANDGREN/STRICKLAND/SANCHEZ/COLLEY - African Skies (live 2006) - YouTube

というわけで久しぶりにジャズを聞き込んだ二日間*3でした。
 

*1:CMがないし基本的に淡々とした番組が多いのでNHKラジオはいいですね。FM京都α-stationも平日9時からやってるエエコエの男性の番組も好きなんですが(ニュースの話題でアメリカが多いのは京都だから?)、CMとラジオショッピングが耳障りですね。

*2:過去の大会で入賞したバンドの演奏を収録したCDをジャズ研で所有していました(あるいはかのサビ先輩が持っていたのかもしれません)。第31回の演奏のようですが、どの大学かはちょっと調べた限りではわかりませんでした(出場大学を見た感じだと、国立か慶応かな?…と思ったんですが、聞き直してるとサックス隊のソロがあったんで明治ビッグサウンズですね。そうか、これ一位の演奏だったか…)。テーマに入る前のアーシーなイントロがむっちゃかっこいいです。

*3:先に動画だけ載せたのが12/3で、翌12/4に文章を加えました。