human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

這箇の第二十二歩

今日も高野川ナイトウォークへ。

 × ×

と、いきなりですがちょっと引用します。

 雲厳曇晟(うんがんどんじょう)が薑園(きょうえん)で働いていた時、同参の道吾(どうご)が云うには、
「黄身は只這箇を鋤き得るが那箇はどうするつもりか。」
と。雲厳答えて曰わく、
「その那箇なるものを、此処(ここ)に持出し来れ。」
(…)
彼等の考え方、彼等の感じ方には、二元的な分別がなされなかった。若し然らざれば、凡て是等の問答は、彼等が、或は野外にありて、或は寺内にありて働きつつあった時に、為されはしなかったであろう。問答は極めて密接に生活そのものに関聯していた。心臓の鼓動、手の動き、足の運び、凡ては極めて真面目な性質を帯びた思考を喚起した。何となれば、こは禅を学び禅を生活する唯一の道であるからだ。

第三章 作務 p.77-78(鈴木大拙『禅堂生活』)

引用の前半部は作務としての野良仕事に従事する禅僧同士の問答で、禅問答そのものです。
薑園はたぶん田(稲田)のことです。
這箇(しゃこ)とはここでは「ここ」「この辺り」といった意味らしく、そうすると那箇(なこ)は「そこ」か「あそこ」かどちらかでしょう。

今日は(実は昨日からですが)この禅問答のことを考えながら歩いていました。
そしてたぶんこのことと繋がりがある一つのイメージを思い浮かべようとしていました。

思い浮かんだんじゃないのかと言われると、歩いている間は言語化がかなわないくらいのぼんやりしたイメージがあるだけでした。
それを今頭をひねって言葉にしてみようと思います。

 * * *

 川があって、川の中には魚や草がいて、川の沿いには木があって、人があって、車がある。
 川面には建物の灯と月がある。

 川と魚と草と木と人と車と灯と月と、がある。

 * * *

川はなにか中心のような役割をして見えますが、基点ではありません。
中心というなら「中心はどこにでもとれる」という意味での中心です。
何らかの視界にこれらが含まれた場合には、川が比較的にその存在感を目立たせている。
だから並列に近いものの、完全な並列ではありません。

僕は川を見つめながら歩くわけですが、川になるわけではありません。
川を見つめることで、川のまわりにいるみんなの一員であることを自覚できます。
それは個としての自覚ではありません。
川のまわりにかりそめに、あるいはたしかにある秩序を成り立たせている数多くの存在。

秩序に貢献しているのではなく、秩序は成立していてそれを傍観している。

 × ×

「技術的な問題はほとんどない」と前に書いたような気がしますが、あれは思い上がりでした。
まず定着していないし、定着させるまでに変化しないはずがないので問題はまだまだ生じてくるでしょう。
技術的な問題には引き続き取り組みつつ、「技術的でない問題」にも取りかかり始める、という段階です。

上にはその「技術的でない問題」について書いたつもりです。
多少というかけっこうわけが分かりませんが、「言い切らないように表現する」「要点をまとめず示唆に留めてその周りをうろうろする」といったことを考えています。
タイトルの意味もよくわかりませんが…まあ、いいことにします。


で、技術的な問題も少し書いておきますが、上下に揺れない、下駄をぶれさせないという意識をするにおいて、下駄に意識を集中させるのはよくありません。
末端に意識が集中すると、使われる身体も末端に偏ってきます。
今日歩いていて時々揺れ・ブレの修正をしようと思って、下駄の細かい挙動に神経を遣うのではなく(踏み込んだ時にきっちり止まっているか、どれだけぶれているか、というような)、「腰で歩く」「肘で歩く」というようなイメージを持ちながら安定化を図るとなかなかうまくいったように思いました。
「腰で歩く」といっても腰だけで歩けるわけではもちろんなく、具体的にいえば「足の末端から腰までの身体部位を総動員する」という感じ。
たとえば腰の動き(というのか負荷・抵抗というのか)と踏み込み・踏ん張りの足の動きとが連動しているように感じる、とか。

もちろんこれはどこかの筋肉とかが局所的に疲労していない場合には有効です。
そうでない場合にも有効にする方策は…あるんでしょうか。
局所的な疲労がある場合は「全体を動員する際の個々の部位の無意識的運動」を修正すればよい。
実感に乏しい仮説ですが…記憶のどこかには入れておきましょう。