「テキトーと適当のあいだ」の民主主義
もし、キリスト教やイスラム教、プラトニズムやマルクス主義やハイデガー思想の中に何か非民主的なものがあるとすれば、それは〈人間〉や〈理性〉や〈歴史〉の本性に関する何らかの特定の学説にあるのではなくて、これらの宗教や哲学をあまりにクソ真面目に考えすぎることにあるのである。それは原理主義へと向かう傾向、つまりこれこれの宗教あるいは哲学の学説に同意しない者を民主社会の危険分子だとみなす考え方なのである。どんな学説も、それ自体はたいして危険なものではない。民主主義がそうした学説のいずれかに忠実に従わなければならないという考え方が危険なのである。
(…)
ロールズの言い方を借りれば、民主主義的な社会理論は、「哲学的な意味では、表層に踏み止まら」なければならない。それはもはや、民主主義の哲学的「基礎」を探し求めるべきではないのである。そうした理論は、共通点を持たない人々を公正に取り扱いうるような道徳的センスを理論的に表現することで満足すべきなのであって、そうしたセンスを何かもっと確実なものに基礎づけようとすべきではないのである。
「哲学をクソ真面目にうけとること」リチャード・ローティ/吉岡洋訳(『現代思想 1989 4 Vol.17-5 臨時増刊 総特集 ファシズム FASCISM』p.89
「冷静と情熱のあいだ」のように、
「AとBのあいだ」という言い方は、
言葉にして定義できないものや状態を、
なんとか表現しようとする苦肉の策です。
あるいは「民主主義」も、
そういうものなのかもしれません。
定義して確定させてから維持するのではなく、
遂行的な試行錯誤を通じて形を成していくもの。
「導きの星」という表現もあります。
決して到達しないと知りつつ、
理想に向かって歩み続けること。
そのプロセスに終わりはありません。