human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

のみのいちへいく

一冊の本を長く続けて読めないことを、能力の欠如(減退)だと思っていましたが、あるいはそれは、別の能力が発揮されたことの結果なのかもしれない。

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電車の中である女性の顔に目が留まり、高校時代の友人に似ていると思ったあと、大学時代のサークル仲間の女性にも似ていると思う。
そこで、僕の知人二人の顔の造作が似ていることに初めて気が付く。

それは気付かれていなかった事実で、その事実が二人のあいだに(主に前者から後者に対して)及ぼした影響を浮上させ、印象の歴史が塗り変わる。

そういう想像が、また後者から前者に対して影響を与える。


初めて会った人に対して「この人は誰か(あの人)に似ている」という思いを頻繁に抱くようになったのは、いつ頃からだろうか。
その変わり目は、インプットしてきた他人の顔が「ある閾値」を超えたから、というものではないはず。
もっと、抽象的な境界。

執着してしまう過去が自分の中に生まれたか。
顔の認識における、分析や客観的視点というものを手に入れたか。

あるいは読書によって。

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今日、四天王寺で毎月開催されている「蚤の市」へ行きました。
「戦利品を獲得する」というような気負いはなく、リュックは持たず、背負うタイプの小物入れだけ。

欲しいな、と瞬間的に感じるものはいくつかありました。
鉱物の原石やアクセサリーなどは相応の値段でしたが、破格なら買っていたかもしれません。
ただ、価格に抵抗のない、持っていてもよい小物を見つけても、ひとしきり考えたのち、再度手に取ることはありませんでした。


「なくてもいいもの」があること、「必要でないもの」が手に入ることは、ある種の豊かさの指標です。
でも、その指標がいつでも豊かさを示すわけではないと思います。
つまり、そこには閾値がある。
「なくてもいいもの」の山に囲まれ、「必要でないもの」を買い漁る生活において、かつて豊かさであったものは既にその姿を変えている。

欲望は制御すべし、倹約が大切である、などと言うつもりはありません。
ただ、そういうことがある、閾値というものがある、それを知っているだけでいい。
結果が、日常生活での行動が変わらずとも。


自覚とはそういうものです。
自覚は、何かを期待するためにするのではない。
敢えて言えば「何かを期して待つ」。
その「何か」の内実は問わない。

なぜなら、自覚そのものは(たとえば)プラクティカルという思想の前提にあるからです。

たとえば、反省は「プラクティカルな形式の自覚」と表現できる。
つまり、自覚は反省の上位概念です。


何の話を…
『哲学の使い方』(鷲田清一)という新書の、タイトルが直截過ぎて「ワシダ先生も疲れてるな…」などと読む前は思ったんですが、(電車の中で)読み始めると、とても面白いのです。
だから、色々と考えてしまうのでしょう。

哲学の使い方 (岩波新書)

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