human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

極北にて(1) - 想像の橋をリアルに渡る

 今でもなお私は考え続けている。私がそれまでくぐり抜けてきた苦難を、それだけの価値はあったと思わせてくれる何かが、その飛行機に積まれていた可能性はあったのだろうか、と。
 そこに何があったかではなく、そこに何があり得たかと、今こうして考えを巡らすことはとてもむずかしい。
 それはとりもなおさず、何があり得たかというきわめて脆弱な形状の上に、鋼鉄の線路を敷くことなのだ


マーセル・セロー『極北』 太字部は文中傍点部

歴史に「もし」はあり得ない。
これは学問として歴史に関わる際に、よく用いられる戒めの言葉です。
個人史のスケールでは、後悔しても実がない、覆水盆に返らず、といった認識の仲間でもある。

これとは逆に、「もし」という過去の可能性から歴史を問う、系譜学的思考と呼ばれる思考法があります。


「(実際に)ある出来事がなぜ起こったか」ではなく、「(可能性としてあり得たのに)ある出来事がなぜ起こらなかったか」という視点で、過去に想像力を適用する。

歴史は、必然の糸が整然と編まれた頑丈な一本の縄ではなく、無数の結節点を持ち複雑に絡み合った蜘蛛の巣のようなか細い網状の集合体において、その分岐の一つが切れるという無数の偶然が折り重なった結果として残る、ボロボロによれて垂れ下がった糸のようなものだという発想。

目的地に到達するまでのルートをたどりなおすのではなく、途中にいくつもあった曲がり角や三叉路を思い浮かべ、それらの分かれ道の、自分が選択しなかった一つひとつを頭の中で選び、歩を進めていく作業。


系譜学的思考は、通常の過去に対する因果的分析とは、根本的に頭の使い方が異なる。

そういった、形式的というか、構造の違いをとらえる考えは、抜粋の下線部と同じような文章を読んだ時によく思い浮かべます。
けれど、これを読んだ時、鋼鉄の線路という比喩が僕の中に力強く響きました。


たとえば「砂上の楼閣」と言った時、楼閣すら砂でできているんじゃないかと思うほど、それは脆くはかない印象を持ちます。
本来は、どんなに堅牢な構造物であっても土台が軟弱だと崩れ落ちる運命にある、という謂で、楼閣の素材はむしろ高強度なものであるはず。
それが、僕がこの言葉と出会った文脈のせいかは分かりませんが、その時頭の中で砂塵が吹き荒れでもしていたのか、僕のイメージする砂上の楼閣は、地盤が揺らぎを見せる前から既に崩れ始めています。

それが、いや…
今書いていて思いついたのは、楼閣自体が脆いのは、僕の「想像物に対する儚さ」という認識の表れではないかということ。
が、本題はこちらで、この思いつきがこじつけかどうかとは別に、"きわめて脆弱な形状の上"に敷かれた"鋼鉄の線路"というイメージが、砂の上に築かれた建物が頑丈であり得ること、さらにはその建物が地盤沈下が起きても構造を保ちうること、の印象を僕に与えてくれたのでした

 × × ×

想像は、いかようにもなります。
想像力があればというよりは、リミッタを外せさえすれば。
言い方を変えれば、想像力のない人間なんていないとすら思っています。
生存競争というプラグマティックな要請が、意識的かつ無自覚に、幾重にもリミッタをかけるというだけのこと。

それはよくて。

想像で、人はなんでも作れるのです。
その気になれば、川に架ける橋、海をまたいで大陸に架ける橋、あるいは宇宙空間をつらぬいて月に架ける橋だって、作れる。

ところが人はその橋を渡らない。
頭の中で、想像の続きとして、渡るかどうかという話ではない。
そもそも、イメージとして生まれたそれは、渡るために作られた橋ではありません。
作りたいから作った、純粋な好奇心に基づいて生まれた橋。

それは建築家にとって、もっと広くはクリエイタにとっては、恵まれた境遇の産物なのかもしれません。
現実として、質量を持ったそのような橋が、世界のどこかに存在するかもしれない。

でも、橋は誰かが渡るためにある。
川を飛び越えて、線路を飛び越えて、人の往来を生み出すために。
想像の橋にも、同じことが言える。
言えるはずが、今までこのことについて考えたことがなかった。



渡るための、想像の橋。
それはきっと、脆弱な形状の上に、鋼鉄の線路を敷くようなもの

必要なのは、材料の強さではなく、土台の強さでもなく、想像の強度。

そして、架けようとする者を、渡ろうとする者を、変容に導く

渡った先にあるものの全てを、彼は受け入れる。
なぜなら、それらは彼自身だから。

振り返った彼の目に、渡ったその橋はもう映らない。
なぜなら、それは彼の一部となったから。