human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

辺縁に生きる(『成長から成熟へ』を読んで・前半)

 こめかみが痛んだ。僕は台所に行ってまたウィスキーを飲んだ。僕の体はどうしようもなく揺れつづけていた。ジェット・コースターは音を立ててまた動き始めていた。繋がっている、と羊男は言った。
 ツナガッテイル、と思考がこだました。
 いろんなものが少しずつ繋がり始めている。

村上春樹ダンス・ダンス・ダンス(上)』(下線は文中の傍点部)

 × × ×

今日は有休をとったので土曜と同じ過ごし方をしました。
気温があまり上がらず風が強かったので外を歩いている間に風邪をひいたようです。
それはさておき…

おとといと今日で『成長から成熟へ──さよなら経済大国』(天野祐吉を読了しました。
成熟社会、人口減少社会、低成長の時代、…。
タイトルを見て読む前から内容はだいたい想像がついていました。
想像した内容に対しては僕はもともと「もっともだ」という意見を持っているので、
きっと「ためになる」だろう、この本を読んでよかったと思うはずだ、と見込んでいました。

その想像も、その見込みも、外れというよりは当たりに近かったのですが、
想像の範囲内において、と同時に想像の範囲外において衝撃を受けました。


この本については、「読めば分かる内容」をここで書く気はありません。
上に列挙したテーマについて興味がある人にはぜひ一読をお薦めします。

以下に書くのは、主にこの本を読みながら「外に繋がった」時のことについてです。
そして最後に、これまでよりちょっと踏み込んだことを書くつもりでいます。
今のところは。

 × × ×

広告は、大衆社会の”いま”と切実な関係を保ち続けることで、人びとの暮らしに対する想像力を切りひらき、生きるための目を鍛える役目を果たしてきました。が、このところ、広告は本来の"ことば"を失ってしまったように思われます。人びとの関心や期待とは別のところで、空騒ぎや見せかけの前衛に走っているという声を、あちこちで耳にするようになりました。…」
p.128

これは、著者の天野氏が1979年に創刊した「広告批評」の創刊のことばの一部です。
僕は"広告"に対する嫌悪感をこのブログで何度も書いてきましたが、
この抜粋部で使われている「広告」が指すものは、僕が思ってもみなかったことでした。

 犬がいかがわしい生き物だと、思ったことはありません。猫もそうだし、蟻もそうです。つまり、いかがわしい動物などというのはいないんですね。
 が、たったひとつだけ、人間というのはかなりいかがわしい生き物だという気がする。もちろんそれは自分も含めての話です。
 それはなぜだろうと考えてみると、やはり「ことば」というものを、それも複雑なシンボル体系としての「ことば」というものを、人間だけが持ってしまったからではないかと思うのです。(…)
 で、人間の持っているそんないかがわしさを、一身に体現しているのが、実は広告というものではないか、とぼくは考えています。ま、芸術や芸能も、祖先は広告と同じですから、それぞれ十分にいかがわしい。が、一〇〇パーセント濃縮還元のいかがわしさを持ったものと言えば、やはり、広告にとどめをさすでしょう。(…)
 念のために言っておきますが、ぼくはいかがわしいものやいかがわしいことが大好きです。ということは、人間が大好きだという意味です
p.133-135

本書で紹介されている本来の「広告」として機能した優れた広告を見て、
また「広告批評」という雑誌の思想を知って、
「広告が本当はそういうものなら、僕はとても興味がある」と思いました。
この雑誌のことは橋本治氏の連載記事が単行本化されたものを昔読んで知っており、
その連載記事を通じてハシモト氏に私淑するようになったのですが、
当の雑誌を読もうと思ったことはありませんでした。
(もちろんそれは僕が"広告"に対して抱いていた間違った印象のせいです)
BookOffで見かけたら買って読んでみようと思います。

 × × ×

「成熟社会」については、はるかに早く一九七〇年代のはじめに、物理学者でノーベル賞受賞者のデニス・ガボールさんが『成熟社会─新しい文明の選択』(林雄二郎訳/講談社)という著作を発表しました。(…)
「成熟社会とは、人口および物質的消費の成長はあきらめても、生活の質を成長させることはあきらめない世界であり、物質文明の高い水準にある平和なかつ人類(homosapiense)の性質と両立しうる世界である。」
 と、この本の中で、ガボールさんは成熟社会を定義しています。
p.176

ずいぶん昔から言われていたことにまず驚きましたが、
そのことが意味するものについて考えて、その自分の考えに対して再び驚きました。

「大事なことが、ずっと昔から言われ続けている」こと。
この事実を悲観的に見れば、言っても無駄なのだ、大勢の人は結局それを望んでいない、
大事とは知っていても目先のことがやはり一番なのだ、といった思いに囚われます。
…たしかこの悲観的な見方を昔自分がしたような気が今したので、
記憶から出てきた「サイボーグ」を検索ワードにして過去記事を探すと、ありました。
ちょっと抜粋してみます。

何十年も前に言われたことが、そのまま現代に通じる。
それは、がらりと変わった世の中の、しかし変わらない部分への言及なのだ

けれど世の中はそれを変えようと努力してきたはずだった。
そして、しかし何も変わっていない。
「しかし何も変わっていない」と、その広告は言っているように読めた。
そう言えるだろうけど、本当だろうか?と僕は思った。
変わっていないのは広告の方で、そしてこの事実認知が誤認なら、
これは行為遂行的な広告ということになる。
つまり「そう言っているうちにみんなそう思うようになる」という。
これはいかん、と思った

これもまた過ぎ去る 片道切符の旅

記事中の「サイボーグ009の全面広告」の内容が思い出せないので何とも言えませんが、
これはたぶん上に書いた悲観的な見方というより、もっとメタな話のようです。
 上の文脈から逸れますが、抜粋の「行為遂行的広告」の意味するところは、
 その広告に書かれた内容に有言実行的効果が期待されているわけではなく、
 「(ウソかもしれない)事実を繰り返し言及するとみんなそれを本当だと思い込む」
 ことの効果を狙った広告だということで、
 正確に言い直せば「行為(=事実認知)遂行的広告」になるはずで、
 これはむしろ下に書こうと思っている「慰め」の話の方に関係してきます。
 (追記:「下」ではなく「後半」になってしまいました…)

話を戻しますが、上のガボールさんの話の文章を読んだ時に、
悲観的な見方とは別の考えが浮かんだことを書こうとしていたのでした。

つまり、「古くから言われていたことが、主流(の思想)にはなっていないが、
これはそのことが辺縁でずっと息づいてきたことの証拠なのだ」と。
また、この思想はこの先も(少なくとも)辺縁において受け継がれていくことを示している。
そして僕が生きて行きたい場所は辺縁なのだ、と。

 × × ×

 辺縁は、
 主流に逆らいながら、
 傍流に流されながら、
 たどり着く場所です。

 つまり辺縁に至るまでには、
 あるいは辺縁においては、
 「"意志"と"縁"の不思議な関係
 が機能しているのです。

 情報社会では、
 「境界」が場所を選ばずゲリラ的に発生します。
 主流にいる人間は生存本能により、
 それから目を背けざるを得ません。

 しかし辺縁は「境界」との親和性が高く、
 辺縁にいる人間は、
 それを抵抗なく感じ続けることができます。
 異質を許容するのは異質なのです。

 × × ×

書き終わりませんでした…
明日は会社を休めないので今日はここでギブアップです。
続きを書ける自信がありませんが、
それは発熱のせいなので(というか明日行けるのか?)、
「弱気は病から」ということだと思います。

というわけで後半に続きます。