human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

刑務所と「宇宙カンヅメ」のこと

まえおき

先の帰省の際に実家から持って帰った古い本を、
日曜の昼下がりに読んでいます。

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文章の中を流れる時間がとてもゆっくりで、
エッセイの各章がどれも「今は昔」で書き出されていたりもして、
こちらはグリルで焼いたマフィンをもしゃもしゃ食べながら読んでいるのですが、
「早く次を読め」と急かされることが全然なくて、
やさしい文体(「易しい」ではなく「優しい」の方)ながら言葉の奥に隠された何かがある…
のかもしれませんがそれは多少詮索のきらいがあって、
ただ味わいがあるとだけ言えばいいような、
時間をかけて身体に染み込ませたい思いが湧いてくるので、
マフィンを咀嚼する口が途中で止まったりもして、
こちらを流れる時間もゆっくりとなります。

本のタイトルにもなっている「狩人日記」とはなんなのかといえば、
人間と動物は切っても切れないほどの深い縁がある、
それは現代(初版は1980年)も変わらないはずで、
たとえば漢字の中には「へん」や「つくり」になった動物がたくさんいる、
どれここでひとつそれらを書き出してみようじゃないか、
といって元旦から一月の間に朝日新聞一面の文字の中にいる「動物」を抜き出す、
という「狩り」をする安野氏の記録がつまり「狩人日記」の章で、
また「木に縁りて魚を求む」という故事をもじって「本に縁りて魚を求む」、
つまり文章を漁場にして「魚」を釣り上げたりもして(「ランダム・フィッシュ」の章)、
子供の遊びを傍らでにこやかに眺めているようで、
これもあるいは鶴見俊輔氏のいう「神話的時間」なのかもしれません。

 数年前、私は『数理科学』という雑誌の表紙でこの箴言の愚を試みたことがある。「本に縁りて魚を求めてみよう」というのである。私はその獲物に御魚という名前をつけるつもりでいた。これはおさかなと読むのではなく、ギョギョッと読んでいただくつもりであった。(…)漁法はいたって簡単で、たとえば私の名前、安野光雅を分解し、それぞれに魚篇をくっつける。すると○○○○○○[※]などができるが、これを字書[ママ]と照合して見ると、驚いたことに鮟、鯉、魣の三つの魚がとれることがわかる。本に棲む魚を紙魚というが、もっともなことだと思ったことであった。
「ランダム・フィッシュ」p.55-56」

※実在しない漢字が含まれるので省略しましたが、この「大漁」っぷりに僕もびっくりしたので、参考までに撮った写真を載せておきます。

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このゆっくりとした読書のなかでまた色々と思いつくのですが、
今日思いついたことが面白いなと思ったので筆を執ったのでした。

ほんだい

 生きていくために、特定の空間を占有しようとするのは、生きることの基本的な条件である。
 占有空間に対する欲求が、生存の本能によるのは動物だけでなく、人間も同じ本能に基づいているものと思われる。
「縄張り」p.119(安野光雅『狩人日記』)

この章では安野氏は「縄張り」についてつらつらと思いめぐらします。

 学校、学校群、家、市町村、県、国といった現代社会の構造の中に公認されている空間を、生存のための縄張りとみるとなかなかおもしろい。
 越境入学、水利権、ごみ処理、衆参議員候補者定数などなど、行政的縄張りが少しずつ矛盾をはらんでいくことがわかる。
(…)
 このように考えてきて、一つだけふしぎな城壁に思い至った。それは刑務所の高い壁である。これは縄張りだろうか。勿論そうではない。むしろその壁の外と思われているところが内で、壁の中は境界の外ということになる。社会が平安を維持するために設けた隔離のための境界である。
同上 p.120-121

ここを読んで最初に思ったことではないのですが、
「勿論そうではない。」についてしばらく考えてみて、
いやこの壁も縄張りではなかろうかと思いました。

今でこそ「罪人を隔てる空間」が刑務所という囲いとして街中に存在しますが、
昔は「囲い」ではなく「境界線」だったのではないだろうか、と。

昔の中国には東夷西戎などという野蛮人(と街人は認識していた)がいて、
彼らがいる街の(国境の?)外は危ないところ、未知なる空間で、
城壁や門によって街と彼らを隔てていた(のかな?)。
そんな時代に街中で罪を犯した人は、死罪もあったのでしょうが、
城壁の外へ締め出されることもあったのではと想像できます。

またもっと単純に古い時代の農村を考えてみると、
村の掟を破った若者が集落から追放されることがあったはずです。
一つの集落はとうぜん縄張りを持つことで成り立っているから、
縄張りの境界と「刑務所の高い壁」には共通点があると考えることができます。

その共通点とは抜粋にある「社会が平安を維持するため」のことですが、
このことは「境界の内を"既知"で満たして、"未知"は外に追いやる」とも言えます。


さて、やっと最初に思いついたことが書けるのですが、
抜粋の下線部を読んで僕はまず赤瀬川原平氏の前衛作品「宇宙カンヅメ」を連想しました。
検索すれば絵は出てくると思いますが僕の記憶ではこれは、
ラベルを缶詰の内側面につけて蓋を閉じることで「缶詰の中に"宇宙"を詰めた」、
つまり缶詰の内部が"外側"になって僕らのいる外側が"内部"になったという、
ブラックホールに吸い込まれるような感覚を催すシュールな作品です。

この連想を縁として、
刑務所を「宇宙カンヅメ」のようなものとして頭の中で眺めてみると、
なんだか深遠な気分になりました。

どういうことかというと、
少し上に僕が書いた「内を既知で、外を未知で」という話と、
「"壁"を境界とした内と外の転換」という話を合わせると、
未知は「塀の中」という"外"にあって、
僕らは既知に埋もれた「塀の外」という"内"に閉じ込められている、
という認識を抱いたのでした。

「自由とは未知へのアプローチだ」と思う僕は、
現実の刑務所の実態とは全く別に、
この認識に一瞬だけ、
息苦しさを感じたのでした。

+*+*+*

おまけ

最初の方にちょろっと書いた、
最近の日曜の昼ご飯です。
前に書いた模索↓の結果、この形に収束しました。
cheechoff.hatenadiary.jp

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マフィンは半分に割って表裏ともこんがり焼きます。
グリルの前にオーブンレンジで熱を加えておくと(グリルも弱火にするとさらに)、
中までカリカリに焼けるので冷めても歯応えがあって美味しいです。
ゆーっくり食べる(たぶん2時間くらい)ので、冷めるのが前提です。

写真の分が2セットあるので昼食の内訳としては、
 イングリッシュマフィン×4
 コーヒー2杯
 水2杯
です。

粗食ですね。
粗食系男子。