続きを書く前にさっき思い付いた別の話をします。
一本歯を履くと「体が前に傾くから歩くんだな」と実感できます。
ふつうに立っていると安定し過ぎて気付きませんが、
歩く時は片足を踏み出すより前傾姿勢をとる方が先です。
このことは、直立した状態で片足を上げればすぐ分かります。
それで、一本歯ではすぐ体が傾くので、ふらふらするわけです。
体が傾いた方向に足を踏み出して、倒れないようにする。
あまりにも常にふらふらするので、だんだんその予測が立ってきます。
「ある方向にふらついてから安定するまでのプロセス」の予測が、です。
が、無意識の話なので誰が予測するかといえば頭でなく身体の方です。
歩いていて石に躓いた時に「あぶねー」と思った時には危機は過ぎている。
という無意識と同じ話で、さっき突然気付いたのは次のことです。
一本歯ではこの「無意識の復帰プロセス」のパターンがとても多い。
そしてこのプロセスは僕の生活テーマの1つ「身体性の賦活」と関係がある。
そう直感したので本記事で書きながら考えてみようと思ったのでした。
まず経験として、体が傾いた時に、この傾きの慣れに対する判断があった。
その傾きに慣れていれば、念頭が乱されることなく姿勢を回復できる。
ところが「ちょっとヤバいかも」と判断すれば、念頭がこちらを向く。
その時考えていた何かは吹っ飛び、姿勢の回復に大半の意識が動員される。
もちろん部屋の中の話なのでそんなヤバい転び方は滅多にしませんが。
というか、制御不能に転ぶ時はそんな判断の暇はありませんね。
そういえば、一本歯歴4年目にして過去最大に激しく転んだのを思い出しました。
あれは先月、甲野氏の「井桁理論」を掌底打ちで実験していた時でした。
右手で掌底を打つ時に、両腕が描くひし形がへしゃげるイメージで左手も出す。
同時に「垂直離陸」もやっており、腕が動く間は踏み出す右足と左膝が浮いている。
これを廊下のキッチンマットの上でやっていたのですが、
今さらな話ですがこのキッチンマットには裏に滑り止めが付いていない。
つまりマット上で斜めに着地すればするりとマットが滑る仕様になっている。
もちろんこのことはいつも念頭にあって、しかしあの時は調子に乗っていた。
それも良い調子でなく憂さ晴らしが込められていて、つまり単なる不注意でした。
斜めに右足が着地した時に左足は浮いており、そしてマットは滑っている。
言葉を発する間もなく、臀部から玄関の靴脱ぎ場に落下しました。
…正気に戻った時には仰向けに転がっており、その時の第一声は「へえ」でした。
その時に後悔というか「ああしなけりゃよかった」等は全く思い付かなかった。
言い訳も何もなく、ただ起こるべくして起こったなあという感じがしました。
それで第一声の「へえ」が何だったかといえば、感心したのでした。
体が宙に浮いてから落下するまでの無意識の身体操作に対して。
落下する間、全身はほとんど地面に平行だったのですが、頭は打たなかった。
それは首が踏ん張ったからであり、さらに両手が受け身動作をしていた。
柔道の基本練習でやる、後ろに倒れる時に地面を両手で打つアレです。
高校の授業でやっていましたが、当時はその効果に疑問を持っていた。
地面を叩いても手のひらが痛いだけで意味ないやんこれ、という。
当時の柔道の授業ではタイミングが掴めていなかっただけかもしれませんが。
何しろ先月の転倒時には絶大な(もちろん主観です)効果を発揮したのです。
そしてこれを無意識にできたことに「まだ爺ではないな」と安心したのでした。
安心のハードルがやたらと低いですが、まあ日課が読書と散歩ですからね…
話を戻しまして…「傾いた状態から無意識の姿勢回復」の話でした。
思うに、無意識で姿勢を戻せることは、そのプロセス全体の安定を意味する。
動かない、ガチガチの安定ではなく、流動的な、柔らかい安定。
「柔よくして剛を制す」とか酔拳(太公望師叔!)といったイメージですかね。
身体もそうですし、精神においても僕の目指す「安定」のイメージはこれです。