(…)べつに下腹から何か得体のしれない力が出るわけではなくて、支点をそこに置くと、全身がうまく協調的に動いてくれるんじゃないか、ということなんです。もちろんこれは仮説ですけど。
ごく一般的な踏ん張った動きであれば、身体のかなりの部分は、もう単なる伝達器官であったり、テコの棒であったりして、その動きに直接参加できない。応援団というか、傍観者になってしまうわけです。ところが、腹に支点を置くと、どうやら身体中が直接参加できる。そうすると、身体各部の出力はわずかであっても、全員が参加するから、全体としては非常に強大な力になるということです。(…)
だから、単に何か信仰的に、下腹丹田に力を入れろと言うんじゃなくて、そこに力の支点が集まるような身体操作をうまくやっていくと、身体中、全身がそれぞれ無理のない範囲でエネルギーを出し、それが強大な力になるのではないでしょうか。
p.65-66(養老孟司・甲野善紀『自分の頭と身体で考える』)
たとえば、一本歯を履いて両歯を揃えて直立不動の姿勢をとるとします。
左右の歯を一直線に並べるので、身体は非常に前後にぐらつきやすい。
なんとかふらつかずに落ち着いて立つ方法をこれまで色々試してきました。
どこに力を入れるのか、どこを意識するのか、頭で何をイメージするのか…
例えばこれとかこれとか。
思い付いたその時はそれが効果があるように思えて、いつの間にか忘れる。
あるいは何かしらの上達に寄与して無意識の域に沈んでいったのかもしれない。
今回も過去のそれらと同じことになるかもしれないし、違うかもしれない。
効果を先に言いますと、丹田をしっかり意識できると本当に「不動」になれる。
足先だけで、例えば歯をまっすぐ立てようと意識しても直立はできます。
が、それだと足先が小刻みに震えて、なかなか止めることができない。
逆立ちで腕が震えてくるのもこれと同じ感覚だと思っています。
丹田の意識の仕方を言葉にするのはやはり難しいです。
「(腹は)骨がない骨がない…」と頭で念仏を唱えるようにもしてみました。
これは「そういえばそうだった」的に呟くと効果はありますがやりすぎるとダメです。
(実際体を動かす際に)言葉に寄り掛かるのも一つの居着きなのでしょう。
今考えてみるに、丹田への意識は前回触れたように「かりそめ」のような気がします。
丹田を意識することで、丹田以外の身体部位を意識しなくなる。
日常的な身体操作においては、意図せずとも身体の局部に意識が向いている。
「無意識を意識する」ためのブラックホールのようなものでしょうか。
そういえば書きたかったことがあって、これは脳化社会の話と対応しています。
養老孟司氏がいつも言っている「都会は頭の中の再現である」というアレです。
意識で作られた社会においては、無意識のうちに意識が意識されている。
人工物にとっての自然は人工物、といってもいい。
「意識」を「言葉」に変えても同じことが言えます。
言葉を軽んじる社会は、その軽い言葉で構成されていて、そしてその自覚がない。
言葉に無関心でいることは言葉を脱することにはならず、逆に言葉に取り込まれてしまう。
つまり言葉を脱するにはその前提(基盤)を突き抜けるほど言葉に通暁する必要がある。
本記事との関連でいえば、現代では身体の理解をまず言葉でする必要がある、となります。
言葉で理解せずとも身体が動く人は、まだ言葉に取り込まれていない。
そのような例はどんどん稀になってきているはずです。
そしてきっともう、「言葉を要さない身体操作」は普遍的になり得ない。
話が大きくなっていますが、というか傾向が前回みたくなっているので戻ります。
丹田をうまく意識できると、なんとなく「頭の中が空白」になった感覚があります。
それは長く続かなくて、雑念が入ってくると、安定がほどけてしまう。
微動だにしなかった足先や、凝りぎみの肩や首が気になり始めます。
上で逆立ちの話をしたのは理由があって、実は和歩と同じ時期に逆立ちも始めたのです。
少し前に会社の上司との面談があって、「肩と首が凝るんです」と相談したら、
「逆立ちやれば”完全に”なくなるよ」と自信満々に言われたのでした。
とりあえず何でも縁にしてしまう自分は次の日から朝晩に逆立ちをするようになった。
それで普段腕は全く鍛えていないので、逆立ちすると当然腕がプルプルします。
「筋肉がないのだから当然か」と別段あらためて考えることもなかったのですが…
丹田の意識を逆立ちの時にもやってみると、なんと腕の震えが止まったのでした。
が、震えないかわりに腕がどんどん曲がっていくので、まだ数秒しか維持できません。
この感覚は和歩で歩く際に丹田を意識する時にもあります。
和歩における意識は今のところ「丹田が上下左右に揺れない」という形をとっています。
これがうまく持続する間は、ふくらはぎの裏に大きな負荷を感じます。
…これが逆立ちの話となぜ同じなのか、書いてみてよく分からなくなってきましたが…
仮説として、甲野氏のいう「全員参加」には基礎体力がいるのではと考えています。
つまり全身を万遍なく使うと、ふだん使わない部分には大きな負担がかかる。
「全身が無理のない範囲でエネルギーを出」せるまでに、一山越えなければならない。
この「局所的な負担」が、単なるアンバランスなのか、「全員参加」の初期だからか…
その判断は「負担を感じる部位を普段使っているかどうか」を見ればできるはず。
と言うのはたやすいですが、では普段から使っているかどうかはどう判断するのか。
…どうするんでしょうね。なんとなくかな。保健体育苦手だったしな…
ということでよく分からないので、やりながら考え(というか判断し)ます。
解剖学を勉強するという手もあるんですけどね…
そして最後に書こうと載せた写真の話が書けなかったのでこれは次回にします。