human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

棚をしまう/「無駄のない生活」とは?

小田嶋隆のコラム道』(小田嶋隆)を読了しました。
小田嶋氏の文章からはしばらく遠ざかっていましたが、思えば会社を辞めてからは本もネットコラム*1も読んでいませんでした。


小田嶋氏と内田樹氏の対談が巻末にあり、その中で「携帯電話が流通し、ネットが発達して物事を記憶する姿勢が失われた」という話が出てきます。

かつては必要に迫られてものを覚えていた。
その必要がなくなれば、余計なことは覚えなくて良い。
 でも、何が余計なのか?
 軽くなった頭に、何を代わりに詰め込むのか?
記憶の一部を機械に外部委託して、覚えなくてはいけないことが減った分だけ「大事なこと」「人間にしかできないこと」に頭を使えるようになる。
この発想は、脳を機械(演算装置と記憶装置)に見立てたもの。
でも実際は有機物である脳は、使わなければ動きが鈍り、どんどん劣化していく。
記憶力を要する機会の減少は、頭の回転数の低下と軌を一にしている。

そうかもしれない、と僕は自分のことを振り返って思いました。
検索すればすぐ分かる情報は、その内容を覚えるのではなく検索方法を覚える方がいい、何しろ情報過多の時代だから、と思っていた。
その方が効率が良いしスマートである、と。
これは主に仕事に対する認識のはずでしたが、影響は日常生活にも及んでいました。
本の内容が、覚えられない。
どういうことが書いてあったか、という印象レベルの話はできても、具体的に書いてあることを思い出そうとすると、その印象はもやもやしたままで形にならない。
これまでは必要がないからそうなのだ、と納得してきたんですが、果たしてそれでいいのだろうか? と『コラム道』を読んで思いました。

いや、それはそのままでいいのかもしれない。
「昔の記憶が形をもって溢れるように出てくるのは40代からだ、だから若いうちはとにかく色々経験し、本を読んでおくべきだ」といったことが書かれていました。
これを信じるなら、今覚えようとして読んだ本の内容が記憶されないと嘆く必要はありません。
意識の届かない記憶の底の方にちゃんと溜まっているのだから。

昨日書いた話とここで繫がるんですが、「必要のないことは覚えなくていい」これは上に書いた通りで、でも「手間を省く、楽をするために(外部記憶に頼って)頭を使わない」のはよくない。
言い換えれば、今の自分がやるべきことを未来の自分に棚上げしてはいけない。
そんなことばかりしていると、棚上げばかりしていると、棚卸しの仕方を忘れてしまう。
棚卸しの機会が永遠に来ない棚上げは、無為でしかない
日頃から無闇に使わないよう、棚「を」仕舞っておきましょう。


今の生活において、周りのことで頭を使う必要がなくなった分だけ些細なことに脳をフル回転させている傾向がありますが*2、どんなことに頭を使うかは、ちゃんと考えて選ぶようにします。

「後悔しないように」という言葉の意味は、後悔しないことをすることではなく、後悔しない生き方をすることを指します。
その姿勢が問題なのです。

 × × ×

いつからか忘れましたが、文章を流れ良く書くのが苦手になりました。
自分が書きたいと思う文書の傾向のせいだと思います。
論理的な、全体的に整合性のとれた文章ではなく、飛躍はあっても時に琴線に触れる言葉が生まれるような文章。
一度書き終えてから読み直す際に自分で下線を引くのは、琴線に触れるかはさておき、書いている間に偶然生まれた、今の自分に何かを語りかけてくる言葉です。

が、これは今後を考えると矯正せねばなりません。
ひとまず今月中に司書講習募集要項にある「受講の動機について」の作文を書く必要があり、講義が始まれば論理的な文章を書く必要性も出てきましょう。
必要があれば…そうか、放っておけば勝手に治るかな。

とりあえず読みにくい文章ですが今はこのままにしておきます。

*1:日経BO連載の「ア・ピース・オブ・警句」のこと。『コラム道』を読んで、また日課で読もうかなという気になりました。少しは社会の出来事を知っておいてもいいし、何より小田嶋氏の語り口に触れると自分も文章を書きたくなるからです。

*2:昨日はホームセンタで洗面所で使うタオルの色の組み合わせに15分くらい悩んで、結局買いませんでした。いや、これは自分としてはいいのか。洗面所の内装を頭に思い描いて調和のとれるタオルを選ぼうとしたのですが、妥協しなかったのは時間が存分にあるからで、要領が悪いということではなく、この場では要領の良さが必要とされていない。無意識に「費用対効果」の価値観が前面に出てくると、悩んだ時間を単なる浪費とみなしてしまいそうになりますが、そんな価値観には「じゃあ"無駄のない生活"ってのは何だ?」と聞いてやればよい。それは自己矛盾だし、「家事の時間を節約」みたいな宣伝文句に踊らされるようならその"無駄のない生活"を可能な限り具体的に想像してみるべきだ。想像する過程が、匿名的な資本主義的消費に個性を吹き込む

親指のスライス

クッキー周造(←九鬼周造のダジャレです)とは打って変わってマジメな話を書こうとして、でもその前に腹ごしらえをと夕食を作っていたら、セラミック刃のスライサーで大根と一緒に親指(のちょうどスペースキーを打つ部分)を3ミリほどスライスしてしまい、応急処置にあわあわしながら作り続けて食べて、食べ終わっても血が止まらなくて止血方法を調べて(→「圧迫止血」というのがよいようです。出血部分を強めに10分程度押さえる。その後はなりゆき)片手を上げつつぐったりできる方法はないかと思い久しぶりにニコニコ動画を見ているうちにマジメな話はその内容が頭からすっ飛んでしまいました。

過去にマイリスト登録した動画の中で見たいものを見るついでにリストの整理をしました。
時々別の動画に気が逸れたりしたんですが、ある動画を見始めてまず何を考えるかというと「マイリストに登録するかどうか」であることに気付きました。
つまり後でもう一度(あるいは何度も)見たくなるかを最初に考える癖があるということなんですが、これは現在に集中していない態度で、食事に喩えるなら「好きなおかずを最後にとっておく」のではなく「最後にとっておくおかずを食べながら考える」で、今食べているおかずが上の空でちゃんと味わえていない。
あるいは「未来のための貯金」が自己目的化した状態にも似ています。

保険会社は嫌いなのに自分が保険会社的な発想をしているのが不思議で(何しろまだ起こっていないことを事前に想定しておいて対策を打ちまくっているわけです)、これはたぶん「現在に集中するという実感がない」、いや言い直せば「未来の想定も現在における想像つまり現在への集中であるという認識でいる」のでしょう。
これは屁理屈で、その場にいること=実在性の強度とその場に根差さない想像=非在性の強度の差を無視した考え方であるというのが常識ですが、ここでいう「強度の差」が小さい、あるいはむしろマイナスである性質の人も存在する、、ということを野口晴哉氏の体癖論によって知りました。
体癖論における「上下型の1種」というのがそれで、晴哉氏は奥さんが1種であり「彼女は頭の中のことの方が現実なのだ」とその著作に書いていました。

僕も1種なのかもしれず、しかし「自分は1種だ」という決めつけは現実逃避の正当化にもなり得るのが厄介なところで、身体性の賦活に力を入れ始めた背景はこれだろうかと今思ったりしますが(身体はどこまでも現在のものです)、結局のところ「身体のいきいきした感じ」は身体が脳と比べて優勢の時に実感できる状態で、脳が優勢であれば「身体のいきいきした感じ」は実感ではなく理解に留まる、そういう風に納得してしまえるのが1種なのだろうか、となんだか思考が堂々巡りしています。
(堂々巡りするものを思考と呼ぶのでしょうか?)

話を戻せば、脳偏重であれ「現在に集中する」ことは可能で…、違うな(いや、今書いた当たり前すぎる事が違うのではなく、自分が言いたいこととは違うということ)、保険会社的思考だろうが無闇無謀の無鉄砲思考だろうが「頭の中の出来事」としては同じで、似非未来志向なんてのは単なる悪癖に過ぎなくて意志を以て矯正可能だということ

お金に関してはやっと「貯蓄魔」をやめて純粋な支出生活をしているのだから、頭だってそれに合わせればバランスがとれるはず。
未来のことは、ほんとうに大事なことだけ考えればいい。

というわけで「いつか見るかもしれない」と7,8年溜めてきたマイリスト動画を、今の判断基準に従ってほとんど削除しました。
本当に見たければ動画名なり作者名なりを覚えていて検索できるだろうし、逆に覚えていなければそれは別に見たい動画ではなかった、という涼しい認識。
森博嗣氏が「エッセイや小説のネタをメモにとらない」のもこれで、氏は意識下の自分を信頼できているのですね。
見習いたいです、今度こそ。

本記事タイトルはこの作品名を意識してつけました。
親指の皮をスパッと切り落とした瞬間に、この本の講談社ノベルスの方の表紙絵が思い浮かんだので(ぶるぶる)。
森博嗣氏の話で落ちたのとうまく符合しましたが、これは偶然です。

思想なき「クッキー周造」

クッキーを焼きました。
ヘルシオ効果のモチベーションで、お菓子作りは初めてです。

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こねた生地。
なるほどヘラで生地を混ぜる作業は力仕事だと実感。

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1回目に型を抜いた後の、地の側の生地。
このままで焼きたくなる衝動に駆られる。
ラプンツェルだかプレッツェルだか、こういう感じだったような。

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リサイクルショップで買ったただ一つの型はたぶん鳩形。
生地の残りは隙間を埋めるてきとうな形にして*1、いざ投入。

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こんなに膨らむんですね。
隣同士がくっつかないかハラハラしながら見守る。

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焼き上がるとすぐ取り出して冷ます。
長細い余り物には思想が全く感じられない。
あるいは深遠過ぎるのだろうか。

無心に見つめているとシルクハットが連想されました。
昨今の機能的なステッキではない、あの魔法使い仕様の杖ですね。

…ん? 魔法使いはシルクハットを被るのか?

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いくつかつまみ食いして瓶に保存。
これを一度やってみたかった。


ヘルシオレシピに忠実に作って、何の変哲もない素朴な味でした。
今後も作るなら、いろいろ混ぜ込んで*2味の変わり方を研究したいと思います。

しかし自分でクッキーを作ると、バターと砂糖の量に驚きますね。
作った分をそのまま全部食べようという気にはなれませんでした(同じ量でも袋詰めで買ったのなら食べられると思います)。

*1:分量通りに生地を作って(正直にいえば溶き卵1/2を入れる時に白身がギュルッと流れて多めになったが)、成形時の生地の柔らかさにびっくりした。両手で優しく持ち上げないと伸びてしまうのだ。というわけで余り物をステキな形にせんとする美的センスは発揮できませんでした。

*2:今思いつく候補はきな粉、豆乳あたり。トッピング材料を店で選ぶのではなく、ありもの(=普段の食事に使っているもの)を使いたいですね。

サラダを学ぶ(歯応えと温冷のバリエーション)

テーブルと食器棚がなくていくらかの不便が続いていますが、自炊は岩手に来てそれほど経たずに始めています。
近くに食べに行く所が少ないこともありますが(歩いて8分くらいのところに中華料理屋があるのを住み始める前から見つけていましたがまだ行っていません)、もともと食べに行くのがあまり好きではないうえに、今回は自炊をしたくなる動機があるのです。
その話は別の記事に書きます*1

今のところサラダの頻度が高くて(炒め物ができないからです)、特に今日作ったのが美味しかったのでちょっと書いておこうと思いました。

日の早い順に夕食の写真をのせます。

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最初は以前と同じ工夫なしの無骨サラダ。
にんじんと水菜を包丁で刻み、レタスを手でちぎる。
写真ではわかりにくいですが量がすさまじい。
なんでこんなに多いのかというと、よく読む村上春樹のエッセイにたびたび「食事は大量の生野菜」と書いてあるからです。
肉を食べず(魚はたまに食べるのだったかな)、ご飯も食べず(パンは食べる)にあれだけのランニング好適体型になれるのかと単純に納得したこともあり、(これもたぶんハルキエッセイの影響で)ランニングを始めたこともあり(今まで日課にまで昇格したことはないですが)。

そうはいってもこの芸のない単調なサラダ、にんじんの千切りも太すぎて平らげるのに苦労しました。
さすがにおかずがサラダのみはきつくて、納豆とおくらめかぶを足した気がします。


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次は少し勉強してから臨みました。
にんじんはスライサーで薄板状にしてから千切りに。
しめじはオリーブオイルとバターで炒めてトッピングに。
炒める時に醤油を足していればもっと風味が出たと思いますが、まだ買っていませんでした。

味噌汁椀に盛ったのはおかずとしてのじゃがバタですが、サラダと一緒に食べると美味しかったです。
サラダの歯応えにバリエーションがあると量が多くても飽きがこないということを、作り手視点で初めて認識しました。
ちなみにじゃがバタ(のバターを挟む前まで)はヘルシオで作りました。
30分以上かかりましたが、皮にしっかり焼き色がついて濃厚な味わいでした。


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そして今晩は彩りあざやかなコンビネーションサラダ。
上記サラダに使ってもまだ残っているにんじんを違う風に使いたくて温野菜を思いつき、今日買い物に行った時に大根とブロッコリーをそれ用に買いました。
以上3種の温野菜と、ココットに入れた卵を一緒にヘルシオに入れて蒸し焼きにする間、レタスと水菜を刻んで(レタスは気分を変えて幅広の千切りにすると水菜とうまく混ざりました)、フレンチドレッシングを作りました。
『サラダ教本』というレシピ本なのだけど基礎的なことも書いてある本を参考に、(一度作ると頭に入りますね、というアピールを兼ねて書き出しますが)赤ワインビネガ・フレンチマスタード・塩・胡椒を混ぜ合わせ、オリーブオイルを混ぜながら少しずつ加えて作ります。
買ってきたマスタードがペーストでなく粒状だったので仕上がりは本とは変わりましたが(ペーストタイプの方が作りやすいそうです)、粒状マスタードならそれはそれで見た目にアクセントがつきます。
切った生野菜を盛り付け、温野菜を盛り付け、てっぺんにはココットからくり抜いた目玉焼き*2を乗せて、さいごに手製ドレッシングをトッピング。

一つ上でも書きましたが歯応えのバリエーションがあるとテンポよく食べられるうえに、今晩のサラダで気付いたことには*3、温冷の組み合わせによっても箸が進むのですね。

温野菜サラダは意外にボリュームがあって、一日二食の最近は夕食にご飯を2杯食べていたのですが今日は1杯で十分でした。
そして今日も納豆をおかずに食べましたが、今日のサラダはご飯のおかずとして不足はなかったです。
…いや、たぶん話は逆で、ご飯=玄米*4がサラダと相性が良いということでしょう。
今手元にある「サラダレシピ本」にも玄米サラダはあるが白米サラダはなく、「玄米レシピ本」にももちろん玄米サラダがあります。
食物繊維の作用かわかりませんが、歯応えがあるのがサラダのトッピングに好適なのでしょう。

というわけで今日の発見は、「(うまく作れば)サラダだけをおかずに玄米ご飯が食べられる」でした。

*1:と言いながら簡単に書いておくと、新品で料理本を買うという以前の暮らしからすれば驚きの先行投資をしたのでした。内容は今の自分の思想に合ったもので、「サラダ本」「玄米本」「野菜スープ本」の3冊です。

*2:こういう違う種類のおかずを一度に作れるのがヘルシオのいいところですね。今日やったのはヘルシオレシピにはなくて、目玉焼きは本来「蒸し」ではなく「焼き」モードで作ります。そのせいか今日の卵は若干ブヨブヨしていました。まあ仕上がりの出来の良さよりは要領をそこそこ掴みつつのアレンジによる楽しみを重視するので、調理さえできれば特に問題ありません。今日のは要領がわかる前のフライング実験でしたが、この点を加味すれば大成功でした

*3:と書く前は思ってたんですが、書いてから一つ上の「サラダ+じゃがバタ」も同じことだなと気付きました。しめじは炒めてから時間が経っていたので温かいという印象はありませんでした。これは改善点ですね。

*4:100%の玄米に小豆と古代米を少し足しています

二段階起床/そういえば図書館

雨が降っていましたが、今朝も(一日おいて)ランニングへ行ってきました。
6時起床で、起きがけの出発。

目が覚めてしばらくは「身体は寝ている」わけですが、その状態とは別に「起きている状態に落ち着く」という相があって(身体よりは頭の方かな?)、この相で落ち着く前に家を出てしまうのがよい気がします。
その相で落ち着く時の身体の状態でその日の活動レベルが決定されるのかもしれない、とこれは頭で考えて言っているだけですが。
まあそんな単純な話なら朝走った日は一日元気ハツラツということになりますが、とりあえず今日は短めに走ったためか走り終えた時に爽快感がありました。

コースはおとといとは逆に北へ。
余裕のある間隔で並ぶ家々に混じってアパートもわずかにある住宅地を進み、走りやすそうな西に向きを変えると田んぼが広がって家々はまばらになり、視界が開ける。
空が広いので直線コースではかなり先まで見えて、距離感がぼやけてくる。
そのまま西へ進んで、高速道と交差するところで定常的な車の走行音が聞こえてくる。

高速道の手前で折り返して、たぶん15〜20分くらい走りました。
車通りは少なかったですが(おととい走った道よりは生活道路、近所の人しか使わない道という感じでしたが)、もう少し早起きしてもよさそうです。

それにしても寒かった。

 × × ×

ここ何日か雨が降り続いていて、昨日から冷え込んできました。
部屋では冬用の上着を着ています。
晴れていれば日中は夏服でいられるんですが、やはり北国ですね。
足下にヒーターを点けたいくらいですが、それはやめておきましょう。
季節感を大事にしないと…などと言っていられるかどうか。

雨が降ると買い物に行くのも億劫です。
車なら濡れずにどこでも行ける、と思うのは安直というか無精だという感覚はまだ残っています。
生活の必要(というか「時間の必要」)に迫られればこんなこと言ってられませんが、今はそんな兆候は全くなく(いや、司書講座が始まればイヤでもそうなることが目に見えていますが)、そして食材が冷蔵庫に残っているので今日は家にこもりきりでも大丈夫です。

そういえばおととい気付きましたが家のすぐ近所に「学童クラブ」なる建物というか小屋があって(100mくらい北には小中学校があります)、放課後の時間帯が子どもらの喚声で賑やかになります。
読む本によってはその声が気になるのでちょっと外出しようかという気分にもなるんですが、家のすぐ近所に図書館があるので、夕方の図書館通いを日課にするのもいいですね。
図書館へは家探しに花巻に来た時に一度覗いたきりで、2階の閲覧エリアはまだ行ったことがありません(1階に学習室があって、年配の方々が新聞を読んでいるのをちらりと見ただけです)。

雨が止んだようなので、出掛けてみようと思います。

旧式ヘルシオの存在感/読書スペース模索

現状のキッチン。
洗い場・ガスレンジスペース全体が窓に面していて、東向きなので朝が心地良いです。

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食器棚とレンジ台がないので配置は暫定です。
旧式ヘルシオの図体が大きくて(奥行きが50cm)、上にガスレンジを乗せられるほど。
ヘルシオを床に直置きして使いたくないがための配置ですが、これだとガスレンジが高くなって使いにくい。
炒め物はたぶん無理ですが、煮物ならなんとかいけます*1

ヘルシオの変則サイズのせいでレンジ台を選ぶのに時間がかかりましたが、今日ニトリでものを決めてきたので届くまでもうしばしの辛抱です。
お手頃なレンジ台や食器棚は奥行きが40cmしかなかったので、ちょっと高めでどっしりした「レンジ台兼食器棚」にしました。
これは炊飯器を置けるスライド棚があり、奥行きが50cmあるので天板にヘルシオが乗せられます。
ただ高級感が余分に漂っていて、キッチン据え付けの棚と並べて馴染んでくれるかが若干気がかりですが、基本的には慣れさえすればよくて、追加予定の家具の選び方で多少はカバーできると思います。

 × × ×

LDK奥の読書スペースは今こんな感じ。
六角形のサイドテーブルは今日リサイクルショップで買ってきました。
ダイニングテーブルは今日注文して食器棚と一緒に来週届くので、それまでは本来の機能以上に重宝しそうです*2

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窓のインテリアは他の家具が揃ってから決めるつもりで、今はありものの布をカーテンがわりにしています。
干場側の窓の風景は特に楽しめるものでもないので、基本的に視界は遮っている状態にしつつ同時に光も入れたいので、今のところ調光ロールスクリーン*3がいいかなと考えています。
もう一方の丈が小さい方の窓はまだうまく想像できていませんが、ソファを今の位置で本決めするなら、外光はふんだんに入れたいし窓際に座っていて圧迫感のあるものも好ましくないので、何も付けないのもありかもしれません。
あるいは夏の暑さが身に染みてきたら簾をつけるのもいい。

そうだ、以前はフェイクグリーン(造花)に拘っていましたが、今回の住まいでは観葉植物を置いてみようと思っています。
窓際にこんもりした鉢植えがあったら。
いやむしろ空きスペースをどんどん緑で埋めていくのも楽しそうですが、それは観葉植物に慣れてからまた考えるとして、ちょっと調べた感じだとバキラカポックが初心者にも扱えそうです。
ついでにトイレにポトス*4を置いてみようかな。

*1:昨日ミネストローネをつくりました。トマトをそのまま煮込むのは始めてでどきどきしましたが、よい感じにスープになってくれました。ミネストローネはどんな野菜でも小さく刻んで入れればオッケーという鷹揚さと手軽さがいいですね。トマトを常備したくなりました。

*2:現状はテーブルがないので、洗濯カゴや収納ボックスを机がわりにしてご飯を食べています。

*3:床と壁とは違う色がいいかと思いグリーンが第一候補だと思っていたんですが、窓際に植物を置くなら葉の緑が映えるような背景がいいかとも思うと…ベージュ? オレンジ? どうしましょうか。植物を置いてから考えた方がいいのかな。

*4:ポトスと聞いて前に芥川賞をとった『ポトスライムの舟』(津村 記久子)を思い出すんですが、最初このタイトルを見た時は「ポト/スライム」だと思ってました。ポトスという植物は耐陰性が高いらしいんですが、この小説にそんな雰囲気があるのかもしれません。読んだことないので勝手な想像ですが。

朝走る/和室に冷蔵庫

今朝はランニングに行ってみました。
起床が7時半、出発が8時前で、車の交通量がそこそこ多くなっていました。
もっと早い方が気分よく走れますね。

家のすぐ近くに図書館・公民館があって、その隣に「ぎんどろ公園」という広めの緑が多い公園があります。
宮沢賢治の農学校の跡地かなにかで、句碑やらオブジェやらがあります。
ぎんどろ公園でストレッチをしてから(今日は散歩中の母子を見かけました)走り始めることにして、今日は川のある南へ向かい、川沿いをしばらく走ってぐるっと戻ってきました。
だいたい30分くらい。
途中で膝が少し痛みましたが(歩き遍路の後遺症でしょう)、帰ってシャワーを浴びる間に気にならなくなりました。
初日のテンションで走り過ぎた気がします。
日課にできそうなペースで無理しないようにしたいですね*1

地図で今日走った道を確認しましたが、家の近所はだいたいが住宅地ですね。
車通りの少ない、走りやすい道を探してみましょう。
6時に走り始めるくらいだとよいのですが、まだ部屋づくりに追われて寝るのが遅い…夜に店が閉まる時間ぎりぎりまで買い物してるせいですね。
早く寝られるように一日の行動量を減らしてみようと思います。

 × × ×

近所に子ども(親子世帯)が多いと書きましたが、子どもの声が聞こえるのは朝と夕方だけで、日中も夜も静かです。
夜の8時頃に帰ってくると隣家は真っ暗で物音一つしなくて*2どういう生活をしているのか想像できないんですが、その静かさといったら炊飯器の保温の動作音がはっきり聞こえてくるくらいです。

例えばこの動作音が即ちノイズなので、聞こえないように工夫をすることになります。

現在のところ定常的な動作音*3が気になる家電は冷蔵庫と炊飯器で、炊飯器はコンセントのある別の部屋ならどこでも持って行けば簡単です(今は洗面所に移していますが、保温はまだしもそこで炊飯をやると匂いが混ざって妙な具合になるので暫定的対応です)。
冷蔵庫はものが大きいだけにフレキシブルな配置はできない、はずなんですが、ものは試しでちょっとやってみました。

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静音仕様という三菱のMR-D30Xを中古で買いましたがリビングに置いてみるとやはり音はするので、和室に置いてみました。
二重のクッションの上にスノコを敷き、そのまた上に本体を配置しています。
床から離すと空気の通りも良くなりますが、床を介して響く振動音も抑えられます(畳なので振動音はフローリングほど気にならないとも思いますが)、というのは後付けで主には畳を傷つけたくないのが動機です。
懸念点はアースが簡単にはとれないことで、あとは換気に気を遣うことと冷蔵庫前の床を汚せないことが注意点でしょうか。

アースについてはちょっと調べてみたところ鉄筋造ならコンセント口から取れる場合もあるがうちは木造なので不可で、アース端子まで配線を延ばすしかありません。
…と書きましたが、そもそもアースを取らない場合に生じる不都合を別の手段で防げればよくて、たぶん漏電は落雷か帯電使用者起因で、前者はまあ大丈夫(平屋でアンテナないし、冷蔵庫の脚はゴム、床は畳なので)として後者は冬期に日常的に静電気除去してれば大丈夫。

うん、懸念点ではなくなりました。

 × × ×

コーヒーを飲みながら書いているうちに元気になってきたので(頭を回すと身体も起きてくる?キーボードを打つ姿勢による気もするが)、今日も車で買い物に出ようと思います。

ところで納車されてから一度も自転車に乗ってませんね…もちろん必要あってのことですが、車生活に染まり切るのもイヤなので書いておきましょう。
家具と家電が揃えば近場の買い物はクロスバイクで。
旅用の高容量リュックがあるので、食糧や日用品だけなら余裕で詰められるのです。

*1:おとといから布団で寝ていますが、起きて逆立ち(首まわりを使うための)してすぐ布団を押し入れに仕舞うと、一日の活動開始の流れができます。その流れでランニングをして、シャワーを浴びて身体がシャキッとするというのが理想です。今日は走り過ぎに前2日の運転による疲労(?)も加わってぐったりしています。午後から買い物に行ければいいのですが(今=ここを書いている時点では正午ちょっと前)。

*2:かといって早朝に生活音が響くわけでもない。家の間隔が広くて音が届かないだけかな…そういえば家探しに最初に花巻に来て驚いたのは隣り合う家の間隔がとても広いことで、建物の密度が低くてスカスカしています。街育ちの人間からすれば土地が余ってるのかとつい考えてしまいますが、必要がなければぎゅう詰めに家を建てることもありません。

*3:調理など家事をする間はもっと色々音がしますがそれはさておいて、具体的にいえばリビングのソファで読書をする時のノイズを可能な限りなくそうとしています。そうすることで没入できる本の種類(主に小説ですが)が増えます。

生活の立ち上げ/なぜ花巻か?

しばらくこの話題の記事が続きそうなのでタグ「生活立ち上げ@花巻」を作りました。

去年の秋に京都に引っ越した時(そういや一年も住んでなかったですね…)は家具やら家電やらは足りていたので、「生活の立ち上げ」は習慣作りとか、つまり主には何をするかを指していました。
今回の花巻ではその手前の、ものを揃えるところからのスタートとなります。

あれが要る、これを買わなきゃとあちこちの店を駆け回っているうちに一日が終わります。
昨日は車が手に入って、余計に時間が経つのが早くなりました。

生活の立ち上げ経過を書きたいと思うのは記録のためよりは、ちゃんと考えてものを買って部屋をつくっていきたいからで、店でその場の勢いで(「便利そうだから」「何かに使えるかも」)余計なものを買わないようにしたい。
便利さ*1はそれほど求めていないし、新しさも求めていません。
後者でいえば、貸家が築30年の木造平屋で、和室の畳は張り替えたばかりですが(実はこれが決め手だったりします。畳の匂いは旅の風情がある)、ほかは内装も古めで設備もローテク*2です。

もともとの部屋の内装に合った家具を揃えていくが、なるべくものを増やさない。
家の静かな立地を存分に味わうために、ノイズの少ないものを買う(あるいはノイズが目立たないレイアウトを考える)。

この2つを生活立ち上げの方針とし、ずっと家にいたくなる*3ような部屋づくりをしていきます。

 × × ×

なぜ花巻に来たのかについて、忘れないうちに書いておきます。

司書資格をとると前に書きましたが、夏に富士大学で司書資格をとるための短期集中講座があって、それを受けようとしています。
短期といっても2ヶ月近くあったと思いますが、その間は週休1日で朝から夕方まで講義尽くしです。
資格を取りにくるだけなら大学が斡旋する下宿やホテルがあるのですが、今は仕事をしていないし定住地もないので「せっかくだからしばらく住んでみよう」と思ったのです。
雪国暮らしも一度経験してみたいと思っていました*4

集中講座の申し込み締め切りが6月末なので、それまでに作文を書いて大学に(もう近場なので)直接提出しに行きます。
申し込み数が定員より多ければ選考があり、1週間ほどで通知が来るはずです。

と何げなく書きましたが、お気づきの方は鋭い。

大事なところは「受講できるかどうかが決まる前に引っ越してきた」ことです
選考に落ちたら来年にならないと受講できません。
そうなってしまったら? その時に考える。
そもそも講座を受けることになって、講義が終わってからどうするかも考えていません。

というわけで生活を質の高いものにすべく、立ち上げをゆっくり丁寧に進めていくことを今は第一に考えています。

*1:身体性を鈍らせる便利さにはあまり手を出さないようにしたいです。車はもう必要悪ですね。なんとか車のボディを自分の身体と思えるように運転に慣れていきたいです。

*2:給湯器に温度調節器がついてないとか。洗面台が洗い場と下の収納だけで鏡と上の収納がない(マンションによくあるコミコミの洗面台ではない)ことには鍵をもらってから気付いて驚きましたが、洗い場の上が窓で朝日が明るく、これはこれでよい感じです。うがい用コップの色を「クラシック」(透明な茶色)にしたら絶妙にフィットする、シンプルでレトロな洗面所です。

*3:身体に不都合がなければずっと本を読んでいたい。不都合が出やすい(主に首)のでそうはいきませんが。

*4:雪国暮らしへの憧れとはちょっと違って、「雪国暮らしの人に対する魅力」が僕をして経験に向かわせたという感じです。ある人のことをもっと知りたいと思った時に、その人が経験してきたことを追体験してみることはその一つの手段です。前↓にそんなことをちょっと書いた気がします。 cheechoff.hatenadiary.jp

機上の人/静かな家

昨日から岩手での生活が始まりました。

昨日は朝に飛行機で大阪空港からいわて花巻空港へ。
所要時間は1.5hと、大変短い。
新幹線だと東京駅経由でたしか6hくらいかかったはずですが(東京〜新花巻が各停で長い)、格安チケット会社で事前予約すれば飛行機の方が安く行けます。
純粋に移動だけなら時間・料金ともに勝る飛行機がよいですが、でも新幹線も「車窓の旅」と言えるほど風情のあるものでもないので、新幹線を選ぶ理由は「予約なしでも確実に乗れる」くらいでしょうか。

機上では雲を眺めていたらあっという間に時間が過ぎました。
東北は低気圧が近づいていると機長のアナウンスがありましたが、ヴィヴィドな凹凸が延々と続く雲海は見応えがありました*1
飛行機はだいたい800km/hで飛んでいるというのにすぐ近くに見える雲の動きが緩慢で、相対速度を無視して止まっているように見えたのですが、空の上では距離の目安になる構造物がなくて距離感が麻痺してしまうのでしょうか。

新しい貸家の最寄り駅は花巻駅で、花巻空港駅(ともにJR)からは1駅です*2
空港到着時に不動産屋の人が迎えに来てくれたので車で貸家に直行してもらいました。
到着して手持ちの荷物を整理しているうちにガス屋さんが来て元栓や給湯器の点検をしてもらい、同時に宅急便が来てSoftbank airが届きました。

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ターミナルの電源を入れるだけで無線LANが繋がるとは驚きです。
今まで光ネットを使っていて引っ越しごとに工事をしていたんですが、進歩したのですね(知らなかっただけかな?)。
僕はスマホへの買い替えが億劫なほど最新機器とやらに疎いのですが、あまり長期にわたって保守的になると大きく損をすることになるようです。
それも当然のことですが、単にレトロ趣味というだけでなく「損をしてでも得たいもの」がある場合は新しさを求めなくてもいい。
僕のスマホに対する印象は「街中で使用している人の姿が絵的にイヤ」で*3、ネットを外で使う利便性を特に求めていないのでガラケーでいいと思っています。

それはさておき、その後は届いた引っ越し荷物の展開と生活用品の調達に追われて今に至ります。

今日(5/28)で二日目ですが、部屋の静けさが京都にいた頃と圧倒的に違います。
隣家や塀を挟んだ裏手のアパートに子どもがいて時々声が聞こえるし、隣家が面する車道にぽつぽつと車が通るので全く音がしないわけではないのですが、それらの音はノイジーではないのです*4
なぜかと考えるに、これは仮説ですが、京都のマンションでは生活音が飽和していて身体がそれ以上の音(というか識別不能な数多のノイズに加えて個別に聞こえてくる音)に非寛容だったのに対して、今は識別不能なノイズがほぼゼロなので身体が生活音に対して寛容になっている(むしろ求めている? あまり音がなさ過ぎる空間にも人は耐えられないらしいので)からではないか。
慣れてくるとまた印象が変わるかもしれませんが、今は精神的にとても落ち着いています*5

*1:新幹線の車窓と比べるには種類(?)が違いますが、意図せず頭の回転を強要されるような「広告的刺激物」がない点で雲海の景色は心地良く、飽きずにずっと眺めていました。

*2:この点で遠方への(あるいは遠方からの)アクセスが良いと言えますが、遠出する機会もないので特に利点というわけでもありません。

*3:やっていることはスマホガラケーと似たようなものなのに不思議なことですが、のめり込みの程度差でしょうか。スマホの周りを全く気にせずのめり込む感じが…でもガラケーで同じように夢中になっている人を見てもそれほど気にならないような。あるいは機能の差かもしれません。スマホでできることがガラケーに比べて格段に多くなって、のめり込む人を見て「何をやっているのか想像がつかないので不気味だ」ということかな。なんだかパソコンが普及し始めた頃の年配会社員みたいなこと言ってますね。

*4:窓ガラスが二重なので遮音性が高いというのもあります。雪国仕様。

*5:一方で肉体的にはちょっとつらくて、それは布団が未調達で寝袋で寝ているせいです。今回の家は2LDKで広めのLDK以外の2部屋は和室なのでベッドを持って来ませんでした。歩き遍路中は和室の宿がほとんどで布団に慣れたのでこれを機会に変えてみようと思ったのです。起きて布団を畳んで押し入れに仕舞ってしまえば生活にメリハリがつくだろうという目論見もあります。…とにかく早めに寝具は調達した方がよいですね。

図書館の本いろいろ/「本」を守る

とりあえず司書資格取得を目指します。

 × × ×

初期投資として司書の仕事や資格のことが分かりそうな最近出版の本(1)を新品で買って読み、1冊目からの数珠繋ぎで気になった本(2)(3)を図書館で借りて読み、図書館の棚を巡る中で興味が湧いた本(4)(5)(6)を借りて読み、ついでに綺麗な写真集(7)も借りて読んでいます(1~7は最後にまとめてリンクを張りました)。


(1)を読んで司書にもいろいろあること(司書として勤務する図書館にもいろいろあるし、学校司書が勤める学校もいろいろある)、募集が極端に少なく雇用条件が不芳のわりに応募が多い職種であることを知りました。

(2)はランダナカンという図書館学では有名な人の「図書館の五法則」についての本の抄訳・解説書です。図書館はあくまで利用者の目的達成を援助するものだ、という基本思想に親和性を感じました。五法則とは、記憶を頼りに列挙すると以下のものです。自分の頭に刻まれたことを整理するためなので細かくは(あるいは大きく)違っていると思います。
  1. 本は利用に供するものである
  2. あらゆる読者に、その人の本を
  3. あらゆる本に、その本の読者を
  4. 読者の時間を節約するべし
  5. 図書館は成長する有機体である
「五法則」の原書では各法則が人格を持ち(人、それも女性に喩えられ)、彼女らが図書館運営に関わる人々(館長や司書だけでなく、行政や教育の担当者なども含む)に法則の意味するところを、優しくかつ粘り強く示唆していきます。この優しさと粘り強さがそのまま司書(図書館)の望ましい性質となっていて、僕がいいなと思ったのはそれらの性質は「自覚」を大事にするからです。…これを「司書が利用者の自覚を促す」とそのまま言い換えるとなんだか偉そうに見えますがそうではなく、司書は利用者の主体性を最大限発揮できるように手助けをする。本や資料の推薦はしても押しつけはせず、説得もしない。選択肢の提示ではあるけれど、無闇やたらではない。無闇やたらではないのは利用者の「人を見る」からで、検索結果の列挙とはその点が異なる。図書館で本と出会う人は匿名ではありえないのです

(3)では学校司書が先生や生徒と、そして授業とどう関わっているかの実践例が豊富に書かれています。学校司書は教員免許を持つ司書教諭とは違いますが、図書室のカウンタにいたり、また調べもの学習等の授業にアシスタントとして参加することで教員としての役割を要求される場面があります。
この本を読み終えた頃に小学校の頃の担任と深く喋る機会がありました。大人になった今でこそ聞ける担任の教育方針や陰に陽に努力されたことを聞き、稀有な先生に出会えたものだなと改めて思いました。僕はその先生に多大な影響を受けたと昔から自覚しており、それが「教育者なんていう責任の重い職業には就くまい」という認識に繫がっていたので、(3)の本を読んで「学校司書だと教員免許がなくても教育に関われるのか…いいなぁ」と素直な感想を抱けたことに最初はびっくりしました。けれど先生に久しぶりに会って、「そうか、先生と出会えたからこそか」と気付きました。
過去の出来事は全て良い思い出で、けれどそれを振り返るのはいつも「今」なのですね。

(4)では図書館というハードを持たない、書籍の全データ化に加えて貸出返却もネット上で行う電子図書館の実現のためにいろいろな想定が展開されています。本文はインターネットが本格的に普及する前に書かれており、多少古い技術を前提して書かれているため現代から見れば大袈裟な記述がわずかに見られます(書籍のデータ化は大変だからそれ用の工場が必要だ、など)。がそれは別に大したことはなく(記憶として最初に思い浮かんだだけ)、レファレンスもネット上で、しかもなるべく人手をかけず、つまりプログラムを組んで自動で行う方法の検討などは興味深い内容でした。今でいうとネット検索のノウハウに近いです(いや、そのものかな)。

(5)は図書館の建築面に光を当てた本でした(借りる前の立ち読みでは気付きませんでしたが)。本を借りる場所か勉強する場所として主に利用されてきた図書館が近年は「人が集まって何かをする場所」として注目されていて、新しい図書館ほどコモンスペースが取り入れられているようです。また地域の活性化を担う使命を帯びて新設される図書館の例として、建物として周囲の自然環境に溶け込む工夫が紹介されています。
ところでこの本の中で紹介されていた「.03」という椅子がステキで、商品HPの紹介写真の中で「椅子を台にして乗っている人の足の重みで台座が凹んでいる写真」に一目惚れしました。高価ですが、今は吝嗇モードが限定的に(主に家具に対して)解除されているので買っちゃうかもしれません。

(6)は今日読み終えたところで、記憶が一番新しい…のですが、いろいろ書いてみたいトピックはあれど力量不足で書き始めると収拾がつかなくなりそうなので感覚的な感想だけにします。
図書館は公共施設だとか、利用は原則無料だとかいう常識は60年以上前の図書館法に根ざしていて、図書館の利用のされ方は当時とはだいぶ違っているからそれらの常識も見直すべきだといった話がこの本の最後の方に書いてあって、また電子媒体の資料の扱いとか出版業界との兼ね合い(「ベストセラー問題」)とかホットな課題もあって、これはランダナカン五法則の5のことだと思えば人間味が湧く…というか知の在り方、とどのつまりは「人間の在り方」の問題であって、こういう見方をすれば僕にもこの問題全体に興味が持てます。
「持てます」なんて言い方をするのは、僕はものづくりの会社で働いていたわりに最先端技術に対する能動的興味が薄くて、それは身体性に拘りだした頃から「身体性賦活と技術革新は相容れない」という認識をもったせいだと思うんですが、とはいえ人間は身体と脳のバランスで生きているので(いくら現代社会が脳偏重とはいえ)身体だけでなく脳のことも考える必要があって、上に書いた「人間の在り方」というのはもちろんこの両方に関わるからです。

どれだけ技術が発達しても本はなくならない、という著者の言に僕も賛成です。


↓(1)

図書館員をめざす人へ (ライブラリーぶっくす)

図書館員をめざす人へ (ライブラリーぶっくす)

↓(2)

↓(3)

学校司書って、こんな仕事

学校司書って、こんな仕事

↓(4)

電子図書館 新装版

電子図書館 新装版

↓(5)

ほんものづくり

ほんものづくり

↓(6)

理想の図書館とは何か: 知の公共性をめぐって

理想の図書館とは何か: 知の公共性をめぐって

↓(7)

世界の美しい図書館

世界の美しい図書館


 × × ×

本に関係する仕事をしようと思ったきっかけはいくつかあって(いくつかは一つ前の記事に書いたような)、その中の小さな一つが、「本はなくならない」とさっき書いたことと矛盾するなあと思うことで連想されたので、書いてみます。

前に『竜の学校は山の上』(九井諒子)のレビューみたいなものを書きました。
cheechoff.hatenadiary.jp

この短編に出てくる竜学部の部長はこんなことを言います。

「 世の中には二種類のものしかない
  何かの役に立つものと
  これから何かの役に立つかもしれないもの だっ 」

そして、役に立たないものを見捨ててしまったらもう二度と戻って来ない、役に立つかもしれないものを「狐の葡萄*1」にしちゃいけない、と。

この部分を何度目かに読んだ時に、「よし、じゃあ僕は本を守ろう」と思いました。
もちろん本が役立たずなはずはないのですが、単純な連想では「電子書籍に席巻されて消えゆく本を守る」という文脈で、そう思い込めば納得できなくもないですが、(1~6の本に感化された物言いかもしれませんが)冷静に考えれば、本がなくなるはずはありません。

大局的に見ればそうで、では、というか、そもそも僕は何をもって「”本"を守ろう」などと言ったのか?」


うまく言えませんが、それは「本自体」ではなく「本と人との関わり方」ではないか。
そして司書としての仕事の中でそれを人に伝える事ができたら、それこそ「冥利に尽きる」というやつだろうな、と。

*1:「すっぱい葡萄」のことだと思います。 すっぱい葡萄 - Wikipedia