human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

棚をしまう/「無駄のない生活」とは?

小田嶋隆のコラム道』(小田嶋隆)を読了しました。
小田嶋氏の文章からはしばらく遠ざかっていましたが、思えば会社を辞めてからは本もネットコラム*1も読んでいませんでした。


小田嶋氏と内田樹氏の対談が巻末にあり、その中で「携帯電話が流通し、ネットが発達して物事を記憶する姿勢が失われた」という話が出てきます。

かつては必要に迫られてものを覚えていた。
その必要がなくなれば、余計なことは覚えなくて良い。
 でも、何が余計なのか?
 軽くなった頭に、何を代わりに詰め込むのか?
記憶の一部を機械に外部委託して、覚えなくてはいけないことが減った分だけ「大事なこと」「人間にしかできないこと」に頭を使えるようになる。
この発想は、脳を機械(演算装置と記憶装置)に見立てたもの。
でも実際は有機物である脳は、使わなければ動きが鈍り、どんどん劣化していく。
記憶力を要する機会の減少は、頭の回転数の低下と軌を一にしている。

そうかもしれない、と僕は自分のことを振り返って思いました。
検索すればすぐ分かる情報は、その内容を覚えるのではなく検索方法を覚える方がいい、何しろ情報過多の時代だから、と思っていた。
その方が効率が良いしスマートである、と。
これは主に仕事に対する認識のはずでしたが、影響は日常生活にも及んでいました。
本の内容が、覚えられない。
どういうことが書いてあったか、という印象レベルの話はできても、具体的に書いてあることを思い出そうとすると、その印象はもやもやしたままで形にならない。
これまでは必要がないからそうなのだ、と納得してきたんですが、果たしてそれでいいのだろうか? と『コラム道』を読んで思いました。

いや、それはそのままでいいのかもしれない。
「昔の記憶が形をもって溢れるように出てくるのは40代からだ、だから若いうちはとにかく色々経験し、本を読んでおくべきだ」といったことが書かれていました。
これを信じるなら、今覚えようとして読んだ本の内容が記憶されないと嘆く必要はありません。
意識の届かない記憶の底の方にちゃんと溜まっているのだから。

昨日書いた話とここで繫がるんですが、「必要のないことは覚えなくていい」これは上に書いた通りで、でも「手間を省く、楽をするために(外部記憶に頼って)頭を使わない」のはよくない。
言い換えれば、今の自分がやるべきことを未来の自分に棚上げしてはいけない。
そんなことばかりしていると、棚上げばかりしていると、棚卸しの仕方を忘れてしまう。
棚卸しの機会が永遠に来ない棚上げは、無為でしかない
日頃から無闇に使わないよう、棚「を」仕舞っておきましょう。


今の生活において、周りのことで頭を使う必要がなくなった分だけ些細なことに脳をフル回転させている傾向がありますが*2、どんなことに頭を使うかは、ちゃんと考えて選ぶようにします。

「後悔しないように」という言葉の意味は、後悔しないことをすることではなく、後悔しない生き方をすることを指します。
その姿勢が問題なのです。

 × × ×

いつからか忘れましたが、文章を流れ良く書くのが苦手になりました。
自分が書きたいと思う文書の傾向のせいだと思います。
論理的な、全体的に整合性のとれた文章ではなく、飛躍はあっても時に琴線に触れる言葉が生まれるような文章。
一度書き終えてから読み直す際に自分で下線を引くのは、琴線に触れるかはさておき、書いている間に偶然生まれた、今の自分に何かを語りかけてくる言葉です。

が、これは今後を考えると矯正せねばなりません。
ひとまず今月中に司書講習募集要項にある「受講の動機について」の作文を書く必要があり、講義が始まれば論理的な文章を書く必要性も出てきましょう。
必要があれば…そうか、放っておけば勝手に治るかな。

とりあえず読みにくい文章ですが今はこのままにしておきます。

*1:日経BO連載の「ア・ピース・オブ・警句」のこと。『コラム道』を読んで、また日課で読もうかなという気になりました。少しは社会の出来事を知っておいてもいいし、何より小田嶋氏の語り口に触れると自分も文章を書きたくなるからです。

*2:昨日はホームセンタで洗面所で使うタオルの色の組み合わせに15分くらい悩んで、結局買いませんでした。いや、これは自分としてはいいのか。洗面所の内装を頭に思い描いて調和のとれるタオルを選ぼうとしたのですが、妥協しなかったのは時間が存分にあるからで、要領が悪いということではなく、この場では要領の良さが必要とされていない。無意識に「費用対効果」の価値観が前面に出てくると、悩んだ時間を単なる浪費とみなしてしまいそうになりますが、そんな価値観には「じゃあ"無駄のない生活"ってのは何だ?」と聞いてやればよい。それは自己矛盾だし、「家事の時間を節約」みたいな宣伝文句に踊らされるようならその"無駄のない生活"を可能な限り具体的に想像してみるべきだ。想像する過程が、匿名的な資本主義的消費に個性を吹き込む