human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

「高輪ゲートウェイ駅」、愚民思想、鏡と自覚

毎週、2,3日遅れで読んでいる小田嶋隆氏の時事コラム。
その先週のコラム内にタイムリーなテーマが扱われていた。
というのは、僕も同じようなことをこの数日考えていたからだ。

彼らは、
 「オレはこういうのが好きだ」
 と考えて、広告文案を案出しているのではない。
 「自分はこのコピーがシャレていると思います」
 と信じてコピーを書いているのでもない。
 どう言ったらいいのか、あの種の広告コピーを右から左に書き飛ばしている人たちは、
 「大衆ってこういうのが好きなんだよね」
 であったり
 「ほら、おまえらこういう感じの言葉にビビっと来るわけだろ?」
 といった感じの決めつけに乗っかる形で文案を練っている

 (…)

 しかも、受け手のうちの何割かは、その「大衆を舐めた」広告文案こそが現代における最先端のセンスを体現するおシャレの結晶なのだと思いこんでしまう

business.nikkeibp.co.jp

ある種の広告(氏は「マンションポエム」を例に挙げている)を大量に生み出す人々のものの見方には、大衆蔑視の思想が含まれていると氏は言う。

そうかもしれない。
そして、コラムのメインテーマである、駅名公募の結果に票数が全く反映されなかったニュースに関する次のような氏の分析も、もっともなことだと思う。

 愚民思想とは、大衆を愚民視する思想を指す言葉だが、同時に実態としては愚民自身が陥りがちな境地でもある。ということはつまり、愚民とは、愚民を冷笑している当の本人を指す言葉なのであって、結局のところわれわれは、「大衆」を蔑視することによって、どこまでも愚民化している。なんということだろう。

同上

この「愚民思想」が、自覚されない形で発揮される形態について想像している。
想像というか、生活の中で自分がすでに直面しているかもしれないという、自分の経験に対する仮定の想定である。

僕はその自覚の無さに対するのが恐ろしく、なるべく近づかないのがいちばんだが、もしそういう事態へ至ることが避けられない場合は、それに取り込まれない努力を怠らない決意でいる。
そして、決意を支える冷静な視点を保つためには、メカニズムの理解が大きな助けになる。
すなわち、「自覚されない形で発揮される形態」の内実を知ること。

自覚の無さは、周りへ及ぼす影響の大小に応じて、良質と悪質に分けることができる。
良質の無自覚は、それがあからさまなだけに、周りの誰もがその無自覚を把握できる。
敵と仲間の判断が簡単につく、バスケットの試合でデザインの異なるユニフォームを対戦する2チームがそれぞれ着用するように。
いっぽう、悪質の無自覚は、それを相手に気づかせない。
敵と仲間の判断がつかない、これは仲間同士にとって不都合はないが、相手が(つまり自分が)敵の場合には、相手が気づかぬうちに仲間として取り込まれてしまう。
つまり、僕が問題にしているのは、「自覚されない形で発揮される"悪質な"形態」である。

そして僕は、「それ」の尻尾のようなものを掴んでいる感触がある。

「それ」、たとえばその人、そのメッセージ、その場所は、
言葉を「目的に対する手段」として使っている。
効果を知り尽くし、効率を極め、一分の隙もなく、冷徹なまでに。
恬淡として恥じず、純粋な効果の指標として相手の反応を観察しながら。

「それ」に対して、僕は身構える。
相手への説明はない。
なぜならその説明は、相手の言葉の価値観において無意味だからだ。
ただ黙して、気を鎮め、静かに待つ。


無言のメッセージ。
それが届くことを、信じるのではない。

他者が鏡であり、自己を映すというのならば、
他者へ向けたあらゆるメッセージは原理的に到達する。

それが、自覚の意味であると思う。 

半直線的人生、無人島レコード、媒介関数の発見

 人間の人生が半永久的に長くなった今、人は現実というものをどう捉えて良いのか、迷っているように僕には思える。たとえば、数十年しか生きられないとわかっている人生ならば、自分ができることと、とてもできそうにないことがかなり明確に判別できただろう。できない理由の多くが、生きている時間に起因しているからだ。その場合、疑似体験が手軽にできるこうしたバーチャル・リアリティが価値を持つ。偽物とわかっていても、それらしい時間を過ごせるからだ。しかし、いずれ自分にそれができるという無限の可能性を持っている者には、最初から興醒めでしかない。カタログを眺めるように、選択のための資料としての価値しかない。カタログは商品ではない。カタログが欲しいわけではなく、商品を手にする未来を見ている。その未来は、今は無限に広くなり、逆に霞んでしまったように思える。大勢が、霧の中で迷っているはずだ。

森博嗣『デボラ、眠っているのか?』講談社タイガ

無人島レコード」というのは「無人島に持ってゆくとしたらどんなCDを持ってゆきますか? 一枚だけ選んでください」という趣向のアンケートである。
(…)
[大瀧詠一]師匠は「レコード・リサーチ」という書物を選んだ(「無人島レコード」で本を選んだのは師匠だけである)。
これは『ビルボード』のチャートとチャートインしたアーティストごとにシングルのデータをまとめたもの。
その中の1962年から66年までがあればよいと師匠はおっしゃっている。
「あれさえあればいいんですよ。(…)その4年間くらいなら、ほぼ完璧だと思うんだよね。全曲思い出せるんだよ。その時期のチャートがあれば、いくらでも再生できるからね。自分で。死ぬまで退屈しないと思うんだけどね。次から次へと出てくるヒットチャートをアタマの中で鳴らしながら一生暮らす、と。」
これはすごい。
師匠の記憶力がすごいということではない(ことでもあるが)。
音楽というのは「記憶しよう」という努力によって記憶されるものではなく、「音楽を受け容れる構え」を取っている人間の細胞の中に浸潤して、そこに完全なかたちで記憶される。
本人がそれを記憶していることさえ忘れていても、「スイッチ」(師匠の場合は「レコード・リサーチ」)を入れると完全に再現される。

blog.tatsuru.com

 × × ×

関数と集合を想定してみる。

二変数の座標平面。
各変数をそれぞれ2つの不等号で挟めば、矩形状の閉曲線が指定される。
その閉曲線に囲まれた者たちの集合を、関数の集合とする。
高次関数で表せば、例えば" x^2+y^2=a(定数) "が円であるように、単式で集合を表現できる。

二変数を、人のある性質、志向と考える。
(二つあることにあまり意味はないかもしれない、つまり閉曲線が二次元であることからの要請が、一でも三でもない理由かもしれない)
一人の人間は、二変数に代入可能な2つの定数をもつ。
このとき、上述した特定の集合に含まれる人々は、ある共通の、少なくともいくつかの視点で似通った、性質や志向を持つ。
その集合から外れた、定点が閉曲線の外に位置する人間は、一見、その集合との関係が想定されない。
その集合内の人々との関係が発生しない、または同じ時空にいながら別の世界に住んでいる、ように見える。

ところで、人の性質を示す二変数は、実は別の座標平面における関数でもある。
つまり、ある座標平面上で特定の集合から外れたりそれに含まれたりする定点は、別の座標平面上では直線だったり閉曲線だったりする。
後者を媒介平面と呼ぶとすれば、媒介平面は座標平面と比較して、極めて複雑な構成を持つ。
閉曲線に含まれるかそうでないかという二項で判断されていた座標平面上の定点(これは質点すなわち零次元である)としての人は、媒介平面では二次元的な広がりを見せ、他者である無数の曲線・閉曲線と縦横無尽に交錯する*1

人の性質・志向を分析するフィールドとして、一般的な選択肢は座標平面しかない。
媒介平面は選択されない、端的に、複雑怪奇で言語化不可能がゆえ。

だが、「それ」は存在する。
存在を感知する者には、そのメカニズムを説明できないながらも、座標平面上では観測できない重なりを見ることができる。
共通点のあるはずもない人々の、あるいは人と物の、関係を透視することができる。


 無から有は生まれない、
 しかし、
 有は有からのみでなく、
 「無と有のあいだ」
 からも生み出すことができる。

 

*1:たとえば、こういうイメージ↓でしょうか。

f:id:cheechoff:20181210145419j:plain

「それ」を忘れるな

とても言葉にし切れませんが、
過去に書いた読書記録を読んで深く考えさせられました。

cheechoff.hatenadiary.jp
cheechoff.hatenadiary.jp

変わっていないことと、変わり続けること。

変わり続ける状態が継続している場合、この状況をどう感じるか?
変化の判断を考え方に委ねる、迷宮入りした思考。

これは「たちの悪い抽象論」だろうか?
同じか違うかを、ゼロイチで分けてしまうような。


立ち止まるな、ではない。
前だけを見ろ、でもない。

人は立ち止まれないし、
前だけを見て進むこともできない。

それを忘れるな、だ。

Red Research, Purple Physics 3/n

 
 "Colorless insight makes outsight colorful."

 × × ×

──クライミングをやっていて、体幹という言葉をよく聞くようになりました。腕の筋力とか指の把持力とか、そういう末端というか、局所的な力とは反対のものを指すようで、たとえば「体幹を鍛える」なんて言えば、僕の解釈ではそれは全身のバランスをとるためのエクササイズのことで、具体的には背中とか腹筋とか、あと股関節が体幹の指すイメージです。今挙げた部位も、身体の一部という意味では局所にあたるんですが、全身を動かすうえでの中枢となる部分です。鍛えるというよりは「うまく使う」と言った方がしっくりきますが、つまり身体が動く時にその中枢部をしっかり起動させる、指先や足先に負荷をかける時にそれを中枢部が支える。あるいは末端の負荷を全身に分散させる。体幹を活かせれば、末端が持つパワーや持久力に限定されないパフォーマンスを発揮できる。
 もちろん末端を鍛えれば鍛えた分だけ、より強く登れるようになりますが、それは線形というか、努力と効果の関係がはっきりしています。僕はそこにあまり興味はなくて、たとえば話は逸れますけど、昨日初めて行ったジムでオーナーさんがお客さんと話しているのを小耳に挟んでいたんですが、『今のクライミングの世界って、ひたすら鍛えることだけを考えていて、寝て起きて登って食って(で時々セックス)、っていう生活ができる奴が強いんだよね』なんてことを言っていて、要はお金とクライミング環境が実力に直結していて、クライミングだけに集中できる生活の余裕がない人間はトッププレイヤーにはなれない。これは別にクライミングに限らず、あらゆるジャンルのプロスポーツの現状に当てはまると思います。別にそれ自体は世界が豊かになったことの当然の帰結であって、良し悪しを判断することでもありませんが、僕はこういった予定調和な、やることをやれば思った通りの未来がやってくるという『ああすればこうなる』式の事柄には関心がありません。予想通り、という展開を人はよく好みますが、それは大体の予想が外れるからであって、確実な未来があるとしたら、それはもはや現在であって、想像の対象には入らない。

──なにか、現代は頭を使う人間が減ったという印象を勝手に持っているんですが、それはたぶん、想像をしなくなった、する価値がなくなったから。頭を使うのは、欲しいものを手に入れるとか、やりたいことをするために、何をすべきか、どういう手順でどれだけ時間がかかるか、といったこと。いや、これは現代に限ったことではありませんが、なんというのか、確実さ、「実現可能性の高さ」に対する格別の重み付けが、現代特有ではないかと思うのです。それができるのか、できないのかが、高い確度で判断できて、できるのならばやる、できないのならばやらない。博打をしない堅実さの現れという見方もできますが、僕はそれは一種の平和ボケ、人生がそもそも博打であることを忘れているだけだと見ます。別に僕は賭博に興味はないし、一か八かの人生の選択が生きる醍醐味だなんて思ってもいませんが、たぶん、想像に重きを持つ人間として、「こちら側」にいるんだろうなあと今考えて思いました。生活が常に未知に開かれていることを目指せば、自然と堅気から離れていく。変化のないルーティン的な日常が下地にあってこそ微細な変化に気づき、その色彩やかさを感知できる、という次元を上げた堅気というのもあって(内田樹氏はこれでしょう)、僕はこちらを目指したいですが、難しいのは「次元を上げること」を当然の認識とすることです。たぶん、生活のなかで具体性と抽象性を同時に追求する姿勢が必要で、そして具体的なところをしっかりさせると普通はそちらにかまけて抽象性が薄まっていくんですが、できる人間は具体性の充実をそのつど抽象性に昇華できる。個体→気体を昇華といいますが、この逆も昇華なので、ここでこの比喩を使うのはなかなか適切で、つまり具体性と抽象性の循環のことを指しています。今の僕はこの「同時追求」を実行しつつも、具体性の側に堅気の安定が不足しています。これは別に、抽象性の側に求めてもいいのですが。なんだか、すごく抽象的な話になってしまいました。

──話がズレたので戻します。何度も言ってきたことですが、僕は単純にクライミング技術向上を目指してボルダリングをしているわけではありません。では何のためか、というと、一つは身体性の賦活であると。こう言って、身体性について言葉にしていく難しさがあっていつも挫折してきたのですが、今回は少し頑張ってみようと思います。昨日はジムに8時間近くいて、ほとんど休憩もしなかったので最後の方はよれよれだったのですが、ヨレて登りながら、ふと身体に感じるところがありました。
 ヨレるというのは、これもクライミング用語で、指や腕に力が入らなくなって、元気な時に登れるコースが全然登れなくなる状態を指します。ふつうはヨレてから登ると思わぬケガにつながったり(手のコントロールが利かなくてホールドにぶつけたりとか、変な落ち方をして足や腰を痛めるとか)、筋肉疲労以上のダメージを身体に与えたりするので推奨はしませんが、一方では、無理をしないで軽めのコースを登ることで「力の使わない登り方」を探索することができます。これは体幹を活かした登り方に通じるところがあるので、僕はヨレてからも課題のグレードを下げながら継続的に登り続けることにしています。
 ここからちょっと詩的な表現が多発するかもしれませんが、まあ書きます。力を使わない登り方、つまり変に力まないということですが、これができると、意識が身体の中心にありながら手足を動かせているような気がします。たとえば、これはヨレている時に限りませんが、初級課題だと普通にできるんですが、ホールドを取りに行く時に、手は大雑把に次のホールドの方に向けながら、細かい位置合わせを足の踏み込みでやる。具体的にいえば、取りたいホールドの10センチ下まで手を持ってきて、あとは手も腕もそのままで、踏み込んだ足の膝を伸ばすことでその10センチを稼ぐ。これは体幹オンリーというよりは主に足を使った登り方なんですが、手という末端への意識を薄めながら掴むというやり方は、説明しようとしている「力を使わない登り方」と同じです。…体幹に足は含まれないのか、と今書きながら疑問に思ってきましたが、これは難しいところですね。現在の僕の感覚では両者をあまり分離できていないのですが、たぶん理想をいえば「別もの」だという気がします。

──ちょっと話が変わるんですが、料理の味について、書きます。いや、問題は料理じゃなくて人のほうなので、味覚についてですね。美味しいとか、あと辛い苦い云々は、あれは脳の作用ですね。味覚がなくなるのは、舌の異常もあるかもしれませんが、味蕾だったか、舌の神経と繋がった脳の一部が機能不全という場合もあると思います。何が言いたいかというと、美味しいというのは、身体が感じることではないのですね。それを昨日、ジムから帰ってきてスーパーから半額セールで買ってきた鶏肉のカツレツを食べた時に考えました。安物の、ではなくて多分肉の生っぽさが残っていたのか、レンジで温めてから食べた時に妙な生臭さがあったんですが、それとは関係なく、噛んで飲み込んだ時に身体にある種の充実を感じました。ジムで長時間登るとよくあるのですが、それは「タンパク質渇望感」と勝手に呼んでいる状態で、その時に肉を食べたり豆乳を飲んだりすると、普段それらを摂る場合とは違った感覚が生じます。「この充実感は美味しさとは別だ」と昨日思ったのは、たまたま鶏肉が少々生臭かったおかげなのです。そしてそれから思ったのは、「これは身体が感じていることじゃないのかな」ということでした。

──身体感覚そのものは、言葉にすることが困難で、そもそも意識が身体感覚をきちんと把握するのに長けていないせいもあり(上記の美味しさの話も、食べて感じるのだからなんとなく身体感覚だと思ってしまいますが、全部が全部そうではないのです)、身体を動かしている時、あるいはもっと全般的に身体が活動している時の幽かな感覚という具体例と、その感覚と相関がありそうな意識や身体状況や環境などをもとにした、具体例に対する考察によって、身体感覚の言語化を少しずつ進めていく。そしてこの姿勢、身体に対する感度を研ぎ澄ませることと意識を身体に沿わせること、これらによって身体感覚自体も少しずつ充実していくはずだと思います。話を戻せば、僕はそのための手がかりをクライミングに求めているということです。「合気道などの武道に興味を持っていたが結果的にボルダリングを始めることになった」という一見訳の分からない事情を表す一文には、このような背景が込められています。

陸のない地球の話(序)

 
「陸のない地球の話をしよう」
「面白そうね。どんな話なのかしら?」
「僕らは海で生活をしている。海の中で、または海の上で。生活の具体的な描写は後々考えることにしよう」
「あら、私はそこが知りたいのだけれど。お父さんは船の上で釣りをして、今夜のおかずを仕留めるのね。『もうすぐ日が暮れちゃうわよ、まだ一匹も釣れてないじゃない』なんて言いながら、お母さんはゴロンと横になって本を読んでたりするの」
「のどかな家族だね。僕は親父の横でじっと水面を見つめる息子がいいな。いや、申し訳ないけれど、そういう現実に沿った話ではないんだ。科学的でないというのか、要するにファンタジーの一種だね」
「いいわよ。続きをどうぞ」

「陸がないってことは、宇宙から地球を眺めたら、青と白の2色の斑模様に見える。ふつう陸があると、海岸の形状やら山脈の高低があって、大気の循環はそういった地形のバリエーションによって生まれるらしいから、もしかしたら青一色かもしれない。海の深さが均一だと仮定すれば、海流も生まれないだろうし」
「なんか妙なところで具体的ね。SFの世界設定場面のようだわ」
「いや、これは余談だった。本筋じゃない。最初に地球と言ったからスケールが大きくなりすぎちゃったけど、考えてみたいのは、海にぽつんといる一人の人間についてなんだ」
「ふうん。じゃあ家族とか、生活とかはメインじゃないわけね。あなたの好きな、抽象的な話ってやつかしら」
「そうだ。現実にある海の性質をいくらか借りながら、想像してみたい内容のためにそこに非現実な性質を盛り込んで、そのような”海”にいる人間が何を感じるかを、考えてみたいんだ」
「あら、伊藤計劃の本にそんな感じのこと、書いてあったわよ。たしか、なんとかポーションって」
「エクストラポレーション、だね。SF的な命題を一つ立てて、そこから連鎖的にいくつかの命題を導いていく。SFがSFたりうるのは、そこで語られる物語が、その世界に不動のものとして擁立された命題と必然の関係にある場合だ、と彼は言っていた。つまり、現実にありふれた人間ドラマを未来世界で描いてもしょうがないということだね」
「でも、どんな世界でも恋愛とか友情のドラマがあって、それが私たち人間なのよ、ってことなんじゃない?」
「そう言って間違いではない。でもその価値観に従えば、SFの物語を、現実に軸足を固定したまま消費することになる。たとえば未来の車をパロディにした保険会社のCMを茶の間で眺めるようなもので、ただ通り過ぎていくだけ。彼が言いたいのは、ある命題を掲げたSFが、読者がその世界にのめり込むことで現実の価値観が揺さぶられるような、そういう骨太な物語をSFと呼びたいってことだと思う」
「それはわかったけど、なんか私、余計なこと言ったわね」
「いやいや、全然余計なことじゃないよ。だって…あ、話が逸れたってことね」
「そう」
「なんだっけな。ああ、海の話だった」

「まずね、人は海の中でも息ができるんだ」
「じゃあ溺れる心配はないのね」
「うん、でも顔を海から出した状態と、海中に潜っている状態は、同じではないんだ。疲れ具合も違う、安定感も違う、何より意識の状態が違う」
「あなたが問題にしたいのは、その意識の状態ってやつでしょ」
「その通り。ただひとっ飛びでそこまでは行けなくて、まずはいろいろ設定することがあるんだ。面倒だけど」
「そうねえ、面倒だわねえ」
「さっき横道に逸れた時に言った、SFの命題を導く過程にいると思えばいい。物語というよりは、その切れ端のような思考実験に過ぎないけれど」
「あなたも折れないわね。一度喋りだしたら止まらないんだから」
「君が嫌そうな顔してれば、すぐやめるつもりではあるんだけど」
「別に嫌じゃないわ。お店で落ち着いてコーヒーが飲めれば、それで私は幸せ」
「同感だね。願わくば、客の出入りが少ない、静かなカフェがいいけれど。あと、隠れ家みたいな雰囲気は好きだけど、窓から外が見えた方が開放感があっていいよね」
「文句が多いわね、同感なんて言っておきながら。だいたいあなたがこの店にしようって言ったんじゃない」
「ごめんごめん、言葉の綾だ。この店にもコーヒーにも、そして君にも不足はない。でも不足がないことは満足とイコールではない」
「…あら、なんで突然そんなこと言うのかしら。そういえばこの前『ケンカできる仲っていいよね、一度してみたいな』とか言ってたわね。そういうこと?」
「えっと、どうして君が怒っているのか、いまいち理解が追いつかないんだけど…いや嘘だ。そうじゃなくて、うーんと、人は常に向上心を抱いてこそ、前向きに生きていけるってことさ。君に満足していないと言ったのは、君じゃない人がいいのではなくて、君と一緒にこれからも変わっていきたい、という意味だ」

「…ふーん。いいけど、あなたいつも、一言多いわよね。説明が長くて、その中の余計な一言に弁解しなくちゃならなくて、その弁解にまた言い訳がくっついて、って。つくづく忙しい人ね」
「女性はお喋りが好きだよね。僕には論理も目的もなくてすぐ発散するタンジェントのような会話に思えるんだけど、実際のところ、会話の内容ではなくて、会話そのものが目的なんだよね。お喋りしていて幸せだというなら、会話は純粋な手段ってことになるけど、僕もそれに倣ってるつもりなんだけどなあ」
「言ってるそばからこれだわ。あのねえ、喋ってればなんでもいい、なんてわけないでしょ。気遣いって言葉、知らないの? あれだけ論理が科学がどうこう言いながら、肝心なところでどうしてこんな大雑把なのかしら。あなたね、ザルよ、ザル。網目はものすごく細かいのに、いちばん底に大きな穴がぽっかり開いてるんだわ」
「それを言うなら、割れ鍋じゃないかな。割れ鍋になんとかって。ええと、ああ、君がそのなんとかの方なんだけど、つまり相性いいんだよ、僕ら」
「知らないわよ、もう」
「まあまあ、機嫌直して。コーヒーのおかわりと、そうだね、ケーキ食べようか」
「あ、私チーズケーキがいいわ」
 

mind magic multiplicity

Wシリーズ第2巻、読了しました。

かつてなく抽象度の高いシリーズだと認識しました。
森博嗣は余計なことをせずに、真賀田四季のことだけ書いていればいいんだ」と豪語していた司書講座の同期、イシーダ画伯にオススメしたいところです。

 × × ×

二人の絵に対する姿勢について、
「抽象性」という言葉が最初に浮かんで、
言葉が足りないかとその説明を考えているうちに、
「ものすごく具体的」という言葉も出てきました。
(…)
違わないはずはないのに、
この両者の違いが分かりません。
どういうことだろう…

岡潔と安西水丸の共通点 - human in book bouquet

その差異があまりに明瞭なものに対しては、それを表現する言葉を持たない。
具体的に一つ取り出せば、それ以外が捨象される印象を得て、嘘になる。
正確を期して膨大な記述を費やしても、量的に敵わないうえに、記述の順序が重み付けとなる。
そもそも、説明なしに差異の認識が人と共有できるのなら、それを表現する意味はない。

 「僕と君とは、いったい何が違うのだろう?」
 「…あなたは私と、いったい何が同じなの?」

その差異があまりに明瞭で、それでいて何かしら等しさを感じるもの。
それらのものに費やすに値する説明は、同一性についての表現。

疑問の余地がなかった差異に同一性のライトを照射して、浮かび上がる影は「謎」である。
影がその実体の存在感を際立たせる、澄明なる月夜の神秘。

 表現を要求する同一性は、運動を孕んでいる。

閃いた瞬間の真実には、やがて解ける魔法がかかっている。
生を変化たらしめる時間は、光に生まれた言葉を石に戻す。
言葉の輝きは宇宙の星々と同じく、原初との時間差を免れない。
ただ、過去に消えた火種に光を見るのは、時間を超越する意思の魔法である。

 解けない魔法がないとすれば、それこそが魔法の生命たる証。

reality stimulates vitality

リアリティ(現実性)について。


言葉の理解は、文脈を通じて現れる。
辞書的な意味の暗記ではなく、異なる様々な使用場面が複合的に頭に展開されることで「体得」される。

「これはなかなかリアリティ溢れる小説だ」
「Sさん? ああ、あのタンクトップのリア充っぽい人ですよね」
「その話は非現実に過ぎる」
「生活を感じさせる家具が一つもない、現実味のない部屋」
「『リアリティって何や』て思とる、君の頭はリアリティ満載やで」

リアリティとは、プロセスに冠される言葉ではないかと思う


客観的な存在であるリアル(現実)に対して、本来「現実性がある」とは言わない。
リアルでないはずのものに、リアルさを感じて初めて、リアリティという言葉が登場する。

本来、と言ったのは、実用上、そうでない場合があるからだ。
たとえば、リアルに対して「リアリティがない」と言う場合。
それは、リアルであるはずのものに、リアルさを感じない状況の表現であるはず。
しかし、これは少し妙だ。
ここでは、「リアル」と「リアルさ」は違うものであるように受け取れる。
それがリアルなら、誰がどう感じようが、リアルに違いはないはずなのに。

リアリティとは、リアルの感覚的な把握との比較において成立するようだ。
比較が生み出すのは差異であり、リアリティ(の有無)は差異の発生に起因する。
プロセスは、時間を変数にもつ差異である。


リアリティを感じる対象。
それは、リアルになりつつあるもの、である。
これは先に触れたことを逆に表現したものだ。
つまり、リアリティを感じない対象は、
リアルを失いつつあるもの、であるとも言える。


「リアリティ溢れる小説」は、現実的にある、社会で実際に起こっていることが確実な話、のことではない。
そうではなく、それは「現実的にありそうで、起こっていてもおかしくない」話なのだ。

ノンフィクションが持ちえない小説の魅力は、このリアリティである。
社会の闇でも裏社会でもいいが、丹念な取材に基づいた事実と記録の提示は、取り上げた事件の「確実性」を強調することで、それがリアルであることを論証する。
だが、リアルであることそのことに対しては、リアリティを感じない。
ノンフィクションにリアリティを感じることがあるとすれば、それは「リアルに限りなく接近していく様」の描写にある。
それがノンフィクションの魅力なのかもしれないし、ノンフィクションならではのリアリティかもしれないし、あるいはリアルの確実性を論証し切れなかった半端ものにだけ言えることかもしれないし、この魅力自体が小説に属するものかもしれない。
この一節は、ノンフィクションを全く読まない人間の憶測である。


「非現実」という表現は、生活や空間に対して使われる時、薄っぺらさという意味をもつ。
小説においても、現実においても同様に。
似た表現を探っていくと、何かが見えてくる。
薄っぺらさ、それは「何も立ち上がってこない」という予感。
動きがない、変化がない。

インテリア雑誌で、調度の行き届いた隙のない部屋の写真を「現実味がない」と言う。
これは、生活感がない、と言いかえられる。
この逆を考える。
「生活感がある部屋」は、ソファの上にシャツやズボンが(だらしなく)引っ掛けてあったり、テーブルの上に染みのついた(飲みかけの)コップがあったり、キッチンに掛けられたヘラやお玉のメーカー(色)がばらばらだったりする。
そういう部屋を、住んでいる人の性質が連想される、と言ったりする。
「生活感のある部屋」のリアリティは、この連想にある。
どういう人がここで生活しているのか、を、「確定できる情報が散在している」のではない。
生活者を、様々に、想像できるというプロセス(可能性)にある。
その内容は、想像する人それぞれに異なる。

つまり、リアリティの備わるプロセスには「個性」が介在している


リアリティは感覚的なものである、と言った。
それは、リアリティが対象に帰属するものではないことを意味する。
つまり、何かにリアリティを感じるその人の側の問題なのだ。
根本的には、という意味ではあるが。

 × × ×

先に書いたことに再度触れる。

「リアルになりつつあるもの」に現実性を感じる。
「リアルを失いつつあるもの」に非現実性を感じる。

そして、この稿を書くきっかけとなった一節を抜粋する。

 虫や魚や爬虫類はグレイゾーンに置いておくとして、哺乳類や鳥類となると「リアリティ」ではないにしても、その起源となるようなものを感じているのではないかと私は思う。そのように思うとき「リアリティ」は、進化の系に一貫して流れている「生きようとすること」と強く結びついていると、私は感じているらしい。

「第6章 「リアリティ」とそれに先立つもの」p.98(保坂和志『世界を肯定する哲学』ちくま新書283)

こう並べてみて、
生命の本質は変化にあるという日頃の認識に、
次の一文を加えたいと思う。

「リアリティへの感度は生命力と深い相関がある」

と。

 × × ×

世界を肯定する哲学 (ちくま新書)

世界を肯定する哲学 (ちくま新書)

Walking Margarine

Wシリーズ一作目、読了しました。


 × × ×

「逆に言えば、先生の研究は、両者の差を明らかにすることですから、その差をなくすためにも必要な知見なのでは?」
 ウグイの口から、それが出たことに僕は驚いた。グラスの液体を全部喉に流し込んでから、椅子の背にもたれて上を見た。

森博嗣『彼女は一人で歩くのか?』

差異の認識が、同一化への足がかりとなる。
この逆説的なメカニズムの汎通性をふと考えてみたくなる。

学力テストの点数。
80点で満足していた学生が、友人の100点答案を見せつけられ、奮起する。

地方の名水の成分解析
独特と思われた味が、ある元素の含有率に起因すると分かり、人工的に製作される。


差異の認識というキーワードから、すぐ連想する事柄が2つある。
 一つ、仕事の細分化、研究分野の蛸壺化。
 一つ、知の発展が未知を生む、インタレクチャル・ネスティング・エンジン。
これらの事象に、当てはまるか否か。
あるいはその関係は。


専門分野がどんどん枝分かれしていき、同業者すらまともに議論できないほどマニアックな、重箱の隅の米粒を有難がる研究志向の本質は、知の無機化である。
自分が扱う対象に対して、随意に既知と未知をラベリングできるという傲慢。

「未知の知」の発動は、知性的活動のルールに忠実な、堅実さが前提される。
着実な一歩を積み重ね、固めたはずの足元が発見や偶然で崩れ落ちるのにめげず、自分が生きている間にゴールに辿り着く目算が立たない不安を抱え、人類知の夢と同輩の共感という願望に支えられながら、粛々と日々を送る。
ゴールがプロセスの礎であるという、ニヒリズム紙一重の自覚。


関係はもはや明らかだ。

差異は現象である以前に認識である。
差異が認識である以上、それは手段である。
手段の運用は、主体の意志に任される。


僕は「それ」と、同じでいたいのか、違っていたいのか?
なぜそう思うのか、その先に何を見ているのか?

 鏡に目があり、
 もう一つの鏡に自分を映して、
 その目が捉えるのは、
 自分か、相手か?

 光速は、ウサギとカメの、どちらだろうか?

 結局のところ、すべては、人の心がどう捉えるのか、という問題に帰着する。子供が生まれるとはどういうことか、生きているとはどういうことか、人間とは何なのか、そして、この社会は誰のものなのか……。
 きっと、それらをこれから長い時間をかけて考え、話し合い、少しずつ新しい思想を受け入れていくしかないのだろう。
 科学者の僕たちでさえ、まだしっかりと決められないのだ。一般の人たちが議論をするには、少し早いかもしれない。時間がかかるだろう、きっと。

同上

Fractal Apoptosis

 因果関係は、幻想かもしれない。


「鶏と卵の関係」とは、互いに相関のある二つの事象に対して、原因と結果を割り振れない状況をいう。
その起源が深い籔に覆われた、不確定な現象。
僕らはそういったものに出会うと、片付かない気持ちになる。
不安、といってもいい。
なぜなら、それが無限に広がりうる可能性を、言わないまでも察知しているからだ。

ただ思うに、
それは本当に、不安なのだろうか?
その不安は、不安でしかないのだろうか?


比喩について考えてみる。
栗鼠のような人間と聞けば、機敏な所作や、ものを堅実に貯め込む性格を思い浮かべる。
あるいは、間隔の開いたつぶらな一対の瞳という、顔の特徴もありうる。
ある人物を栗鼠に喩えた場合、栗鼠は彼の比喩である。
次に、この相関を前提として、こう考えてみる。
彼は、栗鼠にとっての何だろうか、と。
それにふさわしい専門用語があるか、受動形を付すか、いくつか想定はできる。

けれど、事はもっと単純なのではないか。
すなわち、
栗鼠が彼にとっての比喩なら、彼もまた栗鼠の比喩である。


夕食を自宅の冷蔵庫にある野菜で作るとする。
いくつかの野菜のほか、卵はあるが肉はない。
塩胡椒に加えて、旨味を引き出す香辛料が欠かせない。
例えば、キムチ野菜スープには生姜とコリアンダーを入れて、底味を堅める。
完成したスープは、野菜だしとキムチの化学的舞踊が堅実な基礎の台上で展開され、満足のいく味を発揮する。
香辛料を加えたから、スープが旨くなる。
その逆ではありえない。
これは、経時的現象として疑い得ない事実。

だが、本当にそうだろうか?
なぜ、僕は調理中に、コリアンダーの瓶を手にしたのだろうか?

彼らを足せばスープが旨くなる、と思ったからではないのか。
すると、想定されたスープの旨味は、香辛料の使用に先行した存在といえる。
つまり、
スープが旨いから、香辛料を加えたのである。

相関関係の因果が一方向に定まらない場合、それは因果関係とはいえない。



現実とは、客観性という限定が嵌め込まれた世界である。
リアリティにとって、その限定は必要条件を構成しない。
因果関係は、現実内の観察対象に、客観性の枠を維持したまま付与される。

客観性の限定を必ずしも受けないリアリティの意味、
ここで取り上げた効果の一つ、
それは、
因果が相関に呑み込まれる、ということだ。

時間は存在する。
ただ「時計回り」という決められた方向がない。
リアリティにおいて、時間は変化に限りなく近づく。
不変は変化の一部となり、一例に成り下がる。


脳の神経回路、シナプスの発光、経路の発生と増強。
あるいは、脳の生理レベルの活動においても、方向性は瑣末な事柄かもしれない。
ある神経が、どのような経路を辿って、別の神経と繋がったのか。
重要なのはその経路ではなく、神経同士が繋がっている現象の方ではないか。
そして、リンクの存在は、繋がり続けること、不変を志向するのではなく、新たな繋がりを生むこと、変化を志向する。

礎の自覚と、衰微の受容。
ミクロな自死の集積によって、有限で無限の、つまり有期限で無辺際の意識活動が成立する。


フラクタルアポトーシス
人間の自死は、意識か、それとも……

【ボルダリング】400円でチョークバッグ自作

チョークバッグは、滑り止めの粉末チョークを入れる袋です。
厳密には、バッグ内に入れるチョークボールの内部にチョークを充填します。
チョークボールは布地のお手玉サイズの球で、握ると生地の隙間から粉が出てくることで、手に粉をつけるもの。
チョークバッグは、チョークボールから出てきたチョークを受けるためにある。

構造としては、外袋と内袋が別になっていて、紐を絞れば内袋が閉じて、粉が外に出ないようになる。
また口が円形に開いた状態を維持できるようになっていて、口の縁をゴソゴソしないでも手を入れることができる。
写真の右側が市販のものの一例です。

仕組みが単純なわりに値段が高いというイメージがあり*1、今回二つ目が必要になったので自作してみました(写真の左側)。
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【材料】○のついた4つを100円shopで購入。下写真参照。
 ○巾着袋(なんとなくデニム生地)
 ○針金(ある程度形状維持できる太さのもの。今回はφ1.6mm)
 ○ダブルクリップ(外袋と内袋を固定するため)
 ○ストッキング(これでチョークボールを作る)
 ・ビニール袋(内袋用)
 ・輪ゴム(チョークボールの口を閉める。1つor2つ)

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【ポイント】
1. 針金はバッグの口を円形に広げて維持できるように円状に整形する
2. 円状にした針金は内袋より内側に嵌める
3. クリップ3~4個で、外袋外側から針金を挟むように留める
4. しまう時は固定用クリップ1つを残して、残りは内袋の口を閉めるために使う

下の写真(上)は使用時の状態。チョークを表面に滲ませたチョークボールも見えます。
床に放り出しても、このように口が開いた状態を維持します。
写真(下)は使い終わった後。粉が出ないようにクリップでビニール袋を閉じています。
最後に外袋の紐を締めれば、粉は漏れません。

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こんなところです。
室内ジム用としては、市販のものと機能性は変わりません。
使用開始時と終了時にクリップを留めなおす手間はありますが。

チョークボールをストッキングで作るという話は何度か目にしましたが、バッグそのものの自作はあまり見なかったので、自分で考えて作ってみました。
DIYイデアの肝は、針金とクリップでしょうか。


チョークバッグ高いなあと思われたことのある方、自作を一度お試し下さい。
ちなみにチョークはこの間DIY的発想で大失敗しましたので、同じ過ちが生じぬ意図で付記しておきます*2

*1:写真の市販バッグは片手がぎりぎり入るサイズで、登りながらチョークをつけられるように腰紐がついているタイプ。三千円ちょっとします。室内ジム用の両手がすっぽり入るタイプはもっと高価。今回作ったのは中間サイズですが、要は欲しい大きさの巾着袋を入手すればよい。

*2:「家にある粉で…」と思って、小麦粉を使ってみましたが、恐ろしいほどツルツルになってしまいました(ジムの人には秘密)。卵の殻が原料のものがあるようですが、それを自分で作るには加工機械が必要でしょう。すり鉢くらいじゃ歯が立たないし。