human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

Fractal Apoptosis

 因果関係は、幻想かもしれない。


「鶏と卵の関係」とは、互いに相関のある二つの事象に対して、原因と結果を割り振れない状況をいう。
その起源が深い籔に覆われた、不確定な現象。
僕らはそういったものに出会うと、片付かない気持ちになる。
不安、といってもいい。
なぜなら、それが無限に広がりうる可能性を、言わないまでも察知しているからだ。

ただ思うに、
それは本当に、不安なのだろうか?
その不安は、不安でしかないのだろうか?


比喩について考えてみる。
栗鼠のような人間と聞けば、機敏な所作や、ものを堅実に貯め込む性格を思い浮かべる。
あるいは、間隔の開いたつぶらな一対の瞳という、顔の特徴もありうる。
ある人物を栗鼠に喩えた場合、栗鼠は彼の比喩である。
次に、この相関を前提として、こう考えてみる。
彼は、栗鼠にとっての何だろうか、と。
それにふさわしい専門用語があるか、受動形を付すか、いくつか想定はできる。

けれど、事はもっと単純なのではないか。
すなわち、
栗鼠が彼にとっての比喩なら、彼もまた栗鼠の比喩である。


夕食を自宅の冷蔵庫にある野菜で作るとする。
いくつかの野菜のほか、卵はあるが肉はない。
塩胡椒に加えて、旨味を引き出す香辛料が欠かせない。
例えば、キムチ野菜スープには生姜とコリアンダーを入れて、底味を堅める。
完成したスープは、野菜だしとキムチの化学的舞踊が堅実な基礎の台上で展開され、満足のいく味を発揮する。
香辛料を加えたから、スープが旨くなる。
その逆ではありえない。
これは、経時的現象として疑い得ない事実。

だが、本当にそうだろうか?
なぜ、僕は調理中に、コリアンダーの瓶を手にしたのだろうか?

彼らを足せばスープが旨くなる、と思ったからではないのか。
すると、想定されたスープの旨味は、香辛料の使用に先行した存在といえる。
つまり、
スープが旨いから、香辛料を加えたのである。

相関関係の因果が一方向に定まらない場合、それは因果関係とはいえない。



現実とは、客観性という限定が嵌め込まれた世界である。
リアリティにとって、その限定は必要条件を構成しない。
因果関係は、現実内の観察対象に、客観性の枠を維持したまま付与される。

客観性の限定を必ずしも受けないリアリティの意味、
ここで取り上げた効果の一つ、
それは、
因果が相関に呑み込まれる、ということだ。

時間は存在する。
ただ「時計回り」という決められた方向がない。
リアリティにおいて、時間は変化に限りなく近づく。
不変は変化の一部となり、一例に成り下がる。


脳の神経回路、シナプスの発光、経路の発生と増強。
あるいは、脳の生理レベルの活動においても、方向性は瑣末な事柄かもしれない。
ある神経が、どのような経路を辿って、別の神経と繋がったのか。
重要なのはその経路ではなく、神経同士が繋がっている現象の方ではないか。
そして、リンクの存在は、繋がり続けること、不変を志向するのではなく、新たな繋がりを生むこと、変化を志向する。

礎の自覚と、衰微の受容。
ミクロな自死の集積によって、有限で無限の、つまり有期限で無辺際の意識活動が成立する。


フラクタルアポトーシス
人間の自死は、意識か、それとも……