human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

「高輪ゲートウェイ駅」、愚民思想、鏡と自覚

毎週、2,3日遅れで読んでいる小田嶋隆氏の時事コラム。
その先週のコラム内にタイムリーなテーマが扱われていた。
というのは、僕も同じようなことをこの数日考えていたからだ。

彼らは、
 「オレはこういうのが好きだ」
 と考えて、広告文案を案出しているのではない。
 「自分はこのコピーがシャレていると思います」
 と信じてコピーを書いているのでもない。
 どう言ったらいいのか、あの種の広告コピーを右から左に書き飛ばしている人たちは、
 「大衆ってこういうのが好きなんだよね」
 であったり
 「ほら、おまえらこういう感じの言葉にビビっと来るわけだろ?」
 といった感じの決めつけに乗っかる形で文案を練っている

 (…)

 しかも、受け手のうちの何割かは、その「大衆を舐めた」広告文案こそが現代における最先端のセンスを体現するおシャレの結晶なのだと思いこんでしまう

business.nikkeibp.co.jp

ある種の広告(氏は「マンションポエム」を例に挙げている)を大量に生み出す人々のものの見方には、大衆蔑視の思想が含まれていると氏は言う。

そうかもしれない。
そして、コラムのメインテーマである、駅名公募の結果に票数が全く反映されなかったニュースに関する次のような氏の分析も、もっともなことだと思う。

 愚民思想とは、大衆を愚民視する思想を指す言葉だが、同時に実態としては愚民自身が陥りがちな境地でもある。ということはつまり、愚民とは、愚民を冷笑している当の本人を指す言葉なのであって、結局のところわれわれは、「大衆」を蔑視することによって、どこまでも愚民化している。なんということだろう。

同上

この「愚民思想」が、自覚されない形で発揮される形態について想像している。
想像というか、生活の中で自分がすでに直面しているかもしれないという、自分の経験に対する仮定の想定である。

僕はその自覚の無さに対するのが恐ろしく、なるべく近づかないのがいちばんだが、もしそういう事態へ至ることが避けられない場合は、それに取り込まれない努力を怠らない決意でいる。
そして、決意を支える冷静な視点を保つためには、メカニズムの理解が大きな助けになる。
すなわち、「自覚されない形で発揮される形態」の内実を知ること。

自覚の無さは、周りへ及ぼす影響の大小に応じて、良質と悪質に分けることができる。
良質の無自覚は、それがあからさまなだけに、周りの誰もがその無自覚を把握できる。
敵と仲間の判断が簡単につく、バスケットの試合でデザインの異なるユニフォームを対戦する2チームがそれぞれ着用するように。
いっぽう、悪質の無自覚は、それを相手に気づかせない。
敵と仲間の判断がつかない、これは仲間同士にとって不都合はないが、相手が(つまり自分が)敵の場合には、相手が気づかぬうちに仲間として取り込まれてしまう。
つまり、僕が問題にしているのは、「自覚されない形で発揮される"悪質な"形態」である。

そして僕は、「それ」の尻尾のようなものを掴んでいる感触がある。

「それ」、たとえばその人、そのメッセージ、その場所は、
言葉を「目的に対する手段」として使っている。
効果を知り尽くし、効率を極め、一分の隙もなく、冷徹なまでに。
恬淡として恥じず、純粋な効果の指標として相手の反応を観察しながら。

「それ」に対して、僕は身構える。
相手への説明はない。
なぜならその説明は、相手の言葉の価値観において無意味だからだ。
ただ黙して、気を鎮め、静かに待つ。


無言のメッセージ。
それが届くことを、信じるのではない。

他者が鏡であり、自己を映すというのならば、
他者へ向けたあらゆるメッセージは原理的に到達する。

それが、自覚の意味であると思う。