human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

死者の視線を感じる(『成長から成熟へ』を読んで・後半)

前半から続きます。

たとえば、『宮本常一が撮った昭和の情景』(上下巻/毎日新聞社)という写真集を見てください。(…)この写真集を見ていると、あきらかにいまのぼくたちとは目の光が違うことに気づくはずです。
 それが、プロの写真家ではなく、あくまで民俗学者の目に映った人びとの姿であるだけに、つまり、何かを訴えようとする写真ではなく、あくまで即物的な写真であるだけに、ぼくらに訴える力が大きい。写真の中の人たちを見ているうちに、逆にぼくは写真の中の人たちに見られているような気持ちになりました。写真の中の人たちに、「しあわせですか」と聞かれているように思えてきたのです

「第三章 生活大国ってどこですか」p.183 (天野祐吉『成長から成熟へ』)

写真の中の人と目を合わせていると、その人に見つめられている気がしてくる。
それは実際に人と対面していることの擬似的な体験だから起こるのですが、
写真の中の人は臨在感がない分だけ、それを見つめる人の内面が反映されます。
特に、写真(または絵)の人が、表情がないかのごとく透明に見える場合には。


抜粋の下線部を読んだ時に、既視感をおぼえました。
写真の人に、あるいは過去の人に問いかけられる。
自分の経験かもしれないし、文章を読んでの想像による追体験かもしれない。
「過去の人に問いかけられる」という身ぶりから連想したのは、
高橋源一郎氏がポリタスの戦後70年特集に寄稿した文章でした。

改めて全文を読むと「じっと佇ませるもの」があるなと感じます。
僕が初めて読んだのは会社の昼休み中でしたが、
読んでいる間は会社にいるという感覚が「かっこに入れられた」ようでした。

ここでは文脈に関係する部分のみ抜粋します。

今年の6月、わたしは、70年前に戦死した伯父の慰霊に、フィリピンに出かけた。伯父とは、もちろん一度も会ったことなどなかった。(…)

最大の檄戦地となったルソン島・バレテ峠の、北に向って、すなわち遥か日本に向って建てられた慰霊碑の前で、わたしは、長い間、瞼を閉じ、頭を垂れていた。

そのとき、わたしは、伯父が、いや無数の死者たちが、わたしをじっと見つめているような不思議な思いにとらわれたのである

死者と生きる未来(高橋源一郎)|ポリタス 戦後70年――私からあなたへ、これからの日本へ

そして髙橋氏は、「視線を感じた」理由について、こう書いています。

わたしが、彼らの視線を感じたのは、わたしの「いま」が、彼らが想像し、憧れた「未来」だからだ。70年前、フィリピンの原野から放たれた視線は、長い時間をかけて、わたしの生きる「現在」にまでやって来たのである。

同上

写真集の中の昭和の人びとの視線と、
慰霊碑の前で想像的に感じる戦死した人びとの視線。

直接の関係はもちろんありませんが、
僕の中で2つの視線が出会ったことについて、
なにか「道をつける」ことができればと思っています。


 × × ×

4/14 追記

「今ここにいない人」の視線を感じること。
それは、視線を感じる自分が「今」に疑問を持っているからではないか。
自分のしていることや、自分の考えていることに対しての疑問。

それは、「そばにいる人」の視線が引き起こすものとは異なります。
目を見れば、あるいは見ずとも自分にちくちくと刺さるそれを感じることで、
彼(彼女)が何を訴えかけているのかを判断することができます。
その視線は自分に疑問を持っているかもしれず、自分を後押ししているかもしれない。
ただ、この場合の前者の「疑問」は、疑問の対象が明確になっていると考えられる。
積極的な疑問、と言ってもよいでしょう。
自分の態度に対して「こうした方がいいんじゃない?」とか、
自分の行動に対して「なんでそんなことするの?」とか、
指示内容が明確、またはそれが不明でも彼(彼女)の気持ちは明らかなのです。
その気持ちが分からない場合は、単に気付いていないというだけのことです。

一方の、「今ここにいない人」の視線に触発される疑問について、
こちらは消極的な疑問と表現してみます。
現状の何がしかに対する疑問があり、
それは自信のなさの表れかもしれませんが、
疑問そのものが解決策を提示してくれることはありません。
(解決策を思いつくのは、この疑問を一度飲み込んでからのことです)
何かを明らかにする疑問、あるいは明らかな事柄が付随する疑問ではなく、
つまりこの反対を考えればよいのですが、
何かを不明確にする疑問、あるいは明らかな事柄が付随しない疑問。
この疑問は、人を不安に、不安定にさせます。

ただ、不安な、不安定な状態を人は本能的に避けようとしますが、
意思(思考)がそれを求めることはあります。
これは動物の中で理性を持つ人間だけができることです。


消極的な疑問は、積極的な変化を呼び込む、と考えることもできます

上に比較で書いた積極的な疑問に対応するのは、やはり反対の消極的な変化ですが、
変化が消極的と書く意味は「変わった後の状態が限定されている」点にあります。
疑問の指示内容であれ、疑問を発する人の感情であれ、
明確に提示されたものがあれば、疑問を受ける側はそれに従う以外にありません。
(もちろん受け付けた疑問をシンプルに解消したい場合は、ですが)

と書けばもうお分かりと思いますが、積極的な変化とは、
「変わった後の状態を自分で模索しなければならない」ことを意味します


現状から変わらなければいけない。
ただ、どう変わればよいかは分からない。
このような答えが簡単に導けない疑問に囚われると、不安になる。
けれど、どうしたらよいかが分からないのはたぶん頭の方で、
身体の方は、身体が望む状態をきっと知っている。
変化を欲する身体が頭に訴えかけることが、疑問が漠然としている理由だ。
自分の身体が「変わった後の状態」を知っているのなら、
それを聴けるのは自分しかいない。

と、頭が判断するところから、積極的な変化が始まるのです。

死者の視線を感じることは、その契機となります。
そして本質的には、死者との対話を始める必要条件は「孤独」です。

書斎のわたしの机から見えるところに本棚が幾つもある。その一つには古い文庫ばかりが並んでいて、それはすべて、遠い過去に死んだ人たちによって書かれたものだ。だが、頁をめくると、そこには、いま生きている、どんな人間が話す、書くことばより、明瞭で、寛容で、静謐なものに満ちていることを、わたしはよく知っている。

なにかを知りたいとき、誰かの声を、心の底から聞きたいと思ったとき、わたしは、生きている人間よりも、その本の中で、いまも静かに語りかけている彼らの声を聞きたいと思う。だとするなら、わたしにとって、ほんとうに「生きている」のは、どちらの声なのだろうか

同上