human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

半直線的人生、無人島レコード、媒介関数の発見

 人間の人生が半永久的に長くなった今、人は現実というものをどう捉えて良いのか、迷っているように僕には思える。たとえば、数十年しか生きられないとわかっている人生ならば、自分ができることと、とてもできそうにないことがかなり明確に判別できただろう。できない理由の多くが、生きている時間に起因しているからだ。その場合、疑似体験が手軽にできるこうしたバーチャル・リアリティが価値を持つ。偽物とわかっていても、それらしい時間を過ごせるからだ。しかし、いずれ自分にそれができるという無限の可能性を持っている者には、最初から興醒めでしかない。カタログを眺めるように、選択のための資料としての価値しかない。カタログは商品ではない。カタログが欲しいわけではなく、商品を手にする未来を見ている。その未来は、今は無限に広くなり、逆に霞んでしまったように思える。大勢が、霧の中で迷っているはずだ。

森博嗣『デボラ、眠っているのか?』講談社タイガ

無人島レコード」というのは「無人島に持ってゆくとしたらどんなCDを持ってゆきますか? 一枚だけ選んでください」という趣向のアンケートである。
(…)
[大瀧詠一]師匠は「レコード・リサーチ」という書物を選んだ(「無人島レコード」で本を選んだのは師匠だけである)。
これは『ビルボード』のチャートとチャートインしたアーティストごとにシングルのデータをまとめたもの。
その中の1962年から66年までがあればよいと師匠はおっしゃっている。
「あれさえあればいいんですよ。(…)その4年間くらいなら、ほぼ完璧だと思うんだよね。全曲思い出せるんだよ。その時期のチャートがあれば、いくらでも再生できるからね。自分で。死ぬまで退屈しないと思うんだけどね。次から次へと出てくるヒットチャートをアタマの中で鳴らしながら一生暮らす、と。」
これはすごい。
師匠の記憶力がすごいということではない(ことでもあるが)。
音楽というのは「記憶しよう」という努力によって記憶されるものではなく、「音楽を受け容れる構え」を取っている人間の細胞の中に浸潤して、そこに完全なかたちで記憶される。
本人がそれを記憶していることさえ忘れていても、「スイッチ」(師匠の場合は「レコード・リサーチ」)を入れると完全に再現される。

blog.tatsuru.com

 × × ×

関数と集合を想定してみる。

二変数の座標平面。
各変数をそれぞれ2つの不等号で挟めば、矩形状の閉曲線が指定される。
その閉曲線に囲まれた者たちの集合を、関数の集合とする。
高次関数で表せば、例えば" x^2+y^2=a(定数) "が円であるように、単式で集合を表現できる。

二変数を、人のある性質、志向と考える。
(二つあることにあまり意味はないかもしれない、つまり閉曲線が二次元であることからの要請が、一でも三でもない理由かもしれない)
一人の人間は、二変数に代入可能な2つの定数をもつ。
このとき、上述した特定の集合に含まれる人々は、ある共通の、少なくともいくつかの視点で似通った、性質や志向を持つ。
その集合から外れた、定点が閉曲線の外に位置する人間は、一見、その集合との関係が想定されない。
その集合内の人々との関係が発生しない、または同じ時空にいながら別の世界に住んでいる、ように見える。

ところで、人の性質を示す二変数は、実は別の座標平面における関数でもある。
つまり、ある座標平面上で特定の集合から外れたりそれに含まれたりする定点は、別の座標平面上では直線だったり閉曲線だったりする。
後者を媒介平面と呼ぶとすれば、媒介平面は座標平面と比較して、極めて複雑な構成を持つ。
閉曲線に含まれるかそうでないかという二項で判断されていた座標平面上の定点(これは質点すなわち零次元である)としての人は、媒介平面では二次元的な広がりを見せ、他者である無数の曲線・閉曲線と縦横無尽に交錯する*1

人の性質・志向を分析するフィールドとして、一般的な選択肢は座標平面しかない。
媒介平面は選択されない、端的に、複雑怪奇で言語化不可能がゆえ。

だが、「それ」は存在する。
存在を感知する者には、そのメカニズムを説明できないながらも、座標平面上では観測できない重なりを見ることができる。
共通点のあるはずもない人々の、あるいは人と物の、関係を透視することができる。


 無から有は生まれない、
 しかし、
 有は有からのみでなく、
 「無と有のあいだ」
 からも生み出すことができる。

 

*1:たとえば、こういうイメージ↓でしょうか。

f:id:cheechoff:20181210145419j:plain