家事の記録とプロセス志向/染み付いた価値観を検閲する内省
今日は衣類の整理と和室の掃除をしました。
衣類は引っ越し後から最低限のものだけ引っ張り出してあとは段ボールそのままの状態だったのですが、手を付けられなかったのは物事の順番があるからで、計画的行動というものをしないで目についたことや思いついたことから始めてしまうというのがその順番の意味なんですが、それは衣類をしまうタンスの修理を先にやっていたからですね。
木製の引き出しを1つ、板切れに分解された状態からボンドでくっつけたりしていたので時間がかかっていたのでした。
(タンス修理については別の記事で詳しく書きます)
タンスの全体がまともに使える状態になって、今日の午前中にようやく衣類を全部しまって本類以外の段ボールをかたすことができました。
掃除やちょっとしたDIYについていちいち記録をつけることは2日前まで考えていなかったので何をいつやったかが既に記憶の底に追いやられつつあります。
その2日前というのはタンス修理をしていた時で、タンスの状況を把握していくうちに作業が大掛かりになってくると分かって、昔の自分の感覚(学生時代や社会人になって4、5年経つまでの頃)なら「こんな面倒なことやるのは時間がもったいないから(引き出しが1つ使えないだけだし)今のままで使えばいい」と状況が判明した段階で見切りをつけるところですが、今の僕は「いや、こいつをじっくり直すことが『丁寧に生活する』ということだろう」と思い直せて、時間を惜しまず修理の作業の1つ1つを噛みしめるように進めました。
その作業の記録をつけることは、丁寧に仕事を進めることと繋がります。
修理をキレイに仕上げるというわけではなくて(もちろんそれは理想ですが)、手を付ける前にこういう状況があって、それを改善すべくこのような方法が考えられて、その見当を実行した結果こうなった、というプロセスの一つひとつを言葉や写真で表現することをここでは「記録」と呼んでいますが、この記録をつけることは、自分が何をやったかが残るという以上に、「記録に残せるくらいの神経(注意)をそれらの作業に割く」ことを可能にしてくれることに意味があります。
こう書いてみて思い浮かぶのは森博嗣氏のエッセイ(鉄道模型関係)と、村上春樹氏の小説の主人公の特性である「内省的に生きること」(タイトルが今出てきませんが、メイとジューンという二人の娼婦、アメとユキという不思議な母娘が出てくる小説では主人公の「内省的に生きることをモットーとしている」といった発言があります)です。
特に後者の「内省的に生きる」というモットーを持つことは、一人で孤独を噛みしめながら生活するうえで必須の条件のように思います。
必須というよりは「孤独」と「内省」の相性が絶妙に良いということで、互いに相手を引き寄せるところがあり、敢えてその引力に反目すると、均衡が崩れてしまう。
内省が伴わない孤独に彼は苛まれ、孤独を嫌いながら内省を弄ぶ彼の周りからは人が離れていく。
その均衡が崩れることで、他者を本気で求めていくことになります。
話を戻しまして、「丁寧に生活する」ことをこれから実践していくことが大事だと僕は考えていますが、そう考える以前の、僕自身が当たり前としていてそのこと自体をあらためて問うことのなかった価値観について書いておきます。
昨日は夜にプールに行く前に、下着の綻びを糸と針で縫って直しました。
下着はユニクロか無印で買ったもので、綻び以外にも生地の編み目が薄くなったりしていてそう長くはもたないくらい古いのが見てわかる。
例えばこの修理に30分かかったとして、これを時給1000円の労働と比較換算すれば、古い下着を修理する間に500円を得ることができる。
500円あれば新しい下着が1枚買える。
ということは、古い下着を修理するよりもそれをさっさと捨てて新しい下着を購入した方が費用対効果が高い。
この論理は時給換算の細かい値を気にしなければ正しいのですが、どう正しいかといえば、「市場主義的に」正しい。
お金以外の価値の尺度を捨象すれば正しい。
ここで捨象されたものは、商品がうずたかく積まれた店で欲しいものを選ぶ行為の意味、今自分の手元にあるものをできるだけ長く使うことの意味、などです。
自分の行動を卑近な例で金額換算する癖は小さい頃から染み付いていて、高校生の頃は吉野家の牛丼が1杯280円、マクドのハンバーガが1個68円だったりして(昼食にハンバーガを5個食べて「安い安い!」と大喜びしていたこともありました)、ちょっと高い店で外食しようものなら「これ食べたら牛丼が何杯食える、夕食何日分になる…」という計算を当たり前のようにしていました。
大学生になって自炊するようになっても同じ癖が出て、業務スーパーで単価の安い(大量の)食材を買って、使い切れずに腐らせたりもしました。
「質より量」と言えばわかりやすく見えて実は表現が穏当になってしまっていて、本当はもっと酷いことだったと思います。
つまり今の自分はその当時の自分(の価値観の一部)を「酷い」と思えるということです。
この癖は今でも抜けませんが、内省的であれば「ああ、またか」と自分をたしなめることができるし、衝動的に癖に従って消費してしまった時には「なぜこのような行動を取ったか」とその消費行為をした時の状況を含めて分析することもできます。
また内省の話になっていますが、そうか、孤独とはまた別に、内省的な生活は今の自分が求めるべきものだったのですね。
× × ×
話が散漫になってしまいましたが、最初に書こうとしたのは「掃除やちょっとした日曜大工のこと」でした。
上に書いたように、詳しく書いておきたいと思ったのはタンス修理の他に、トイレのドア修理ですかね、今のところ(これらの作業は写真もたくさん撮っています)。
忘れないうちに近々書こうと思います。
今日は掃除ばかりで外を歩かなかったので、プールの前に久しぶりにランニングしようと思います。