human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

「プランBのない"現代"」について

本記事は長いです。これまでで最長で、引用合わせて約4000字。

 自民党参議院選挙で大敗して、安倍晋三が「辞めない」と言い出したら、作詞家の阿久悠さんが死んでしまった。なんだか「じんわりと来るショック」だった。「ああそうか、”現代の日本語”は、一九八〇年代の初めに死んでいたのか」と思った。
 私が「安倍晋三には関心がない」と言うのは、あまりにも言うことが空々しくて、しかもきっぱりと断定してしまっているからだ。断定が先で、先に断定されてしまっているから、その後の「説明」が続かない。(…)「説明」抜きで、当人の中では「結論の断定」が成り立っている。である以上、「断定の後の説明」は、あってもなくてもいい。だから、「説明にならない説明」が罷り通っている。*1
橋本治『明日は昨日の風が吹く ああでもなくこうでもなく インデックス版』p.151-152
以下太字は書中の傍点部、下線は引用者

凄い文章で始まっているが、ハシモト氏の頭の中では話が繋がっている。
偶然の出来事を「象徴」として再構成するのは、紛れなく創造だと思う。
氏の文章の全部は、意味は「ある」のではなく「生み出す」ものと語る。
『ああでもなくこうでもなく』シリーズでは社会批評が創造されている。

阿久悠の時代」は一九八〇年代の前半までで、それは阿久悠が不振に陥ったのではなくて、日本人が各自バラバラになにかを求め始めた時代の到来のせいだと思う。バブル経済によって日本人のメンタリティが変わったのではなくて、それ以前に日本人は、バブル経済を受け入れるように、自分達の形を変えてしまっていたんだろうなと思う。
 一九八〇年代の初めに、日本人は既に「他人となにかを共有する」という習慣を失いかけていた。後は「個々人バラバラの時代」で、「同じようなものを求める人間達がマスで存在する」という、新しい段階がやって来る。「自分はこう思ってるんだから、これでいいじゃない」という断定が初めにある。たとえその断定が「なんとなく」であったとしても、「断定」は断定であるがゆえに強い。その強さが、「他に対する説明の必要」を排除してしまう。「断定」で、行けるところまで行って、それが通用しなくなると、「自分のこと」であるにもかかわらず、「分からない」の思考停止に陥ってしまう。それは、「どう説明したらいいか分からない」ではなくて、自分の確信──あるいは根拠なき断定が初めにあって、「説明する」をなおざりにしていた結果だろうと思う
 安倍晋三の「初めに断定ありき、説明なし」は、実は日本人一般の風潮にもなりかかっていて、そうであるからこそ当の「辞めない総理大臣」は、「自分のどこがいけないんだ?」と思っているのだろう。*1
同上 p.153-154

僕が生まれたのは八〇年代後半で、その前から「消費主義社会」が始まっていた。
阿久悠もテレビでその名前を聞いたことがあっただけで、全く身近ではなかった。
「個々人バラバラの時代」に生まれ育った僕は、それが当然で普通だとまず思う。
その「普通」は、歴史を自分の身に引き寄せて考えるまで「普通」であり続けた。

 一言で言うと、とっても簡単です。この人が最初に出て来た時から、私はある二文字を思っていた。(それは、あなたの思うハ行の濁音で始まる二文字です)しかし、「いくらなんでも日本を代表する総理大臣を、なんの根拠もなくそんな二文字でくくれないしなァ」と思っていた。なんか知らないけど、私には「安倍晋三を直視したくない気持ち」があって、「安倍晋三を二文字でくくってしまう論拠」も発見しにくかった。それで「関心がない」にしといたんだけど、「参院選挙の大敗」くらいの頃から「直視せざるをえないような状況」にこの人がいたんで、なんか直視をしてしまった。「分かるような気がする、分かるような気がする」と思っていて、先月の原稿を書く時には、ついに答が出て来なかった。書き終わった次の日になって、「あ、これか」と思った。それがつまり、「プランBのない男」である。*2
同上 p.154-155

この「直視したくない気持ち」のところを読んで、すごく共感してしまった。
ハシモト氏の文章は第一次安倍内閣の時のものだが、今は第二次内閣である。
表層は変わっても本質は何も変わってはいない、と考えるのが自然だと思う。
あるいは、与野党の状況が変わっても総理本人は何も変わらないだろう、と。

アメリカの映画製作プロダクションに「プランB」というのがあって、「あ、そういう名前の会社すらあるんだなァ」と思っていたことが、うっかり口に出てしまった。向こうの映画を見ていると「プランB」という単語が出て来ることが多い(…)『プラダを着た悪魔』でメリル・ストリープの演じる「女性誌の超ワンマン編集長」は、「考えることは全部考え抜いた末にプランBはない」ということになっている存在で、そういう人は、日本にはあんまりいないだろう。普通、頭のいい人は、事を行おうとするのに際して、プランBかプランCくらいまでは考えておく──と思う
(…)
 それで、安倍晋三なんだけども、参議院選挙での大敗以来を、そう思って考えてみると、まさしく「プランBのない男」だったので、うなってしまった。(…)「私が負けるはずはない」のプランAだけでいた。「負けたら──」のプランBがない。だから、選挙結果で「惨敗」になっても、「続投します」を平気で言っちゃう。(…)行きっ放しで壁にぶつかって、それでそのまんまの「プランBはなし」──この人を「無責任」と言ってもしょうがない。ただ「プランB」がないだけの一直線男なんだから。
 この人の「プランBがない」は、独善的とかなんとかっていうんじゃないね。安倍晋三を「プランBがない男」と思った瞬間、「ああ、この人は時代の子だったんだなァ」と思った
 この人の「プランB」のなさは、「検討に検討を重ね、プランAを詰めに詰めたんだから、プランBの必要があるはずはない」という種類のものですね。*2
同上 p.155-156

「自分の中の見たくない部分」がその人の顔に強調されて顕れていた、のだった。
みんなオウム真理教を他人事のように見ていた、とかつて村上春樹が書いていた*3
構造は、あるいは問題の枠組みは同じだと思う。
「抑圧したものは後に、別の形でそれと気付かずにやってくる」*4

日本の政治に有権者として参加する形式は、投票だけではない。
思い通りの結果にならないことを嘆くだけの投票に実りはない。
「ワーストを選ばない投票」でも、政治の現状が知れれば十分意味はある。
今何が起こっているかを理解すれば、必要な時に必要な行動がとれるはず。

ちゃんと「考えて」いれば、現代の最新を追う必要はない。

 何年もの間、私は「現代の日本」なんかにロクに焦点を合わせちゃいない。「関係ない」と思っている。私の本籍は「十二世紀の日本」というところで、そんなところの権力中枢のあり方に焦点を合わせ続けてたら、とてもじゃないが、現代になんか焦点を合わせられない。
(…)
私が知っているデータは、「現代のもの」ではなくて、「古代のもの」だから、「そうか、こういう根っこがああいう現実につながるのか」と思い、「こういう現実が”なんかへんだ”と思っていたことの根拠は、その過去にちゃんとあったか」という理解の仕方をする。
(…)
「現代」って言うと、「現代」だけで見る。だから「情報収集」ということをする。しかも「現時点での最新」で、そうじゃなきゃ正確に未来がシミュレイト出来ないという風に思われるけど、実は、そんな風に全地球規模で、現代が限定されちまっているということの方が問題だ*5


なんとも長々とした引用を続けてしまいました。
最初は「プランBのない男」の部分だけ引用して何か書こうと思っていた。
そのことを、それを読んだ2週間前くらいからずっとぐずぐず思っていた。
そして今日やっと書こうと思ったら、いろんなものがくっついてきた。

なぜ今日書こうと思ったかといえば、多分「朝日」が昨日で最後だったからです。
現在進行形のニュースを追わないという「決意表明」をしたかったのかもしれない。
自分の内の変化を、自分なりに考えて言葉にしていく。
考えることが「切実になる」のは、まずそこからではないかと思います

*1:【二〇〇七年八月 六の九[源平歌合戦]437】

*2:【二〇〇七年十月 六の十一[プランBのない男]447】

*3:アンダーグラウンド』。確かこの本の社会批評的なあとがきに書いてあったはずですが(あとがきのタイトルは「目じるしのない悪夢」)、メインは地下鉄サリン事件被害者のインタビュ集です。本記事の内容と直接関係しませんが、今年の夏に本書を読んで書いたことをリンクしておきます。

*4:たぶんフロイトです。ウチダ氏のブログに何度も書いてあったのをこう記憶しています。

*5:【二〇〇六年六・七月 五の二十四[「現代」と思われる現代と、急速に失われて行く「現代」]373】