human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

積極的な虚無について

「死ぬ気で頑張る」といいます。
これを言う状況は、言う本人にしろ相手にしろ、冷静でありません。
しかしその状況から離れて冷静に考えると、妙な気分になります。
掘り下げると、何か出てくるでしょうか。

言葉を補えば「死ぬ気で頑張らないとヤバい」等でしょう。
「ヤバい」=「死ぬ」だとすると、同語反復で無意味です。
もしそれが本当なら、この無駄な発言は当人を死に一歩近づけます。
もちろん誇張表現なのですが、少し視点を変えてみます。

「死ぬ気でする」とはよく言うが、「死ぬ気でしない」とは言わない。
多大な、限界出力のエネルギーは、行動に注がれるものという前提がある。
一方で、「死ぬ気で」という副詞(?)は、酷いつらさの表現でもある。
この「つらさ」は、本当だろうかと思う。

単純につらさを比べるなら、僕は「死ぬ気で何かをする」よりも、
「死ぬ気で何もしない」方が大きいような気がします。
「死ぬ気で何かをする」ならば、「死ぬ気」は紛れるからです。
するとこの発言は、実際に行動している当人によるものではないと気がつく。

別の人が、必死に行動している人を形容して言う。
あるいは本人が、「死ぬ気で何かをする」前か後かに、自分を表現する。
本人がまさにその最中の時は、とても言葉にする余裕はないのです。
さて、それでは「死ぬ気で何もしない」とは、何なのでしょうか。

例えば、ハンガーストライキを思い浮かべます。
あれは「死ぬ気で食べない」ですが、行動ではあり、政治的な意味がある。
すると、飢餓による衰弱死が近いでしょうか。
しかしこれは、本人の意志によるものではない。

「死ぬ気で何もしない」と言わないのは、実例がないからでしょうか。
想像もできない、馬鹿げたことだからでしょうか。
しかし僕は、もしこの言葉を実感のままに発する人がいるとすれば、
その当人は、なにか救い難い状況にあるのだろうと思う。

たぶんそれは、「何もしないことが何かのためになる」の究極の形です。