human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

一を知ること、集団について

小林 子供が一というのを知るのはいつとかを書いておられましたね。
岡 自然数の一を知るのは大体生後十八ヵ月と言ってよいと思います。それまで無意味に笑っていたのが、それを境にしてにこにこ笑うようになる。つまり肉体の振動ではなくなるのですね。そういう時期がある。そこで一という数学的な観念と思われるものを体得する。
(…)
岡 (…)しかし数学者は、あるかないかわからないような、架空のものとして数体系を取り扱っているのではありません。自分にはわかりませんが、内容をもって取り扱っているのです。そのときの一というものの内容は、生後十八ヵ月の体得が占めているのじゃないか。一がよくわかるようにするには、だから全身運動ということをはぶけないと思います
小林 なるほど。おもしろいことだな。
岡 私がいま立ちあがりますね。そうすると全身四百幾らの筋肉がとっさに統一的に働くのです。そういうのが一というものです。(…)一の中に全体があると見ています、あとは言えないのです。個人の個というのも、そういう意味のものでしょう。個人、個性というその個には一つのまとまった全体の一という意味が確かにありますね
小林 それは一ですね。
「一」という観念 p.103-105(小林秀雄岡潔『人間の建設』)


「個人が集団に"含まれる"感覚」について考えます。
以下の2通りの表現を考えます。

 (1)集団と一つになる
 (2)集団に埋没する

漠然といえば、前者がポジティブな、後者がネガティブな印象を与える表現です。

自分と他人を分け隔てるものは境界です。
(1)も(2)も、その境界が薄くなる、またはなくなる(もちろん主観的に)ことを意味として含んでいます。
いや、そもそも、これらは同じ現象に対する捉え方が違います。

集団の構成員が共通の決まった行動を取ることによる一体感があります。
この一体感の効果は、その共通行動さえ取っていれば他は考えなくてよいことです。
このとき、主観的に個の境界が薄くなる(なくなる)と感じるかもしれませんが、
それとは別に、個に閉じこもることもできます。
必要最低限の行動に気を遣えば、残りの感覚は遮断しても一体感が得られる。
つまり、このとき個の境界が強固になるとも言える。
この状況を表現する言葉は、(2)だと思います。

あるいは、一体感という現象に「感覚の広がり」が伴うことがあります。
自分の動きが、集団の動きとリンクしているように感じる。
集団の他の構成員の考えていることが手に取るようにわかる。
これも、限定された共通行動を取っていれば上記と同様かもしれませんが、
そうではない、もっと自由度の高い、「ゆるい一体感」を考えてみます。
厳格な統制がとられているわけではないが、自分のすべきことがわかる。
他人がしようとしていること、求めていることがわかる。
これは、(五感、共感覚の)感度を敏感にしてこそ得られる感覚です。
この状況を表現する言葉は、(1)が近いのではないかと思います。

境界には機能があり、境界が取っ払われるとその効果が失くなります。
上記の2つが消失させる境界の効果は、それぞれ以下の通りです。

 (1)→感覚を遮断する効果(がいらなくなる)
 (2)→個を守る効果(がいらなくなる)

この2つは次数が違う(抽象度として並列ではない)ような気もしますが、
あるいはどちらか一方が他方に含まれているかもしれませんが、
互いに同じ現象を意味付けられると思います。

 × × ×

何が言いたかったのか?

僕は集団が嫌いだと何度か書いてきましたが、
それは魅力的な集団に属した経験がないからだ…と断言はできませんが、
(その良質な経験を非現実として記憶の闇に葬り去る必要に駆られた結果かもしれません)
決して本質的に集団を嫌悪しているわけではなく、
「自分がそこにいたいと思う集団」もきっとあるのだろう、と思ったのでした。

そしてその集団とは、どちらかといえば(1)で(所属を)表現できるような集団だ、と。
(もちろん(1)と(2)はゼロサムではないので「どちらかといえば」という但し書きが重要です)

 × × ×

なぜ抜粋からこんなことを書いたのでしょう?

「個性というその個には一つのまとまった全体の一」(@岡潔)であること。

自分が集団に属するという時に、
「自分は全体に含まれる」とだけ考えるな、
「自分の中にも全体が含まれている」ことの自覚をもっておけ

ということでしょうか。

つまり、境界とは人為的なものである、と。