human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

「女性的」な魅力について

女がどうして、自分とは異質な同性の存在を認めながらも、その内面に深く立ち入ってものを考えたりしないのかということの根本は、これだと思う。「考えたってしょうがない」と。
 なぜ「考えたってしょうがない」のかというと、まともな女が、”安定した自分”というものをつかまえるのに一生懸命だからである。「ひたむき」という言葉を使ってもいい。だから、女の”まとも”の中心は、その行動論理にある。女の魅力は、時に平然と混入されるその”メチャクチャ”もまぜて、ただひたすらその”行動”にある。はっきり言って、女のイマジネーションというものは、たいしたものじゃない。きっとタタリはあるだろうが、ホントだ。
「女のオタク<表>」(橋本治『絶滅女類図鑑』)

これは恐ろしい本の、特に恐ろしい章の中の"比較的まし"な部分の抜粋です。
きっとハシモト氏は存分にタタリを受けたはずで、
しかし呪いの藁人形に釘を打ち込んだ女はここで抜粋した女ではない。
けれど男は、"行動"の魅力を論理で分からせてくれるこの章に感動できる。

ここで書かれた「魅力的な女」がいなくなったのは、社会が変わったから。
難しいことを考えずに生きるのが無謀になってしまったからですね。
自由だが非寛容な社会は、障害物がなく見晴らしのよい地雷原のようなもの。
誰かが地雷を踏んでも、木っ端微塵になるからやはり見晴らしはよいままです。

話をがらりと変えて、抜粋を読んで「若者(男)の女性化」を考えました。
これは現代の男性が現代の女性に感覚として近くなった、という意味では正しい。
つまり共時的かつ相対的には真。
けれど本質は、現代の女性が男性的にならざるを得ない点にあります。

ハシモト氏のタタリを引き継ぐ勢いで言えば、「女が考えると男に近づく」。
巷に溢れる情報を、何の不安もなく流せる(スルーできる)人は少ない。
女性が男性と同じように社会人となることに付随する、これは必然です。
しかし過去に確固としてあった魅力が、魅力でなくなるわけではない。

主夫志望の男性は、この魅力を求めているのかもしれない。
これは、相手に求めていた魅力を自分が纏う、という話ではない。
主婦が夫でなく家庭に安んじるように、主夫も家の安らぎを求めている。
高キャリアの女性がその伴侶となるなら、生物学的性差からして非効率ではある。

そして当然ですが、「家庭的なもの」と効率性は相反するものです。
非効率への回帰は非効率的な行動をもって為すというこれは好例なのでしょう。
どこかで「考えたってしょうがない」と思うことになるのだと思います。
けれど僕は、そこに達するまでに、とても深い思索を要するように思うのです。

そしてその思索の「必要性」は、漫然とした日常生活からは出てきません。