human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

「視野の広い必然」について(後)

最近自分の指した将棋をよく忘れるんです。今まで九〇〇局以上は指しているんですが、それまでは大体覚えていたのが、ここ数年は一ヵ月くらい前の将棋でも忘れていることがあるんです。でも、なるべくいい方に考えて、忘れればそこにスペースができて、そこから新しい発想が生まれるんじゃないかと思って、むしろ忘れるのはいい傾向なんじゃないかと考えているんです。
「忘れることから、新しい発想が熟成される」p.113


たぶん、これは平尾さんも感じていることだと思うんですが、自分の中のもう一人の自分の方が、今の自分よりも大きくて強い存在だと思います。客観的に自分を見ていて、なおかつ冷静な判断ができる。だから、もう考えられることはすべてやり尽くしたとか、最後の最後にどちらを選ぶというときに、もう一人の自分に判断を委ねるのはむしろ当然のことだという気持ちはあります。
「もう一人の自分に判断を委ねる」p.114-115


羽生善治『簡単に、単純に考える』

別の場所の抜粋を組み合わせる時点で、もう自分の解釈が入っていることが分かる。
前の抜粋も、下線を引くならふつうは後半だろうな、と思います。
自分の解釈が入るのはもちろん自分に引き寄せた文脈に使うからで、
それと「自分のこと」も一緒にしっかり書ければ、多くの人に通じる話になり得る。

と思ってはいますが、なかなか上手くいかないのは集中力がないからでしょう。
長考して一つのテーマに沿ったストーリを組み立てて…ということができない。
仕事中と寮にいる時間とで完全に切り替わるのですが、それは短所にもなる。
というのは、AとBの相互切り替えでなく、Bの切り替え先がCになっているのです。

つまり今日の仕事(A)→帰宅(B)→明日の仕事(C≠A)→帰宅(D≠B)というイメージ。
もちろん本当に記憶が全て飛んでいれば仕事ができるはずはなくて、例えば、
内容は頭に残るがモードがすっぱり切り替わるので、内容の解釈もがらりと変わる。
そして仕事に解釈の余地はない一方で、日常の思考は解釈の余地「しか」ない。

まあ、なかなか分かりやすい文章にならないというただの言い訳です。さて。


前回の最後に書いた「もう一人の自分」が、後の抜粋に出てきます。
可能性を考え抜いても選択肢が複数残った場合の決め手となる、勘、でしょうか。
その勘の源は、これまでの多くの未整理(または整理済み)の経験だと思われます。
羽生氏はこの「もう一人の自分」への信頼を確固として持っているようです。

たぶん、自分のことはよく分かっているなどと思うと、こうはならない気がします。
「もう一人の自分」は、(いつもの)自分の把握からは遠いところにいる。
それを認識しつつ、それでもその未知なる「もう一人の自分」をなぜ信頼できるか。
抜粋の前半部が、その理由の一つとして考えられるのでは、と思います。

一時は確かに自分が全身全霊をかけて取り組んだことを、時が経つと忘れている。
それは、その経験が自分から「もう一人の自分」へ手渡されたということではないか。
その経験が、頭の中で再現できる記憶とは異なる、何かしらの変化を遂げて。
「それ」を必要な場面で活用できるのは「もう一人の自分」だと、自分は知っている。


僕は、自分の読書経験がそういうふうに変化しているといいなと思いました。
僕は読んだ本の内容を、きっかけなく記憶から取り出すことができません。
そういう機会が日常にないからですが、それは一つの不安を呼び起こしもします。
僕が読んでいる本はどこへ行ってしまったのだろう、と。

もともと何かを得ようと思って読んでいるわけではない、と言って嘘ではありません。
が、暇つぶしという認識は皆無で、読書は趣味ですらなく「生活の一部」です。
ある種の熱意を持って為した行動に対しては、必ず何かが生まれます。
その熱意が本物なら、「それ」が何に役立つかを自分が決める必要はないと思います


余談ですが、最近『分裂病と人類』(中井久夫)という本を読み始めました。
中井氏は鷲田清一鶴見俊輔など、僕が好む多くの著者が本の中で言及していて、
一度読みたいと思っていて、昨年末に偶然実家の父の蔵書にあったのを見つけました。
全ての人が分裂病になりうるという話に始まるのですが、ふとこの本を連想しました。

最初の方で「微分型」と「積分型」という回路に見立てた人の性質の話があります。
微分型の人は物事の起こり(会話相手の喋る前の表情など)に過剰に反応する。
微分回路は入力に対する反応は速いが、鈍い変化や持続的な状況には対応できない。
対して積分型の人は、早急な対応には向かないが過去の経験を総動員してあたれる。

身体的反応の多くは微分回路的だといいます(嗅覚、触覚に実は視覚も)。
分裂病の人は極端に微分型の性質が出てしまっていて正常なやりとりができないらしく、
そしてここからが僕の勝手な解釈ですが、意識の微分的反応は身体の代償ではないかと。
代償とは、身体性を鈍らせる便利な社会は身体の微分的反応の出番がないということ。

そして(いつもの)自分の微分的反応は今の社会である程度せざるを得ないもので、
なんとか物事の表層に振り回されないように冷静にいなければと思うわけですが、
もしかして「もう一人の自分」は積分回路的なのでは、と思ったのです。
かなり大雑把に書きましたが…読み進めて気が向けばあらためて書き直そうと思います。