human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

身体版「無知の知」

通っている北上のジムで、先週からコンペが始まっています。
秋田のジムと合同でやっていて、2週ごとに開催地が入れ替わる。
1戦ごとに、開催中に完登できた指定コースの数・種類に応じてポイントが獲得できる。
それぞれのジムで2戦ずつ、計4戦の総合ポイントを競うというもの。

僕はあと1週間で引っ越しますが、緊張感があるのもいいので参加しています。
一通りさらって今の実力で登れそうなものは大体登りました。
継続トライで慣れによって登れそうなコースが2つ3つ残っていますが、
やる気はそこそこで、第1戦3日目の昨日は大方いつもの壁を登っていました。

人のトライは(自分の試行錯誤が尽きるまでは特にですが)あまり参考にしない。
自分の技術水準とその時の体力と、あとは「どう登りたいか」で登り方を考える。
たとえば今は左手首が本調子でないのでプッシュができず、スローパーもいまいち。
という身体の調子が、万全なら登れる未達コースを生む一方で、新しいアプローチも生む。

あるコンペコースを登った時にオーナー(=コース作成者)に一声かけられました。
なるほどなあ、というニュアンスで「独特のムーブですね」と。
その時感じた嬉しさに、いろいろ考えられそうなものがありました。
まず、コースが要求する最適なアプローチを何度も繰り返して会得する楽しさとは違う。


「生活としてのボルダリング」と題して前に、このように書いた記憶があります。
実際の身体動作と、頭が想像する「こう動けるはず」の身体動作の齟齬を減らす。
これがひいては身体と脳の距離を縮める、「身体性の賦活」の実践である、と。
目的の一つとして今も同じことを思っていますが、それだけではない。

「何かを知る」ことは、「知らないことが増える」ことと同じである。
無知の知という思考の深化、この脳における現象が、身体でも起こる
これは単に「股関節の可動域が広がって、できる動きが増える」ことではない。
いや、違うのではなく、説明が不足している。

できる動きは増えるが、それは「やりたかった動き」だけではない。
「やれるとは思いもしなかった動き」も含まれる。
そして、この表現は動作側が主体になっている点で、まだ不足している。
同じ動作をするにおいて、身体が変われば、その動作に対する感触も変わる。

この認識は、技の深化がレベルアップという単一方向のものではない理解をもたらす


「生活としての」には、「スポーツとしてではない」という含意がある。
スポーツでなければ、何なのか。
これも前に書いたことですが、ボルダリングを武道と結びつけたい思いがあります。
目の前の壁(コース)と、征服対象ではなく、身体との対話相手として関わる
1つのコースが「登ったらおしまい」なら、計算ドリルを解くのと変わらない。
内容と言えるほどの言語化は難しくとも、ドリルよりは本ととらえたい。

「本」と書いて、さっき考えていたことを思い出しました。

ここ最近、ジムにいくごとに自主課題を作成しています。
作成自体は常連みんながやっていますが、僕はコースを紙に書いて毎回残している。
みんなに登ってもらいたいので、その紙を持って帰ろうとは思わない。
でも、たとえばスキャンしてデータ化して持っておけば、面白いかもしれない、と。

壁自体はジムにあるのだから、それ以外の場では本来の機能は果たせません。
でも自分が作ったコースには、自分の身体性が表れている。それも濃厚に。
登壁に関して何か言語化したいという時、自主コース用紙は第一級の資料となるはずです。
そこから、自分の登り方のクセとかよりもっと抽象的なことを導ける予感もあります。

北上のジムに通うのはあと2、3回といったところでしょう。
やるかどうかは気分次第ですね。

自主コース作成、綱渡りの極意、漢方クライマー

手首と指を痛めているが、相変わらず週3で壁を登っている。
その内容が、現状なりに変化している。

左手を突っ張る登り方ができない。
よって、もっぱら引き上げる動作主体になる。
またホールドに飛びつく(ランジ)こともしない。
キャッチ直後に自重が手首にかかって痛むのである。
スラブ、垂直壁のバランス系と、ヒール等足多用の強傾斜が中心となる。

ジムの設定課題は多種多様なので、ムーブ制限から多くは取り組めない。
よって自主課題の作成が多くなる。
これまでその場限りで即席のコースを作ることはあった。
考える時間が増えた最近は、作成コースの完成度にも配慮している。
どういう動きを取り入れるか、特徴的なムーブがあるか。
自分は背が高めなので、ホールドの間隔にも気をつける。

全体的なバランスが取れれば、A4用紙にコース構成ホールドをスケッチする。
各傾斜の壁が背景に描かれた紙が、クリップボードに挟んで置いてあるのだ。
ジム利用者が作り溜めた「課題ファイル」に、自分の作成コースも加える。
他の人がファイルを見て自分が作った課題を登るのを見るのはなかなか楽しい。
自分の想定しなかった登り方を見て勉強にもなる。
こうした過程を経て、コース作成のコツがだんだん分かってくるようである。


昨年暮れだったか、ジムの中央スペースに「ベルト」が設置された。
綱渡り用の平べったいゴムベルトを足場のみの平均台に張ったものだ。
ゴムとはいえ伸びないし強烈に張ってあるが、それでも上下左右に振れる。
ベルトのビヨビヨする撓り方は、ロープとは異なる独特なものである。
設置当初から、腕が疲れた時に休憩がてら渡って遊んでいた。
それが最近は上記理由で、半腰くらいの本腰を入れて取り組んでいる。

数日前にそのベルト渡りの、ちょっとした極意をつかんだ感触があった。
体の振れがほぼ抑えられ、リラックスして渡れるようになった。
このコツを言葉にしてみようと思う。

 まず一言でいえば「体の振れを足もとに伝えない」といったところ。
 体が左右に振れれば、重心をベルトの真上に戻すべく何がしかの動作をとる。
 両手を細々と振る、片足を横に振り上げる、胴体をひねる、等々。
 その動作は大仰にせず、体全体のバランスを崩さないのが肝心である。
 とはいえ最初の重心の振れが大きいと、それを戻す動作も応じて派手になる。
 繊細な動作はバランスを安定させるが、振れた重心を戻す効果も減じるのだ。

 このトレードオフを解決するのが「重心周縁部位による重心回復動作」である。
 …正確を期して仰々しい表現になったがそれはさておく。
 実際的には、上記の手や足を振る動作をベルト支持部に伝えないようにする。
 支持部とは、ベルトに立つ足のこと。
 両足で立つなら左右の足、片足を振り上げているなら他方の側の足である。
 たとえば、胴体と両手を使ってバランスをとりにいくとする。
 そのとき、上はどう動いても腰から下はベルトに対し鉛直の角度を崩さない。
 全身が一本の棒のようにゆらゆら左右に振れるヤジロベエはこの最悪の例である。
 理想は、腰にヒンジが一つ通い、T字の両手と上半身のみが振れるヤジロベエ。
 …いや、理想化しすぎてダメかもしれない。部分的な例としておこう。
 そうか、この例を敷衍して、上半身の振れが下半身で相殺できればいいのかな。

 理論的な表現をしてしまったので、理論的に考えてみる。
 「重心周縁部位」を大きく動かして、重心に近い部分はあまり動かさない。
 なぜなら、バランス制御における閾値が、前者の方が高いからである。 
 前者は大きく動かして微調整が効くが、後者は少しの振れが増幅されてしまう。
 モーメントの問題かな? と思ったが、これは違う。
 近いイメージとしては「地震波の減衰現象」だろうか。
 身体末端の動作は、重心に至るまでにその振れが減じて伝わる。
 …なんだか無機物で喩えると、どれも今一つという感がある。
 
 とにかく「身体の芯はまっすぐ」と意識して重心回復動作を行えばよい

ともあれ、綱渡りスキルがここ最近で顕著に向上したのは確か。
つい昨日には初めて、後ろ向きで最後まで渡ることができた。
他の人がやっているのを見ていると、渡る動作はいろいろあるようだ。
両足をベルトに着けたまま、ズルズルと引きずって進む「ナメクジ渡り」。
両足の位置関係を変えずに、両足同時に踏み切って跳び進む「歌舞伎渡り」。
あくまで体幹向上を主旨として、他の動きもやってみようと思う。

 × × ×

上の左手首の痛みについて、たぶんTFCC損傷です。
指の痛みは右小指関節で、付け根の痛みと「ばね指」の症状が強い。
どちらもそれなり対策をとり始めました。
効果が見られればまた何か書きましょう。

Keywords : 漢方、マッサージ、栄養療法


4/17追

上記のうち、漢方療法の話。
TFCC損傷に対しては疎経活血湯が効いているもよう
服用を始めて3日ですが、症状に改善が見られます。
ばね指には効いていないようです。
TFCC損傷は関節異常で、ばね指は腱の異常らしいのでもっともですが。

なので別の漢方薬を探してみました。
ばね指治療の候補としては当帰四逆加呉茱萸生姜湯温経湯
参考ページは前者が東海大の漢方教室資料、後者が日東医誌の臨床報告↓↓。
クラシエのラインナップにあるので前者から試してみようと思います。

商品に書いてある効能だけでは漢方薬の見極めがきかないようです。
前者の効能は冷え性等、後者は月経不順等。連想も難しい。

一つの漢方薬の効能が多種多様なのは、人体の不思議なしくみの体現ですね。

小指関節と肩の痛み、責任回避推奨社会

登壁と身体の話。

・ブランクがあいてから身体が重い
筋肉云々より体重のせいで、以前登れたコースに歯が立たない。
無理せずやさしめの課題を多くこなしてまずは減量をめざす。

・右小指の関節が痛い
登る課題が難しくなってくると故障の質も変わってくる。
これは一般論で、たぶんこの痛みはこれと関係がない。
小指は実は大切とはいえ、基本的に掴み動作で力が入るのは中の三本指。
なので原因は他にあって、思うに「飛びつき」を無闇にやっていたせい。
やさしめ課題をアレンジしようとしてホールドをとばして飛びつく。
おそらくそのとき手の外側(小指側)からとりつく形になったのだと思う。
上記「無理せず」の言の由、ここにあり。

・左肩が痛い
肩凝りの時に揉む、首との境目のあたり。
凝っているのではなく痛い。
これは日がな読書のせいではなく、これもムーブのせい。
ルーフ3級課題で左手から飛びついた時に、右手が剥がれて左肩に負荷が集中した。
元々飛びつけるガバホールドなので左手指は支障なし。
この痛みは仕方がない。
まだ「飛びつき片手ブラ」に耐えうる肩力が不足しているのかもしれない。
回復を待つ。

 × × ×

『さようなら、ゴジラたち』(加藤典洋)読中。
(SIMは"Moonshadow"(村松健「Blue」)に変更)

「戦後を、戦後以後考える」という章の中。
若者が戦争責任をどう引き受けるかという話題。
加藤氏は「"戦争責任はない"という発言から責任を負っていくべき」という。
子どもは自己のイノセントを承認されて初めて、自分で責任を引き受けていく。
理由などなくとも。
発達障害の子どもの回復例やラカン鏡像段階の説がでてくる。
また、子どもの「人が死ぬ夢」で誰が最も多く夢の中で死ぬか、という話。
なるほどと思い、今の無責任社会との関連を考える。


戦地へ向かう日本人への、「自己責任」発言の嵐。
その嵐に政府の役人すら加担する。
あるいは、責任は負わないに限る、という常識に登録されたかの風潮。
責任を負ったら損だ。
企業の謝罪会見、不祥事を水に流すための役員辞職、議員辞職。
 あるいは「事態の改善を進めていく責任がある」と宣う長の辞職拒否。
 これは責任の意味の散逸(個人的解釈の横行)の例。
責任を負わないことに利得があり、効果があり、すなわち意味がある。
責任を負うことにも、また違った、あるいは同じような、意味がある。

「責任は人からどうこう言われるより先、自分で背負うものである」
ハリボテに堕ちたこの建前はそういえば、上の加藤氏の論と通ずる。


自分には、現代日本は「責任回避を社会が推奨している」ように見える。
その原動力としては本音主義がある。
本音が建前の背中を抜け出て跳梁跋扈するのは高度情報社会の成り行きである。
ツイッターなど。

加藤氏の「個人が自分から責任を引き受けていくプロセス」論を虫食いで取り上げる。
社会に生きる自己と、その内側に胚胎する原・自己。
子どもが見る「人が死ぬ夢」で、最も多く死ぬのは自分自身だという。
 夢で死ぬ自分は自己であり、殺すのは原・自己である。
 原・自己は、社会に適応しようとする自己に反発している。
 起きて「ああ、夢でよかった」と言うのは自己である。
 イノセンスを表白する原・自己を、自己が承認することで解体し、馴致していく。
原・自己が取り残されたまま成長したのが、上で触れた養子の発達障害児の例である。
 生まれて数年で養子となり、新しい親からは別の名前が与えられた男の子。
 彼は精神科医が「原・自己に届くように」元の名前で呼びかけることで回復する。

イノセンスな原・自己を承認されないと、社会性の獲得に支障が生じる。
この社会性とはもちろん、個人が自分から責任を引き受けていくこと、である。
しかしそれは現代「責任回避推奨社会」の社会性とは逆向きである。
これはどう考えればいいのだろう?

原・自己の承認がないまま社会に放り出された若者たちの回帰願望に基づく主張。
その主張は「責任回避推奨社会」の本音側の意に沿い、承認される。
自己は原・自己の安定という土台を得て社会性を身につける、はずが、
その自己が社会で直面するのは、社会が原・自己の欲望で回っている事実。
自分の外に、秘すべきはずの個人の内奥があらわに曝されている社会。
(※「本音の横溢」現象は、それによって承認となるわけではないかもしれない)

生後の原理的なイノセンスが承認されない点に、現代社会の人間に対する無理解がある。
承認されないと思ってしまう、思わざるを得ない、状況がある。
たとえば環境問題。
 自分の生存が地球環境を汚染する。
 人を殺すことがエコになる。自殺然り、望ましくは大量虐殺。
 量的議論なしに建前だけが蔓延すると、論理が、正義が暴走する。
 これは科学の発達途上や限界のせいではなく、科学に対する価値観のせい。
『ハーモニー』(伊藤計劃)では核戦争後に人体が公共物となる健康至上社会が描かれる。
自分の身体に対する「リソース意識」。
これも「イノセンスの非承認」の一形態。

ただ、思うのは、
では昔の社会が人間を理解していたかといえば、そうではないだろうと。
それはたぶん、たまたまなのだ。
道具が発達してしまったから、人間理解に基づいた社会運用が必要になった。
道具、すなわち科学技術。
この「必要」とはしかし、社会が決めることではあるが…

シューズ補修、ジムあれこれ、ムージル読了

ライミングシューズのソールの補修をしました。
足裏に穴が開き、穴はゴムとプラスチックの下地と足裏接触面の布地を貫通していました。
布地部までの穴は直径約1センチ、ゴム部分は直径約2センチほど。
紫波の店に置いてあった補修キットを昨日買い、今日さっそく使いました。

補修自体は二度目で、一度目は市販のゴム用接着剤と下駄の歯のクッション材(ゴム製、一本歯修行時に使っていた余り)を使いましたが、ジムへの復帰後初日で外れてしまいました。

キットはこれで、粉末ゴムと接着剤を練り合わせて、補修部表面にも接着剤を塗って練りゴムを塗り付けるもの。
Amazonレビューに素晴らしい解説があるんですが、作業が終わってから見たので活かせませんでした…次はこれを参考に着実にやります。
(紙ヤスリの話は店でも聞いていたのに忘れていました…)
で、次回のためにレビューのコツ部分を転載しておきます。引用元は上のリンク。下線引用者。

コツは
①しっかり荒い紙やすりでソールを磨いておく
②アルコールで脱脂をする
③ゴム粉末はダマになってるのでボンドを混ぜる前にしっかりほぐしておく
④ソールにはボンドを薄く塗り広げて半乾きの状態にしておく
⑤ゴムとボンドの分量は規定量よりボンドを少し多くして柔らかくしておくと塗りやすい
⑥ソールに乗せていくようにゴムを広げていく。塗り広げようとすると、ガラス棒について来てしまうので難しい。ソールにあらかじめ塗っておいたボンドに乗せていくようにしていくとよい
⑦半乾きになるまで待ち、ガラス棒で潰すようにしながら平らにしていく
⑧表面が乾燥したら指で表面をならしました。

一晩で乾くとキットの説明書にはありますが、店の人は1週間はみておくいいとのことなので(寒いし)、今週はジムではレンタルシューズを使うことにします。
(二足目は足がきつくて6時間ぶっ通しでは履けないので)


そういえば昨日紫波へはいつも通り図書館へ行きましたが、そのついでに盛岡のジム「ストーンセッションズ」へも行きました。
同じく盛岡のワンムーブもそうでしたが北上クラムボンよりは辛口で、五段階レベル(ピンク、水色、赤、グレー、白)の水色で既にかなりきつかった。
(グレーは「もう少しで神」、白は「神レベル」とのこと)
初級のはずのピンクでもホールド間隔が広く、設定コースは小さい子供を想定していないようでした(恐らくシールのないオリジナルコースがあるのでしょう)。
やってる人を見ていて、強傾斜で「ブラ」(ホールドに飛びつく時に足が離れてぶら下がる状態)がとても多いと感じたのも、間隔の広さのせいだと思います。
そして(特に強傾斜で)壁がホールドで埋まっていて隙間がほとんどないのが、クラムボンに慣れているとなかなか威圧感があります。この点は通い甲斐がありそうですが。
そしてジムの手前の部屋がクラブのようになっていて、DJがいて、ジャズをずっと流していました。
ジャズはいいんですが(北上のジムでほんの時たまかかる絶叫ロックよりは)、どうも頭が空っぽになりすぎる気がしましたが…
無音で登るのも僕は構いませんけれどね。
そういえばワンムーブではふつうのFMラジオが流れていました。北上はたぶんドイツあたりのラジオか有線です。

 × × ×

『特性のない男』(R.ムージル)全6巻を先日ようやく読了しました。
感想等は何もありませんが、読み始めてたぶん5ヶ月くらい経ち、ちょうど新年度前ということもあって、一つの節目と考えています。

春には生活に何らかの動きが、見られるはずです。

動く前に四国遍路回想記を書いておきたいところですが(ちょうど1年前のことで、しかし期間どうこうではなく、「前世の記憶」のような遠さがあります)、きっと1週間くらい大沢温泉自炊部にカンヅメだろうと思いつつ、今日はこれから優香苑へ行ってきます。

「ここに重力があるから」

ライミングシューズの二足目↓を買いました。
スポルティバのフューチュラというシューズ。
一足目↓↓は7ヶ月前に手に入れたスカルパのフォースです。
こちらは司書講習が始まる前にジムに通い始め、三度目で購入したもの。

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cheechoff.hatenadiary.jp

最初からだいたい週3で、講習中は3h/day、その後は平均して6h/dayというあたり。
店で一足目を見せた時に「(消耗が)プロ級ですね」と言われました。
ボルダリングを生活に組み込んでひたすら登っていただけのことはあります。
足重視の登壁スタイルも足裏の摩滅に拍車をかけたようです。

フォースの右足裏↓は指先でシューズ内底の生地が露出してしまいました。
まだまだ使えるはずですが、極小の足用ホールド(?)には乗れなさそうです。
こまめに使い分ければ長持ちするようなので、引き続き使っていきます。
というよりフューチュラはきつくて長時間履けないので、しばらくフォースが主力です。

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フューチュラのソール(靴底)はダウントゥのターンインタイプ。
ダウントゥは鉛直方向の形状表現で、つま先が下がって土踏まずが大きく浮く。
ターンインは水平方向の形状表現で、つま先が内側にカーブしている。
一方のフォースはオーソドックスな、フラットのストレートタイプ。

写真が暗いですが、二足を並べる↓とダウントゥの感じがわかると思います。

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left : SCARPA-Force   right : LA SPORTIVA-Futura

店で試し履きをした時に、フューチュラと同じくスポルティバのソリューションと迷いました。
履いた時のきつさが、後者は足の部位に偏りなくフィット感が良かったのです。
その登りやすさも店主のお墨付きでしたが、ソールやヒールが硬い印象がありました。
逆にフューチュラは全体的にやわらかく、足裏感覚もソリューションより繊細でした。

フューチュラは上級者用だと言われ、でもその理由は足使いの微妙な加減ができる点にある。
クライマーの技術を底上げしてくれる機能でいえば、ソリューションの方が高い。
フューチュラはクライマーが「頼る」というより、足捌きを素直に反映するシューズといえる。
ひとしきり悩んだのち、身体性の賦活という登壁思想に従ってフューチュラにしたわけです。

watabotchさんの分析↓によると、両者ともプロのクライマーにけっこう使われているようです。

hiker-hiker.hatenablog.com

 × × ×

今の生活に若干動きが出そうな予感がありつつも、変わらず登り続けています。
「生活としてのボルダリング」は身体への無理もなく定着したようです。
また、機会があれば登りたい「外岩」にも手を出せるレベルになっている気がします。
今後も住むところにジムか外岩がある限り、登り続けることになるでしょう。

ある登山家は、彼の登る理由を問われて「そこに山があるから」と答えた。
ライミングは抽象すれば、なんでもいいから上方に向かって登ることです。
室内壁、ボルダー(外岩)、崖、あるいは木、城壁、マンションの外壁(おっと)、等々。
手近に足場さえあれば、「重力に抗する営み」をすぐにでも始めることができます。

宇宙空間でのボルダリングはきっと楽しくないことを思えば、登る理由は「これ」でしょう。

生活としてのボルダリング

ふと思いつき、ボルダリングのグループに参加してみました。
登壁について言葉にするモチベーションになるかと思います。

hatenablog.com

自分はスポーツとしてよりは、生活として登っています。
また、自分の興味関心との相互作用も念頭に置いています。
今即座に思いつく興味関心としては、身体性の賦活と、武道。
武道との関連は、前↓に一度だけ検討したことがあります。

本記事では身体性の賦活について少し具体的に書きます。

cheechoff.hatenadiary.jp

まず、「身体を鍛える」という考え方をしません。
局所的に負荷を与える筋トレは基本は行わない。
具体的には、道具を使ったトレーニングはしない。
身体一つで行えるストレッチを登る前後にやるだけ。

体幹をはじめ腕力や脚力、指の把持力は登壁のみを通じて向上させる。
木登りやアスレチックを通じて運動能力を獲得していく少年のように。
だから登れるコースの傾向は必然的に偏ってきます。
現状をいえば、強傾斜と「指ガッツリ系」が苦手です。

逆にスラブは、他の壁よりも上級をクリアできる傾向があります。
僕の身体が、上半身より下半身の方が「出来ている」からだと思います。
継続的なスポーツの経験はない一方で、最近の歩き遍路の経験がある。
一本歯下駄で2ヶ月間歩き通して、それなりに鍛えられたはずです。

そのような現状をとりあえず自然状態として、全体的に伸ばして行く。
課題のクリアは、モチベーション向上の一種としてとらえる。
連想的思考の回転を楽しむためにクロスワードを解くようなものです。
懸賞を狙うわけでもなく、もちろん暇潰しではさらさらない。

僕が通う北上のジムでは、ジュニアスクールが週二で行われています。
入門的なベーシックコースと、高レベルのアスリートコース。
子どもは大人より体が小さいので、ジュニア用コースが別途作成されます。
大人では珍しく、毎週コツコツと増えるそのジュニア課題を好んでやっています。

また、コースに関係なくトラバース(横移動)もよくやります。
これをやるのもジュニア課題をやる理由と共通する部分があります。
とにかく、いろんな身体の動かし方をすること
覚えたムーブの活用は二の次で、即興的な登りの自然さを探索する。

もちろんシール付きの既定コースを練習することも必要です。
ジムの人がしっかり考慮したムーブのエッセンスがそこに詰まっている。
ただ僕の考え方としてそれは、どこまでも基礎である。
ムーブがどれほど難しくとも、ムーブ単体は「流れ」を形成するための基礎

といったことを考えながら、岩手の地で登り始めて、はや半年になります。

free dialogue in vivo 3

流れを断ち切らないような動き。
流れは速度とイコールではない。
自然と速くも遅くもなる一連の。
体幹とホールド群間の相互作用。

乗せる足先、踏ん張る脚、弛める股関節。
把持する手先、引き張る腕、支える背中。
末端の連動を安定させるのは中枢の連動。
上下の半身を分断しない流路としての腰。

流れの自然さは傾斜壁でより体感できる。
最低限の固定力が必要な溜めを決定する。
余力を残せるコースで身体に問いかける。
この登りは心地良いか、爽快か、充実か。

free dialogue in vivo 2

動きへの問いを生への問いに結びつける;

脳の先手。
頭が動きを想定し、身体がそれに追従する。
再現できれば良し、違えば問いを立てる。
想定は妥当か?
進路に対しての動き、身体に対しての動き。
進路に適っても、身体が対応し切れなければ再考。
身体がさばけても、進路に対して不自然なら再考。
想定通りに身体が動き、進路を遂げる。
脳と身体の対話がひとつ、立証される;

身体の先手。
動きを頭で想定せずに徒手で進路を行く。
思わぬ失敗と、思わぬ成功。
失敗は納得を呼び、成功は驚きを呼ぶ。
納得は頭の想定を再開させる。
驚きは対話の提案を生む。
元は身体の無言の提案;

身体は無数の提案を成す。
脳はそのごく一部のみ解する。
身体は対話を求めてはいない。
脳は必要最低限で済ませる。
一挙一動を膨大な検討で細分化はできない。
経験と、習慣に基づいた自然が、対話を最小限に留める。
動きの質を変えるには、最小限からかさ上げせねばならない。
同時に細分化で動きの流れを澱ませてはならない。
気にしつつ、気にしない。
脳のダブルバインド
身体はそれを待っている。
脳が主導権を緩める時を;

限界芸術と「身の丈、ありもの生活」

『特性のない男』の三冊目を今日読み終えました。
どの巻も最後の章はとくに思索に富んでいるのですが、
三冊目終章の以下の箇所を読んでいて、鶴見俊輔氏の「限界芸術(論)」を連想しました。

「限界」という単語がそうさせたのでしょうが、
この連想における双方の「限界」の使われ方が違っていて、
それが何か思考を生みそうな気がしました。

ああ、それだけではなく、
引用後半の「世俗の人間として」というのもキーワードでした。

ところで、この兄妹の間で進行していることの手がかりをまだつかめていないような人は、この報告をどうか脇に置かれるように。なぜなら、そういう人には、けっして是認してもらえないような冒険が、この報告には書かれるからである。すなわち、不可能なものや自然に反するものの危険、いや嫌悪の念を起こすものの危険に軽く触れながら、いやときにはそれ以上のことをしながらする、可能なものの限界への旅が、ここで記述されるからである。それは、真理に至るために、時折不条理な数値を利用する数学の自由をしのばせる、制限された特殊な妥当性の「限界のケース」(ウルリヒは、それをその後こう呼んだ)のことである。彼とアガーテは、神に陶酔したものの仕業と多くの点で共通性のある道に踏みこんだのだ。しかし彼らは、敬神の念もなく、神も魂も信じることなしに、もちろんまた彼岸や彼岸での再生さえも信じることなしに、この道に入ったのである。彼らは、世俗の人間として、この道に踏み入り、そして世俗の人間として、この道を歩んだ。そしてこれこそが注目に価することだった。

第2巻第3部 第12章「聖なる会話。波乱にとんだ継続」p.313(R.ムージル『特性のない男Ⅲ』松籟社

鶴見氏のいう限界芸術とは「限りなく芸術に近い、生活から生み出されたもの」です。
芸術性を意図せず、ただ生活を営む中で作られたものが、
審美眼に耐え、あるいはとてつもない美しさを獲得する。
たとえば、シンメトリでない和製陶器とか。
具体的なモノであったり、遊びであったり、その対象はいろいろで、
ちくま学芸文庫の『限界芸術論』にたっぷり書かれていますが、
具体的なところは忘れました。
(「遊び」は、歌留多とか、あるいは影踏みのようなものも含んでいたはずですが、
 これは限界芸術の例ではなく別の著作に書かれていたことかもしれません)

限界芸術における「限界」は、境界のような意味を指しています。
つまり、生活と芸術の境目のギリギリのところに限界芸術がある。
対して引用中の「限界」は、極限の意味をもちます。

極限だってある意味で境界ですが、違うところといえば、
極限にはその先、境界の向こうにあるものが分からないことです。
数学でいう極限、高校では数Ⅲで習う無限大(∞)がそのよい例です。

「限界」が境界と極限の2つの意味を持ち、
その2つは厳密には異なりながら共通した概念領域をもち、
だからこそこれらは同じ言葉で表されているわけですが、
このことが意味することもまたある気がしたのでした。

それを概念的に先に言えば「交換可能性」で、
今回の話では、「境界たる限界」は「極限たる境界」でもあるだろう、と。
この可能性は論理の正しさの水準で問題にされることではなく、
つまり言葉の緻密さではなく曖昧さに機能性を見出すことで生じます。


話を戻しますが、
限界芸術は「芸術に限りなく近いもの」で、
生活と芸術の境目、あと一歩で芸術の域に踏み入る創作物、
生活の必要から生じた「創作の意図のない創作物」ですが、
このような表現はそのまま受け取れば、
限界芸術に芸術へのベクトルを感じてしまいます。
芸術性への意図はないが、芸術に近ければ近いほどよい、というような。
(だからここでいう「ベクトル」は志向のことではありません)

上述の「交換可能性」の具体的なところを考えた時に思ったのは、
鶴見氏の表現の意図もたぶんそうだと思いますが、
限界芸術の「芸術への近さ」は「ある美しさを獲得している」ことしか意味せず、
限界芸術とは芸術とは方向性の異なる創作物である
、と。
つまり、共通の基準で限界芸術と芸術を比較することはできない、または意味がない。

芸術は、ある美しさの極限を追求する。
限界芸術は、芸術とは関係なく、また別の美しさの極限を追求する
「美しさの追求」という性質を持つ言葉が「芸術」以外にあれば、
もしかしたら限界芸術は、これとは異なる表現を得ていたかもしれない。

表現のことはつい思いついて書いただけであまり興味ありませんが、
限界芸術が美しさを追求するのはもちろん生活のなかであって、
僕はこの点に興味というか、魅力というか、当事者感覚をもちます。
「身の丈感覚」の「ありもの工夫(ブリコラージュ)*1」の生活
この全く創作と関係のない必要性に応じる生活が、
これを洗練させれば「ある美しさ」を獲得する可能性をここに見出せるからです。


自分の生活のなかでこのことでなにか具体例が出せるかな、と考えて、
上の必要性を必然性(というか「流れでそうなった」)に言い換えてになりますが、
今の生活の中心軸の一つであるボルダリングを思い浮かべました。
登壁にあまり思考を介在させないようにするために、
これまでボルダリングについて言葉にすることは(初期を除けば)控えていましたが、
まあこれもいい機会なのでちょっとやってみようと思います。

記事が長くなったのでこの話は次にしましょう。

 × × ×

限界芸術論 (ちくま学芸文庫)

限界芸術論 (ちくま学芸文庫)

*1:学術的にはブリコラージュは「器用仕事」ですが、これはカッコに入れて、自分で表現を考えてみました。語呂のよい七字になりました。

崖っぷち系3級クリア

前回↓
cheechoff.hatenadiary.jp

週3で通い、毎回どこかしらでちょっとずつ進歩があります。
進歩と思えない時でも、同じコースで、今までにない動き方をしていたりする。

2週間くらい取り組んでいた、3級(赤)のいちばん簡単そうなコースを、昨日はじめてゴールまでたどり着きました。
人に手本を見せてもらっても体がついて来ず、進歩はじわじわといった感じでしたが、山場を越えるとその後の3手はするっと進めました。
傾斜のいちばんゆるい壁で、両手を離して片足でホールドに立てるところもあるのですが、ホールドの小ささと位置関係によって、可能な限り壁にべったりくっついて手足を動かす場面が2,3手続きます。しかもその中の初手が「両手は何ももたず右足でホールドに乗って右側を向いたまま左足を前(右)に出す」(右足を左側にある壁からなるべく離さずかつその右足と壁の間から左足を抜き出す)というなかなかの体幹を要する動きです。このような足場がわずかしかない崖にへばりついて横移動する様から、「崖っぷち系」と命名しました。
腕力でなく体幹(バランス)で登るコースについては、中級の入口に立てたかな、という手応えがあります。

講習は相変わらず忙しいですが(明日で開始後3週間になります)、ボルダリングとうまく両立できています。
登った翌日の回復度も早くなってきたようで、その翌日の疲労度も今日はとくに「全身的な疲れ」で、講義中に眠くなるというより倒れそうになったりしましたが、頭は正常に回るし(身体の疲労で多少なげやりな気分になりますが)、なんというのか疲労の質はわりといいんじゃないかと思っています。
さらに慣れていけば毎日ジムに行けるかもしれません。

前傾壁のコース、ぶら下がり系(いちばん傾斜がきつい150°の壁)コースも着々と進歩しています。
腕の筋肉は一月前とたいして変わらないように見えますが、たぶん肩や背中をいくらか使えるようになって、腕力のなさをカバーできているようです。
背中や肩甲骨の使い方について、基礎トレーニングをしながら色々気づいたこともあるので、時間のあるときにまた書きたいと思います。