human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

ネチネチ系4級クリア

前に書いた4級コースを今日はじめてゴールできました。

前に書いた「ジムで一つクリアできそうな4級コース」で、あと一手が届かないその原因の一つがたぶん股関節の硬さで、手指の力の強さや体幹(きわどい姿勢で体勢を維持する力)も関わってはいますが、ジムで毎回そのコースに挑戦していれば、ある時にひょっとクリアできてしまうのではという想像をしています。
垂直壁ですが手の支えにほとんど頼れない(ホールドが平べったくて指数本しかひっかからない)状態で股を広げて、現状、今の限界よりも20センチ以上は足を上げる必要があって、これができるようになれば、結果として身体の変化が目に見えることになります。
cheechoff.hatenadiary.jp

コース山場のこの「あと一手」を詳しく書くと、左手は平べったいホールドで指をかけて、右手が四面体ハリボテにくっついた同じく平ホールドでこちらは手のひらをつけて張ることができて、左足は下においたまま右足を左足より下から前記ハリボテまで持ち上げる動き*1。手の力というより下半身の柔軟性、つまり足がどれだけ上がるかが要で、上の記事を書いた段階(7/7)では右足を限界まで上げて目測ではないが感覚的にあと20センチ足りないかなという印象で、それが前々回(7/10)で「あと10センチ」になっておおええ感じやなあと思って、そして今日の終わり間際にいつも通り現状確認の体で軽い気持ちで(でも切り上げ寸前なので肉体の方は満身創痍で)トライしてみると、あれあれと思う間に右足がぐいと上がってハリボテの隅っこに届いてしまって、でもここでおしまいではなく、この右足をぐっと踏ん張って左足に重心を移してから上方のホールドを取ってやっとゴールなんですが、隅にちょんとのっかった右足に体重をかけるのが心もとなくて(壁のけっこう上の方だし、体勢が不安定なうえに手が指でひっかけてるだけで全然効いてないのでここで右足が滑るとけっこう大変なことになる)、でも待ちに待ったゴールは目前で、というわけで火事場モードを発動して細心の注意を払って右足にすこーしずつ体重をかけていき、なんとかゴールすることができました*2。満身創痍といっても今日は強傾斜壁のコースばかりやっていたので腕と指がつらくても足はそうでもない状態でした。さんざん動いたあとなので身体がやわらかくなっていたのもよかったかもしれません(元気のある最初のうち、準備運動直後にトライした方が難しいかもしれない)。

なにはともあれ、こんなに早くこの4級コースをクリアできるとは思わなかったので、ジムの中ではすまし顔でしたが内心とても嬉しかったです。股関節の可動域を広げるストレッチを毎日やっている甲斐がありました。ストレッチを続けるうちにたしかにやわらかくなっているなあという手応えはありましたが(開脚してから上半身を前屈するストレッチでは、広げる足の角度も前屈で前に出した手が届く距離も少しずつですが大きくなっています)、できなかったコースがクリアできるという結果が出てくるとまた違った嬉しさがあります。

今日はその4級コースのほかに、ルーフのホールド(足をひっかける所がなければぶら下がるしかない、ほぼ水平な壁にあるホールド)からスタートする5級コースが初めてクリアできて(このルーフでの「サルっぽい動き」ができてくると楽しい。まだまだスムーズにはいきませんが)、他にもいくつか5級、4級コースにとっかかりをつけました。今日は序盤は人が少なくて、わりとかまってくれる経験者の人にコツやら攻略法を教わることができました。基本的に人がコースをこなすのを観察はするが自分から聞くことはあまりしないのですが、行き詰まっている時に声をかけてもらえるのはやはりありがたい。自分で考える楽しみを奪われたなんて思いは微塵もなくて(まだそこまでおごれるほど上手くはありません)、これはもう縁ですね。何事においても、縁は大切にしたいです。

トライするコースの難易度が上がってくるにつれ、身体の痛む箇所も変わってきました。強傾斜ではホールドを保持したままぶら下がって反動をつけたりするので、指の皮がいとも簡単にべろんとめくれます。マメが形になる前に潰れてしまうような感じ。両指の平のマメが、回復期のものも合わせて5個あります(うち2個は今日できた)。テーピングをするので登るのに支障は今のところありません。風呂が染みるというくらい。あとは脇なのか肩なのか、背中のそのあたりが痛い。前腕じゃなくて肩甲骨や背中を使うという意識を最近始めて、それに応じてストレッチも種類を増やしたんですが、肩はたぶんそのストレッチのせいです。立甲というらしいのですが、よくわからないながらもなんらかの手応えはつかみつつあり、現在模索中です。変に肩を痛めないためにほどほどにしようと思いますが。


さて、来週の開講初日は10時からオリエンテーションがあって、車か自転車かわかりませんが色々見越して9時半には大学に着こうと思って、そうすると朝食なんやかやで遅くとも7時には起床しなくてはなりません。壁登りの翌日に早起きできたためしがなくて、でもそれは目覚まし時計を使っていないからかもしれなくて、今日は早めに寝て明日早起きできるかどうかを試します。できるようなら、開講日の前日に登っても大丈夫ということで来週も月曜は登ろうと思います。それ以降は講義後の夕方に行くことになります。まだ体の出来具合からして毎日通うのはつらそうなので、現状と同じ週3日を夏期講座が始まってからも続けられればと思います。今は体力の続く限り、一日平均4時間はジムにいますが、夕方から行った場合はもう少し短くなるでしょう。どうなるでしょうか。

*1:垂直壁より緩い壁で、ダイナミックに跳んだりせずに3点支持でじわじわ登れるコースで、僕が読んだ入門書にはこういうのを「ネチネチ系」と呼んでました。手より足の方が自信があるので、僕はこういうコースの方が好きなんですけどね。ネチネチなんて言われるとあまり嬉しくないですね。いや、そんなこともないか。

*2:文章だと全然わからないですよね。気が向けばコースの写真を撮って載せます。壁を見ると登りたくなってきますよ。ふふふ。

ほしくず飲料、北斗七傷、講義前週おぼえがき

 
透明であることは、透明になることよりも、ずっとありふれている。

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 × × ×

 昨日はおぼえたての「両肩のヒンジを使って両腕をのばしたまま上のホールドをつかむ方法」(これを天秤動作*1とよぶことにします。天秤とは、僕の小学校時は理科実験ですでに上皿天秤を使っていましたがあれではなく、エジプトの絵文字にあるような棒の両端に糸を吊り下げる初期のタイプのものです。棒の両端を肩関節、重力に従って下に垂れる糸を腕にたとえます。分銅と測定物の重さに応じて棒の両端はそれぞれ上下どちらかに振れますが、糸はずっと張っています。このような理想的な、すなわち腕を全く曲げない動きだとリーチ(=両肩間距離の正弦)が短いので、ホールドを支える側の腕はいくらか曲げないと実際使えませんが、力のかけ方として天秤動作をメイン、腕の曲げつまり腕力をサブにすることで、腕への負担を減らせます。昨日はやりすぎて今は肩が張ってますが、クライミング中の消耗を考えると腕より肩の方が(筋肉の大きさに比例して)もちがいいようです)が、動きが若干窮屈と思いながらも1コース登りきったあとの腕の疲労が全然軽減されていて、それが嬉しくて前傾壁の6級コース(みなさんウォーミングアップやフォーム確認がてらに使う)を間をあけて3回も登り、そのうちの1回で左手の甲をコース上の関係ないホールドにぶつけて軽くえぐれました。天秤動作は局所的な負担がかからない反面(という言い方は不慣れな間だけでしょうが…)、ホールドから遠い位置にパワー源があるというか、力点と作用点が遠いというのか、それに頼り過ぎると手の移動位置にブレが生じやすいようです。腕を曲げないことを意識しすぎてホールドを取り損ねたり別のホールドにぶつけたりしないよう、腕と肩の使い方にバランスが求められます。

 あるいは何日か前のことですが、マウントというムーブ(ボルダリングでいう技の名前)をやる時に、体を壁にくっつけるようにしないと大きなフットホールドやハリボテ(自然岩の出っぱりを模したような大きな構造物)に乗り切れずに落ちてしまうので、踏ん張る方の足の乗せ方とか胴体を壁に寄せるための手の突っぱり方なんかに神経を集中してえいやと飛び乗るわけですが、そうすると乗せない方の足の指先を思い切り壁にぶち当てたり、膝やらすねやらをどこかにぶつけたりして、打ち身やすり傷ができます。しかも大体はムーブに集中していてそのことに気付かない(家に帰って風呂に入った時に傷口が染みて初めて気付く)ので、難しいコースでなおかつそれがこなせそうなコースだったりすると、傷は量産されることになります。実際、されています。右足で乗り込む時に左足親指を勢いよく壁に打ちつけるのがなかなかなおらないんですが(足首をぴっとのばして指の先端ではなく甲側が壁に向かうようにすればいいのでしょうが、どうもなかなか、そこまで神経がまわりません)、クライミングシューズは安全靴のようにある程度つま先が硬いので、現に当てている激しさを思えば怪我は浅いです。膝とその上下周辺のすり傷はなぜか右脚ばかりで(軸足が左足であることが多いからかな?大きく動かす時や勢いをつけて振り出す足は右足の方が頻度が高いのかもしれないし、そういうコース(右方向に展開していくようなコース)しか登れていないのかもしれない。ストレッチをしていても右脚の方が可動域が広いのが分かるし…あんまり左右差が大きくならないように左脚も使いたいものです)、打ち身は少なくほとんどがすり傷なのはまだましというかセンスのなさを示しているわけではないようには思いますが、そして同じ箇所に重ねて(=前の傷が残っている上から再度)当てていることもないのもなんだか良い兆候だという考え方もできますが(すなわち「同じ失敗を繰り返してはいない」ということ。取り組むコースを数回やってダメだったらすぐ変えているのもその理由のひとつですが、それは飽きっぽいからではなく、身体のある特定の部分に負担を蓄積させないためです。自分の腕力と手指の力のなさは、なにかしら別のスポーツをやっていたり肉体労働で身体の基礎が出来上がっていると思われる方々と比べて意識せざるを得ないと休憩中にまわりを見ていて思うんですが、体力がないだけにコースをこまめに変えてまんべんなく身体を疲労させていけるのは利点かもしれません。短期的な上達を目指す、たとえばクリアできるコースを一日に1つか2つ増やしていくというようなやり方ではなく、ちょっとずつ身体がボルダリング向けに上手く機能するようになっていって、日をまたいで何度も取り組んでいたコースがある日ひょこっとできるようになる、毎朝の漢字テストよりは日々の走り込みに近い*2「結果があとからついてくるコツコツ積み重ね型」が、頭でそれがいいと考えるより前に身体がそちらに無理なく適応しやすい、心地良いのです)、そうやってお互いに少しすきまをあけてコツコツと、まるでそれが目的であるかのように仲間を増やしていくすり傷たちが、夜空の星々に喩えられるほど詩的でありませんが、即物的配置として北斗七星を形成しつつあります。今の時点で「王手」ですが、もちろんすり傷を狙った箇所につけるなんて至難の業だし、だいたい技でもなければたぶん三重くらいに倒錯した発想であって、こんなつまらないことが登っている間に頭に上ってくることはありませんが、大けがのもとなので面白がるのは今だけにしておきます。


怪我のたえない日々ですが、おそらく頻度より程度の方が重要で、無理をすると軽傷が軽いものではなくなってくるはずなので、一日の練習時間にしても、ジムに行く日の間隔にしても、無理のないようにしているし、このペースを講習(開講はもう来週なんですね…)が始まってからも崩さないようにしたいです。司書講習は日曜休みでたしか9-16時なので、平日にもジムに行けるなら夕方からになります(ジムは22時までやっています)が、登った翌日の起床時がちとつらいので、夕方に行く時は最初は加減するようにしましょう。一日二食で朝を7時に食べるなら夜は遅くとも19時には食べたいので、行く日はジムで2時間弱動いてから、帰りにどこかに寄って夕食をとるといいかもしれません。講義尽くしの日々にはむしろ身体を動かす時間を意識的に間にはさむ方が身体が健全なリズムを刻めるはずなので、講義外の勉強も大事ですがなるべく両立させようと思います。

うん、講義にもまじめにとりくみますが、生活にもまじめにとりくみます。
思えばこういうことをできるだけの時間が有り余るほどあったはずの学生時代には、こんな発想は全くありませんでした。
なんとなくですが、サークルに入ってなくて、かつその頃に村上春樹の小説なり翻訳なりを日常的に読んでいれば*3、そういうことになっていたのかもしれません。
良いか悪いか、ではなくて。
 

*1:この動画の2:25くらいの動きがとてもわかりやすいです。

*2:学校の授業で喩えをしばらく考えたんですが、どうしても一方が学問型で他方が実技型になりますね。考えてみればあたりまえのことかもしれません。ということは、話はだいぶ飛躍しますが、あるコースが登れるようになる云々とは「便宜的なものにすぎない」ということにもなります。スポーツとしても、そうでなくとも、その「便宜的なもの」は重要ではありますが、それが目的というよりは、それは手段なのですね。いや、それを目的とすることで「スポーツ化」するのか。スポータイゼーション。…調べると、あるんですね、こんな言葉。→ Sportization - Oxford Reference

*3:内田樹氏の文章を、その文体が身体に染み込むまで読み続けてはじめて「このような意味」で村上春樹を読むようになったのですが。

ストレッチと基礎練習

ボルダリングは順調です。

朝食時に読んでいた入門書を読み終えたので、かわりにyoutubeで解説動画を見ています。
やはり実際の動きを見るのと本の挿絵や写真から動きを想像するのとでは情報量が違いますね。
一度だけリコメンドにつられて世界レベルのクライマの動画をいくつか見ましたが、なんというか、すごいんですけど今の興味の範疇には入らないようです。
上手い動きを見て、参考になればいいんですが、参考にならないつまり自分の身体の動きとして追体験するような想像が全くかなわない動きは、エンターテイメントにしかならない。
そしてもうひとつ、違う意味で情報量が余計に多すぎる。
それらの動画を見て、自分が見る視点がボルダラでなかった(なくなった)という経験から、やはり頭で考えていた通り「単純に上手くなりたいからやる」のが動機ではないなと確認できました。

入門書にあったストレッチをこまめにやっています。
壁登りの前後だけでなく、家での読書の合間にも、風呂上がりにもやります。
一つひとつの動きの型に時間をかけて、筋肉ののび具合や関節の曲がり具合をじっくり味わいます。
本にはストレッチのちゃんとしたやり方について説明があって、一つの型で「動かす関節」と「固める関節」がそれぞれどこかをしっかり意識する(「分離と共同」だったかな?)と、ストレッチ中の身体がシャッキリして、曲げたいところが曖昧にぐずぐずやるよりも曲がってくれます(なんとなく、ある一箇所を大きく曲げるならその周辺部も曲げに関与してやれば負担が軽減されるのではなんて思っていましたが、ストレッチの目的がその特定箇所の柔軟性を高めるためであるならば、その効果は薄れてしまいます)。
しばらく続けていて、開脚などで股関節の可動域が広くなってきたような気がしています。
前に書いた「ジムで一つクリアできそうな4級コース」で、あと一手が届かないその原因の一つがたぶん股関節の硬さで、手指の力の強さや体幹(きわどい姿勢で体勢を維持する力)も関わってはいますが、ジムで毎回そのコースに挑戦していれば、ある時にひょっとクリアできてしまうのではという想像をしています。
垂直壁ですが手の支えにほとんど頼れない(ホールドが平べったくて指数本しかひっかからない)状態で股を広げて、現状、今の限界よりも20センチ以上は足を上げる必要があって、これができるようになれば、結果として身体の変化が目に見えることになります。

とはいえ4級は取りかかるにははや過ぎで、6級と5級を中心にやっています。
ジムにある6級コース(白)は前傾がいちばんきつい1コースを除いてゴールには着けるようになりました。
5級(黄)からは天井にぶら下がるようなコースもあり、そういうルーフコースはほとんど手つかずで、また垂直壁でもスタートの次の2手目でもう行き詰まるコースもあって、クリアできてもむりやりが多いので腕にすごく負担がかかります。
今朝見た動画で「腕に負担をかけない登り方」の感じがやっとわかりそうなので、明日からは自己流を戒めて、7級に戻って基礎練をやろうと思います。
初めてボルダリングジムに行った時からこんなことやると運動部の一年生みたいな感じで身が入らないかもしれませんが、ある程度好き勝手に登ってしんどさがわかってくれば、驚きや充実とともに基礎練に打ち込める気がします。

ボルダリングと読書の合間のストレッチ&逆立ちのおかげで身体は概して健康なんですが、この間一つ盲点があって首を痛めました。
ジムが空いていた時に上に書いたルーフコースに初めて手を付けて、夢中になってコースを見つめて長い間イメトレをしていたんですが(1コース登るのに相当エネルギを使うので続けざまというわけにはいきません。ジムにいる間は登る時間よりイメトレの時間の方が長いです)、ルーフなので見上げる体勢になって、そのままじっとしていたせいで首を痛めたのでした。
イメトレ中だけでなく登っている間もホールドを探すために首を大きく動かすので、じつは首の負担も大きいスポーツなんですね。
首の健康は生活気力に関わってくるので、ボルダリング中もケアを忘れずにやろうと思います。
とりあえず今回痛めた首は回復しつつあります。
風呂に毎日入るといいかもしれません。

ボルダリングとアフォーダンスと「必然的な動き」

長いですが最初に引用します。

武道的な考え方が西洋近代とうまく噛み合わないのは、武道では人間の身体は「力の通り道」だと考えるからです。巨大な自然のエネルギーが、調えられた身体を通って発動する。エネルギーは自分から出るわけではありません。源は外部にある。それが自分の中を通過する。水道管と同じです。巨大な水流を通そうとしたら、その水圧に耐えられるだけの、分厚い、抵抗の少ない水道管を用意しなければならない。薄手の管では、水圧に耐えられずに壊れてしまう。また管の表面が滑かでなければ、水流が滞留してしまう。ですから、野生の巨大なエネルギーを身体に通そうと思うなら、それを通しても傷つかないように身体を調えることが必要になります。武道修行の要諦はそこにあります。それは必ずしも自分の運動能力を高めるという表現では尽くせない。筋力を強めるとか、動体視力を高めるとか、反射速度を上げるとか、闘争心を持つとか、そういうことでは尽くせない。本来の武道修行とは、野生の巨大なエネルギーが通過しても傷つかないように心身を調えることにあります。人間の外部にある力を、人間の身体を通して発動し、それを制御する。その技術のことだと思います。
能楽と武道 (内田樹の研究室)
太字は引用者

内田樹氏のブログや著書から武道に興味を持って、実際にはやらないまでも、氏のいう武道的な思考をあちこちに応用できないかと考えてきたし、考えています。
歩き方の研究*1や一本歯を履き始めたこと、それで四国遍路に出たことも、氏の武道に関する論理的な文章に端を発しています。
四国遍路へ出る準備期間だけ通っていたプールでも、古式泳法を調べたりクロールや平泳ぎとそれを融合してみたりしましたが、水泳については手応えのあるところまでたどり着けませんでした*2

そのような志向が僕の中に通底していて、ウチダ氏の曰く「いつもの話」を読んでいると、ボルダリングのことが思い浮かびました。


筋肉の少ない女性や子どもでも90°以上の壁(オーバーハングといいます)ひょいひょいと登れるのはパワーに頼るのではなく、全身を使う、壁のホールドの状況に合わせて効率良く身体を使う方法を知っているからです(体の軽さもある程度の利にはなっていますが)。
筋肉があると身体の使い方を知らなくてもパワーだけで登れてしまって上達が頭打ちになる傾向は男性の方が多いのでしょう。
前の記事で「オーバーハングエリアは筋肉がついてから」と書きましたが、これをあまり言葉として頭に留めておくのもいけなくて、筋肉とは「身体の理にかなった登り方を邪魔しない(アシストする)筋肉」であるという注釈を忘れてはいけません。

理にかなった登り方とは、最近ボルダリングの本を読み始めた知識からいえば、壁の傾斜やホールドの配置に合わせて指や腕の力だけでなく肩や背中も使う、体幹(胴体)をねじる力や足を振る遠心力も利用する、等々。
そういう身体の使い方は日常生活で身につくものではなく、ボルダリングを行うにあたって技という形で身につけていく。
技は見よう見まねの他に、知識として頭で理解してから実際の動きに移して体得していく場合もあるが、実際に登っている時は手足の動きのいちいちを考えて繰り出すよりは、目先にあるホールドに対して自然に手が出て足がのびるのが理想だ*3
自然な動きとは、ホールドの配置に対して身体が覚えている効率のよい動きが思考を介さずに発揮されること、という意味で書きましたが、これは自分が登り方を選ぶのではなくホールドの配置という周囲環境が登り手(の身体)をして登り方を選ばせるアフォーダンス的現象*4として考えた方がしっくりきます。


と、以上が前段で、ここから引用した内容に繫げるべく書いてみます。

引用部を読んだ時にボルダリングを連想して、「武道的な登り方はできるだろうか、それより前に武道的な登り方とはなんだろうか」と思ったのでした。
筋肉を鍛えるのではなく、という部分がまず共通していて、「源は外部にある」という表現からアフォーダンスを連想して、そしてしかし、その源とは「人間の外部にある力」、「野生の巨大なエネルギー」である。
アフォーダンスとは力ではなく、という言い方も妙ですが、舟を浮かべて流れに乗る川のような物理的な力が働く場を想定しているのではなく、むしろそういう力が働くわけではないが「周囲環境が動作主体にある志向を生み出す」という話なのです。
だから力をここで持ち出せば比喩になってしまって、でも…

いや、こういう展開を望んでいたのではなかった。

地謡の地鳴りをするような謡が始まってくると、その波動がシテの身体にたしかに触れてくる。囃子方が囃子で激しく煽ってくると、そのリズムにこちらの身体が反応する。ワキ方が謡い出すと今度はワキ方に吸い寄せられる。そういう無数のシグナルが舞台上にひしめいています。三間四方の舞台であるにもかかわらず、立ち位置によって気圧が変わり、空気の密度が変わり、粘り気が変わり、風向きが変わる。
ですから、舞台上でシテがすることは、その無数シグナルが行き交う空間に立って、自分がいるべきところに、いるべき時に立ち、なすべきことをなすということに尽くされるわけです。自分の意思で動くのではありません。もちろん、決められた道順を歩んで、決められた位置で、決められた動作をするのですけれども、それは中立的な、何もない空間で決められた振り付け通りに動いているのではなく、その時、そこにいて、その動作をする以外に選択肢がありえないという必然的な動きでなければならない。刻一刻と変容していく能舞台の環境の中で、シテに要求されている動線、要求されている所作、要求されている謡の節が何であるかを適切に感知できれば、極端な話、シテは何も考えなくても能が成立する。そういうつくりになっているんじゃないかなということが始めて10年くらいの時にぼんやりわかってきました。
それまでは、どうしても近代演劇からの連想で、能も一種の「自己表現」だと思っていました。まず頭の中で道順を考える。角へ行って、角取りをして、左に回って、足かけて・・・・と頭の中で次の自分の動きの下絵を描きながら、それをトレースしていった。でも、そういうふうに動きを「先取り」するのを止めました。ある場所に行ったら、「決められた動作」ではなく、そこで「したい」動作をする。そこで「したい」動作が何であるかは、文脈によって決まっているはずなんです。この位置で、こちらを向いて、こう足をかけたら、これ以外の動作はないという必然性のある動作があるはずなんです。だから、それをする。謡にしても、これからこうなって・・・というふうにあらかじめ次の謡の詞章を頭の中に思い浮かべて、それを読み上げるような謡い方をしない。こう謡ったら,次はどうしてもこう続かないと謡にならない。そういう音の流れがあるはずなんです。
同上

また長い引用ですが*5、これは先の引用より前の、ウチダ氏が能の稽古を積む中で舞台上で何が起こっているかについて考察されている部分です。

下線部を読んで、これだと、まず思ったのでした。

壁を登る時に、「こう登る以外に選択肢がありえない」ような登り方があって、それは上に書いたようなアフォーダンスの要請があるにしろ、その「必然的な動き」は身体にとって快く、心地が良い。
(そうか、アフォーダンスは周囲環境が主体だから動作主体の内側への言及ができなくて、それで上では行き詰まったのか)
その心地良さは、身体のつくりに適ったものであり、樹上で生活していた頃の先祖の身体記憶を呼びさますものでもある。
(スケールが一気にとてつもなく広がりましたが…)

もちろん、技として、例えば腕をセーブするためとか胴体のひねりをうまく使うとか、一つの状況でも複数の選択肢はあり得ます。
数多くある技のどれが自然かとか、サル的かとか、そういうことはわからないし、たぶんそれは初級者だからわからないということでもない。
だから「必然」ということばは便宜的なものでもありますが、実際に登る場面ではそういう感覚は大事で、筋肉疲労やすり傷の痛さとは別のレンジで、感度を上げ耳をそば立て、身体の心地良さという一つの(かもしれない)必然に導かれるように登っていく


初級者の段階からたいそうな目標を掲げてしまいましたが(その道のりがものすごく遠いことはわかります)、そんな風に登れれば、さぞかし楽しかろうと思います。
外の岩(これをボルダーと呼び、このボルダーを登ることがボルダリングという名前の発祥らしいです)を登る楽しさを室内の人工壁と比べると「室内プールで泳ぐのと、外洋でイルカと戯れるくらいに違う」のだと本には書いてありましたが、そういうものだろうし、僕が上に書いた内容も実際のところはとてもありふれたことなのだと思います。
 

*1:西洋歩きからナンバ歩き的な歩行法へ自己流で変えました。その内容は本ブログ内で「和歩」と呼んでいくらか文章化しています。整理はしておらず、散漫に書き散らしていますが。

*2:岩手でも引き続き泳げればと思って探しましたが、市営プールは夏の間だけで、近くに通えそうなプール付きフィットネスクラブもないようです。水泳バッグはボルダリングバッグに転用しています。典型的な紐で吊るすサンドバッグタイプで、濡れた水着を分けて入れられるバッグ底の収納部にクライミングシューズとチョークバッグがギリギリ入りました。両者ともチョークで粉っぽくなるので、水泳バッグのセパレート収納が上手く活かせます。

*3:「スポーツとしての理想」とはまた違うのかもしれません。

*4:例えば、地上の歩道を歩いていて、地下鉄の入口に向かって下り階段に差しかかると、階段の一段目の手前で歩幅が自然とそれまでより小さくなる。この状況を、自分が歩幅を狭くしようと意識したのではなく、下り階段の始まりという環境が歩幅を狭くさせた、と考えるのがアフォーダンスで、前者の場合もあるにはあるが(考え事をしていて階段の直前でハッと気付くとか)、後者の場合が日常的であり「自然」である。

*5:引用元がウェブ媒体なのでつい調子に乗って長く引用してしまうのですが、本文は講演の書き起こしなのでむちゃくちゃ長いです。が、とても面白いので(僕なんか何度も似た文章を読みましたが毎回驚きがあります)ぜひ一度通読されることをお勧めします。

身体が喜ぶ、身体に驚く

少し前からですが、ボルダリングを始めました。

2回北上のジムに行ってみて、日常的にやれそうだったので月フリーパスを購入しました。
週3で通うペースで、昨日で4回目です。

3回目の時にシューズを買いました。
ライミングシューズは履くと指が曲がるほど窮屈で、それでもきついほど足のホールド感覚が良くなるので履き心地はシビアで、店で試し履きしてから買いました。
服装はスポーツするなりでよく、手の滑り止め用のチョークはわりとなんでもいいので(外の岩を登るなら向き不向きがあるようですが)粉とバッグをネットで注文して今朝届き、これで道具が揃いました。

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写真手前の「魅せる、透け力」というのは100YenShopで購入したストッキングで、これでチョークボールを作ります。
専用のものもありますが、要は中に粉を入れて握れば粉がもふっと出てくるような網袋がチョークボールなので、「これでも十分いけます」というジムの主人のコメントにのっかりました。
さっき作ってみましたが、ストッキングのさきっちょを切って粉を入れて口を結んで、それっぽいものになりました。
握ってみてどういう「もふもふ感」かは、次にジムに行く時のお楽しみ。
…大事なのは感触より粉の出方ですが。

 × × ×

壁があったら登りたい」とは僕が小さい頃の素直な心持ちで、実家の前の坂を登ってすぐの溝がアミダ状に掘られた壁とか、小学校の運動場のフェンスとか、駐車場のフェンスとか、オートロック式玄関のマンションの敷地の壁とか(おっと)、登らざるを得ない壁から登る必要のない壁、登ることを求められていない壁まで、「大人*1」になるまでにいろんな所をよじ上ってきました。
そういうわけで僕にとってボルダリングの楽しさは改めて理由を問う必要はありませんが、純粋な、というより原始的な(「サル的な」でもいいですが)楽しさとは別に、スポーツとしての楽しみもあります。

後者をさらに勝手に区分けすると、そのうち競技的要素は(今のところは)あまり興味はなくて、もうひとつの「身体を使ったパズル」という要素がとても魅力的であることを、数回ジムに通って体感しました。
壁にホールドが並ぶコースを見てどう登るかをイメージすることはまだ全然できません(何度も登ったコースを、時間をおいて改めて見ると登り方を覚えていないくらい)。
自分が登ろうとしているコースを他の人が実際に登っているのを見ると「そう登ればよいのか」と納得したり、「何でそんな動きができるのか。シンジラレナイ」と驚いたりします。
他人の身体の動きを見るだけで自分も動いているように感じるのはミラーニューロンが活性化しているからだと言われますが、後者の、自分ができそうもない他人の壁面動作を見た場合は、シナプスがほとんど繫がっていないのではと思います。
でもそのシンジラレナイ動きを真似してみて、一度目で、あるいは何度か挑戦して失敗して他のコースに行ってしばらくして戻ってきて再トライすると、ひょっこりとできたりする。
その成功の瞬間「やった!」と思うのはクイズで正解を当てた時のうれしさと同じで頭の一部がそう思うのであって、頭の別の一部、身体との関わりが密な部分では、やっぱりまだ「シンジラレナイ」と思っている
こうして身体感覚が先行して拡張されていき、同じ動きを何度かするうちに頭がその拡張に納得するというのかフォローしていく。

北上のジムのコースは7級から始まり、7級(ピンク)は手がつかむホールドだけ指定で足はどれを使ってもよく、6級(白)からは足をのせるホールドも指定で、6級、5級(黄)、…とだんだん難しくなっていく。
また、ジムの壁はいくつかのエリアに分かれていて、エリア毎に傾斜が異なり、傾斜がきついエリアでは手だけでぶら下がるのも当然みたいなコースばかりとなる。
ただ傾斜がきつくても足使いは重要らしく、懸垂のような動作でホールドをつかみに行く時にもどこに足を掛けているか、あるいは足や胴体をどう振るかで腕へ負荷や動きが断然変わってくるらしい(伝聞)。
僕は腕も指もひ弱なので、最初は傾斜が緩いエリアのコースを中心にやっていき「力」が(これは文字通り筋力が)ついてくれば傾斜がきついコースにも手を出そうと考えています。
等級と壁の傾斜に相関はあまりなくて、腕より足を頼って登る僕は、緩傾斜エリアの5級コースができても急傾斜エリアの6級コースができなかったりします。

緩傾斜エリアで1つだけクリアできそうな4級(オレンジ)コースがあって、このコースはろくに手(というか指)に体重をかけられないまま大股で小さいホールドにのり移る箇所があって、ここが昨日できるようになったんですが、これがまさに上に書いたような「やった!」が「シンジラレナイ」状態なのです。
どういえばいいのか、頭では納得できんけれど身体は勝手にこなしちゃう、身体ってスゲエなと思い知らされ中、というのか。


もちろんこれ、これはこれで楽しいんですけど、一つ前の記事に書いた「生活読書」、頭と身体を共に活性化させる生活とも通じる気がします。

人は(もっと広く「生物は」ですが)変化して生きていくもので、意識しないでも身体は(成長なり老化なりバイオリズムなり)変わっていきますが、意識したくないのが頭で変わらないことを志向していく頭の見つめる先は身体と逆で(「昨日の私は今日の私は同じ」という、これはこれで意識の「自然」な傾向です)、そのために意識が不変に傾き過ぎると身体に不調をもたらすわけで、不変に拘る意識に時々は喝を入れるつまり意識の目を身体の変化に向けさせる必要があって、そういう場合に意識が喜ぶのは身体の変化に「驚きと興味」を発見できる時

 × × ×

昨日はちょっと限界を超えてやってしまったのか、今朝は起きる勢いが不足し続けて(一度宅急便が来た時に無理やり起きましたが…岩手の午前配達は大体が早朝なのです)トータルで半日近く寝てしまいました。
起きてしばらくは指がふわふわして手を握り込めない感じでしたが、しばらくすると炊事に支障ないくらいには戻りました(でも重い食器を洗ってると取り落としそう…)。
そういえば昨日は手足にすり傷がたくさんできたんですが、それらの多くがいつできたとも知れないもので、それだけ集中していたこともあり、こういう「傷は男の勲章」みたいな時間は少年時代以来だとも思ったり。

無理せずに、ボルダリングを生活の一部として続けていこうと思います。
ジムに行った翌朝もふつうに動けるようになって、講習*2が始まっても今と同じように通えればいいんですが…あでも予習復習とかいるんですかね。

大学生の頃よりはマジメに勉強するはずですが、さて。
 
 

*1:大学生はまあ、モラトリアムですから。院生然り。

*2:司書講習を受けられるかどうかは7月に入って2週間後に決まります。

親指よし手首やよし/壁があったら登りたい

前にスライスしてしまった親指はなんとか順調に回復しています。

しばらくは血が止まらなかったり止まったと思って絆創膏を外すとまた出てきたりしていましたが2日で落ち着き、傷口がガーゼを取り込んで固まるとよくないのでラップを直接巻いていましたがけっこうたびたび痛くて、なんとかならないかと薬局に行ってたまたま見つけたキズパワーパッド↓を貼ってみると良い感じになっています(というのはこの製品の解説書の想定通りに傷が推移しているからです)。
www.band-aid.jp
血は止まって、でも傷口が赤く潤んで露出している場合に効果的のようです。
参考までに1日経過時のスライス写真を小さめに載せておきます。
指を一日ラップでくるんでから外した直後で指がふやけています。

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2枚目の「皮膚をスパッとキレイに持ってかれた感じ」がセラミック刃の切れ味を物語っています。
切った瞬間に接触抵抗も痛みも全くないのに「うげえ」と声が出たんですが、あれはたぶん金属の刃に対する切れ味の異次元さに生理的な違和感を覚えたからだと思います。
今想像しても気持ち悪いなあ。

 × × ×

花巻に来る前に秋田の玉川温泉へ行って手首の腱鞘炎と足首の疲労を治そうとして、手首は悪化したと前に書きました。
手首の痛みは大学生の頃にタイピング*1にハマって以来大なり小なり続いていて、ついこの前温泉で悪化した時はその「大なり」、手首を指の背の側に曲げるだけで痛み、日常生活にも支障が出ていました。

玉川温泉で治らんのだから病院に行くかと思い(本当は順序が逆なんですが)、花巻に来てから整形外科に行くと(たぶん今から1週間くらい前かな)、関節近くの節にステロイド注射をされました。
遅効性で効果は出るなら2、3日後かなと言われ、確かに打った日とその翌日くらいはむしろ痛いくらいだったと記憶しているんですが、その後はしばらく手首のことを忘れていて、つい最近そういえばと思って左手をいろいろ動かしてみると、なんだか痛くない。
両手の指を組み合わせて手のひらを外に向ける伸びもできるし、手のひらを床につけて腕立てもできる。
逆立ちは恐いのでまだやっていませんが*2、どうやらステロイド注射が効いたようです。
苦しんでいた年月からすればあっけないほどの効き目です。

こんなことならもっと早く…とは思いませんが、どうも、玉川温泉で手首の痛みが悪化したのは確かなんですが、炎症起因の痛みは増したけれども別の症状は治癒に向かわせてくれたのではと思っています。
そう考えないとこの呆気なさ、長年あった痛みが突然なくなって痛みがあったことを忘れるほど(痛みがなくなったことに気付かないほど)の唐突さがうまくのみ込めません。

まあいいんですが。
嬉しいことには違いない。

 × × ×

ボルダリングは神奈川に一度だけ行って、とても面白くて僕自身ととても相性の良いスポーツだと思ったんですが、その時は友人の車で遠出して行って、その後は機会に恵まれませんでした。
京都へ引っ越してからもやろうとは思いながら人出の多い所を避けていたので結局行かずじまい。

が、花巻へ来てまたボルダリングのことを思い出し、車もあることだし近くで行けないかと探してみると、ありました。
北上市花巻市の隣なんですが、地図を見ると4号線沿いのニトリのすぐそば。
ニトリへは家具を買いに何度も通っているので、このジムまでは全部知った道です。
車で20分もかからない。
clambonclimbing.kitakamicity.com

また、ジムまでの2倍くらい距離はありますが、花巻市内の大迫*3地区にある体育館にもボルダリング用の壁があるようですね。
道具を揃えるようになったらこちらにも行ってみましょう。

大迫地区体育施設|花巻市体育協会

手首の懸念が解消されたので、親指が復活したらすぐにでも行こうと思います。
引っ越し後の荷物整理と部屋作りはもう終盤なので*4

*1:Typewellというwindowsで動くタイピングソフトです。働き始めた時にmacに変えたんですが、そのおかげで離れられたのかもしれません。

*2:首周りを鍛えるために日常的に逆立ちをやっているんですが(最近は1回50秒程度を一日5,6回)、手首を痛めていたので拳を握って指を床につける「拳立て」でやっています。

*3:「おおはさま」なんですね。つい「おおさこ」と読んでしまいますが、内田樹氏の昔のブログには「大迫力」さんがよく登場していました。「おおさこちから」さんだそうです。

*4:内装やら何やらを整える過程をブログに書こうと最初は思っていたんですが、面倒臭くなりました。なんというか、文章化するような話ではあまりないのですね。とはいえ、かつてない力の入れようで、ろくに発揮したことのない美的センスをフル稼働させているので、いちおうの完成形にたどり着けば写真を載せようと思います。