human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

旧式ヘルシオの存在感/読書スペース模索

現状のキッチン。
洗い場・ガスレンジスペース全体が窓に面していて、東向きなので朝が心地良いです。

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食器棚とレンジ台がないので配置は暫定です。
旧式ヘルシオの図体が大きくて(奥行きが50cm)、上にガスレンジを乗せられるほど。
ヘルシオを床に直置きして使いたくないがための配置ですが、これだとガスレンジが高くなって使いにくい。
炒め物はたぶん無理ですが、煮物ならなんとかいけます*1

ヘルシオの変則サイズのせいでレンジ台を選ぶのに時間がかかりましたが、今日ニトリでものを決めてきたので届くまでもうしばしの辛抱です。
お手頃なレンジ台や食器棚は奥行きが40cmしかなかったので、ちょっと高めでどっしりした「レンジ台兼食器棚」にしました。
これは炊飯器を置けるスライド棚があり、奥行きが50cmあるので天板にヘルシオが乗せられます。
ただ高級感が余分に漂っていて、キッチン据え付けの棚と並べて馴染んでくれるかが若干気がかりですが、基本的には慣れさえすればよくて、追加予定の家具の選び方で多少はカバーできると思います。

 × × ×

LDK奥の読書スペースは今こんな感じ。
六角形のサイドテーブルは今日リサイクルショップで買ってきました。
ダイニングテーブルは今日注文して食器棚と一緒に来週届くので、それまでは本来の機能以上に重宝しそうです*2

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窓のインテリアは他の家具が揃ってから決めるつもりで、今はありものの布をカーテンがわりにしています。
干場側の窓の風景は特に楽しめるものでもないので、基本的に視界は遮っている状態にしつつ同時に光も入れたいので、今のところ調光ロールスクリーン*3がいいかなと考えています。
もう一方の丈が小さい方の窓はまだうまく想像できていませんが、ソファを今の位置で本決めするなら、外光はふんだんに入れたいし窓際に座っていて圧迫感のあるものも好ましくないので、何も付けないのもありかもしれません。
あるいは夏の暑さが身に染みてきたら簾をつけるのもいい。

そうだ、以前はフェイクグリーン(造花)に拘っていましたが、今回の住まいでは観葉植物を置いてみようと思っています。
窓際にこんもりした鉢植えがあったら。
いやむしろ空きスペースをどんどん緑で埋めていくのも楽しそうですが、それは観葉植物に慣れてからまた考えるとして、ちょっと調べた感じだとバキラカポックが初心者にも扱えそうです。
ついでにトイレにポトス*4を置いてみようかな。

*1:昨日ミネストローネをつくりました。トマトをそのまま煮込むのは始めてでどきどきしましたが、よい感じにスープになってくれました。ミネストローネはどんな野菜でも小さく刻んで入れればオッケーという鷹揚さと手軽さがいいですね。トマトを常備したくなりました。

*2:現状はテーブルがないので、洗濯カゴや収納ボックスを机がわりにしてご飯を食べています。

*3:床と壁とは違う色がいいかと思いグリーンが第一候補だと思っていたんですが、窓際に植物を置くなら葉の緑が映えるような背景がいいかとも思うと…ベージュ? オレンジ? どうしましょうか。植物を置いてから考えた方がいいのかな。

*4:ポトスと聞いて前に芥川賞をとった『ポトスライムの舟』(津村 記久子)を思い出すんですが、最初このタイトルを見た時は「ポト/スライム」だと思ってました。ポトスという植物は耐陰性が高いらしいんですが、この小説にそんな雰囲気があるのかもしれません。読んだことないので勝手な想像ですが。

朝走る/和室に冷蔵庫

今朝はランニングに行ってみました。
起床が7時半、出発が8時前で、車の交通量がそこそこ多くなっていました。
もっと早い方が気分よく走れますね。

家のすぐ近くに図書館・公民館があって、その隣に「ぎんどろ公園」という広めの緑が多い公園があります。
宮沢賢治の農学校の跡地かなにかで、句碑やらオブジェやらがあります。
ぎんどろ公園でストレッチをしてから(今日は散歩中の母子を見かけました)走り始めることにして、今日は川のある南へ向かい、川沿いをしばらく走ってぐるっと戻ってきました。
だいたい30分くらい。
途中で膝が少し痛みましたが(歩き遍路の後遺症でしょう)、帰ってシャワーを浴びる間に気にならなくなりました。
初日のテンションで走り過ぎた気がします。
日課にできそうなペースで無理しないようにしたいですね*1

地図で今日走った道を確認しましたが、家の近所はだいたいが住宅地ですね。
車通りの少ない、走りやすい道を探してみましょう。
6時に走り始めるくらいだとよいのですが、まだ部屋づくりに追われて寝るのが遅い…夜に店が閉まる時間ぎりぎりまで買い物してるせいですね。
早く寝られるように一日の行動量を減らしてみようと思います。

 × × ×

近所に子ども(親子世帯)が多いと書きましたが、子どもの声が聞こえるのは朝と夕方だけで、日中も夜も静かです。
夜の8時頃に帰ってくると隣家は真っ暗で物音一つしなくて*2どういう生活をしているのか想像できないんですが、その静かさといったら炊飯器の保温の動作音がはっきり聞こえてくるくらいです。

例えばこの動作音が即ちノイズなので、聞こえないように工夫をすることになります。

現在のところ定常的な動作音*3が気になる家電は冷蔵庫と炊飯器で、炊飯器はコンセントのある別の部屋ならどこでも持って行けば簡単です(今は洗面所に移していますが、保温はまだしもそこで炊飯をやると匂いが混ざって妙な具合になるので暫定的対応です)。
冷蔵庫はものが大きいだけにフレキシブルな配置はできない、はずなんですが、ものは試しでちょっとやってみました。

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静音仕様という三菱のMR-D30Xを中古で買いましたがリビングに置いてみるとやはり音はするので、和室に置いてみました。
二重のクッションの上にスノコを敷き、そのまた上に本体を配置しています。
床から離すと空気の通りも良くなりますが、床を介して響く振動音も抑えられます(畳なので振動音はフローリングほど気にならないとも思いますが)、というのは後付けで主には畳を傷つけたくないのが動機です。
懸念点はアースが簡単にはとれないことで、あとは換気に気を遣うことと冷蔵庫前の床を汚せないことが注意点でしょうか。

アースについてはちょっと調べてみたところ鉄筋造ならコンセント口から取れる場合もあるがうちは木造なので不可で、アース端子まで配線を延ばすしかありません。
…と書きましたが、そもそもアースを取らない場合に生じる不都合を別の手段で防げればよくて、たぶん漏電は落雷か帯電使用者起因で、前者はまあ大丈夫(平屋でアンテナないし、冷蔵庫の脚はゴム、床は畳なので)として後者は冬期に日常的に静電気除去してれば大丈夫。

うん、懸念点ではなくなりました。

 × × ×

コーヒーを飲みながら書いているうちに元気になってきたので(頭を回すと身体も起きてくる?キーボードを打つ姿勢による気もするが)、今日も車で買い物に出ようと思います。

ところで納車されてから一度も自転車に乗ってませんね…もちろん必要あってのことですが、車生活に染まり切るのもイヤなので書いておきましょう。
家具と家電が揃えば近場の買い物はクロスバイクで。
旅用の高容量リュックがあるので、食糧や日用品だけなら余裕で詰められるのです。

*1:おとといから布団で寝ていますが、起きて逆立ち(首まわりを使うための)してすぐ布団を押し入れに仕舞うと、一日の活動開始の流れができます。その流れでランニングをして、シャワーを浴びて身体がシャキッとするというのが理想です。今日は走り過ぎに前2日の運転による疲労(?)も加わってぐったりしています。午後から買い物に行ければいいのですが(今=ここを書いている時点では正午ちょっと前)。

*2:かといって早朝に生活音が響くわけでもない。家の間隔が広くて音が届かないだけかな…そういえば家探しに最初に花巻に来て驚いたのは隣り合う家の間隔がとても広いことで、建物の密度が低くてスカスカしています。街育ちの人間からすれば土地が余ってるのかとつい考えてしまいますが、必要がなければぎゅう詰めに家を建てることもありません。

*3:調理など家事をする間はもっと色々音がしますがそれはさておいて、具体的にいえばリビングのソファで読書をする時のノイズを可能な限りなくそうとしています。そうすることで没入できる本の種類(主に小説ですが)が増えます。

生活の立ち上げ/なぜ花巻か?

しばらくこの話題の記事が続きそうなのでタグ「生活立ち上げ@花巻」を作りました。

去年の秋に京都に引っ越した時(そういや一年も住んでなかったですね…)は家具やら家電やらは足りていたので、「生活の立ち上げ」は習慣作りとか、つまり主には何をするかを指していました。
今回の花巻ではその手前の、ものを揃えるところからのスタートとなります。

あれが要る、これを買わなきゃとあちこちの店を駆け回っているうちに一日が終わります。
昨日は車が手に入って、余計に時間が経つのが早くなりました。

生活の立ち上げ経過を書きたいと思うのは記録のためよりは、ちゃんと考えてものを買って部屋をつくっていきたいからで、店でその場の勢いで(「便利そうだから」「何かに使えるかも」)余計なものを買わないようにしたい。
便利さ*1はそれほど求めていないし、新しさも求めていません。
後者でいえば、貸家が築30年の木造平屋で、和室の畳は張り替えたばかりですが(実はこれが決め手だったりします。畳の匂いは旅の風情がある)、ほかは内装も古めで設備もローテク*2です。

もともとの部屋の内装に合った家具を揃えていくが、なるべくものを増やさない。
家の静かな立地を存分に味わうために、ノイズの少ないものを買う(あるいはノイズが目立たないレイアウトを考える)。

この2つを生活立ち上げの方針とし、ずっと家にいたくなる*3ような部屋づくりをしていきます。

 × × ×

なぜ花巻に来たのかについて、忘れないうちに書いておきます。

司書資格をとると前に書きましたが、夏に富士大学で司書資格をとるための短期集中講座があって、それを受けようとしています。
短期といっても2ヶ月近くあったと思いますが、その間は週休1日で朝から夕方まで講義尽くしです。
資格を取りにくるだけなら大学が斡旋する下宿やホテルがあるのですが、今は仕事をしていないし定住地もないので「せっかくだからしばらく住んでみよう」と思ったのです。
雪国暮らしも一度経験してみたいと思っていました*4

集中講座の申し込み締め切りが6月末なので、それまでに作文を書いて大学に(もう近場なので)直接提出しに行きます。
申し込み数が定員より多ければ選考があり、1週間ほどで通知が来るはずです。

と何げなく書きましたが、お気づきの方は鋭い。

大事なところは「受講できるかどうかが決まる前に引っ越してきた」ことです
選考に落ちたら来年にならないと受講できません。
そうなってしまったら? その時に考える。
そもそも講座を受けることになって、講義が終わってからどうするかも考えていません。

というわけで生活を質の高いものにすべく、立ち上げをゆっくり丁寧に進めていくことを今は第一に考えています。

*1:身体性を鈍らせる便利さにはあまり手を出さないようにしたいです。車はもう必要悪ですね。なんとか車のボディを自分の身体と思えるように運転に慣れていきたいです。

*2:給湯器に温度調節器がついてないとか。洗面台が洗い場と下の収納だけで鏡と上の収納がない(マンションによくあるコミコミの洗面台ではない)ことには鍵をもらってから気付いて驚きましたが、洗い場の上が窓で朝日が明るく、これはこれでよい感じです。うがい用コップの色を「クラシック」(透明な茶色)にしたら絶妙にフィットする、シンプルでレトロな洗面所です。

*3:身体に不都合がなければずっと本を読んでいたい。不都合が出やすい(主に首)のでそうはいきませんが。

*4:雪国暮らしへの憧れとはちょっと違って、「雪国暮らしの人に対する魅力」が僕をして経験に向かわせたという感じです。ある人のことをもっと知りたいと思った時に、その人が経験してきたことを追体験してみることはその一つの手段です。前↓にそんなことをちょっと書いた気がします。 cheechoff.hatenadiary.jp

機上の人/静かな家

昨日から岩手での生活が始まりました。

昨日は朝に飛行機で大阪空港からいわて花巻空港へ。
所要時間は1.5hと、大変短い。
新幹線だと東京駅経由でたしか6hくらいかかったはずですが(東京〜新花巻が各停で長い)、格安チケット会社で事前予約すれば飛行機の方が安く行けます。
純粋に移動だけなら時間・料金ともに勝る飛行機がよいですが、でも新幹線も「車窓の旅」と言えるほど風情のあるものでもないので、新幹線を選ぶ理由は「予約なしでも確実に乗れる」くらいでしょうか。

機上では雲を眺めていたらあっという間に時間が過ぎました。
東北は低気圧が近づいていると機長のアナウンスがありましたが、ヴィヴィドな凹凸が延々と続く雲海は見応えがありました*1
飛行機はだいたい800km/hで飛んでいるというのにすぐ近くに見える雲の動きが緩慢で、相対速度を無視して止まっているように見えたのですが、空の上では距離の目安になる構造物がなくて距離感が麻痺してしまうのでしょうか。

新しい貸家の最寄り駅は花巻駅で、花巻空港駅(ともにJR)からは1駅です*2
空港到着時に不動産屋の人が迎えに来てくれたので車で貸家に直行してもらいました。
到着して手持ちの荷物を整理しているうちにガス屋さんが来て元栓や給湯器の点検をしてもらい、同時に宅急便が来てSoftbank airが届きました。

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ターミナルの電源を入れるだけで無線LANが繋がるとは驚きです。
今まで光ネットを使っていて引っ越しごとに工事をしていたんですが、進歩したのですね(知らなかっただけかな?)。
僕はスマホへの買い替えが億劫なほど最新機器とやらに疎いのですが、あまり長期にわたって保守的になると大きく損をすることになるようです。
それも当然のことですが、単にレトロ趣味というだけでなく「損をしてでも得たいもの」がある場合は新しさを求めなくてもいい。
僕のスマホに対する印象は「街中で使用している人の姿が絵的にイヤ」で*3、ネットを外で使う利便性を特に求めていないのでガラケーでいいと思っています。

それはさておき、その後は届いた引っ越し荷物の展開と生活用品の調達に追われて今に至ります。

今日(5/28)で二日目ですが、部屋の静けさが京都にいた頃と圧倒的に違います。
隣家や塀を挟んだ裏手のアパートに子どもがいて時々声が聞こえるし、隣家が面する車道にぽつぽつと車が通るので全く音がしないわけではないのですが、それらの音はノイジーではないのです*4
なぜかと考えるに、これは仮説ですが、京都のマンションでは生活音が飽和していて身体がそれ以上の音(というか識別不能な数多のノイズに加えて個別に聞こえてくる音)に非寛容だったのに対して、今は識別不能なノイズがほぼゼロなので身体が生活音に対して寛容になっている(むしろ求めている? あまり音がなさ過ぎる空間にも人は耐えられないらしいので)からではないか。
慣れてくるとまた印象が変わるかもしれませんが、今は精神的にとても落ち着いています*5

*1:新幹線の車窓と比べるには種類(?)が違いますが、意図せず頭の回転を強要されるような「広告的刺激物」がない点で雲海の景色は心地良く、飽きずにずっと眺めていました。

*2:この点で遠方への(あるいは遠方からの)アクセスが良いと言えますが、遠出する機会もないので特に利点というわけでもありません。

*3:やっていることはスマホガラケーと似たようなものなのに不思議なことですが、のめり込みの程度差でしょうか。スマホの周りを全く気にせずのめり込む感じが…でもガラケーで同じように夢中になっている人を見てもそれほど気にならないような。あるいは機能の差かもしれません。スマホでできることがガラケーに比べて格段に多くなって、のめり込む人を見て「何をやっているのか想像がつかないので不気味だ」ということかな。なんだかパソコンが普及し始めた頃の年配会社員みたいなこと言ってますね。

*4:窓ガラスが二重なので遮音性が高いというのもあります。雪国仕様。

*5:一方で肉体的にはちょっとつらくて、それは布団が未調達で寝袋で寝ているせいです。今回の家は2LDKで広めのLDK以外の2部屋は和室なのでベッドを持って来ませんでした。歩き遍路中は和室の宿がほとんどで布団に慣れたのでこれを機会に変えてみようと思ったのです。起きて布団を畳んで押し入れに仕舞ってしまえば生活にメリハリがつくだろうという目論見もあります。…とにかく早めに寝具は調達した方がよいですね。

図書館の本いろいろ/「本」を守る

とりあえず司書資格取得を目指します。

 × × ×

初期投資として司書の仕事や資格のことが分かりそうな最近出版の本(1)を新品で買って読み、1冊目からの数珠繋ぎで気になった本(2)(3)を図書館で借りて読み、図書館の棚を巡る中で興味が湧いた本(4)(5)(6)を借りて読み、ついでに綺麗な写真集(7)も借りて読んでいます(1~7は最後にまとめてリンクを張りました)。


(1)を読んで司書にもいろいろあること(司書として勤務する図書館にもいろいろあるし、学校司書が勤める学校もいろいろある)、募集が極端に少なく雇用条件が不芳のわりに応募が多い職種であることを知りました。

(2)はランダナカンという図書館学では有名な人の「図書館の五法則」についての本の抄訳・解説書です。図書館はあくまで利用者の目的達成を援助するものだ、という基本思想に親和性を感じました。五法則とは、記憶を頼りに列挙すると以下のものです。自分の頭に刻まれたことを整理するためなので細かくは(あるいは大きく)違っていると思います。
  1. 本は利用に供するものである
  2. あらゆる読者に、その人の本を
  3. あらゆる本に、その本の読者を
  4. 読者の時間を節約するべし
  5. 図書館は成長する有機体である
「五法則」の原書では各法則が人格を持ち(人、それも女性に喩えられ)、彼女らが図書館運営に関わる人々(館長や司書だけでなく、行政や教育の担当者なども含む)に法則の意味するところを、優しくかつ粘り強く示唆していきます。この優しさと粘り強さがそのまま司書(図書館)の望ましい性質となっていて、僕がいいなと思ったのはそれらの性質は「自覚」を大事にするからです。…これを「司書が利用者の自覚を促す」とそのまま言い換えるとなんだか偉そうに見えますがそうではなく、司書は利用者の主体性を最大限発揮できるように手助けをする。本や資料の推薦はしても押しつけはせず、説得もしない。選択肢の提示ではあるけれど、無闇やたらではない。無闇やたらではないのは利用者の「人を見る」からで、検索結果の列挙とはその点が異なる。図書館で本と出会う人は匿名ではありえないのです

(3)では学校司書が先生や生徒と、そして授業とどう関わっているかの実践例が豊富に書かれています。学校司書は教員免許を持つ司書教諭とは違いますが、図書室のカウンタにいたり、また調べもの学習等の授業にアシスタントとして参加することで教員としての役割を要求される場面があります。
この本を読み終えた頃に小学校の頃の担任と深く喋る機会がありました。大人になった今でこそ聞ける担任の教育方針や陰に陽に努力されたことを聞き、稀有な先生に出会えたものだなと改めて思いました。僕はその先生に多大な影響を受けたと昔から自覚しており、それが「教育者なんていう責任の重い職業には就くまい」という認識に繫がっていたので、(3)の本を読んで「学校司書だと教員免許がなくても教育に関われるのか…いいなぁ」と素直な感想を抱けたことに最初はびっくりしました。けれど先生に久しぶりに会って、「そうか、先生と出会えたからこそか」と気付きました。
過去の出来事は全て良い思い出で、けれどそれを振り返るのはいつも「今」なのですね。

(4)では図書館というハードを持たない、書籍の全データ化に加えて貸出返却もネット上で行う電子図書館の実現のためにいろいろな想定が展開されています。本文はインターネットが本格的に普及する前に書かれており、多少古い技術を前提して書かれているため現代から見れば大袈裟な記述がわずかに見られます(書籍のデータ化は大変だからそれ用の工場が必要だ、など)。がそれは別に大したことはなく(記憶として最初に思い浮かんだだけ)、レファレンスもネット上で、しかもなるべく人手をかけず、つまりプログラムを組んで自動で行う方法の検討などは興味深い内容でした。今でいうとネット検索のノウハウに近いです(いや、そのものかな)。

(5)は図書館の建築面に光を当てた本でした(借りる前の立ち読みでは気付きませんでしたが)。本を借りる場所か勉強する場所として主に利用されてきた図書館が近年は「人が集まって何かをする場所」として注目されていて、新しい図書館ほどコモンスペースが取り入れられているようです。また地域の活性化を担う使命を帯びて新設される図書館の例として、建物として周囲の自然環境に溶け込む工夫が紹介されています。
ところでこの本の中で紹介されていた「.03」という椅子がステキで、商品HPの紹介写真の中で「椅子を台にして乗っている人の足の重みで台座が凹んでいる写真」に一目惚れしました。高価ですが、今は吝嗇モードが限定的に(主に家具に対して)解除されているので買っちゃうかもしれません。

(6)は今日読み終えたところで、記憶が一番新しい…のですが、いろいろ書いてみたいトピックはあれど力量不足で書き始めると収拾がつかなくなりそうなので感覚的な感想だけにします。
図書館は公共施設だとか、利用は原則無料だとかいう常識は60年以上前の図書館法に根ざしていて、図書館の利用のされ方は当時とはだいぶ違っているからそれらの常識も見直すべきだといった話がこの本の最後の方に書いてあって、また電子媒体の資料の扱いとか出版業界との兼ね合い(「ベストセラー問題」)とかホットな課題もあって、これはランダナカン五法則の5のことだと思えば人間味が湧く…というか知の在り方、とどのつまりは「人間の在り方」の問題であって、こういう見方をすれば僕にもこの問題全体に興味が持てます。
「持てます」なんて言い方をするのは、僕はものづくりの会社で働いていたわりに最先端技術に対する能動的興味が薄くて、それは身体性に拘りだした頃から「身体性賦活と技術革新は相容れない」という認識をもったせいだと思うんですが、とはいえ人間は身体と脳のバランスで生きているので(いくら現代社会が脳偏重とはいえ)身体だけでなく脳のことも考える必要があって、上に書いた「人間の在り方」というのはもちろんこの両方に関わるからです。

どれだけ技術が発達しても本はなくならない、という著者の言に僕も賛成です。


↓(1)

図書館員をめざす人へ (ライブラリーぶっくす)

図書館員をめざす人へ (ライブラリーぶっくす)

↓(2)

↓(3)

学校司書って、こんな仕事

学校司書って、こんな仕事

↓(4)

電子図書館 新装版

電子図書館 新装版

↓(5)

ほんものづくり

ほんものづくり

↓(6)

理想の図書館とは何か: 知の公共性をめぐって

理想の図書館とは何か: 知の公共性をめぐって

↓(7)

世界の美しい図書館

世界の美しい図書館


 × × ×

本に関係する仕事をしようと思ったきっかけはいくつかあって(いくつかは一つ前の記事に書いたような)、その中の小さな一つが、「本はなくならない」とさっき書いたことと矛盾するなあと思うことで連想されたので、書いてみます。

前に『竜の学校は山の上』(九井諒子)のレビューみたいなものを書きました。
cheechoff.hatenadiary.jp

この短編に出てくる竜学部の部長はこんなことを言います。

「 世の中には二種類のものしかない
  何かの役に立つものと
  これから何かの役に立つかもしれないもの だっ 」

そして、役に立たないものを見捨ててしまったらもう二度と戻って来ない、役に立つかもしれないものを「狐の葡萄*1」にしちゃいけない、と。

この部分を何度目かに読んだ時に、「よし、じゃあ僕は本を守ろう」と思いました。
もちろん本が役立たずなはずはないのですが、単純な連想では「電子書籍に席巻されて消えゆく本を守る」という文脈で、そう思い込めば納得できなくもないですが、(1~6の本に感化された物言いかもしれませんが)冷静に考えれば、本がなくなるはずはありません。

大局的に見ればそうで、では、というか、そもそも僕は何をもって「”本"を守ろう」などと言ったのか?」


うまく言えませんが、それは「本自体」ではなく「本と人との関わり方」ではないか。
そして司書としての仕事の中でそれを人に伝える事ができたら、それこそ「冥利に尽きる」というやつだろうな、と。

*1:「すっぱい葡萄」のことだと思います。 すっぱい葡萄 - Wikipedia

岩手へ

突然ですが、決めました。
今は引っ越し準備の真っ最中です。
事情など詳しくはまた書きますが、5月末には移ります。

少し前に現地(岩手県花巻市)へ2泊で行って家を決めてきました。
一度住んでみたかった一戸建てです。
賃貸です。


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新幹線の駅、新花巻駅から降り立つと空の広さにびっくりしました。
レンタカー屋以外、何もない。
空気がおいしい。
静かな街に、ひょっこり佇む彼らもよく馴染んでいました。
(何だっけな…銀河鉄道?)


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家探しのついでに玉川温泉へ行って元気になってきました。
7泊8日の、ついでの方が長期滞在。
今年はまだ雪が残っていました。
歩き遍路で酷使した足首はまあまあ良好です。
ついでに治ればと思っていた左手首の腱鞘炎は悪化しました。
炎症には良くないですね、考えてみれば当たり前かもしれません*1


今はまだ皮膚炎が残っていて若干疲労していますが元気になりました。
特に食欲増進が良い傾向で*2、ここ数年は食べると体調を崩していたラーメンを京都に戻ってきてから毎晩食べています。
京都を発つまでにこちらのラーメンの味を身体に染み込ませておきましょう。


遍路中の習慣だった1日2食(朝・晩)が、戻ってきてしばらくは(日中動かないために)夕食までの空腹がきつかったのですが、慣れると朝晩共もりもり食べられてよいです。
香川で出会った四国病のおじいさん*3は「1日1食で十分。18時間胃を休ませると”超健康”になれる」と仙人じみたことを言っていました。
新陳代謝の程度もあると思うので若者にはそこまでは酷ですが、間でちょこっとエネルギー補給*4すれば2食でいけそうです。


話が飛んでいますが、お菓子作りに目覚めそうな予感があります。
遊休状態のヘルシオ(2005年製)がついに活躍する、のか?

*1:温泉にいる間に気付いたんですが、小指側の手首の骨の出方が左右で大きく違っています。まさか骨同士がこすれて痛んでるんでは…手術ものかもしれません。一度は医者に行ってみましょうか。

*2:おいしく食べられるように身体を整えるのはいいのですが、「腹が減ってりゃなんでも美味い」が悪くすると食べ物に気を遣わなくなるだけになってしまいます。その状態から「食べたいものを食べよう」と思えるようになったのは回復したのでしょう。

*3:定年後に毎年歩き始めて7回目だそう。病気だと自称していました。

*4:ビスケット1枚とか、stick sugarとか。

仕事のこと、住処のこと、ブログのこと

新たな生活の準備を少しずつ始めています。

 × × ×

とりあえず仕事は「本に関わること」を考えています。
思考を深める魅力を本に教わったので、その恩返しができればいい。
少しだけ具体的にいえば、「本を守る」仕事ができればいい。
すぐに就職するのではなく、その分野の知識をつけ、歴史と現状と展望に触れるところから。

行動から始めないと現状維持に留まってしまうので動きますが*1、ゆっくりと、余裕をもってやります。
一度働いた経験のある余裕、すぐにはお金に困らない余裕、そして人を個人として見られる余裕


やりたい仕事を限定して邁進するタイプではない。
場があり、必要とされる仕事があれば、その内容に関わらずある程度はこなせる。
ただ「どこでもそこそこ働ける」が「その仕事をずっと続けられる」とは限らない。
それを決めるのは仕事の内容だけでなく、その場の空気も重要であると、働いてから気付きました。

すぐには巡り会えずとも、「ずっとその場で働きたいと思える場」を求めていきます。
そこはたぶん僕にとって「人を個人として見ることに留保なく価値をおける場」です。
その方が仕事が捗るからとか、効率がよいからとか、そういう留保なく*2

そして望ましくは、その場が本と関わっているような場所。

 × × ×

住むところもがらりと変えようと思っています*3
とにかくまずは、静かなところ。

旅の中で「身体が開かれていること」の大切さを、頭でなく身体で実感してきました。
その身体が開かれた状態は、頭の回転の具合と全く別物であることも。

どうなるかは想像がつきませんが、これもまずは動きます。
頭は瞬間的な*4判断をしたがりますが、余裕をもつとはその判断を留保できること

頭が空っぽの今の僕には言い聞かせないといけないのですが、可能性が広いことはとても楽しく、魅力的なことです。

 × × ×

そして身体を開きつつ、頭も回るように生活を整えていきます。
本ブログにもまた、いろいろ書いていくことになると思います。

タイトル*5も変えた方がよいので、考えておきます。

*1:保守的な人間でも動き始めれば、「動いているという動的な状況」に適応することができます。

*2:留保があると、その手段と目的はいとも簡単に反転します。「なぜ生きるのか?」という根本的な問いの前にはこの反転があります。問いとして浮かび上がる状況にあれば、それは大切な問いです。

*3:今までは「今あるもの、持っているものを利用しなければもったいない」という思いが強すぎました。

*4:=無時間的な。未確定な将来を現在に変えて既知としてしまうような。

*5:「緩い井戸コアラ鳩詣」は「あらゆることはどうでもいい」のアナグラムです。本当は、どうでもよくなんかないのです。

旅を終えての所感(一本歯歩行について諸々)

4/27に全行程58日の四国歩き遍路旅を終え、無事に戻ってきました。
実家に戻ったり昔お世話になった人に会ったりして、家にいる間は旅日記と地図を眺めて旅を振り返り、今後の仕事について考えています。

日記を読むと毎日いろんなことが起こって、多くの縁が生まれたことがまざまざと脳内に浮かんでくるのですが、頻繁に色々起こりすぎて記憶の時系列はめちゃくちゃで、会った人、起こった出来事は、「歩きの記憶」を核とした身体記憶として身体に刻まれています。
(「います」と脳が断定できることではありませんが…)

人や出来事については日記に書いてあるのでまた気が向けば載せるとして、「歩きの記憶」と「歩きの記録」についてここでは書いておきます。

 × × ×

一本歯下駄(天狗下駄)で約1200kmを踏破するという思い付きから生まれた酔狂な挑戦は、足を怪我することなく戻ってこれたことでまず成功したと言っていい。
(足指の付け根や足首の疲労はまだ取れていなくていつも通りの歩き方ができません。今はしばらく毎日歩く生活を続けてクールダウンしつつ、徐々に治していく過程にあります)

「歩きの記憶」とは、
 (1)どこの道をどんな調子(体調や気分、天気など)で歩いたか
 (2)どこの道でどう転倒した(躓いた)か
と大別してみますが、(2)は本当にインパクトがあって、日記にも記述はありますが、地図を見ただけで記憶が甦ります。
(1)がとても広くて、会った人やお寺の記憶の多くもこれと結びついていて、記憶が頭の中の記憶というよりは「身体記憶」だと言っているのはこのことによります。

歩く間は基本的に頭の中は空っぽで(考え事をすると歩調が乱れるし、山道=自然道では本当に面白いくらい考え事をした途端に(足下への注意を同じように向けていても)こけるのです)、宿に落ち着いてから行程の計画を立てる間を除けば旅はほとんど「身体との対話の時間」でした。
この時間は今まで脳主体で生活してきた自分にとっては本当に貴重な時間であり、経験でした。

この経験が僕を新たな生き方に誘っているのですが、それはまた別の話になります。



「歩きの記録」について、恐らく(過去に先駆者がいたとしても)ウェブ上に「一本歯で四国を歩いた記録」はなかろうと思うので、自分もやってみようという酔狂な後進のために(僕は歩きながらその種をいくつか蒔いてきました)少しばかり残しておきます。

一本歯で歩くことは、ちょっと練習すれば平地なら誰でもできます。
見た目のインパクトで不安定な印象が強いのですが、二本歯より歩きやすいのは確かです。
ただ山道を歩くとなった時に、不用意に歩くと簡単に怪我をします。
躓いたり地面を踏み損ねるのは日常茶飯事、転ぶのも当たり前という認識を持ち、「躓いても(転んでも)怪我をしない躓き方(転び方)」を体得する必要があります。
これは頭で考えながらできるものではなく(実際躓いている間にそんな時間はありません)、反射的に身体が動くようにしなければなりません。
僕は今回の旅中で躓いたり転倒した時、正確にいえば「その最中」では頭の中が真っ白になって、我に返ると無事に立っていた、あるいは無事に地面に転がっていました。
頭がその過程を把握できないというのはすごく不安なことで、ひどく荒れた山道を歩いていてふと冷静になると「なぜ自分はこんな道を歩けているのだろう」と不思議に思ったりしました(そのままこのことを考えて続けていると足が前に出ないので、「まあ歩けてるんだからいいか」と棚上げすることになります。「今日まで太陽が昇り続けてるんだから明日も日は昇る」というのと同じですね)。

(主に)山道における一本歯歩行について、注意すべきものを思いつくまま挙げてみます。

石ころ、岩

石ころを踏むと、下駄が左右にぐらつきます。
それが大きい石だと下駄が横倒しになり、足首をひねることになる。
なのであるサイズ以上のものは基本避けて歩きます。

石畳

これは山道に限られず、寺の参道や敷地内にも多い。
滑ります。
表面がつるつるしていたり丸かったりするとさらに滑ります。
雨が降っていたり濡れていると「もう勘弁してくれ」というくらい滑ります。
可能なら避けて歩きます(道の端で石畳が途切れている場合など)がそれが無理なら、ざらざらした表面を狙うか、石と石の隙間を狙って歩きます。

板橋、丸太橋、木の根

木も石畳に劣らず滑ります。
板状の橋も侮れず、濡れていたり斜面になっていると簡単に滑ります(なんとなく大丈夫そうに見えるので僕は油断して何度も転倒しました)。
木橋は、もうどうすればいいんでしょう、渡す方向に踏むと間違いなく左右にぐらつくし、カニ歩きの方がまだマシでしょうか。丸太と丸太の隙間がなければ利用できますが、スカスカだと大変です。
根っこは踏んだ時にどうこけるかの予測が難しいのでやはり避けます。

砂利

寺の敷地内では砂利石が細かいのでまだいいですが、山道によっては駐車場のような粒の大きい砂利が敷いてあるところがあります。
これも踏んだ時の下駄の傾き方が予測できないし、マシなところを選ぶにも限界があるので、手探りならぬ足探りで歩きます。

やわらかい土、腐葉土、ぬかるみ

雨降りや雨上がりで、日当りの悪い山道の土は要注意です。
力学的にもそうなるはずなんですが*1、歯はまっすぐよりは傾いて沈みやすく、よって勢いよく踏み込めば足首をひねることになります。

落ち葉

落ち葉自体が危険というよりは、他と相乗的に作用して危険を増幅させるという感じ。
石畳や舗装道に積った落ち葉を踏めば滑りやすくなります(斜面だとなおさら)。
また山道が大量の落ち葉で覆い隠されていれば、落ち葉の下に石ころやぬかるみがあっても見えないわけで、「何を踏んでいるか分からずに踏み込む」のは一本歯にとって大変な恐怖で、これこそ慎重に足探りで一歩一歩進むしかありません(が、こんな道が長々と続く場合はじれったくなって「このあたりの道状態の傾向」を頼って歩調を早めたりするんですが、まあ危険が増すのは当然です)。

落とし穴

たぶんモグラだと思うんですが、わりと小さめの(直径数センチ?)穴がやわらかい土に掘られていたりすると、靴ならそんな存在に気付かず踏み進めるところが一本歯だと見事に落とし穴的に作用します。
ちなみにイノシシが掘る穴もよく見かけたんですが、これはクレーター状なので判別はできます。

砂浜

砂浜は海ですが…これはもう論外で、一本歯との相性は最悪です。考えるまでもなく歯が砂に埋まって歩けないので、僕は早々に脱いで裸足で歩きました。
高知の歩き遍路道にはいくつか砂浜があるのです。


これらの危険物がもちろん組み合わせになった道もあるし、上りだといいんですが下りだと危険度は何倍にもなります(もちろん踏み込みに勢いがつくからです)。

こういったことは実際歩けばわかるもので、事前に知れば安心できるかといえば…事の無謀っぷりが強調されているだけかもしれません。

そしてこけ方について書きますが、まず地面を踏み損なって足をひねりそうになったら足を踏み替えて対応します(例えば、左足をひねりそうになったら瞬時に右足に体重を移し替えます)。
それで間に合わなければ(間に合うかどうかの判断は身体任せです)、足をひねらないように、ひねりそうな方向に全身でゆっくりと崩れ落ちるようにこけます。
これが「足が怪我しないようなこけ方」で、確かに足は大丈夫なんですが*2、崩れ落ちる時に足以外の部分が着地することになるので、そこがダメージを受けることはあります。
ただ鼻緒がきついと、このこけ方でも足首へのダメージが大きくなります。
鼻緒が緩いと山道のような凹凸のある道では歩きにくいので、トレードオフの関係ではありますが。



もうひとつ一本歯歩行の記録について書いておきたいことは、今回実際に歩いた道について。
遍路道には「車・歩き共通の遍路道」と「歩き遍路道」があって、前者はだいたいがアスファルトなんですが、行程においてこれらを選べる場合は、僕はなるべく歩き遍路道を歩きました。
それは「自然道の方が楽しく、身体が躍動するし、(荒れていなければ)疲労も少ない」からなんですが、あまりに状態が酷い、あるいは高難度の歩き遍路道は、その場でそう判断した時点でスポーツサンダルに履き替えて歩きました。
この「一本歯で歩けなかった道」は個人的にぜひメモしておきたいのです。
実際に歩いた人でなければ何のこっちゃという情報ではありますが。
 (1)建治寺へ向かう歩き遍路道*3
 (2)24番最御崎寺の観音窟(24番の奥の院)から寺までの道
 (3)81番白峯寺から82番根香寺へ向かう山道の往復共通部分の復路
 (4)82番根香寺から山を下る途中の歩き遍路道
 (5)84番屋島寺から山を下る歩き遍路道
旅の中で「時間をかければ一本歯でも歩けない道はない」という認識を持ちましたが、時間がなかったり余裕がなかったり、終盤では右足首の不調があって無理をしたくなかった、等の事情で、上記箇所では下駄を脱がざるを得ませんでした。
もちろん無理をして怪我をするのはもってのほかなので、「こりゃ無理だ」という判断はわりとすんなりできました。


特に結論も何もありませんが、一本歯についてはこんなところです。

*1:圧力の単位はkgw/m2、同じ重さの物体でも力をかける部分の表面積が小さい方が圧力が大きくなる。歯を真下に踏み込めば表面積は歯の底面積ですが、斜めだと…ごく単純化すれば「角の部分」になる。

*2:とはいえ「軽くひねる」くらいにはなっていたようで、旅の終盤で足首が痛くなったのはこの蓄積が影響していると思われます。メインの原因はいくつか前の記事に書いた「改良版歩行法」のせいですが。

*3:建治寺は12番焼山寺から13番大日寺へ向かう途中で山に上るとある(道中で「別格の別格」と聞きました)。滝行のできる修行場があり、正規の歩き参道は岩だらけ(岩から岩へ飛び移るような道)、12~13の道なりから逸れる遍路道は土砂崩れや植物の繁茂でとうの昔に崩壊していた。

笠原メイの手紙

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みたいだなと、ブログ投稿メールを送り続けるうちに思い付きました。

笠原メイは『ねじまき鳥クロニクル』(村上春樹)に出てくる女の子で、小説の中盤に彼女が主人公「ねじまき鳥さん」のもとを離れてから彼に宛てて書いた手紙が、その内容を断章として時々出てきます。送ったつもりの手紙は、後に再会した時に届いていなかったことが判明します。

学生時のチャリ旅ではネットカフェでブログを書きながら今回と同じく携帯からも投稿していたんですが、出発前にちゃんと投稿できているかを確認していました。今回はその確認をしていないので、写真が載っていないとか、あるいはまるごと投稿できていないなんてこともあるかもしれないと思い、でも上記の手紙のことを連想して「それならそれでいいか」と思うに至りました。

笠原メイの手紙は「ねじまき鳥さん」に届かず、その内容は小説の読者のみが知ることとなりました。では投稿されていなかったメールは…果たしてどこへ行き着くのでしょうか。


長かった旅は明日で終わり、心機一転、一から新しい生活を立ち上げることになると思います。気が向けば何か後記を書くかもしれません(少なくとも一本歯のことは報告の意味で書くつもりです)。

南無大師遍照金剛。

そして結願へ

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56日目の今日は86番志度寺そばの宿から出発し、87番長尾寺、女体山を経て88番大窪寺に到達しました(着いたのが17時半だったので納経は明日の朝一)。

写真は女体山の山頂付近の遍路道と、山から一望できる松山市の街並みです。一本歯でロッククライミングをすることになるとは…

足首の状態が一時よりも良いので、あと2日歩いて1番に戻ることにしました。あとはなだらかなアスファルト道を残すのみですが、最後まで気を抜かずに歩きます。