human in book bouquet

本格的に本と関わっていきます。

無垢について

無垢は、失われるものから、求めるものとなった。

長い話の予感

言いたいことを一言で表せば、上のようになります。
これもついさっき思い付いたものです。
「もはや無垢ではいられない」と方々で書いてきた自分にとって、
この思い付きは衝撃的でした。(方々で、とは例えばここ

きっかけは今日の朝日新聞書評欄で見た、こうの史代という名前。
『この世界の片隅に』が同じ書評欄にあるのを5年以上前に見たのが最初。
それから朝刊の連載小説『荒神』の挿絵で再び出会うことになった。
宮部みゆきも大好きなので「なんて素敵なペアなんだろう」と思った。

荒神』の話をすると、宗栄も朱音も蓑吉もやじもみんな好きでしたが、
脇役の中では加介が特に好きでした。
ちょっととぼけた兄貴分だけど、気が良く回り、肝心なところでは奮起する。
あの挿絵は本当に雰囲気がよく出ていて、切り抜いておけばと後悔しています。

話を戻して、『この世界の片隅に』はつい最近手に取って少し読んだのです。
小さい頃読んだ『はだしのゲン』の影響か、未だ戦争ものには躊躇があります。
それで少ししか読まなかったのですが、最初の数ページでもう分かりました。
マンガの扱う内容に関係なく、好きになれそうだ、と。

『この世界の片隅に』の主人公すずもそうなのですが、
無垢な登場人物はマンガの大きな魅力の一つです。
典型的には、意味深な会話に「きょとん」としたり「?」そのままの表情をする。
状況を俯瞰できる読者は思わず頬を緩めることになるわけです。

そのようにして僕はマンガの読者として無垢の存在を当たり前に認めていながら、
現実にはもはや無垢なんてものはあり得ない、とこれも当然に思っていました。
自分の中の話ですが、これは多くの意味で反省せねばならない。
まず、無垢を感じられるのなら、紛れもなくそれは「ある」ということ。

深く考えていなかった証拠ですが、間違った思考の経緯は今は想像がつきます。
簡単に言えば、ある傾向の本を好んで読み、論理が先行した結果です。
読書において納得した思考と、行動を伴う日々の生活とが、
この点において有機的に結びついていなかったということ。

と、反省するのは簡単ですが、反省なしに理解するのは実は難しい。
というのは、間違いにも意味合いの全く異なる種類があるからです。
反省が必要なのは「繰り返すべきではない間違い」であって、
「そうあるべく起きた間違い」への無思考な反省は、知性への信頼を毀損します。

そして本題へ

本記事の一行目の解説に移ります。
無垢とは通常、特定の事情について無過失に知らない状態を指します。
過失とは物騒な表現ですが、無垢でなければ例えばカマトトと呼ばれたりします。
この意味での無垢が成り立つのは、事情に対する疎さがあり得る場合です。

つまり、特定の事情を知りうる可能性と、無垢の生存率とには相関があります。
生存と書いたのは、一度でも知られると失われてしまうと考えれているからです。
情報伝達手段が発達するほど、無垢の生存率は下がり、稀少価値が増します。
詳しくは書けませんが、60年代の学生の価値観と現代とでは、真逆なのでしょう。

簡単に何でも知りうる時代では、無知がもてはやされる傾向がある。
その中でも、装った無知でなく、純粋な無知には奇跡さえ見出すことができる。
それを無垢と呼ぶのですが、僕はこの意味での無垢はもう存在しえないと思います。
知りたいという根源的な欲求を満たすハードルが低い現代で、無垢は自然消滅する。

けれど、無垢はなくなったのではなく、その成り立ちを変えたのです。
変わりつつある、かもしれませんが、その辺の細かいところは分かりません。
以下でいう無垢は、「大人に宿っている無垢」と言ってもよいと思います。
人は無垢に生まれ、自然にそれを失い、そして求めることで再び宿るのです。

無垢の意味が変わることは、「知る」ことの意味の再考を促します。
あるいは、「分からない」ことの再定義を迫ります。
自分が「知っている」ことは、本当に十全に「知っている」のだろうか?
自分が「知った」ことは、それ以上の「分からない」を生んだのではないか。

自分が相手に無垢を感じる時、相手は自分の知っていることを知らないのです。
この基本形は変わらず、しかし「知る」ことの意味が変わる。
相手は、自分が知っていることを知らない、ように自分には見える。
けれど、相手が知らないと思っていることが、自分の知っていることとは限らない。

これはコミュニケーションのすれ違い、勘違いの話ではありません。
簡潔には、同じ事柄を指して、知っているとも分からないとも言える、ということ。
くどいですが、これは論理先行、屁理屈ではありません。
その人の、未知を見つける力、未知に感嘆する力が鍵を握っています。

どれほど頭が良くて、博覧強記の人でも無垢であり得ます。
こう書くと、昔からあったもののようにも思えます。
ただ、その成立の過程が現代と異なるのは確かに思えます。
「無垢を求める」ことを現代風に言えば「消費者的感性を脱する」となります。

疲れました

最後がすっ飛んでいますが、遠いながら論理はつなっがっています。
感性を補強するための論理は、本末転倒ではありません。
論理に頼って感性を従わせるのが当たり前になって久しい。
言葉が生み出すものはもうない、と思われているのでしょうか。

話が拡散してきたので、最後に言いたいことを書いておしまいにします。
ニヒリズムや無常観といった言葉が、いつも僕のそばにあります。
そんな人間は無垢からは程遠いのだ、と思っていました。
けれど、そんなことはないのです。

無垢という性質は、ある意味で好奇心と呼んでもいい。
好奇心は、どれだけ物事を知っても、多様な経験をしても失われるものではない。
好奇心は、それが健全に発揮されていれば、むしろ増幅するものです。
無垢も、そういうものです。