human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

「引き算」の感覚について(2)

不安について考えてみます。

必要なモノが不足していた時代の不安は、単純でした。
食糧が不足している、衛生状態が悪い、生活を営むお金が足りない。
不安の源がモノの不足による低い生活水準にあったために、
モノの不足を補えば、暮らし向きが良くなり、不安は解消された。

現代の不安が漠然としているのは、モノの過剰の結果です。
モノの不足が実質的になくなり、必要最低限という言葉が流行らなくなった。
購買活動において、必要の意味がとても軽くなった。
必要が満たされた状態における不安は、どうやって解消するのか?

ここには世代の差があるのかもしれません。
モノの不足に喘いで育ってきた世代には、現代は幸福に見える。
成長期に体に刻まれた不安を解消するモノが、現代では簡単に手に入る。
それは、彼らがモノ過剰の現代に順応するまでは持続させることができる。

一方、生まれた時からモノが溢れていた世代はどうでしょうか。
同様に成長期の不安があったはずですが、それはモノの不足と関係がない。
何かを達成することや、向上心を刺激することが成長期の充実にあるとすれば、
それらは「必要なものを手に入れる努力」という単純な形をとれなかった。

時代に限らず、また年代に限らず、誰しも不安を抱えるものです。
自分の目に見える、あるいは感じるものの中に不安の源が潜んでいる。
自覚の有無に関わらず、その不安を解消するように人の行動は志向される。
ただ、その行動が実を結ぶためには、不安をとりまく状況の認識が不可欠です。

不安がわかりにくいと、不安の解消方法も単純ではない。
その解消方法を間違えると、不安が増幅することもある。
また「不安などない」と思い込むことは、不安に対する認識を曇らせる。
抑圧された対象は、その形を変えて、本人に気付かない形で戻ってくる。

以上が、モノが有り余る現代で、敢えてモノの不足を志向する背景にあります。
分かりにくい不安を、分かりやすい形に戻してやる。
こう書けばとても単純なことのように思えます。
きっと話は単純で、しかしそれを実践する段階で複雑になる。

まず、人は社会的動物なので他者と関係しないと生きてゆけない。
そして高度情報化社会においては、他者とは具体的な個人に留まらない。
ある人々の集団、あるいは匿名のマス(mass)とも関係することを避けられない。
一番の問題は、その匿名のマスの活動エネルギが「不安」であるということ。

つまり、現代社会は不安を燃料にして回っているのです。