不安について考えてみます。
必要なモノが不足していた時代の不安は、単純でした。
食糧が不足している、衛生状態が悪い、生活を営むお金が足りない。
不安の源がモノの不足による低い生活水準にあったために、
モノの不足を補えば、暮らし向きが良くなり、不安は解消された。
現代の不安が漠然としているのは、モノの過剰の結果です。
モノの不足が実質的になくなり、必要最低限という言葉が流行らなくなった。
購買活動において、必要の意味がとても軽くなった。
必要が満たされた状態における不安は、どうやって解消するのか?
ここには世代の差があるのかもしれません。
モノの不足に喘いで育ってきた世代には、現代は幸福に見える。
成長期に体に刻まれた不安を解消するモノが、現代では簡単に手に入る。
それは、彼らがモノ過剰の現代に順応するまでは持続させることができる。
一方、生まれた時からモノが溢れていた世代はどうでしょうか。
同様に成長期の不安があったはずですが、それはモノの不足と関係がない。
何かを達成することや、向上心を刺激することが成長期の充実にあるとすれば、
それらは「必要なものを手に入れる努力」という単純な形をとれなかった。
時代に限らず、また年代に限らず、誰しも不安を抱えるものです。
自分の目に見える、あるいは感じるものの中に不安の源が潜んでいる。
自覚の有無に関わらず、その不安を解消するように人の行動は志向される。
ただ、その行動が実を結ぶためには、不安をとりまく状況の認識が不可欠です。
不安がわかりにくいと、不安の解消方法も単純ではない。
その解消方法を間違えると、不安が増幅することもある。
また「不安などない」と思い込むことは、不安に対する認識を曇らせる。
抑圧された対象は、その形を変えて、本人に気付かない形で戻ってくる。
以上が、モノが有り余る現代で、敢えてモノの不足を志向する背景にあります。
分かりにくい不安を、分かりやすい形に戻してやる。
こう書けばとても単純なことのように思えます。
きっと話は単純で、しかしそれを実践する段階で複雑になる。
まず、人は社会的動物なので他者と関係しないと生きてゆけない。
そして高度情報化社会においては、他者とは具体的な個人に留まらない。
ある人々の集団、あるいは匿名のマス(mass)とも関係することを避けられない。
一番の問題は、その匿名のマスの活動エネルギが「不安」であるということ。
つまり、現代社会は不安を燃料にして回っているのです。