human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

夏秋と彼岸

『The Void Shaper』(MORI Hiroshi)を数日前に読了して、
その数日前に読んだ箇所が発見で、
しばらく寝る前に考えるなり思うなりしていたのですが、
昨日と今日の起きがけ(といっても時間は長いですが)に感じたことを
書いておこうと思います。

抜粋したいその上記の1箇所は後半にするとして、
先にそこから触発されたことを書くので、
抜粋と違う話になっているかもしれません。

 × × ×

「無はなくならない」ということ

形のあるものはすべて時間がたてば朽ちる。
形のないもの、思いや考えなどは、
それを担う形のあるものがなくなると同時に消える。
これが変化ということであり、不安定ということである。

思いは形がないとすぐ上で書いたが、
思う対象は形の有無にとらわれない。
特定の誰かを思うことがあれば、
その人の思いを思うこともある。

思う対象はそれゆえ全てが変化しうる。


無を思うというときに、

自分の印象では、
無は不定形だと思うが、
形があるとは言えないものの、
形がないとも言い切れない。
それは変化しないという無の性質と矛盾しそうだが、
自分は無そのものを想定することしかできず、
もし感じるとすれば自分を通して、
自分の身体や心や頭を通して感じるしかなく、
無が不定形であるとはその結果だと考えることができる。

仰向けに寝ていて、
息をはき続けると身体の厚みがうすくなっていく。
物理的にはそうで、でもその感覚を維持すると、
息を吸っている間も身体がうすくなり続けていることを感じる。
おそらく感じているのは、身体の厚みではなく、
身体を除いた六畳一間の厚みの方である。

 この考えは今朝すでにあって今文字にしたが、
 文字にして思ったのはマーク・ストランドの詩のことだ。
 「僕のいる分だけいつも 草原の一部分が欠けている」という。
 何か関係があると思うがここでは掘り下げない。

身体がうすくなる感覚とは、
比喩かもしれない。
物質的な対象を感覚的に表現する多くの比喩ではなく、
感覚を物理現象に置き換える比喩。
意識が、制御できる意識が遠くなっていく。
眠りにつく感覚。

無を考えることは、
自分が無に近づくことかもしれない。
無に近づくとは、それ自体が無になっていくということ。

 話は変わるが、
 京都に住んでいる時に通っていたスポーツジムの、
 サウナルームで座禅をしている時に、
 意識が秋田の玉川温泉のサウナルームと繫がる経験が幾度かあった。
 あれは温泉にいる間にずっと頭の中を流れていた曲を、
 ジムのサウナでも再生することを通じてのことだったが、
 今いるジムのサウナが温泉のサウナに置き換わるという感覚だったり、
 ジムのサウナのすぐ向こう、空間的に隣接して温泉のサウナがある、
 という感覚だったりした。

無には変化も不変もなくて、
無に近づく、無に触れることで、
変化と不変の違いが曖昧になっていく。
そこには、その場では常識も判断もなく、
その場で起こったことに対してあとから下す分析は、
その場では常識も判断もなかった自分自身に対しても下すことになるが、
それはそうできるというより、そうせずにはいられない。
そのようにして、変化の意味が、不変の価値が、回復していく。

夢は無の一部だろうか。
あるいは夢は、無が人を通じて生じるものだろうか

 × × ×

 そもそも、殺気とはどこから生まれるものか。
 それは、無からではない。動きの切っ掛けではあるが、動きそのものではない。気とは、考えのことだ。考えているから、気が生まれる。殺気も同じ。では……、
 考えなければ、殺気を消せるのか?
 考えないとは、何だ?
 何を考えれば、考えないことになる?
 違う。考えてはいけないのだ。
 そんなことができるのか。
 それは、今まで思いもしなかった領域、想像すらしなかった新しい地のように感じられた。
 山の向こうに、雲に霞んで、その大地が広がっている。
 なにもない。森も山もない。なにもない地だ。
 否、地もない。
 空と同じ。
 空。
 無。
 そこに立てば、おそらくなにも考えないだろう
 (…)
 ないものばかりが、自分を取り囲む。
 すべてが新しかった。
 ないものなのだから、古くはない。生まれたばかり。そしてたちまちにして消えていく。
 そうか……。
 ないと思うことも、ないのだ。
 思わなければ、消えることもない
 風や火のようなものか。
 風も火も、そういう名のものは実はない。
 ただ、感じられるだけだ。
 人は、無を感じることができる
 ないと知ることができる。

episode 4 : Another shape

過活動、資格取得、冬支度

近況です。

 × × ×

体調を崩しました。
風邪でしょうか。

原因ははっきりしていて、無理がたたりました。
講習が終わってからボルダリングに行く時間が早くなり、
それでいて終わる時間が講習中と変わらない。
という日々をやはり週3で続けていて、
今週はその合間に大沢温泉へ行ったり、
(日帰り一日で4つの湯に計6回入りました。卓球もした)
第二回図書館巡りをしたり、
(宮城の一関図書館と川崎図書館を見に行きました。運転は自分)
いつもは7時間壁登った次の日は家でへばり続けているのにそんなことして、
調子を崩して当然ですね。

一昨日、昨日と一歩も家を出ず、寝るか一人用ソファで読書をして、
今日も同じ感じでしかし食糧備蓄が尽きたのと図書返却日なので外出はして、
外では終始ふらふらしてましたが帰ってからご飯を作る元気もあり、
今も若干身体が熱いものの治る過程にはあるようで、
明日はジムへ復帰できそうな気がします。

半日睡眠生活というのもなかなかいいですね。
(病気以前に、講習が終わってからこんなかんじです)
身体がのびのびしているようです。
今日借りて夕食時に読み始めた『春宵十話』(岡潔)にありましたが、
副交感神経の調子が良いと大胆な発想ができるそうです。
この調子でムージルの『特性のない男』を読み続けると何が起こるでしょうか。

ナカタさん(@『海辺のカフカ』)が自分みたいだと思って、
またウルリヒ(『特性のない男』の主人公)も自分みたいだと思って、
でもナカタさんとウルリヒにどういう共通点があるのかといえば、
そこがおもしろいところなんですね(?)。

 × × ×

大学から通知が届きました。
単位取得通知と、修了証明書。

ぱっと見で何が言いたいのかわかりませんでしたが、
取得できた単位を数えると受けた講義の分は全て取れているようです。
とりあえずこれで司書資格保有者になれたのだと思います。

そして求人ですが、
岩手県内で探せばちょくちょくあるものの、
高卒以上可のバイト的なものが多く(別にそれでもいいんですが)、
今の家からの通勤を考えるとだいたいが遠い。

まあ、ハローワークの求人情報は刻々と更新されるようなので、
週一くらいで確認しながら家から通える仕事を探します。

 × × ×

ふらふらしてはいましたが、
スーパーへ行ったついでにホームセンタにも寄りました。
冬の準備をせねばなりません。
暖房器具と、雪かき用具。

灯油は、ホームセンタの前に販売所があります。
講座の誰かと話しましたが、天板に常駐させたやかんから、
「しゅんしゅん」と湯気が出ている、そんな石油ストーブがいい。
いつでもお湯が飲めるし、加湿にもなるし、
なにより「あったかい感じ」があるのがいい(と想像します)。
そして「しゅんしゅん」という音は、静けさに溶け込む音でもある。

石油ストーブとその上のやかんという状景が静けさを、
いや静謐といっていい神秘的な雰囲気をつくるイメージは、
群青学舎』(入江亜紀)の2巻にある「時鐘」からのものです。

 主人公の寮生の女の子が、夜に老人を訪ねて用務員室に入った時、
 微動だにせず座る老人のそばで、やかんが「しゅんしゅん」と音を立てている。
 外に降りしきる雪とともに、やかんの湯気が「動」を吸収し尽くしたその部屋で、
 少女は老人が既に死んでいるのを知っても、顔色一つ変えない。

 (彼女が肩に手をかけると彼は床に崩れ落ちる)
 そしてスコップを持ち出して、彼を校庭のそばの林にある穴に埋めに行く。
 彼女は、彼がこの数日のあいだ掘っていたその穴の意味に気付いたのだ。

この短編はなぜか年に一度は思い出すようです(今日を含めれば3度目)。
あるいはこの短編が僕を花巻に導いたと言っても、大袈裟ではないかもしれません。
前にマーク・ストランドの詩と併せて書いたもののリンクを張っておきます。
cheechoff.hatenadiary.jp

石油ストーブはホームセンタにいろいろ種類はありましたが、
行きつけのリサイクルショップも見てから買おうと思います。

雪かきの方は、ヤンマーかどこかの電動の大掛かりなものだけあって、
それ以外に「雪かき用」と名のつくものはありませんでした。
(園芸コーナーにそれっぽいけれどたぶんふつうのスコップはあった)
そり、と呼ぶのではないと思いますが巨大なちりとりのようなものを
想像していたんですが、ああいうのは他にどこにあるんでしょうか?
これもリサイクルショップかな。

新花巻の実家から講座に通っていた年上の女性に、
「雪かきがしたくて岩手に来た」と行ったら(あながち嘘ではない)、
普段の会話では控えめで奥ゆかしい人なのに、
「そんな甘いもんじゃないですよ(ふっ)」と
吐き捨てるように返されたりしましたが、
別に何か夢を見ているわけではなく(しかしそれはどんな夢だろう?)、
価値判断以前に身体で経験できればという思いがまずはあります。

ここまで説明して、
「ん、君はナチュラリストなのかい?」
ナチュラルに(つまり何の皮肉もなく)返してきた、
今は富山に帰ったらしい僕より一回り以上年上の中南米気質の女性もいましたが、
元編集者の彼女は昨今村上春樹ノーベル文学賞を逃したことを嘆いていました。
「受賞にかこつけてバカ騒ぎしたかったのに」という理由で。

そんな彼女には「騒ぎたきゃ残念会すりゃいいですよ」と言っておきました。
内田樹氏の言葉を借りて、
村上春樹にまつわるあらゆる文脈(もちろん諸々の著作含む)から
 愉悦と快楽を引き出せるのがハルキストたるゆえんです」
とも。

なにはともあれ、
冬を無事に過ごせればそれで満足かもしれません。
と思えるくらい、数日前はほんとうに寒かった。
秋はどこへ行ったんだろう、
「ごめんなさい、今年はウチが忙しくてそっちに行けそうにないんです」
そうか、季節は巡るくらいだから遠征というか遠出しているのはわかるが、
では秋の実家はいったいどこにあるのだろう、という(?)。


ああ、はやく元気にのぼりたいなあ。

カーヴァー詩集『水と水とが出会うところ』

読了しました。
音読しました。
何度もかけて。
噛み締めるように。

お気に入りのタイトルをメモしておきます。
今の僕の感覚に、なぜだかわからないがぴったり合うもの。

今だけの出会い。
今だけの記憶。
記憶にはけっしてなり得ない記憶。

「パイプ」
「電波のこと」
「水と水とが出会うところ」(表題作)

水と水とが出会うところ (村上春樹翻訳ライブラリー)

水と水とが出会うところ (村上春樹翻訳ライブラリー)

星野青年と大島さんの対話より


 それそのものではなく、
 それがもたらしたものごとに目を向ける。

 それとともにある時も、
 それがそばにはいない時も、
 それとの出会いをことほぎながら、
 変わり続けるために。

「じゃあひとつ訊きたいんだけどさ、音楽には人を変えてしまう力ってのがあると思う? つまり、あるときにある音楽を聴いて、おかげで自分の中にある何かが、がらっと大きく変わっちまう、みたいな」
 大島さんはうなずいた。「もちろん」と彼は言った。「そういうことはあります。何かを経験し、それによって僕らの中で何かが起こります。化学作用のようなものですね。そしてそのあと僕らは自分自身を点検し、そこにあるすべての目盛りが一段階上にあがっていることを知ります。自分の世界がひとまわり広がっていることに。僕にもそういう経験はあります。たまにしかありませんが、たまにはあります。恋と同じです」

村上春樹海辺のカフカ(下)』
引用太字は本文中の傍点

一億総「ナカタさん」説

4ヶ月くらい前から再読している『海辺のカフカ』(村上春樹)がまだ読中で、そんな中久しぶりに自分が昔書いた書評もどきを読んでいて閃いたのでその内容をタイトルに込めました。

カフカを読みながら「今の僕ってナカタさんみたいだなあ」と思っていたんですが、そうか、僕だけのことでもないのかな、と。

日本文化っていうのは、自分の中には自分がなくて、自分を探したかったら自分の周りの風景にさわれっていう、初めっからアイデンティティーなんてものを無視してる文化なんですね。言ってみれば、自分という”肉体”はなくて、”自分”を知りたかったら、感じたかったら、自分にふさわしい“衣装”をまとえという、そういう文化ですね。
 自分というものは平気で”空洞”になってるから楽だけど、でも探そうとするとどこにもないから苦しい──日本が”伝統的日本”を捨てて”西洋近代”っていうのを求めたのは、この後者”自分が見つからなくて苦しい”からの脱却をはかりたかったからですね。

橋本治『風雅の虎の巻』p.152-153

www.honzuki.jp

あとついでに思いついたのは、いま朝食時にちびちび読んでいる『緑の資本論』(中沢新一)所収の「モノとの同盟」の中に、容れものとしてのモノにタマシヒが(外から)入って充実してきてカヒ(貝?殻のことですかね)を破って出てくるのがモノ(=よきもの)であったりモノノケ(=あしきもの)だったりするという話があって(←すいません相当うろおぼえです)、日本人の頭というか思考の源は容れものとしてのモノなのかな、とか。

歴史を重く見れば日本人は「身体が主で頭が従」の方が向いていて、頭をその実現のために回すのが健全なのかなと思いました。

南相馬市立図書館と「成長する有機体」

近隣の図書館めぐりをしています。

昨日は講習を受けた仲間と一緒に車で南相馬市立図書館へ行ってきました。
岩手から、宮城を横切って福島まで。
その途中、仮設の名取市図書館にも寄りました。
名取では館長と、南相馬では係長(主任?)と話をすることができました。

 × × ×

図書館にいる間は、やはり利用者目線で空間や書架を見てしまいます。
が、仲間と一緒に見に行ったおかげで、図書館を職員目線で、いやたぶんそれよりも広く、町にあることの、住民に利用されることの機能について考えることができました。
花巻から車で3時間かかりましたが(行きは寄り道もあったので5時間)、帰りは特に、図書館を見て思ったこと、考えたことを互いに喋り続けて、長いとは感じませんでした。

喋った内容は忘れたわけではないが再現できるほど形がきちんと残っているわけではなく、図書館を見た印象も、その場にいた時から評価する姿勢が強くなかったし、今の自分に残っているのは、これからちょっと書いてみたいと思うようなことがほとんどです。

 × × ×

「理想の図書館」について、考えさせられ、思いを新たにすることになりました。
自分にとっての図書館の理想像をいつも思い描いていないと図書館員として仕事をしていくうえで向上していかない、講義では何度もそう教わりました。

それはきっとそうだろう、いちど現状維持に甘んじてしまえば、外部(利用者、行政、教育関係者など)からの数少ないアプローチがあっても変化できなくなる。
図書館は教育機関で、教育機関は急激に変化するべきではない(変化のアウトプットへの影響を測るには長い時間と複雑な手続きを要する)、このことは逆に言えば、変わらないことが奨励される一面もある。
でも、現場の意識では現状維持と思っていても、少しずつ状況が変わっていき(たとえば資料費の予算が年々削られていき)、図書館の質も少しずつ落ちていく。
外部がそれを仕方ないと思ってしまえば、その流れを食い止め、変える可能性は図書館関係者の意識の中にしかない。


理想は常に念頭にあるべき、それはそう。
けれど、昨日思ったのは、その理想は現場で働く経験を重ねていくうちに形をもってくるものであるだろうこと(逆に言えば、現場も知らずに具体的に理想の内実を数え上げるなんて大した意味はないだろうこと)、そして昨日の帰りの車内で喋りながら形にならなかった考えとして、その理想はゴールではないということ。


南相馬は、あの図書館の書架は、ひとつの理想の具体化のようでした。
友人はそれを「読書家の友人の本棚」と表現しました。
自分がこういう本を持っていたら自分の部屋にこういう風に並べるだろう、あるいは、もっと本質的な表現として、「書架の本の並びから個人(図書館員)の顔が見える」と。

その書架はほんとうに活き活きとしていて、即物的な表現では(純粋に本の内容の関連性を重視していて、新書・文庫も画集・資料集サイズの本も単行本と一緒に並べられているために)「配架がデコボコしている」のですが、書架に並ぶ一冊一冊が個性を発揮して、あるいは自己主張をしているような印象を受けました。
書店の一部スペースを松岡正剛が監修した書棚を実際に書店で見たか本関連の雑誌で見た覚えがありますが、僕はそれを連想しました。
そしてそれと同じことが、公共図書館の書架で実現されている。

友人はそのことを公共図書館のひとつの到達点だと言い、僕はそれは個人書店や古本屋ないしは私設図書館の役目ではないのかと言い、そう言いながらもこれまでの公共図書館の司書がしてきた仕事が「ふつう」だという考えがそう言わせているのかと思い、「司書がプロとして専門性を発揮するのはそこだろう」という友人の言葉に、そうかもしれないと納得しそうになりました。

いや、納得はしたのかもしれません。

でも、そのような「理想の図書館」とは何なのだろう?
「理想の図書館」を住民が生活の一部として利用していって、住民はどうなる(どう変わっていく)のだろう?

そこが、想像できないのでした。
なぜなら、それは今頭の中のごちゃごちゃを言葉にしながら分かってきたことですが、なぜなら、僕が想像している「理想の図書館」の利用者に、僕自身が含まれていないからです。

では、なぜ僕はそこにいないのか?


その理由に直接答えることは今はできませんが、僕がそこにいないという気付きから導かれた認識が、上にも書いた「理想(の図書館)はゴールではない」ということ。

ランダナカンの図書館五法則の5番目には、こうあります。

 A library is a growing organism.
 図書館は成長する有機体である.

きっと「理想の図書館」も、成長する有機体なのだと思います。

図書館員と「可能性の感覚」

一段落して、読書生活を再開し、またこれまでを振り返ったりしています。

大した文章ではないですが、講習の応募のために書いた文章を載せます。

 私は大学院を出てから去年の9月末まで6年半、神奈川県の○○○で働きました。それから約半年の準備期間を経て、一本歯の下駄で2ヶ月かけて四国を一周しました。四国遍路から戻りこれから先のことを考えた時、司書資格を取得しようと思い、△△大学の司書講習に応募しました。
 受講の動機は、とにかく本に関わる仕事をしたいと思ったからです。就職口が少なくても、働く条件が不安定でも構わない。それなりに面白い仕事と安定した生活だけでは長くは続けられないということを、一度働くことで身に染みるように感じました。
 本には自分の頭で思考を深めることの充実を教わりました。高校までは読書感想文の時にしか本を読みませんでしたが、『下流志向』(内田樹)を大学生の時に読んでからは社会批評や教育論など幅広い分野に興味を持ち、読書が生活の一部になりました。この本は父の書棚にありましたが、本が人に与える影響の大きさにとても驚きました。研究所では人のために働きながら、実際は会社の短期利益を確保するシステムのために働いていました。しかし本のために働けば、長い目で見て人の成長や変化を手助けすることができます。
 住まいを変えるたびに近所の図書館に通っています(本講習を受けるべく、現在は△△図書館の近くに住んでいます)が、司書の方とは貸出・返却手続の時以外で話したことはありません。それでも、図書館の本が司書の方々によって維持され、守られていることは肌に感じています。本質的に個人の営みである読書は、スマホで過剰に繫がるネット社会において、ますますその陰ながらの存在感を増すことでしょう。冊子形態で読むという身体性も、同様の文脈で重要だと考えています。図書館で働けるか否かに関わらず、本を大切に扱ってきた図書館の歴史と現在を学び、ゆくゆくは「本を守る」仕事に就きたいという意思により、司書講習の受講を希望します。

この応募文に引いた下線部のことを、『孤独の価値』(森博嗣幻冬社新書)を読んでいて思い出したのでした。
そうか、自分はこういうことを言いたかったのだ、と。

ものを考えるときには、誰もが一人である。ものを発想する、創作するという作業はあくまでも個人的な活動であって、それには、「孤独」が絶対に必要である。(…)もちろん、だからといって、他者を無視しろというわけではない。個人の知能には限界がある。他者とのやり取りから生まれるものも非常に多い。それでも、その多くは書物を通して得られる情報である。読書をするときは、やはり一人で静かな方が良い。
 こうしたことは、かつては当たり前に認識されていただろう。静かに一人で過ごす時間の大切さは、どの文化でも語られているし、また、それは贅沢で貴重なものだと多くの人が認識していた。それが、ここ数十年の情報化社会において、少し忘れられているところではないかと思う。現代は、個人の時間の中へ、ネットを通じて他者が割り込んでくる時代であり、常に「つながっている」というオンライン状態が、この貴重な孤独を遠ざけている構図が見える

森博嗣『孤独の価値』(幻冬社新書366、2014、[914.6/モ])p.78-79

図書館は「資料と利用者との確実な出会いを提供する」場であり、図書館員はその仲介の任を負う。
でも、その出会いがゆくゆくは利用者が読書の本質に行き着くことを願う気持ちは、講習前に書いた文章の通りで、今もそのまま変わりません。

叶うまでが遠く、時間がかかり、そしてその事実すら滅多に知ることができない願い。
ムージルの言葉を借りて、一種の「可能性の感覚」と呼ぶべきこの願いを保ち続けられる能力は、図書館員として仕事をしていくうえで核たる思想を形成するだろう
と、今考えています。

だが現実感覚があるのなら──そしてそれにはその存在理由のある事を誰も疑わないだろうが──可能性の感覚と名づけてしかるべきものもやはりあるにちがいない。(…)可能性の感覚とは、現実に存在するものと同様に現実に存在しうるはずのあらゆるものを考える能力、あるいは現実にあるものを現実にないものよりも重大視しない能力、と規定してもよいだろう。(…)彼の考えは、それがむだな妄想でないかぎり、いまだ生まれざる現実にほかならないのだから、彼ももちろん現実感覚の所有者なのだ。しかしこれは、可能的現実に対する感覚であり、たいていの人がもつあの現実可能性に対する感覚と比べると、はるかにゆっくりと目的に達するものである。いわば彼は森をほしがり、他の人たちは立木をほしがる。森、これは表現困難なものであるが、これに反して立木の方は、一定品質の山林の坪数を意味するものだ。

加藤二郎訳『ムージル著作集 第一巻 特性のない男Ⅰ』(松籟社、1992、[948/ム])p.16-18

司書講習が終わって

7/18に始まった2ヶ月超にわたる司書講習がつい3日前(9/21)に終わりを迎えました。

ボルダリングのおかげで体調不良もなく全出席で、4日ごとのテストもほどほどにできて、おそらくは単位を1つも落とさず、資格取得できているはずです。
週6日で大学に通っていた生活がいきなりまた完全フリーの要自律生活に戻り(ちょうど1年前に会社を辞めてからだいたいそんな感じです)、ひとつの転機が訪れています。

まず仕事は近隣図書館の司書を探すことになります(とりあえず講習が終わった翌日から動き始めています)。
決して暮らせるほどの給与にすぐ恵まれるわけではなく、また募集自体も少ないのでここは運次第です(「勢い」も大事かもしれませんが)。

そしてもうひとつ、講習中にそれとは別の大きな流れが生じ、今はその流れをじっくり見極める立ち位置にいます。
自分の人生でこれまで経験したことがないことが起き、驚いてはいますが、この事態を冷静に眺めていられる自分にも驚いています。
歳をとったということかもしれないし、実経験よりむしろある方面の読書経験が落ち着きをもたらしているのかもしれません。
この点はほんとうに流れまかせの風まかせ、なるようにしかならないので今は特に書くことはありません。
流れが決まったら、何か書くかもしれないし、書かずにはいられなくなるかもしれません。

 × × ×

仕事探しも大事ですが、生活思想の軸をはっきりさせておくことも重要です。
生産的でないことをする時に、その生産性のなさに気を取られないために、とても重要です。
そのことについて、ここでは簡単に触れておきます。

 人のために生きる。

まさにこれです。
具体的な人であれ、もっと漠然とした人々であれ(たとえばジカンの利用者全体)、あるいは現在は存在しない人々(過去に生きていた人、これから未来に生まれてくる人)であれ。
図書館法の「図書館奉仕」という言葉が気に入っています。

これさえおさえておけば、束縛のない生活が堕落していくことはないでしょう。

また詳しく書ければ書きます。

未来の詩は

 過去の詩は 昏々と 眠っていた

 昨日の詩は 思うまま 昨日を語った
 今日の詩は ただ黙して 待ち続ける
 明日の詩は 明日を 語れるだろうか

 未来の詩は ただ未来のみが 語るだろう

ふたたび "Keeping Things Whole" について

『犬の人生』(マーク・ストランド)を数年前に単行本で購入して読みましたが、近所の図書館に新書判(「村上春樹 翻訳ライブラリー」)で見つけたので、あらためて借りて読みました。

この本でいちばん記憶に残っているのはハルキ氏のあとがきに引用されている著者の詩("Keeping Things Whole"「物事を崩さぬために」)です。
今回また読んで、しみじみと思うところがあって、過去に自分がこの詩に対してなにを考えたかを知りたくなって、読みかえしてみました。

cheechoff.hatenadiary.jp
cheechoff.hatenadiary.jp

過去の自分が書いたことは、読み返せば「自分が書いたな」という記憶はよみがえりますが、どこか他人風なところもあって、言わずもがなではなく「なるほどな」と思えるところが、当時と今とでなにかしら変わったことを物語っています。

詩の受け取り方、向き合い方も昔と今とで違っているなと思い、それは具体的には「今の自分はこんな論理的には書けないな」という思いです。

そこは掘り下げませんが、二年と半年ほど前に書いた中で言葉になっていない部分が目に留まったので、これを足がかりにしてなにか書いてみようと思います。

そこに価値判断はなくて、だから何だということもない。
ないのだけど、何もなく通り過ぎるのではなく、「……」。
何か、頭を空っぽにさせる魔力のようなものがある。
思索が深まるでもなく、他に意識がそれるでもなく、「……?」。

「野原の不在」について - human in book bouquet

野原に立つ自分は、その身体のぶんだけ、野原の不在である。
今こう書いて、このことを想像していると、
「宇宙カンヅメ」(@赤瀬川原平)のような、空間が裏返る感覚になりました。

 × × ×

自分が野原の不在だと感じている今、彼(自分)の時の感覚はどうなっているのだろう?

感じる、と今書いたが、これは頭のことだろうか、それとも身体のことだろうか?

野原の不在は、悲しむべきことなのだろうか?
もしそうだとして、それでは、自分の存在も悲しむべきだろうか?
あるいは、もともとすべてが、悲しいのかもしれない。
生の基調が悲しみにあるからこそ、死は安らかに到来する。

野原の不在は、死者の不在と、どんな関係があるだろうか?
野原の不在の回復は、ひとりの死者の存在を生む。
死者の不在とは彼がもはや野原にはいないことを言うのであって、
死者の存在とは彼が野原ではないところにいることを言う。

どうして死者の不在と死者の存在が同じなのだろう?