human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

未来の詩は…

 
 過去の詩は 昏々と 眠っていた

 昨日の詩は 思うまま 昨日を語った
 今日の詩は ただ黙して 待ち続ける
 明日の詩は 明日を 語れるだろうか

 未来の詩は…

 × × × 

水と水とが出会うところ (村上春樹翻訳ライブラリー)

水と水とが出会うところ (村上春樹翻訳ライブラリー)

無題13

『クマと仙人』
ジョン・ヨーマン作、クェンティン・ブレイク絵
のら書店

この本を選んだ理由:
 ほんわかした挿絵に惹かれた。

紹介文:
 森の中でクマとばったり出会ったら、みなさんはどうするでしょうか? 全力で逃げますか? 死んだふりをしますか? そんなことが実際にあったら、こわいですね。でもだいじょうぶ、この本に出てくるクマは出会った人をおそったりはしません。ちょっと不器用ですが、やさしくて力持ちで、しかも向上心があるのです!
 この本は、不器用で頭のあまりよくないクマが、森に一人で住む仙人のもとで、いろんなことを学んでいくおはなしです。
 仙人の家の門には、家庭教師の生徒を募集する看板がぶら下がっています。クマはその看板の文字が読めないのですが、運がよいことに、仙人が看板をなおしているところにちょうど通りかかります。仙人が独り言をつぶやくと、クマは自分が話し掛けられたと思って返事をする、と、ここから二人の会話が始まります。人にものを教えたい仙人と、頭がよくなりたいクマのおもわくが一致して、仙人がクマの家庭教師となって、一緒に生活をしながら様々な科目を教えることになります。
 クマは「科目の合格証書」をもらうために、仙人の出す課題に熱心に取り組みます。その科目は、舟をこいだり、料理をしたり、トランプに応急手当まで、さまざまです。ところが不器用なクマは、すぐに目移りするし、加減を知らないので失敗ばかりします。( (1):p122)いかだの上でトンボを追いかけていかだをひっくり返したり、( (2):p.57)料理するためのたき火に空気を送ろうとして勢いよく吹き消してしまったり。でも、( (3):p43)釣りの科目では釣りざおをあやつる仙人の横で、前足で魚を放りあげてたくさんとったり、( (4):p126)川に落ちた仙人を背泳ぎで助けたりと、得意な分野では大活躍します。授業の中で予想外のことばかりが起こって、仙人は大変な思いをしますが、クマが熱心に授業を受けてくれることが嬉しくて、どの科目にも結局は合格を出します。
 この本の面白さは、仙人の優しくて寛容なところとクマの素直さがとてもよくマッチしているところにあります。クマがどれだけ失敗しても仙人は怒らず、クマがしょげている時は元気になるような言葉をかけてあげます。一方で、クマは目の前のことに夢中になってもともとの科目をめちゃめちゃにしてしまいますが、機転のきいた仙人のほめ言葉に気をよくして、次の科目はなんだろうと興味津々になります。仙人が失敗した時でさえ、それを自分への指導だと思って機嫌よく助けてしまうのです。
 二人が仲の良い友だち同士のように、気分よく毎日を過ごしていくのを読んで、こんな日がいつまでも続けばいいなあと思ってしまいます。でも、先生に学んだ生徒は、いずれは卒業しなければなりません。教える科目が少なくなってくると、仙人はこのことを考えて少し悲しくなりますが、ある朝にとってもよい案が思い浮かびます。クマへの思いやりに満ちたその素敵なアイデアは、ぜひこの本を読んで、確認してみてください。

クマと仙人

無題12

みなさま、長丁場の講習お疲れさまです。

花巻はよい町ですね。
夏の時期は関東以西とは比較にならないくらい過ごしやすいです。

この地でみなさまと共に勉強できたことを光栄に思います。
そして、図書館概論の担当教員がH先生であったことも。

「考え続けることをやめない、あきらめない」

先生のこの励ましは、講習の間だけのことではなく、
また司書として働く人に限られず、
本の可能性を信じる人すべてに向けられていると感じました。

近く取得されるはずの司書資格の活用如何は様々でありましょうが、
短期集中で机を並べて学んだ我々の間には、
ある共通の意思が芽生えたことと思います。
そんな我々にうってつけの言葉を紹介しておきます。

「私は人間だ。およそ人間に関わることで私に無縁な事は一つもない」
               (梨木香歩『村田エフェンディ滞土録』)

みなさまの今後がより充実したものとなるよう、陰ながら祈念いたします。

025 N.S.

崖っぷち系3級クリア

前回↓
cheechoff.hatenadiary.jp

週3で通い、毎回どこかしらでちょっとずつ進歩があります。
進歩と思えない時でも、同じコースで、今までにない動き方をしていたりする。

2週間くらい取り組んでいた、3級(赤)のいちばん簡単そうなコースを、昨日はじめてゴールまでたどり着きました。
人に手本を見せてもらっても体がついて来ず、進歩はじわじわといった感じでしたが、山場を越えるとその後の3手はするっと進めました。
傾斜のいちばんゆるい壁で、両手を離して片足でホールドに立てるところもあるのですが、ホールドの小ささと位置関係によって、可能な限り壁にべったりくっついて手足を動かす場面が2,3手続きます。しかもその中の初手が「両手は何ももたず右足でホールドに乗って右側を向いたまま左足を前(右)に出す」(右足を左側にある壁からなるべく離さずかつその右足と壁の間から左足を抜き出す)というなかなかの体幹を要する動きです。このような足場がわずかしかない崖にへばりついて横移動する様から、「崖っぷち系」と命名しました。
腕力でなく体幹(バランス)で登るコースについては、中級の入口に立てたかな、という手応えがあります。

講習は相変わらず忙しいですが(明日で開始後3週間になります)、ボルダリングとうまく両立できています。
登った翌日の回復度も早くなってきたようで、その翌日の疲労度も今日はとくに「全身的な疲れ」で、講義中に眠くなるというより倒れそうになったりしましたが、頭は正常に回るし(身体の疲労で多少なげやりな気分になりますが)、なんというのか疲労の質はわりといいんじゃないかと思っています。
さらに慣れていけば毎日ジムに行けるかもしれません。

前傾壁のコース、ぶら下がり系(いちばん傾斜がきつい150°の壁)コースも着々と進歩しています。
腕の筋肉は一月前とたいして変わらないように見えますが、たぶん肩や背中をいくらか使えるようになって、腕力のなさをカバーできているようです。
背中や肩甲骨の使い方について、基礎トレーニングをしながら色々気づいたこともあるので、時間のあるときにまた書きたいと思います。

都留氏とこれから読みたい本たち

市場には心がない―成長なくて改革をこそ

市場には心がない―成長なくて改革をこそ

図書館の経済の棚を見ていて、都留重人氏の本をみつけました。
都留氏は鶴見俊輔の伝記によく出てくる人で、戦前・戦中にアメリカで生活を共にした先輩という間柄だったと思います。
経済学の本を手に取ることは滅多にないのですが、著者名を見て、借りようと思いました。
内容はさておき、その人が見える風に読もう、と。

 × × ×

タイトルの感じ通り、社会に対する提言もいくらかありますが、それは強いものではない。
「ぼくはこう思うけど、みなさんはどうですか?」というやわらかい物腰。
当時の時事ニュース(小泉政権時)に、氏の経験(体験、読書)を対置させ、提言がでてくる。

「第七章 成長なくて改革をこそ」では経済学者や思想家の引用がいくつか並べられ、それらの内容が呼応し、また現代的な問題とも非常に深い関係をもっていて、この章を読んで、引用の原著を読んでみたいと思いました。
引用されている著者のメモをしておきます。

キーワード:
「労働の人間化」
「ゼロ成長(stationary)」
「生活の芸術化」
「『豊かさ』の貧困」
ジョーンズ効果*1
「レジャー国家」

ジョン・スチュアート・ミル(イギリスの古典的経済学者)
→"Principle of Political Economy"(1848)
○E・F・シュマッハー(ドイツの経済思想家)
→"Small is Beautiful"(1973)
○ジョン・ラスキン
ウィリアム・モリス*2
都留重人科学的ヒューマニズムを求めて*3
エズラ・J・ミシャン
→『経済学の神話性』(1986)
○クライヴ・ハミルトン(オーストラリアの経済・政治学者)
→『経済成長神話からの脱却』(邦訳,2004)
○ポール・ワクテル(心理学者、ニューヨーク市立大学教授)
→『「豊かさ」の貧困─消費社会を超えて』(邦訳,1985)
○ガバン・マコーマック(オーストラリアの歴史家)
→『空虚な楽園──戦後日本の再検討』(邦訳,1998)

今は講習で忙しいので、終わってから読むことになるでしょうか。

p.s.
最近読んだ内田樹氏のブログ記事↓も、都留氏の本と共鳴しているように感じました。
この「大風呂敷論考」は、図書館関係者にとって重要であると思い、機会があれば一緒に講習を受けている人にも一読を勧めています。
図書館はこういう考え方を姿勢として示せる、あるいは、もしこういう未来に日本(のある地域)が向かっていれば図書館において「それ」が可視化されるだろうからです。

日本はこれからどこへ行くのか (内田樹の研究室)

*1:「市民の福祉は、なかんずく他人との相対関係における市場財に対する彼の支配力に依存する」という動機付け──これは「ジョーンズ家に遅れをとらない」と表現されることから「ジョーンズ効果」と呼ばれる(p.142、太字は引用書では傍点)

*2:ラスキンのこの「労働の人間化」という考え方に呼応したのが、彼の盟友ウィリアム・モリスの唱えた『生活の芸術化』という発想であって、」(p.141)
鶴見氏の『限界芸術論』でモリスの名を知りましたが、『限界芸術論』のタイトルの意味は「芸術に限りなく近接した生活」で、まさにこの「生活の芸術化」についての本です。

*3:ラスキンやモリスの思想面での貢献にかんして」(p.183)書かれた論考が載っているようです。

「評価」から遠く離れて

司書講習は順調です。
ノートを採りすぎて右手首を痛めましたが。

講義にもボルダリングにも大きな支障はなさそうですが、痛みが長引くか悪化するようなら整形外科に行きましょう。
左手首を治してもらったことだし、今度も行けば治るのでしょう。

 × × ×

講義とは関係ありませんが、さっき図書館から帰ってきた時にふと思いました。

評価にさらされ続けて育った人は、自然と他人や出来事を評価する目で見てしまう。
自分があらゆることを評価している、その自覚すらないままに。
そして、評価の嵐(それはじっさい「無風」なのだけど)が吹き荒れる環境から遠ざかると、ある時にひょいと自覚が訪れる。

「相手その人をありのまま見る」ことの難しさは、周りがそうさせてくれないことに第一の原因がある、と断言してもいい。
余計な意識をしてしまうことは反省で治るものではなく、それは抑え込みすなわち抑圧であって、別の形で(別の意識として、あるいは態度として)返ってくる。

アフォーダンスの概念は、もしかして、とてつもなく広い。

鈴虫とかっこう/GHPの終焉と新展開

夕食を作って家で食べていると、網戸の向こうから鈴虫の声が聞こえてきました。
気づいた限りで、今日が今季はじめて。
鈴虫は秋に鳴くのではなかったかと記憶してるんですが、そうするとこの暑さはもう収束していくのでしょうか。
「公園のベンチで読書できるような快適に過ごせる時期はここでは短いですよ」と賃貸屋の人が言っていたが、夏もそうなのだろうか。
そうだと嬉しいけど、早すぎるような。

そういえば今の家ではわりと時期も時間帯も問わずなんですが(と言ってまだ一月ちょっとしか住んでいませんが)、生かっこうの鳴き声を初めて聞きました。
信号機のある歩道を渡る時に「ぺっぽー」という電子かっこうの音が大阪・京都では馴染み深いですが、ほんものは「はっほー」とか「ふぁっほー」という感じです。
尖った頭音がなくて、でも音は明確で速くてはっきりしている。
近所の公園にいるんでしょうか。

 × × ×

ゴーヤハウス・プロジェクト、エピローグです。
えっ? という感じですが、そうなっちゃいました。

発芽した種を土に植えつけるのを何度かしたんですが、芽が土から顔を出しても葉がなく元気がなく、大きくならんなあとしばらく放っておく(水やりは毎日やってましたが、特別な対応はせず)とそのままどこかへいなくなってしまいました。
で、だめかなあと思っていたころから家で調理した野菜の種をてきとうにばらまいていたら、いろんな種類の苗が成りました。
ピーマンとにんにく(常温で置いていたら芽が出てきてしまったので食べずに蒔きました)とゴーヤ(実を包丁で切った時にきれいな状態の種が3つ取れました)は記憶にあるんですが、あとは何だったか…
実が成れば何かわかる、という楽しみがあります。
さて、どうなるでしょうか(←これ、口癖になってますね)。

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「中井久夫氏のムック本」拾い読み

毎週日曜に近所の図書館に通っていて、いつも新着図書棚を見ています。
毎回ちょっと見てみたくなる本があります。

先週見つけた文藝別冊のムック本『中井久夫 精神科医のことばと作法』に思わず目が留まり、拾い読みして、拾い読みした部分を再読したくて借りました。

 ×   ×

本書で初公開らしい、中井氏作と思われる(そうでなければこの本に載らないはずなので)「研修いろは歌留多」の中から、これは、と思ったものをメモしておきます。

 へたは 「うまへた」にまさる。

言い換えると含蓄というか他の多くのニュアンスが抜け落ちそうでいやなのですが、今の僕には「計算するな、素直であれ」というアドバイスに聞こえます。

自分の思い通りにことが進むのが、いいことなのか、どうか。
その成就は、「自分の頭がそれで満足する」という以外には、大した意味がない気がしています。
相手に対する「よかれ」がほんとうに相手にとってよいことかを確認するには、こちらが言うにも、あちらの言葉を聞くにも、きちんと相手を見る。

意思疎通の成立(状態?条件?)が、頭の中での想定と、実際のものとで異なるということを、今日から始まった司書講座の中で(講義内容と関係はありませんが)気づきました。
僕は自分から始めた会話では前者を優先しがちなようです。
会話のキャッチボールを先取りしてから会話を始めれば、まあそうなりますね、考えれば当たり前です。
計算してしまうのをそれはそれで素直だという考え方に惹かれてしまいますが(橋本治氏は時にそういう複雑な立論をされます)、普段の他人との会話でそれをするには複雑だし理解されないので、上に書いた「計算するな、素直であれ」というのは単純に受け取って文字通りそういうことである、という注釈は多くの人には必要ないことですが。

何かしら衝動に駆られない限り、自分から喋らないようにしてみましょう。

 なくした時間と出たバスは 追いかけない。

これが臨床の現場で具体的にどういう意味を示すのかは分かりません。
…文字通り「バス停で次のバスを待て」とか「距離が近いなら歩け」とか、いうことはないでしょうね。
これも言い換えを…すると洒脱さが消えてしまいますね、やめましょう。
「出たバスは追いかけない」、これと、「僕はどんなにそれが間違っていても壁ではなく卵の側につく」という村上春樹エルサレムスピーチの一節とが、どう一緒なんだろうとふと考えています。

 世界より大きい妄想は 出ない。

これはなんとなく臨床の場面が浮かびます。
ので(?)、妄想家の僕は自分なりに曲解しておきます。
「謙虚であれ」

 ×   ×

「拾い読み」と言ったのは、上に書いたいろは歌留多ともう一つだけ、保坂和志氏の寄稿文です。
本来句点「。」を打つべき*1ところが多々読点「、」である保坂氏の最近の*2押せ押せな文体で、でも文章のひとつひとつに内容が密に詰まっていて、読むのにとても緊張します。
図書館で借りる前に立ち読みした時はすごく緊張したんですが、借りて帰ってから読んでもやっぱり緊張して、そして再読の役得で、最初に気づかなかったいくつかのことに気づきました。
ぜんぶを書く余裕はないので、ほんの一箇所だけ引用しておきます。

人間の思考というのは動物の延長として、ということは起源として、事態に対処することだ、事態から世界像を導きだすというのは起源にもとづいた思考ではないと私は最近感じている、そのつどそのつど対処できることをする/あるいはしないことを選ぶその思考の積み重ね(この言葉は適切だろうか?)それ自体を私は思想と呼びたい。
p.138-139 因果関係や能動性のこと(保坂和志

言い換えはいろいろできると思うんですが(「分析偏重への戒め」だとか「具体性に帰れ」だとか)、こういう言い方を、「起源にもとづいた思考」という表現を初めて目にしました。
と書いて気づいたのは、例示した言い換えは思考と行動を分けて純粋な後者の実践に向かってるんですが、「起源にもとづいた思考」というのは、思考が行動と分けられているわけではなく(実際のところ分けられるはずはない)、でもその行動とくっついている思考は「純粋な行動のための思考」である。
動物が行動するように人間が行動する時に伴っている頭の回転としての思考。
…書いてるうちにわかんなくなってきました。

要約とか帰納によってニュアンスとかいろんなものがぼろぼろこぼれ落ちてしまうのが小説なんですが、哲学的な文章に小説の深みがある場合、それは何なんでしょうか。
「思想小説」は小説の体裁で読める思想書か哲学書であって、これとは違う(たぶんこれは小説ではない)。
やっぱりそれも小説なんでしょうか。

*1:「べき」なんて書きましたけど、保坂氏のこの文章に慣れてしまうとそれは単なる慣用でしかないのではと思えてきます。

*2:カンバセイション・ピース』まではそんなことはなかったんですが、「最近」の始まりがいつかは知りませんが、そこから大きくとんで『未明の闘争』ではもうすごいことになっています。

ネチネチ系4級クリア

前に書いた4級コースを今日はじめてゴールできました。

前に書いた「ジムで一つクリアできそうな4級コース」で、あと一手が届かないその原因の一つがたぶん股関節の硬さで、手指の力の強さや体幹(きわどい姿勢で体勢を維持する力)も関わってはいますが、ジムで毎回そのコースに挑戦していれば、ある時にひょっとクリアできてしまうのではという想像をしています。
垂直壁ですが手の支えにほとんど頼れない(ホールドが平べったくて指数本しかひっかからない)状態で股を広げて、現状、今の限界よりも20センチ以上は足を上げる必要があって、これができるようになれば、結果として身体の変化が目に見えることになります。
cheechoff.hatenadiary.jp

コース山場のこの「あと一手」を詳しく書くと、左手は平べったいホールドで指をかけて、右手が四面体ハリボテにくっついた同じく平ホールドでこちらは手のひらをつけて張ることができて、左足は下においたまま右足を左足より下から前記ハリボテまで持ち上げる動き*1。手の力というより下半身の柔軟性、つまり足がどれだけ上がるかが要で、上の記事を書いた段階(7/7)では右足を限界まで上げて目測ではないが感覚的にあと20センチ足りないかなという印象で、それが前々回(7/10)で「あと10センチ」になっておおええ感じやなあと思って、そして今日の終わり間際にいつも通り現状確認の体で軽い気持ちで(でも切り上げ寸前なので肉体の方は満身創痍で)トライしてみると、あれあれと思う間に右足がぐいと上がってハリボテの隅っこに届いてしまって、でもここでおしまいではなく、この右足をぐっと踏ん張って左足に重心を移してから上方のホールドを取ってやっとゴールなんですが、隅にちょんとのっかった右足に体重をかけるのが心もとなくて(壁のけっこう上の方だし、体勢が不安定なうえに手が指でひっかけてるだけで全然効いてないのでここで右足が滑るとけっこう大変なことになる)、でも待ちに待ったゴールは目前で、というわけで火事場モードを発動して細心の注意を払って右足にすこーしずつ体重をかけていき、なんとかゴールすることができました*2。満身創痍といっても今日は強傾斜壁のコースばかりやっていたので腕と指がつらくても足はそうでもない状態でした。さんざん動いたあとなので身体がやわらかくなっていたのもよかったかもしれません(元気のある最初のうち、準備運動直後にトライした方が難しいかもしれない)。

なにはともあれ、こんなに早くこの4級コースをクリアできるとは思わなかったので、ジムの中ではすまし顔でしたが内心とても嬉しかったです。股関節の可動域を広げるストレッチを毎日やっている甲斐がありました。ストレッチを続けるうちにたしかにやわらかくなっているなあという手応えはありましたが(開脚してから上半身を前屈するストレッチでは、広げる足の角度も前屈で前に出した手が届く距離も少しずつですが大きくなっています)、できなかったコースがクリアできるという結果が出てくるとまた違った嬉しさがあります。

今日はその4級コースのほかに、ルーフのホールド(足をひっかける所がなければぶら下がるしかない、ほぼ水平な壁にあるホールド)からスタートする5級コースが初めてクリアできて(このルーフでの「サルっぽい動き」ができてくると楽しい。まだまだスムーズにはいきませんが)、他にもいくつか5級、4級コースにとっかかりをつけました。今日は序盤は人が少なくて、わりとかまってくれる経験者の人にコツやら攻略法を教わることができました。基本的に人がコースをこなすのを観察はするが自分から聞くことはあまりしないのですが、行き詰まっている時に声をかけてもらえるのはやはりありがたい。自分で考える楽しみを奪われたなんて思いは微塵もなくて(まだそこまでおごれるほど上手くはありません)、これはもう縁ですね。何事においても、縁は大切にしたいです。

トライするコースの難易度が上がってくるにつれ、身体の痛む箇所も変わってきました。強傾斜ではホールドを保持したままぶら下がって反動をつけたりするので、指の皮がいとも簡単にべろんとめくれます。マメが形になる前に潰れてしまうような感じ。両指の平のマメが、回復期のものも合わせて5個あります(うち2個は今日できた)。テーピングをするので登るのに支障は今のところありません。風呂が染みるというくらい。あとは脇なのか肩なのか、背中のそのあたりが痛い。前腕じゃなくて肩甲骨や背中を使うという意識を最近始めて、それに応じてストレッチも種類を増やしたんですが、肩はたぶんそのストレッチのせいです。立甲というらしいのですが、よくわからないながらもなんらかの手応えはつかみつつあり、現在模索中です。変に肩を痛めないためにほどほどにしようと思いますが。


さて、来週の開講初日は10時からオリエンテーションがあって、車か自転車かわかりませんが色々見越して9時半には大学に着こうと思って、そうすると朝食なんやかやで遅くとも7時には起床しなくてはなりません。壁登りの翌日に早起きできたためしがなくて、でもそれは目覚まし時計を使っていないからかもしれなくて、今日は早めに寝て明日早起きできるかどうかを試します。できるようなら、開講日の前日に登っても大丈夫ということで来週も月曜は登ろうと思います。それ以降は講義後の夕方に行くことになります。まだ体の出来具合からして毎日通うのはつらそうなので、現状と同じ週3日を夏期講座が始まってからも続けられればと思います。今は体力の続く限り、一日平均4時間はジムにいますが、夕方から行った場合はもう少し短くなるでしょう。どうなるでしょうか。

*1:垂直壁より緩い壁で、ダイナミックに跳んだりせずに3点支持でじわじわ登れるコースで、僕が読んだ入門書にはこういうのを「ネチネチ系」と呼んでました。手より足の方が自信があるので、僕はこういうコースの方が好きなんですけどね。ネチネチなんて言われるとあまり嬉しくないですね。いや、そんなこともないか。

*2:文章だと全然わからないですよね。気が向けばコースの写真を撮って載せます。壁を見ると登りたくなってきますよ。ふふふ。

2日目(後):鐘の追憶、風の記憶

cheechoff.hatenadiary.jp

(承前)

 その寺は小高い山の中腹にあって、山へ向かう道は、途中まであった家々がなくなり、手入れのされていない無骨な自然とその間を抜ける高架になった車道を突き抜けて進む。ここから先が敷地であるらしい門をくぐると、木々がいっそう茂って頭上に濃い緑が被さり、薄暗い。近くにトイレがあり、丸太のベンチがあり、敷地内の地図や寺の由来などが書かれた案内板がある。さっき会ったおじさんから、本堂まで階段が数百段(ぞろ目の数字だった気がするが忘れた)あって大変だと聞いており、ベンチに座って小休止しながら頭をひねる。持参のサンダルは勤行を心静かに行うためのもので、寺の門をくぐって納経所のそばにあるベンチに着くまでは一本歯を脱がないという暗黙のルールがそれまでにできていた。しかしまだ旅を始めて間もないし、無理をするのもよくない。納経所まで遠くとも、門をくぐれば履き替えていいことにしよう。これは自ら札に書いた「身体賦活」に背くのではなく、むしろ従うことになるはずだ。云々。

 山を上り、お寺に参り、山を下り、街中へ向かう。車が絶えない主要な道路のすきまをぬうように細い生活道を歩く。戸建ての民家がゆったりと並ぶ。道の片側がひらけて田んぼになり、用水路の水が並走する。小学校のチャイムが聞こえる。このありふれた鐘の音を耳にすると、つい会社で働いている人々のことを考えてしまう。前にいた会社のことだ。辞めて半年近く経つが、会社員としての心持ちがきれいさっぱりぬけ落ちた、というわけではないようだ。
 そりゃあ働くことは好きだし、「何もしない」よりは働いている方が、おさまりがよい。おさまり、とは何だろう。社会へのおさまり、だと思うが、じっさいのところそれは会社へのおさまりで、その場から離れてしまえば何の意味もない。言い方を変えれば「余計なこと」を考えなくていいということだけど、その「余計なこと」はじつは大切なもので、それのために、あるいはそれを考えるために働いているのではなかったか。そして会社を離れて、そのすべてが「余計なこと」であるような生活をして、ありがたみを忘れてしまったのだろうか。他人の芝は青く見える、ただそういうことだろうか。
 違う、そうではない。人の目を気にし過ぎで、でも自分を見ていると思っている他人は自分の中にいて、しかもその他人の生活と自分の生活に関係があると思っている。もっといえば、関係がなければならないと思っている。つくづく面倒な人間だ。「夢の中から責任が始まる」というイェーツの言葉を鵜呑みにして、一般化しようとして拡大解釈をして、ちりのような架空の責任がつもりつもって山となり、想像上の堆積物でぺしゃんこに押し潰されかねない。風に表面を削り取られることもなく、雨が染み込んで壁にひび割れが起きることもない、褪せず朽ちない砂の楼閣。劣化しないなんてたちが悪い。頭がそんなものに執着するなんて頭がおかしいことを理解しているのに決して止めようとしない頭は、本質的に狂ってるんじゃないか。いやいや、落ち着こう。歩きながら考えるとろくなことが起きない。靴で歩いていて目に見えないでっぱりにつまずくくらいなのに、一本歯を履いていればなおのこと危険だ。くわばらくわばら。課長の名前といっしょだ。いやいや。

 老人ホームだかケアセンターの玄関横に作られた休憩所で持参の飴を1つ食べる。立ち上がって道に戻ると、すぐ堤がある。歩行者用の階段を上りきって堤の上に立つ。ずっと先に対岸の堤があるが、こことあちらの間で水が流れている幅はそれほど広くないように見える。でもその川はじっさいは大きな川で、それが小さく見えるほど堤と堤の間が遠く離れている。川にたどり着くまでに竹林があり、だだっ広い田んぼがある。建物がほとんど見当たらないのは、やはりこの辺一帯が沈むことがあるからだろうか。
 堤を下りて川(の敷地内)を横切る道を歩き始める前から強い風が吹いている。草むらにちょこんと置いてあるブロックに座って休憩する気にもならない。菅笠ががたがたと鳴り、あごにかけた紐がとれて吹き飛ばされそうになる。菅笠を守ろうと五徳を手で支えると、笠部分が五徳からもげそうになる。あわてて手を笠のつばに持ち替える。そしてその体勢を維持して歩く。腕がだるくなる。耳は風の音で満たされている。肌寒いのかそうでないのか、よくわからない。体がつねに緊張状態にあり、ものを考えることができない。風と一体化できればさぞ楽しいのだろうが、菅笠が受けてしまう抵抗の重みと、一本歯の不安定な足もとに気をとられて、風は完全に自分に敵対しており、自分は風にとって取るに足りない異物であるとしか感じられない。
 風、風、風。
 それでも何かを考えようとして、ふと村上春樹が小説の中で主人公に言わせていた言葉を思い出す。初期三部作のどれか、いや翻訳ものだったか、あるいはその解説で引用していたのだったか。「なんでもないようなことを考えるんだ。ただ風のことを思えばいい」。この言葉は、うまくいかない日常から、いっとき離れるための呪文のようだった。そしてこのなかの「風」は、過去に彼が味わったいくつもの、どれも心地良い風だったはずだ。ぼくはこの言葉に出会った時に「いい言葉だ」と思って、自分の中にあるはずの風の記憶を呼び寄せようとして、純粋な、ただ風としての記憶が一つもないことを知ったのだった。川の道で荒々しい強風にさらされながらこの呪文が思い浮かんだ時に思ったのは、「これは"純粋な風の記憶"になるだろうな」ということだった。決して心地良い風ではない。でも、ここには自分と風以外に登場人物はいない。付属的な要素のない、混じりっけなしの風なのだ。よくわからないけれど、まあいいじゃないか。使い方も使いどころも違うけれど、自分を励ますように呟いてみる。"Think of nothing things, think of wind."
 田んぼを抜け、もう一度竹やぶを抜けて、ようやく川の水のある所にたどり着く。つまりそこで道は橋になるのだけれど、ごくふつうの橋にあるべき手すりがなく、手すりがあるべき道の端には縁石でわずかにもり上がっているだけ。歩道もないし、さら悪いことには車線が1つしかない。歩行者と車がすれ違うための待機場所が橋の途中に2箇所あるが、それは歩行者よりも車のためのものであるらしく(もちろんそこにも手すりはない)、その場所にたどり着くまでが長い。一本歯で橋のすみっこを歩きながら横を車に通られたりしたらふらついて川に落ちそうだし、なにより恐ろしいことに、さっきから吹き荒れ続けている風が橋の上では道に対して横殴りに吹いている。車通りも意外と多くて、道の見渡せる範囲で車が一台もない時がほとんどなく、車を待たせずに通るのは不可能であるように見える。予想外に過酷な状況にいきなり出会って、渡り始める勇気がまとまらずにしばらく呆然とする。これは試練なのだろうか。ここで川に落ちた遍路はまず一人もいないだろうけど、それは何のなぐさめにもならない。ここを一本歯で渡った遍路もおそらくは一人もいないからだ。全身が小刻みに震えている。寒いのだろうか。よし、寒いことにしよう。ううう、春先の四国は冷えるなあ。
 なんにせよ、他に選ぶ道はないのだ。

 這々の体で橋を渡り、対岸というには遠すぎるように思われた堤をようやく上る。街並がこまごまとした別の町に入り、風とのやり合いに疲れた足どりで上げたいペースは上がらぬまま、納経時間内ぎりぎりに寺にすべり込む。翌日はひねもす山道で、その山のスタート地点にあたる11番は宿との位置関係上翌朝も通ることになるが、今日の間にまわっておくことで翌日歩く時間をかせぐことができる。素朴な自然に囲まれてひっそりとした境内のベンチで息をつく。勤行を終えて、寺から近い今日の宿に到着するまでに日が暮れる。

 川と同じ名の旅館は新築で、部屋も風呂もアパートマンション然としている。そのものですらある。居心地が良いのはそのための安心感ゆえだろうか。宿泊客はみんな遍路で、食堂で交わされている会話のすべてが耳寄りな内容に思える。相席したのは歩き遍路3回目という奈良の老夫婦で、旦那さんは明日の山越えの道の険しさについて語り、奥さんは今日と明日のお昼ご飯について語る。関心の対象がきれいに分かれて、お互い相手の話にとやかく口をはさまない。仲のよい夫婦のひとつの形だと内心思う。昔の歩き遍路事情についても教わる。今みたいに高速道路が整備されていない時代は、そのまた昔とは違った意味で命懸けという感じだったな。歩き遍路道も交通量が多かったし、歩道のない道なんかは車とすれすれで歩かねばならなかったんだよ。団体さんの一人ひとりがみんな、旗を手に振りながら歩いたりもしていた。今でもトンネルなど危ないところはあるけれど、トンネルなら反射板をリュックにつけるといいよ。
 風呂でタオルと下着を洗い、部屋に干す。洗濯機は遍路宿ならだいたいどこでもあるらしいが、有料であることよりも、洗濯物の量が少ないことに抵抗がある。ズボンや白衣など、まとめて洗う時に使うことにする。部屋にあるテレビでは天気予報だけを見る。荷造り、日記、歯磨き、とやるべきことをしているうちに眠くなる。

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